イギリスのヘンリー王子とメーガンさんの結婚式のこと

昨夜の8時頃から、NHKのBS1やBS日テレなどでは、イギリス王家のヘンリー王子とアメリカ人女優のメーガン・マークルさんの結婚式(ロイヤルウェディング)の様子が生中継されていました。

ロンドン近郊のウィンザー城のセント・ジョージ礼拝堂の門のアーチの周囲には白いバラの花がたくさん咲いていて、礼拝堂の中の木の彫刻やカラフルなステンドグラスやガーター勲章を授与された家のたくさんの旗(天皇家の菊の御紋の旗も見えました)や白と黒の大理石の床の複雑な豪華さに、イギリスの歴史の重みのようなものを感じました。海老茶色のおしゃれなデザインの車を降りて来た、白いシンプルなデザインのウェディングドレスのメーガンさんがとてもきれいでした。ブライズメイドやページボーイを務める子供たちの中には、ジョージ王子やシャーロット王女もいました。メーガンさんのお父さまは療養中で結婚式に出席できないということで、メーガンさんはチャールズ皇太子にエスコートされてバージンロードを歩き、少し緊張した面持ちで待っていたヘンリー王子と手を取り合っていました。メーガンさんの指輪や小さなブーケには、亡きダイアナ妃への思いが込められているということでした。

結婚式の最初の頃は普通のカトリックの結婚式という印象でもあったのですが、米国聖公会のカリー総裁主教の、身振り手振りの大きい芝居がかった長い演説の説教(15分以上あったような気がします)が意外と面白かったです(何となくなのですが、途中から俳優の竹中直人さんのようにも見えてきました)。エリザベス女王は静かに聴いていたように見えましたが、カミラ夫人やウィリアム王子は楽しそうに少し笑っていました。中継の同時通訳によると、愛はすばらしいとか、愛には世界を変える力があるとか、第二の火としての愛が発見されたら人類はもっとすごい力を得るとか、カリー総裁主教はそのような話をしていたように思います。南部訛りがあるようだとも解説されていたカリー総裁主教の話や動きのリズム感が楽しくて(その一方で後ろの司祭が無表情で動かないのも面白く思えたのですが)、結婚式の行われている場所がイギリスの教会ということを忘れそうというか、映画「天使にラブソングを」が始まりそうな雰囲気だったのですが、カリー総裁主教の大演説の後、礼拝堂の後ろで、黒人の方が集まって映画「スタンド・バイ・ミー」の混声合唱を披露していたのがすばらしくて、楽しい、すてきな結婚式だなと思いました。

イギリスの礼拝堂に一気にアメリカ色が強くなる感じもすごいなと思ったのですが、ヘンリー王子とアフリカ系にルーツを持つという女優のメーガンさんの結婚をお祝いするため、人々が街に飾っていた国旗には、イギリスの国旗やアメリカの国旗の他に、メーガンさんが暮らしているというカナダの旗もあり、国際色豊かなところも、英国王室が率先して多様性を認めていこうとしているところもすばらしいなと思いました。ヘンリー王子は、結婚式の後、エリザベス女王からサセックス公爵の爵位を与えられたそうです。

昨日のロンドンはとても良く晴れていて、すっきりと広がる青空と木や芝の緑が鮮やかでした。中継先の方が今の気温は20度だと伝えていたのですが、イギリスは5月が一番良い季節なのだそうです。私はイギリス王室のことも詳しくは知らないのですが、自由に生きようとするお二人の結婚が多くの人々に祝福されているということや、お二人が新しい王室を作る一助になろうとしているということがよく伝わってくる結婚式になっていたように思いました。

ジャーナリストの岸井成格さんが亡くなったこと

昨夜、TBSのドラマ「花のち晴れ~花男 Next Season~」の第5話の後に放送されていた報道番組「NEWS23」の冒頭で、「NEWS23」や「Nスタ」や「サンデーモーニング」などに出演していた、毎日新聞社特別編集委員の岸井成格(しげただ)さんの訃報が伝えられていました。岸井さんは、73歳だったそうです。1944年生まれということは、戦時中の生まれの方です。最近TBSの報道番組で姿を見かけなくなったので、もしかしたらご病気なのかなとは思っていたのですが、再発した癌の治療を続けていたということでした。民主主義を壊して国民を統制し個人の自由を制限しようとする政治権力者への批判を続け、安倍政権やその支持者からなぜか名指しで(謎の新聞広告まで出されて)批判されていた岸井成格さんは、権力を監視するメディアのジャーナリストとして、正しかったのだと思います。私は岸井さんの出演していた報道番組の全てを毎回見ることができていたというわけではないのですが、岸井さんの気骨のある率直で分かりやすい熱心な解説を聞くのが好きでした。

