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「国立西洋美術館開館60周年記念 松方コレクション展」

先日、東京上野の国立西洋美術館で開催されている「国立西洋美術館開館60周年記念 松方コレクション展」を見に行きました。

1866年(慶応元年)に薩摩に生まれ1950年(昭和25年)に84歳で亡くなった、神戸の川崎造船所(現・川崎重工業株式会社)の社長だった実業家の松方幸次郎が、第一次世界大戦の頃にイギリスのロンドンやフランスのパリでたくさんの絵画や彫刻などを買い集めた「松方コレクション」の展覧会です。

第二次世界大戦の頃、松方さんのコレクションはフランス政府に接収され、戦後、フランスにとって重要な作品を除いたその中の375点が日本に寄贈(返還とは少し違うそうです)されると、松方幸次郎さんが亡くなって9年後の1959年(昭和34年)に開館した国立西洋美術館に所蔵されることになったということでした。

6月から開催されていた展覧会を、また会期の終わり近くに見に行ったためかもしれないのですが、少なくとも私の行った時間、会場はたくさんのお客さんたちで混雑していました。会場内を自由に歩けないというほどではなかったのですが、突然ぶつかってくるお客さんも多く、私もまた絵などを見ながら何度か他のお客さんたちにぶつかってしまいました。

展示は、「プロローグ」、「ロンドン 1916-1918」、「第一次世界大戦と松方コレクション」、「海と船」、「ベネディットとロダン」、「パリ 1921-1922」、「ハンセン・コレクションの獲得」、「北方への旅」、「第二次大戦と松方コレクション」、「エピローグ」に別れていました。エピローグに飾られていたのは、一部修復されたクロード・モネの大きな絵画作品「睡蓮、柳の反映」でした。

国立西洋美術館所蔵の作品が多く展示されていたのですが、オルセー美術館やバーゼル美術館やベルン美術館やポンピドゥーセンターやロダン美術館や大原美術館やブリジストン美術館にある作品や手紙も展示されていました。

最初の会場では、ヨーロッパの美術館の展覧会場のように、壁に同じ高さの左右にではなく、大小の作品が上下にも並べられていたので、会場内の照明によっては、同じ壁に展示されている作品でも、近くで見たり、離れて見たりしないと、作品が反射で光ってしまってよく見えませんでした。空いていたら何の問題もなかったと思うのですが、混雑していたので、移動しながら見るのが私には少し大変でした。

でも、松方コレクションを一度に見るのは、それはそれで面白いことであるように思いました。フランク・ブラングィンの「共楽美術館構想俯瞰図、東京」という作品も展示されていましたが、もしも東京に(六本木の辺り?)この美術館ができていたならどうだったのだろうと思います。

印象派の作品が多いという印象なのですが、松方さんがこれらの作品を作家本人(すごいことです)などから購入した当時は現代美術の作品だったのだと思うと、それもまた少し不思議な感じがします。現代の日本や海外の実業家の方の中に、現代の芸術家、画家の作品を、その国の市民たちに見てもらいたいからという理由で買い集めているような方はいるのでしょうか。

根津美術館を作った鉄道王の初代根津嘉一郎さんとか、大原美術館を作った実業家の大原孫三郎さんとか、昔の実業家は志が高いなということを改めて思うのですが、松方幸次郎さんがたくさんの美術品を買い集めることができたことの背景に「戦争」があったということを考えると、少し複雑な感じもします。展示されていた所蔵作品の中には、いわゆる「戦争画」も多くありました。それでも、そのような歴史的背景も含めて、今私が日本で、国立西洋美術館で、様々な作品を見ることができるのは、当時の実業家の方たちが日本の国民に見てもらいたいという理由で良い絵を買い集めてくれたおかげだと思います。

日本の作品が海外の美術館にあったり、海外の作品が日本の美術館にあったりするのは、その作品がその国で大切にされているのであるなら、それで良いことのように思います。

それにしても、絵を見ることができて良かったということ以上に、会場の人の多さのためにかなり疲れてしまいました。私は度々その失敗をするのですが、人気の展覧会ならなおさら、展覧会の開催期間の終わり頃に見に行くのはあまり良くないなと思います。

