「描き続けた“くらし” 戦争中の庶民の記録」

昨夜、Eテレの「ETV特集」の「描き続けた“くらし” 戦争中の庶民の記録」を見ました。

冒頭に登場していた、昨年のアニメーション映画「この世界の片隅に」(とても良い映画でした。原作のこうの史代さんの漫画は未読です)の監督の片渕須直さんが見ていたのは、勝矢武男さんという方の描いた、敗戦までの3年間の戦時中の家族の日常を記した絵日記のようなスケッチ画でした。

勝矢武男さんには、時々病に伏していた妻の勝世さんと、元気な3人の男の子と2人の女の子がいました。勝矢家は7人家族で、東京の北区の辺りで暮らしていたそうです。

78歳だという三男の輝夫さんが当時のことを話していました。輝夫さんの家には、武男さんの描いた絵が飾られていたのですが、とても上手で驚きました。画家だったのでしょうか。私は勝矢武男さんのことを知りませんでした。

終戦から12年ほど経った昭和42年、雑誌「暮しの手帖」は「戦争中の暮しの記録募ります」と募集をかけ、翌年の夏に「戦争中の暮しの記録」の特集号を出版したそうです。番組のナレーションでは「ある出版社」と言っていて、なぜか「暮しの手帖社」だとは言わなかったのですが、その「暮しの手帖」の募集には1763通の応募があり、勝矢武男さんのスケッチもそこから世に出たということのようでした。

スケッチには、母親が元気になったことや、子供たちが相撲をして遊んだこと、野菜を買ったこと、お肉をすき焼きにしていっぺんに食べたこと、玄米を瓶に入れて白米に精米したこと、野草を食べたこと、楠公飯を作ったけれどおいしくなかったこと、ネズミがかじった飛行機の模型を長男が泣きそうになりながら作り直していたこと、みんなで防空壕を掘ったこと、その防空壕の中で子供たちが遊んでいたこと、長女が集団学童疎開へ行ったこと、勝世さんが長女を心配していたこと、疎開先で衰弱した長女を家に連れて帰ってきたこと、空襲を避けるために雨の入った防空壕にいなければいけなかったこと、昭和20年5月24日の夜の大空襲のこと、東京の街が焼け野原になったこと、家族で生き抜こうという思いなどが描かれていました。

佐賀県の田中仁吉さんという農家の方の日記も少し紹介されていました。田中さんは、生活は厳しかったそうなのですが、畑仕事が好きだったそうです。暮しの手帖社へ日記を送ったのは“百姓”の生活を残しておきたかったからなのではないかと、家族の方が話していました。

勝矢さんの家族は、空襲でも無事で、家族7人で揃って8月15日の終戦を迎えることができたそうです。その後、妻の勝世さんは77歳で亡くなり、夫の武男さんはその翌年に81歳で亡くなったのだそうです。そして、武男さんと勝世さんの子供たちは、長男の幸夫さん以外は、今でもご健在なのだそうです。

勝矢武男さんのスケッチのカラフルな絵と綴られていた文章が繊細で良かったということもあると思うのですが、とても良い特集でした。三男の輝夫さんが話していたように、確かにそのような時代があったという証拠であり、戦争をしてはいけないというメッセージが武男さんの絵には込められているように思いました。

戦況が悪化する前の、戦時中の普通の家族の普通の暮らしが絵には描かれていたのだと思います。勝矢さんの家族は大空襲の中にあっても助かりましたが、その一方で、勝矢家の家族のように暮らしていた別の家族の日常は、大空襲によって壊されてしまいました。

映画「この世界の片隅に」の主人公の広島の呉のすずさんも、絵を描くのが好きな人で、生きて終戦を迎えることができましたが、大切な家族の一人と共に右手を失ってしまい、原爆によって実家のある広島の街も破壊されてしまいました。

映画を見た時にも思ったことなのですが、武男さんの穏やかな絵の向こう側にある、ごく普通の日常の中に戦争の気配が少しずつ入り込んでくる感じを、怖く思いました。映画と同じように、武男さんの絵にも、戦争を直接批判するような言葉はないようでした。それもその「時代」ということなのかもしれませんが、批判がはっきりとしていない分、今の私の暮らしにも置き換えて見ることができるように思えて、何でもない、楽しかったりつまらなかったりする普通の日常生活が、戦争の本性である暴力によって突然破壊されて一変するということを、恐ろしく、悲しく思いました。