沖縄返還の日でもあった昨日には、退院した沖縄県の翁長雄志知事が膵臓癌を患っているということも報じられていました。翁長知事は任期を全うしたいと話しているそうです。日本政府によって沖縄県内に米軍基地が固定化されることに反対し続けている翁長知事は、昨年に亡くなった大田昌秀元沖縄県知事の思いを受け継いでいると言われていますが、翁長知事の任期終了後にその思いを継ぐことのできる候補者はいるのでしょうか。

沖縄の「琉球新報」の記事に書かれていたことによると(最初はインターネット上のニュースで知りました)、民主党が政権与党だった時代の2009年に開かれた日米両政府の局長級会合の場での在日米軍基地の環境保全に関する新しい取り決めについて、アメリカ側が「柔軟な姿勢を示せる」と前向きな提起をしたにも関わらず、高見沢防衛省防衛政策局長(当時)がキャンベル国務次官補(当時)に「アメリカ政府が柔軟な態度を示せば、地元がより基地への立ち入りを求め、環境汚染を浄化するコストを背負いかねない」などと述べていたということが、内部告発サイト「ウィキリークス」が公開したアメリカの機密公電に書かれている内容から明らかになったということなのですが、これは本当なのでしょうか。沖縄に在日米軍基地を置き続けているのはアメリカ政府ではなく日本政府だということでしょうか。私が見逃してしまっているだけなのかもしれませんが、NHKや民放などの報道番組では報じられていないニュースのようにも思います。この文書の内容について日本政府側は、「ウィキリークス」などで不正に入手された文書にはコメントしない、としているそうです。

安倍政権を支持する方々に批判されていた、TBSの「NEWS23」のアンカーだった岸井成格さん、NHKの「クローズアップ現代」のキャスターだった国谷裕子さん、テレビ朝日の「報道ステーション」のキャスターだった古舘伊知郎さんが、2016年の3月末という同時期に降板になったのは、本当に偶然なのでしょうか。昨日にはスタジオジブリの高畑勲監督のお別れ会で宮崎駿監督がお手紙を読む様子も伝えられていましたが、その映画監督の高畑勲さんや、四大公害病の一つの水俣病と長く向き合い続けていた作家の石牟礼道子さん、絵本作家のかこさとしさん、ジャーナリストの岸井成格さんなど、先の日本の戦争を知っている人で、社会的に弱い立場にいる人のことや自然環境のことを深く考えることができ、その考えを広く発信することのできる人たちが少しずつこの世界からいなくなるというのは、仕方のないことなのかもしれないのですが、少し心細いというか、何となく、寂しいことのように思います。

絵本作家のかこさとしさんが亡くなったこと

昨日の報道で、絵本作家の加古里子(かこさとし)さんが2日に亡くなったということを知りました。92歳だったそうです。

加古里子さんの本当の名前は中島哲さんで、福井県出身の方だそうです。私が昨夜に見たニュース番組では、「『だるまちゃん』シリーズで知られる」と加古里子さんのことを紹介していたのですが、絵本が子供のための作品であるなら、私は『だるまちゃん』のシリーズをまだよく知りません。

私が小さい頃に特にとても好きで読んでいたのは、『からすのパンやさん』や『おたまじゃくしの101ちゃん』や『にんじんばたけのぱぴぷぺぽ』や『あかいありとくろいあり』などの絵本です。今から思うと、古い時代の作品なのですが、毎日繰り返し読んでいた頃の私は、いつ頃に刊行された絵本なのかということを気にしたことは一度もなかったような気がします。