ところで、秋ということもあって、西洋美術館の前の、東京文化会館の前のイチョウの木に、ギンナンのオレンジ色の実がたくさん生っていました。青空の下、あのように鈴生りのギンナンの実を、私は久しぶりに見たような気がしました。

小早川秋聲の展覧会

先日、東京中央区の京橋の美術商・加島美術で開催されている「小早川秋聲 ―無限のひろがりと静けさと―」という展覧会を見に行きました。

NHKのEテレの「日曜美術館」の「異色の戦争画~知られざる従軍画家・小早川秋聲~」の特集を見て、関東圏での小早川秋聲の初の企画展という今回の展覧会の開催のことを知り、今まで映像や写真でしか見たことのなかった、スタジオジブリの故・高畑勲監督も目にしていた「國之楯」(京都霊山護国神社蔵、日南町美術館寄託の作品です)の実物を私も見てみたいと思い、展覧会へ行くことにしました。

私は加島美術へ行ったことがなかったので、確認した地図を思い出しながら道を歩いていたのですが、東京スクエアガーデンという飲食店などの入った高層ビルの前の細い道の脇に「小早川秋聲」と書かれた小さな看板が置かれていました。少し古風でおしゃれな雰囲気の細い建物に「加島美術」とあり、正面のガラス張りの壁に「小早川秋聲 ―無限のひろがりと静けさと―」と書かれていました。

「日曜美術館」でも伝えられていた通り、この展覧会は、小早川秋聲の戦争画のみをテーマにした展覧会ではありませんでした。戦時郵便に使われたという絵葉書などもありませんでした。

でも、小早川秋聲の鮮やかな色遣いの掛け軸の絵を見て、少し驚きました。新鮮な感じがしました。1885年(明治18年)に鳥取県日野町の光徳寺の住職の家に生まれ、京都の東本願寺で幼い頃を過ごした僧侶でもあった小早川秋聲という画家を、当然のことなのかもしれないのですが、戦争画を描いていた従軍画家というイメージだけで見てはいけないのだと思いました。展覧会のポスターにもなっている絹本の「細雨蕭々」(しょうの文字は中が「米」でした)は、(このように比べてはいけないのかもしれないのですが)私には、何となく、菱田春草の作品のようにも思えました。

抜けるような青空のきらきら(雲母でしょうか)が晴れやかな「五月晴」や秋草と満月の「秋之聲」や「富士図」など、制作年が分かっていない作品も多くあるようでした。京都で絵を学んだということも、もしかしたら作品に影響しているのかもしれませんが、明治期、大正期の作品は、華やかで、夢のある作品という印象でした。

昭和時代の戦前・戦中の頃の作品の、赤い蒙古の風景や鎧兜や灰色の軍艦や鋭い目つきで日本刀を持つ日本兵を描いた作品などには、無言の力強さがありました。1階と2階が展覧会場になっていて、1階の奥には、1939年(昭和14年)の「日本刀」(第1回聖戦美術展出品作品、京都霊山護国神社蔵、日南美術館寄託)と、1936年(昭和11年)の「祖国図下絵原画」(東久邇宮殿下御納祖国図記念作)が展示されていて、1944年(昭和19年)の「國之楯」は、一番奥の正面に堂々と展示されていました。

「日曜美術館」で紹介されていた、「護国」という絵には、寒いというよりは痛いという極寒の氷の満州北部で焚き火をして暖を取る兵士たちの姿が描かれていて、昭和9年の「満州事件三周年記念」の「護国(御旗)」という絵には、銃剣を持って立つ兵士の後ろ姿と束ねられた軍旗(御旗)が描かれていました。