家族には様々な形があると思いますが、約72年前の家族の暮らしと今の家族の暮らしとに、それほど大きな違いはないのだろうと思います。戦争だから、という訳の分からない理由で壊されていいような暮らしはないです。

武男さんの絵や田中さんの日記などが残されていて良かったです。雑誌「暮しの手帖」が戦時中の庶民の暮らしを残しておこうという特集を組んでいて良かったです。ドラマを見た後に何気なく見始めたのですが、この特集を私も見ることができて良かったです。

「731部隊の真実 ~エリート医学者と人体実験~」

先日の日曜日にNHKの「NHKスペシャル」で放送されていた「731部隊の真実 ~エリート医学者と人体実験~」を見ました。

大日本帝国陸軍の関東軍の「731部隊」のことは、これまでにも何度か、NHKだけではなく民放でも特集されていました。この部隊について書かれた本としては、『悪魔の飽食』という森村誠一さんの昔の小説が有名ですが、私は未読のままです。人体実験を行う731部隊の存在を小学生か中学生の頃に知った時には本当に驚いたのですが、以前はこのような戦時中の関東軍の「加害」の歴史もちゃんと伝えていたのだと思います。

1932年に陸軍軍医学校防疫部に軍医の石井四郎が所属する防疫研究室が作られたというところから始まっているそうなのですが、1936年の満州国に関東軍防疫部が作られ、1940年に関東軍防疫部は関東軍防疫給水部となり、その本部が「関東軍防衛給水部本部」、通称「第731部隊」ということでした。部長は軍医の石井四郎でした。旧ソ連軍と戦うための細菌兵器を開発していたそうなのですが、細菌兵器は当時国際条約で禁止されていたため、「防衛目的」の研究として密かに進められていたそうです。

中国のハルビンの平房という町には、本部跡が残っているそうなのですが、建物は1945年の8月9日のソ連軍の侵攻を知った日本軍が帰国する前に証拠隠滅のために爆破したのだそうです。

731部隊に所属していた方の証言があるにも関わらず、これまではロシア側の文書記録しかなかったために?731部隊の人体実験の事実を嘘だとか捏造だとか主張する方も時々いたそうなのですが、大学などの数百件の資料を調べたという今回の番組の調査の中で、ロシアのモスクワで1949年のハバロフスク軍事裁判の22時間の音声データ記録が見つかり、生きた人間を実験材料としていたという事実を証言する、当時の731部隊の軍医や憲兵や衛生兵たち12人の声を聴くことができたということでした。

テープの中の衛生兵の古都さんは、ワクチンの効果を調べるために中国人や満州人50人に砂糖水の中にチフス菌を入れて飲ませて感染させるという実験を行い、12名か13名亡くなったと記憶していると証言していました。軍医の西さんは、4、5人の「囚人」の部屋にペスト蚤を入れてペストに感染させるという実験を行ったと証言していました。

番組で紹介していた写真に写っていた3人の「囚人」は、柱に括りつけられていました。戦時中の、昭和初期の当時、日本人は、日本の統治に反対する中国人や満州人やソ連人たちのことを「匪賊(ひぞく)」と呼び、スパイや思想犯として捕えていたそうです。『関東軍憲兵隊司令部警務部長通達』という資料には、「スパイとして利用価値無き者」を、裁判を経ずに、731部隊へ実験材料として送っていることが記されているそうです。送られた人たちの中には、女性も子供もいたのだそうです。

731部隊の第一部(細菌研究)の部長の川島清さんは、「乳飲み子を持っていた女性」もいたことを証言し、感染させた後治療をするが、他の実験に供され、死ぬまで実験を繰り返したと証言し、あなたが勤務中に生きて監獄を出たもの一人もいないということかと訊かれて、その通りであります、と答えていました。

元少年隊員だったという当時14歳の三角さんという方は、事実を知ってほしいと初めて取材に応じたということでした。三角さんは、731部隊の所有する飛行機の整備を担当していたそうなのですが、「丸太(マルタ)」と呼ばれている頭を丸坊主にされた囚人たちが施設に運び込まれ、杭に一人ずつ繋がれているのを見たそうです。三角さんは、「各界の権威」から一年間、細菌の教育を受けたそうです。