お話の内容も面白くて好きだったのですが、水彩のようなパステルのような優しい色合いのかわいい絵が楽しくて好きでした。

以前に見たNHKの「今を生きる君たちへ~92歳の作曲家 大中恩のメッセージ~」というドキュメンタリー番組の中では、戦時中を生き抜いた、古い友人同士という、「サッちゃん」や「犬のおまわりさん」などの歌の作曲者の大中恩(おおなかめぐみ)さんと加古里子さんが、子供たちの平和を大切に思う気持ちを育むための歌を一緒に作っているということが伝えられていました。私は「犬のおまわりさん」や『からすのパンやさん』を知っていても、その作者がどのような方でどのような思いで作品を作っているのかということを知らなかったので、番組で伝えられていた大中さんと加古さんのメッセージは、とても感動的でした。

昨夜のNHKの「ニュースチェック11」の中では、加古里子さんから子供たちへの言葉が紹介されていたのですが、取材に答えていた加古さんは、今よりもより美しく、今よりもより健やかに、今よりもより賢くなることを子供たちには頑張ってほしいと話していました。

かこさとしさんの作品は、600作品ほどあるそうなのですが、これからも子供たちに読み継がれていくのだと思います。昔に読んだかこさとしさんの絵本は今も本棚にありますが、私も小さい頃にかこさとしさんの絵本を読むことができて良かったです。絵本を開く度にいつもとても楽しかったです。加古里子さん、ありがとうございました。

「隠れキリシタン」ではない「潜伏キリシタン」という言葉

先日の5月4日の報道で知ったのですが、国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の諮問機関の国際記念物遺跡会議(イコモス)は、長崎県と熊本県の文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」について、世界文化遺産への登録をユネスコに勧告したのだそうです。

日本のある重要な場所がユネスコの「世界遺産」に登録されるということが本当に良いことなのかどうか、私にはいまいちよく分からないように思えるのですが、最近の世界遺産は「町興し」の意味合いが強いようなので、その地元の方々のほとんどが「世界遺産」への登録を喜んでいるのであれば、それはそれで良いことなのかなとも思います。

そして、先日のこの報道を聞いて私が気になったのは、世界遺産がどうということよりも、「潜伏キリシタン」という言葉でした。

私は学校の日本史の授業で「隠れキリシタン」(「かくれキリシタン」や「カクレキリシタン」という表記もあります)と習い、本や漫画などでもそのように見聞きしていたので、今までずっと「隠れキリシタン」だと思っていました。

そのため、私には、今回の報道で初めて見たり聞いたりした「潜伏キリシタン」という言葉に、とても違和感がありました。「潜伏キリシタン」という言葉は、一体いつ頃から使われるようになったのでしょうか。もしかしたら今の小学生や中学生や高校生の使う歴史の教科書には「隠れキリシタン」ではなく「潜伏キリシタン」という言葉が使われているのでしょうか。「潜伏」という言葉にも「隠れる」という意味はありますが、犯罪者やテロリストやゲリラ部隊や病原菌やウイルスがどこかに隠れている場合に使う言葉であるという印象があります(辞書でも「潜伏」はそのように説明されています)。ファンであることを公言していないファンのことを指す「隠れファン」という言葉がありますが、「潜伏ファン」という言葉は聞いたことがありません。

報道の解説によると、1873年(明治6年)にキリスト教に対する禁教令が撤廃された後、「潜伏キリシタン」は、カトリックに復帰する信徒と、江戸時代の禁教令時代の信仰の在り方を維持する「隠れキリシタン」とに分裂し、現在集落に建つカトリックの教会堂は禁教の時代の終わりを示すものとして位置づけられていて、祈りの「オラショ」を歌う「隠れキリシタン」の団体は後継者不足から解散が相次いでいるのだということでした。

その解説の内容が事実だとすると、つまり、禁教令時代に密かに各地に存在していたキリスト教徒は全て「潜伏キリシタン」と呼ばれるのであり、当時は「潜伏キリシタン」の中に「隠れキリシタン」も含まれていたが、禁教令が終わった後にいわゆる一般的なカトリックの信徒に戻った人々は「(元)潜伏キリシタン」と呼ばれるようになり、禁教令時代の日本独自のキリスト教「隠れキリシタン」の信仰を貫こうとしている人々は今も「隠れキリシタン」と呼ばれる、ということになるのかなと、何となく思いました。