その「護国(御旗)」には、軍国主義に傾いていった詩人の西條八十による、「戦やみて、月出でぬ 敵ははるかに退きぬ 露はやさしく秋草に、鮮血の夢、今いずこ けふの一日の善戦を 無言に護り導きし、名誉(はえ)ある軍旗、厳かに 組まれし銃に憩うなり。」という詩が付けられたのだそうです。絵の裏には、小早川秋聲による文章が書かれているそうなのですが、そこには「護国の人柱となって満蒙の土と化した二千九百の英霊と七十有余の戦傷者の流した貴い血潮も蘇り」とか「涙に感激と興奮を盛り上げて愛国の情熱は燃え滾り来る」とか、そのような言葉が書かれていました。

志願して陸軍の騎兵隊の一員となった明治時代から、画家として中国やアメリカへ渡ったこともあった小早川秋聲は、従軍画家として戦争の激戦を最前線で体験し、仲間の兵士たちと生死を共にしながら、戦争というものをどのように捉えていったのだろうと思います。

展示されていた「國之楯」は、正面から日本兵の死を描き、陸軍に受け取りを拒否された絵ということなのですが、戦場の最前線の激戦地を直接見て知っている画家だからこそ描くことのできる絵であるように思いました。あるいは、その背景を知った状態で作品を見たために、よりすごい絵に見えたということもあるのかもしれません。

1941年(昭和16年)の12月8日にハワイの真珠湾を攻撃して太平洋戦争を始めた日本軍は、日本の画家たちに、当時は「作戦記録画」と呼んでいたという「戦争画」を書かせるようになりました。従軍画家の小早川秋聲は、藤田嗣治や鶴田吾郎や宮本三郎のような、日本兵の勇ましく戦う姿や相手に対して優位に立っているような姿ではなく、家族のことを思いながら過ごしている戦地の兵士たちの日常の姿を多く描いていたそうです。

陸軍に受け取りを断られた「國之楯」は、本当に日本国の防衛のための盾となって、あるいは日本にいる家族や友人たちを守るための盾となって戦死した日本軍兵士の姿を描いた作品であるように思いますし、高畑監督が話していたように、今回の展覧会場で「國之楯」を見ることができた私にも、そこには戦死した兵士たちの魂が描き込まれているように思えました。

暗闇の中に軍服を着た日本兵が横たわり、多くの人の名前が寄せ書きされた日の丸の旗がその顔の上に張り付くように乗っていて、その周囲には後光のような細い輪が描かれていました。日章旗の下の顔は、具体的な誰かであるのかもしれませんし、誰でもないのかもしれません。

「日曜美術館」の解説によると、昭和43年の『戦争画 名画集 続』に「國之楯」を掲載することになり、それに合わせて小早川秋聲自身が一部を改作したそうです。一番変わったところは、兵士の身体を覆うように描かれていた光と桜の花を黒く塗りつぶしたことでした。「國之楯」に戦争賛美のイメージがつくのを避けたかったのではないかということでした。

確かに、もしもあの横たわる日本兵の身体が淡い色の桜の花に覆われていたとしたなら、「國之楯」は全く違う作品に見えたかもしれません。でも、「國之楯」が完成した当時にその作品を見て涙を流した女性がいたという話が本当なら、仮に桜の花が描かれていたままだったとしても、戦死した日本軍兵士の魂を伝える作品として、見ることができたのではないかとも思います。

ただ、今の「國之楯」しか知らない私には、戦後の小早川秋聲自身が考えて絵の一部を描き変えた今の「國之楯」が最良であるように思えます。

「國之楯」に描かれているのは、戦死した日本兵の遺体であるということなのですが、絵の前で見ていると、遺体のようだけれど遺体ではないというか、私には、兵士たちの魂が込められているように思えたということもあるかもしれないのですが、何というか、生々しく、生きているようにも見えました。今にも身体のどこかが動き出しそうに思えました。遺体であるなら、それはたった今亡くなった方の遺体なのではないかという風に思えるほどでした。

目の前で直接その作品を見ている時よりも、後で思い出した時、脳裏に浮かんだ時のほうが、何か迫って来るものがある作品というものがあると思うのですが、「國之楯」は、そのような作品であるような気もしました。

戦時中には軍国主義に加担する戦争画を描いて内閣から表彰されていたような画家で、戦後も国内で大家とされている有名な日本画家というと、横山大観を思い出すのですが、現在有名な画家かそうでないかということは、作品そのものとは関係のないことだと思います。