元少年隊員の須永さんという方は、医学者たちの資料を保管していて、731部隊の戦後の「戦友会」の名簿を見せてくれたのですが、そこには、東京大学や京都大学、慶応大学、北海道大学、金沢医学大学、東北大学、麻布獣医大学、北里大学など、たくさんの有名な大学の名前がありました。731部隊には、全国の大学から、医学者や理学者や薬学者などの権威が集められていたそうなのですが、資料によると、約10校の大学から40人の研究者が731部隊に集められていたのだそうです。研究者たちは、技師として軍属になり、将校として部隊の中枢にいたのだそうです。

11人の技師を満州の731部隊に送った京都大学の文書館には、当時の文部省と大学の往復書簡が残されていました。その中から、731部隊から大学に贈られた特別費用の書類が見つかったそうです。お金は個人に渡されていて、1600円(現在の500万円)を受け取っていたのは、田部井和(かなう)助教授でした。田部井助教授は731部隊の第一課(チフス)の課長を務めていて、研究班の責任者だったそうです。

田部井さんの部下の古都さんは、チフス菌を注射したスイカの中に菌が繁殖しているのを確認してから満州人と支那人にそれを食べさせましたと証言していました。スイカを食べた人全員がチフスに感染したそうです。田部井助教授は、人体実験をしていました。

京都大学から教授たちが送られた背景には、京都大学の医学部長の戸田正三という人が軍と結びついて研究費を集めていたという背景があったようでした。1943年の研究報告書には、防寒服研究費や衛生研究費などで、現在の2億5千万円を軍から受け取っていたことが記されているのだそうです。

軍部と大学が結びついたのは、1931年の満州事変がきっかけだそうです。国民は満州事変での日本軍の活躍を支持し、大学は満州の病院へ派遣するようになると、各大学で「防疫活動」のポストを争うようになったのだそうです。京都大学の戸田正三医学部長は、医学者も国の満州進出に貢献すべき、と考えていて、731部隊が作られると、そのために巨額の国家予算が使われるようになったということでした。

731部隊の川島部長は、裁判記録のテープの中で、昭和15年には1000万円(現在の300億円)の予算が使われていたと証言していました。予算を動かしていたのは、731部隊の部隊長で軍医の、京都大学出身の石井四郎でした。戸田正三と石井四郎はよく人事の話をしていて、戸田正三は731部隊が何をしていたのかも知っていて、部隊の研究を推進していたのだそうです。戸田医学部長は、京都大学の教授以外にも、個人的な知り合いも731部隊へ送っていたのだそうです。

番組では、東京大学にも調査を申し込んだそうなのですが、東京大学は番組の取材に対して、「組織として積極的に関わっていたとは認識していない」と回答したそうです。積極的に関わっていないのならむしろ堂々と調査に協力しても良さそうなものですが、東京大学は当時の出来事をまだ歴史学問的に調査するゆとりがないということなのでしょうか。戦争に関わって過去の事実をごまかそうとしているように思えますし、とても残念なことであるように思えました。

番組によると、東京大学では、当時の東京大学の総長の長與又郎が、軍医の石井四郎と交流をしていたそうです。長與元総長の遺族の方が保管していた日記には、昭和15年に平房の731部隊を石井四郎大佐の案内で視察し、見学したことが記されているそうです。東京大学からは戦時中に少なくとも6人集められていることが分かっているそうで、東京大学で開かれた微生物学会の集合写真では、全国から集まったという教授たちが石井大佐を囲むように並んでいました。

『喜寿回顧』を記した京都大学医学部の講師だった吉村寿人さんは、基礎医学の研究をしたくて医学部に入ったそうなのですが、ある日、満州の陸軍に技術援助をせよという教授(正路倫之助?)の命令を受け、国内で研究を続けたかった吉村さんは、命令を受けてすぐに断ったそうなのですが、今の日本の現状からこれを断るのは以ての外である、もし軍に入らねば破門するから出て行け、と教授に言われて、満州の731部隊へ行ったそうです。そこで吉村さんは凍傷の研究を命じられ、症例と対策のため、人体実験を行ったそうです。