ただ、そうだとすると、このユネスコの報道を聞くまで私が聞いたことのなかった「潜伏キリシタン」は正統なキリスト教カトリックで、「隠れキリシタン」は異端ということになってしまうような気がします。キリスト教にも神道にも仏教にも宗派がありますが、各「新興宗教」がそれ以前(江戸時代以前?)からある宗派から分けられているくらいで、余程の犯罪行為などがない限りは、普通の宗教の一つになっているような気がします。「隠れキリシタン」は、その信徒ではない私には何か特殊な、秘密結社かのような響きもありますが、それなら「潜伏キリシタン」でも同じことです。幕府や新政府から隠れてキリスト教を信仰していたキリスト者の方たちが、特殊な「隠れキリシタン」と、特殊ではない「潜伏キリシタン」に分けられているというのは、何か少し奇妙な感じがします。あるいは、禁教令の間もその撤廃後もカトリックの信仰を守り続けてきたのは「隠れキリシタン」とは異なる「潜伏キリシタン」だとして広めたほうが、欧米のカトリック信徒の方々にも受け入れられやすいとか、そのようなことなのでしょうか。

例えば、もしも「隠れキリシタン」の方たちやその集落の地元の方たちがもともと「隠れキリシタン」と「潜伏キリシタン」とを分けて呼んでいたというのならそれで良いと思うのですが、それならそうだと報道で解説してほしいような気もしますし、歴史の教科書や本がそれまで「隠れキリシタン」という呼称のみを採用してきたことへの謎が残ります。それに、「隠れキリシタン」の信仰の痕跡が残されているのは、長崎県や熊本県だけではありません。

日本はアニミズムの考え方の残る自然信仰・自然崇拝が根付いている、「八百万の神」がいる多神教の国ということなので、欧米諸国などの一神教の国々から見ると少し珍しいのかもしれませんが、「宗教に寛容」であるように見えるとすれば、そのためかなと思います。誰かが信仰しさえすれば、何でも「神様」になることができる国です。「町興し」のために?たくさん作られている「ゆるきゃら」と呼ばれるキャラクターたちも、きっと多種多様な「神様」の一種なのだろうと思います。

でも、私は最近、「神様」のことがよく分からなくなりました。私が今とりあえず無事に暮らすことができているのは、私をどこかで助けてくれている「神様」のおかげだと思います。そのため、「神様」という存在自体はどこかに存在するようにも思うのですが、それは私の「神様(とも考えられる「何か」)」であって、ある神社仏閣の(既存の)何神様を拝みなさい、祭りなさいと他人に言われて見よう見まねで拝んだり祭ったりしたとしても、その何神様を心の底から「信じる」ことができるというのとは違うような気がします。歴史によると、現在の人間社会の中で信仰の対象となっている有名な「神様」の多くは、宇宙ができて、地球ができて、その中に人類が誕生した後の時代に、誰かが考案して広めたものです。自然に広まったものもあるかもしれませんが、積極的に(あるいは強制的に)広められたものもあります。古い時代の「神様」が人間の都合によって後の新しい時代の別の「神様」に取り込まれて(取って代わられて)、太古の時代からの「神様」であるかのように信仰されている「神様」もあります。各宗教の「教え」の中には良いものも多くありますが、「教え」の内容は宗派によっても差がありますし、ビジネス的・政治的な面が目立っている神社業界・お寺業界への違和感もあるのかもしれませんが、美しかったり恐ろしかったりする大自然とは異なる「神様」のどこかに、“作り物感”がしてしまっているのだと思います。

上手く伝えることができないのですが、キリスト教でも神道でも仏教でもユダヤ教でもイスラム教でも、その他の謎の新興宗教でも、その組織の会員(信者)になってその組織に所属する人々が信仰の対象とする「何か」をその人々と一緒に何の疑いもなく不思議なほどに信じ込むことができる人たちが意外と大勢いるということは(そのような人たちが実際にいるとすれば、ということでもあるのですが)、よく分からないけれど、何だか奇妙なことだなと思います。集団行動があまり得意ではないほうだからそう思うのでしょうか。個々人の信仰は自由だと思うのですが、宗教団体には、何か全体主義的なイメージもあります。迫害や大量殺戮の原因にもなる宗教行動や信仰心は、人間の不思議の一つでもあるような気がします。