小早川秋聲は、仏教の僧侶として、戦死した兵士の供養のために読経をしたり、遺骨を日本に持ち帰る手伝いをしたりもしていたそうです。「日曜美術館」で紹介されていた言葉には、「尊き犠牲者に対して本当に真心より感謝と冥福を祈り申し候。戦争は国家としてやむにやまれぬものとは申せ、惨の惨たるものこれあり候」とありました。小早川秋聲は、「天下和順」という、世界が平和でありますようにという言葉を、祈りを込めて書き残しているそうです。

1974年(昭和49年)、老衰のために88歳で亡くなったという小早川秋聲は、アジア・太平洋戦争の敗戦後には画壇から身を引き、仏画を多く描いて過ごしていたそうです。戦前や戦中には陸軍兵士として戦地を見てきた小早川秋聲は、国策の中で国内外の多くの民間人や兵士たちが命を落とし、国家に見捨てられていった戦争というものを、戦時下にも戦後の社会の中でも、考え続けていたのではないかと思います。

私は、以前にNHKのBSプレミアムで放送されていた「極上美の饗宴」という美術番組(とても良い番組でした)を見て、小早川秋聲と「國之楯」という異色の戦争画のことを知りました。同じ戦争画の作品を見ても、戦時下を生きていた方たちが見るのと、アジア・太平洋戦争を直接には知らない現代の私が見るのとでは、その作品から受ける印象はかなり異なるのかもしれないとも思うのですが、自国の兵士の死という戦争の一つの真実を現代に伝える作品として、戦争を見てきた従軍画家が戦時下に描いた「國之楯」という作品は、これからも残り続けていくことと思います。小早川秋聲の戦争画以外の作品もとても良かったですし、今回の展覧会を私も見に行くことができて良かったです。

サミュエル・メスキータの展覧会

先日、東京駅の中にある東京ステーションギャラリーで開催されている「メスキータ展」を見に行きました。

6月から開催されていた展覧会なのですが、ようやく見に行くことができました。

サミュエル・イェスルン・デ・メスキータという19世紀末から20世紀初頭に活躍したオランダの版画家のことを、私は、NHKのEテレの「日曜美術館」の「エッシャー 無限性の彼方へ」の特集を見て知りました。

今回の日本初の回顧展というメスキータの展覧会のポスターには「エッシャーが命懸けで守った男」とあるのですが、オランダの版画家のマウリッツ・コルネリス・エッシャーの美術学校の先生だったそうです。エッシャーは、メスキータの影響を大きく受け、生涯敬愛していたということでした。

1868年6月6日にアムステルダムで生まれたメスキータは、ポルトガル系ユダヤ人だったため、第二次世界大戦中、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツによってアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られ、1944年の2月11日頃、ガス室で殺害されたそうです。75歳だったそうです。作品に描かれている妻のエリーザベトさんも息子のヤープさんも、強制収容所で殺されたそうです。

展覧会の解説によると、メスキータのアトリエに残されていた膨大な作品の一部を、教え子のエッシャーやヤープさんの友人たちが救い出し、戦後、メスキータさんの業績を伝える回顧展を開いたそうです。今、サミュエル・メスキータの作品を展覧会で見ることができるのは、エッシャーたちがそうしてメスキータの作品を守り抜いてくれたおかげでした。

太平洋戦争を含む第二次世界大戦が終わってから今年で74年目になりますが、今回のこの回顧展は、その前年にアウシュヴィッツで亡くなったメスキータの没後75年を記念して開催されたものだそうです。

展覧会場には、混雑しているというほどではなかったのですが、多くのお客さんが来ていました。ポスターにも使われている男性の肖像の木版画は、息子のヤープさんでした。「ヤープ・イェスルン・メスキータの肖像」というタイトルの1922年の作品でした。

大人になってから版画を始めたというメスキータはデザイナーでもあったということで、その木版画の作品のほとんどが、何というか、とてもおしゃれな印象でした。『ウェンディンゲン』という建築芸術雑誌も、おしゃれでした。木版画の他に、エッチング(銅版画)や、パステルや、水彩の作品なども展示されていたのですが、圧倒的に木版画の作品が見事でした。迷いがないように見える力強い線と濃い色と薄い色(黒と白ばかりではありませんでした)とのコントラストに迫力がありました。

「うろつく男」(1900年)という、異なるステート(刷り)の作品が6点組み合わされた小さな作品が、私には本当に絵の中の男がその街中をうろついているように見えて、何だか面白かったです。「帽子の女」、「少年(ヤンチェ・スケルペンゼール)」、「少女(メイド)」、「正義」、「父」、「母と子」なども、良かったです。

人物画が多かったように思うのですが、メスキータは動物園に通っていたそうで、動物や植物などを描いた作品も多くありました(人に身近な動物として代表的な猫や犬を描いたものはありませんでした)。動物や魚や鳥や植物の作品も、私としては、木版画の作品のほうが断然良かったです。

“世紀末”らしい神秘的な雰囲気の作品もありましたが、展覧会の後半に展示されていた、メスキータが日記のように自由に描いていたという、ペン画や鉛筆画の「ファンタジー」(幻想)シリーズは、私には、面白いというよりは、少し怖い作品のように見えました。第一次世界大戦後の“空気”がその作品に影響していたのかどうかということは、私には分からないのですが、曲線で歪んだように描かれている人間たちの姿が、私には少し不気味に見えました。ただ、展覧会場の作品解説には、そのような怖さについては特に書かれていませんでした。

もしも、メスキータがナチス・ドイツに殺されずに戦後の世界を生きていたなら、どのような作品が作られたのだろうと思います。

私がサミュエル・メスキータという版画家のことを今まで知らなかったということもあるのですが、新鮮で、とても面白い展覧会でした。私も見に行くことができて良かったです。

高島屋の『りぼん』の展覧会

先日、東京の新宿高島屋で開催されている「特別展 りぼん 250万りぼんっ子大増刊号」を見に行きました。

『りぼん』や「りぼんマスコットコミックス」の表紙がずらりと並べられた本棚のようなエントランスにまず感動しました。このエントランスの展示がピークなのではと思うほどでもあったのですが、会場内の展示も楽しくて、あっという間のように思えました。この展覧会のために新しく描かれたという絵も展示されていました。「久しぶり。元気にしてた?」という言葉に、何というか、少し泣きそうな気持にもなりました。

最高発行部数約255万部を記録したという1993年か1994年頃の当時の人気を支えていた11作家を紹介する展覧会ということで、参加している漫画家の方や展示作品数が多いというわけではなかったかもしれないとも思うのですが(参加している漫画家さんは『りぼん』の創刊60周年の頃に東京の品川で開催されていた「りぼんフェスタ2015」のほうが多かったように思います)、壁一面を埋め尽くす絵を見るのも楽しかったですし、読んだことがある作品や何となく知っている作品の原画を見たり、様々な作品の「ふろく」を見て懐かしく思ったりしました。「ふろく」(または「応募者全員大サービス」)の中に持っていたものや持っているものを見つけると嬉しくなります。

私も、集英社の『りぼん』の漫画を好きで読んでいました。「語る」ことができるほど詳しくはないのですが、『りぼん』の雑誌で読んだり、好きな作者の作品を遡って「りぼんマスコットコミックス」の単行本で読んだりしていました。

今回原画(原稿)が展示されていた柊あおいさんの『耳をすませば』は、小学生の頃に単行本で読んで知ったのですが、私は『耳をすませば』を読んで漫画というジャンルの他の作品を読むようになったように思います。それまでは、普通の本(絵本や図鑑や小説など)しか読んだことがなかったのです。今回『ルナティック雑技団』の原画が展示されていた岡田あ~みんさんの漫画『お父さんは心配性』も『こいつら100%伝説』も、さくらももこさんの漫画『ちびまる子ちゃん』も、面白くて、とても好きでした。水沢めぐみさんの漫画『姫ちゃんのリボン』も、とても好きでした。展示されてはいなかったのですが、高田エミさんの漫画『ねこ・ねこ・幻想曲』も大好きでした。同じ少女マンガではあっても、私は、どちらかというと、学園恋愛ものの作品より、ギャグ作品やSFやファンタジーの要素のある作品のほうが好きだったのかもしれません。