「没後40年 熊谷守一 生きるよろこび」展と「名工の明治」展の「十二の鷹」

先日、東京国立近代美術館で開催されている「没後40年 熊谷守一 生きるよろこび」という展覧会(後期)を見に行きました。

気象庁が開花宣言を出す前だったこともあり、皇居周辺の桜の花は、寒緋桜のような桜以外にはまだあまり咲いていなかったのですが、枝垂桜など何輪か咲き始めている木もありました。

私が行った時の美術館のチケット売場には少し行列ができていて、1階の展覧会場にもたくさんのお客さんがいたのですが、すごく混雑しているというほどではなく、ゆっくりと自由に熊谷守一さんの作品を見ることができました。

熊谷守一さんは、岐阜県中津川市の付知町出身の方だそうです。作品は、岐阜県美術館、愛知県美術館、熊谷守一つけち記念館、天童市美術館、豊島区立熊谷守一美術館から出品されていました。

熊谷守一さんの絵というと、私は、木の板に油絵の具でデザイン画のようにシンプルな色と形で描かれた晩年の「猫」や「蟻」や「雨滴」のような輪郭線のはっきりとした作品を思い出すくらいで、明治時代からの初期の作品をちゃんと見たことがなかったので、まだ熊谷守一さんらしさが確立されていない最初の頃の、最初の頃の色の暗い(会場のパネルの解説によると、暗いのは油絵の具の成分の劣化の影響もあるということでした)「闇」の作品に驚きました。

「裸婦」をテーマにした絵が多かったことも、私には少し意外に思えたのですが、「闇」の作品の代表は、明治41年の「轢死」だったのかなと思います。私はこの作品を知らなかったのですが、たくさんのお客さんが絵の前に集まって見ていました。絵の具の油の劣化により、描かれているものは見え辛い状態だったのですが、その「下絵」から何となく推察することはできました。ある夜の線路に飛び込んだ女性の、地面に横たわっている遺体を描いたものだということでした。周囲には、駆けつけた人々が集まっていたそうです。

熊谷守一さんの晩年の、または戦後が始まる昭和20年以降の(あるいは昭和11年以降の?)穏やかな雰囲気の絵からは想像がつかないような壮絶な絵ですが、展覧会のタイトルにもなっている熊谷守一さんの「生きるよろこび」は、「死」がその根底に深くあるということなのかもしれないなと思いました。

このように言ってはいけないのかもしれませんが、初期の暗い絵を展覧会の始めに見続けていると、中期や後期の明るい色調のシンプルな「引き算」のような絵が内容的に少し物足りないようにも思えてきます。私の絵の見方が浅くて足りないのだろうとは思いますが、少しそのように思えました。

展覧会で見た絵の中で特に良かったのは、昭和41年の「宵月」や、昭和42年の「月夜」でした。昭和15年(昭和15年から25年)の「白い蝶」も良かったです。何となくなのですが、清宮質文さんの版画の蝶のことを少し思い出しました。

熊谷守一さんの展覧会を見た後、所蔵作品展の「MOMATコレクション」も見に行きました。松林桂月の「春宵花影図」、藤牧義夫の「赤陽」、小茂田青樹の「虫魚画巻」など、見ることができました。企画展も良いのですが、所蔵作品展も良いです。

その後に見に行った(企画展のチケットを買うと所蔵作品展も工芸館の展覧会も見ることができます)、東京国立近代美術館工芸館で開催されている、工芸館開館40周年記念所蔵作品展の「名工の明治」は、「明治150年」事業の一環の展覧会のようでもあったのですが、明治26年シカゴ・コロンブス世界博覧会(シカゴ万博)で発表されたという鈴木長吉の「十二の鷹」が一同に並んでいたのは、圧巻でした。その工芸の技術は、解説によると、時代の流行の変化と共に廃れていったようなのですが、もったいないことだなと思いました。見事な十二の鷹は、鋭くて、一羽一羽、今にも飛びそうな、本当に生きている鷹のように見えました。
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Author:カンナ
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