私は基本的には集英社の『りぼん』を好きで読んでいたのですが、当時読んでいたもう一つの漫画雑誌は講談社の『なかよし』でした。『りぼん』創刊60周年の2015年頃、同じく創刊60周年だった『なかよし』は渋谷西武の紀伊國屋書店で小さな展覧会を開催していましたが、今年の秋には、本郷の弥生美術館で、創刊65周年記念の『なかよし』の原画展が開催されるのだそうです。今の私は現代の新しい漫画作品からは少し離れてしまっているのですが、私の知っている作品の展示の多かった今回の『りぼん』の展覧会も楽しかったので、今度の『なかよし』の展覧会も見に行くことができるといいなと思います。

新潟県と山形県の地震のことなど

昨夜の10時、私は楽しみにしていたTBSのドラマ「わたし、定時で帰ります。」の最終回(第10話)を見ていました。福永部長(ユースケ・サンタマリアさん)が東山結衣(吉高由里子さん)と種田晃太郎(向井理さん)の前を立ち去る場面で、オープニングの映像が入りました。ここまでの約30分間、CMなしだったように思います。

この少し前、栃木県に洪水警報という速報と、新潟県に津波警報という速報の字幕が出ました。その後、午後10時22分頃、新潟県で震度6強、山形県で震度6弱の地震があったという速報が入り、オープニングの映像の直後のCMの途中で、ドラマ「わたし、定時で帰ります。」の最終回の放送は休止となりました。

「報道特別番組」に切り替わり(この中ではドラマの最終回の放送についてのお知らせは特にありませんでした)、新潟や山形のTBS系列の放送局のアナウンサー、「NEWS23」の小川彩佳アナウンサーと山本恵里伽アナウンサーが中心となって、新潟県や山形県や秋田県や石川県(能登半島)などの地震と津波の情報について長く伝えていました(津波警報が解除された後、この報道番組は終わりました)。

報道によると、地震の震源地は山形県沖の海底で、深さは10km、マグニチュードは6.8、新潟県の村上市で震度6強、山形県の鶴岡市で震度6弱が観測されたそうです。

夜の報道では状況がよく分かりませんでしたが、朝の報道を見て、建物や道路や山などに大きな被害があったことが分かりました。この地震で怪我をした方はいるようなのですが、亡くなった方はいないようでした。原子力発電所も、「異常なし」ということのようでした(異常があった場合はちゃんと公表してくれるのでしょうか)。横揺れのあった後縦揺れが長く続いたという地震だったそうなのですが、直下型の地震ということなのでしょうか。

昨日は、大阪府北部地震から1年の日でもあったので、偶然だとは思いますが、そのような日にまた大きな地震が来たのかと驚きました。新潟県や山形県の地域の今日の天気は、予報によると、雨なのだそうです。地震の後の被災地の天気が雨で、気象庁が「土砂崩れの恐れ」を警告するということが、よくあるような気がするのですが、何となく印象に残っているためにそう思うのかもしれません。昨夜の栃木県の大雨による洪水警報については、その後の報道がないのですが、大丈夫だったのでしょうか。

昨夜の震度6強の地震では、佐渡や粟島にも津波が少し到達していた(「微弱」と書かれていました)ようですが、今日は、その新潟県にもゆかりのある、小説家の太宰治の生誕110年、没後(入水後の遺体の発見)から71年の桜桃忌の日でもあります。私は太宰治の小説や随筆を読むのは好きなのですが、桜桃忌への思い入れはそれほどありません(何の記念日に対しても、どちらかというとそうなのですが)。でも、これもまた不思議な偶然のような気が、少しだけしました。

今日には久しぶりに国会で「党首討論」が行われるそうで、NHKでその様子が放送されるそうなのですが(生放送なのでしょうか)、45分の番組ということで、NHKの「日曜討論」よりも短いようです。今回の「党首討論」は、本当に「討論」になるのでしょうか。あるいは、また各政党の党首が“順番に”自分の言いたいことを主張するだけで終わってしまうのでしょうか。党首を務める政治家の方たちは、停電も起きていたという昨夜の地震の話についても触れるだろうと思いますが、被災した人々の安心できる暮らしに必要なインフラの整備や修復のためのお金は、被災した自治体ではなく、国が出すようにしたほうが良いと思います。集めた税金は、武器のためではなく、人々の福祉のために使ってほしいと思います。

・・・・・・・・・・
以下は6月20日の追記です。昨日の「党首討論」のことです。

NHKで中継されていた「党首討論」を見ました。録画をしておいたものです。立憲民主党の枝野幸男議員、国民民主党の玉木雄一郎議員、日本共産党の志位和夫議員、日本維新の会の片山虎之助議員の順に、安倍晋三首相(自民党の総裁)に質問をしていました。やはり安倍首相(麻生太郎副総理兼財務大臣が「政府の政策スタンスと合わないから受け取らない」と宣言した、老後の資産形成について「およそ2000万円必要になる」などとする金融庁の審議会の報告書を踏まえた質問への回答は控えるとした答弁書を「閣議決定」したという昨日の報道にも驚きました)は、野党の当主の方たちによる、国民の年金の「マクロ経済スライド方式」(政府が国民から徴収した保険料を勝手に運用しているこの場合の年金とは国民年金と厚生年金のことで、公務員の共済年金や政治家の議員年金のことは含まれていないのだそうです)の問題や医療や介護などに携わる職員の不測の問題の質問などには、また正面から正直に答えないようにしていましたし、民主党が初めて与党を務めた3年間の悪口を言いながら自民党政権のほうがましだろうという宣伝も繰り返していました。いつものことなのですが、疲れるというか、残念に思いました。

今回、枝野さんや玉木さんや志位さんは「提案」をしていたので、その検証もなされるといいなと思います。ただ、野党の党首の方々には、もう少しみんなで話し合って質問テーマを決めてほしかったというか、例えば、沖縄県の辺野古の米軍新基地(滑走路)建設工事強行のことやF35戦闘機やイージス・アショアなどの防衛問題(防衛費に関してはどうして医療や教育などの費用の話の時のように「財源はどこから?」と言われないのでしょうか)や外交問題についても質問してほしかったように思えました。今回の「党首討論」は相変わらず「討論」にはなっていなかったように思います(安倍首相が議長に制止されない中で質問内容とは異なることを長々と話し続けている時間も質問者の質問時間に含まれるという国会のシステムは変えたほうがいいと思います)。与党の自民党(安倍首相はよく自民党の政策をアピールするために「民主党」の名称を出しますが、自民党も自由民主党なので、今の日本には名前に「民主党」が付く政党が4つ存在します)と公明党の議員の方たちが「予算委員会」を開きたくないのがなぜなのかは分かりませんが、「党首討論」の約45分という時間は短いように思いました。

あと、NHKのEテレで深夜に再放送されていたETV特集「希望の大地~北海道 厚真町 ふたりの開拓物語~」の再放送を見ました。昨年の9月6日の北海道胆振東部地震で被害を受けた厚真町で農業を再開した松平功さんと信子さん夫妻と家族、農家の方たちの話でした。厚真町は、明治時代の開拓期に石川県の人々が新天地を求め渡ってきた「希望の大地」だったのだそうです。農業を再会できて幸せだと話す夫妻は、本当に幸せそうに見えました。でも、一年間農家の方が大切に育てて、見事に実った田んぼの稲を、一粒でも収穫したなら補償を受けることができなくなるという仕組みについては、何か冷酷な感じがしました。農家の補償制度の詳しいことは分からないのですが、収穫のためではなく捨てるために刈り取られていく稲穂がかわいそうでした。改善されないものなのでしょうか。
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Author:カンナ
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