軍医の西さんは、極寒期の零下20度のところに人を出して大きな扇風機をかけて風を送って人工的に凍傷を作った、凍傷になった指を小さな棒で叩くと板のように硬くなっていたと証言していました。1940年の12月の実験では、長椅子に座っていた凍傷になった5人の中国人のうち、3人の指は黒くなって落ち、2人の指は骨だけが残っていたそうです。

田部井和は、実戦に使うための研究を進め、大砲の形をした瀬戸物にチフスを入れた細菌爆弾を開発したそうです。部下の古都さんの証言によると、爆発させた場所に「被実験者」を通過させたり、杭に括りつけた人の上で爆発させて菌を被せたりするという実験を行い、大部分は感染して亡くなったということでした。

番組の証言を聞いていて、日本の軍が生きた人で人体実験をしていたという事実に改めてぞっとしたのですが、「NHKスペシャル」では詳細に伝えることができないくらいのもっと酷いことも、日本軍が捕らえた人たちに対して行われていたのだろうと思います。

でも、そのような731部隊の人体実験を後押ししたのは、日本に反発する人々を「匪賊」と呼ぶようになった日本国内の世論でした。1937年の日中戦争(支那事変)の頃、政府もメディアも、中国での日本人の犠牲を強調して(新聞の見出しには、「邦人はこうして虐殺された」とか「暴虐極まる匪賊」とか「匪賊を徹底殲滅」などと書かれていました)、中国人への憎悪の感情を煽り、国内世論(全員ではないかもしれませんが、国民の多く)は、日本軍による現地の人の処罰を支持して「匪賊」への敵意の感情を高めていったのだそうです。(日本の進出に反発する人々を「匪賊」と呼んだという当時の日本人の多くは、そもそも日本人が他所の国の人々の中へ入っていったということを忘れていたのでしょうか。)

そうした「時代の空気」と研究者は無縁ではなかった、ということでした。

北海道大学医学部の図書館で見つかった1940年の資料『民族衛生研究会』には、染色体の研究者が講演会で、満州の人を「匪賊」と呼んで生きたまま研究をしたことを話していたことが書かれていました。その中には、「匪賊が人間を殺すなら、その報復ではないが、その匪賊を研究材料にしてはどうかと思い付いた」と書かれているそうなのですが、その研究者(誰かは分かりません)が、そのような考えを公にしていたということもそうなのですが、自分が「匪賊」と呼ぶ人を人間とは思っていないらしいということにも驚きました。その研究者は、「日本人」だけを「人間」だと考えていたのでしょうか。あるいは、そのような研究者は、自分や身内や仲間だけを「人間」だと思っていたのかもしれません。その研究者は、匪賊一人を犠牲にしたことは無意味ではない、これ以上立派な材料は従来断じてないと言っていたそうです。

少年隊員だった三角さんは、匪賊は死刑囚だから実験材料として利用して良いと教えられていたそうです。こういう時代から祖王しなければ俺たちがやられるといった考えだった、見てもかわいそうだと口に出してはいけない、口に出したら非国民だと言われる、そういった「雰囲気」や、一般的な風潮がそうだったのですと話していました。

1941年に始まった太平洋戦争が泥沼化し始めると、731部隊は細菌兵器を中国で実戦使用したそうです。国際条約で禁止されていましたが、日本はその条約に「批准」しないまま使用したのだそうです。川島さんは、昭和16年に1回、昭和17年に1回、中国中部の軍隊に細菌武器を使用したと証言していました。ペストやコレラやパラチフスなどの菌を、軍隊だけではなく、集落にも使ったそうです。水源や井戸に散布して汚染したそうです。証言者の古都さんは、中国人の2か所の捕虜収容所にいた3000人分の饅頭(まんとう)に菌を注射し、それを食べるように言ってから現地に解放させた、パラチフス菌を大量に感染させる目的だったと裁判で証言していました。

長崎に原爆の落された1945年の8月9日、ソ連軍が満州に侵攻してくると、731部隊はすぐに撤退の準備を始め、証拠隠滅のために全囚人を殺害し、実験施設を破壊したそうです。幹部の医学者たちは、卑怯にも、特別に用意された列車でいち早く帰国したそうです。少年隊員の三角さんたちは、口外するなと命令され、死体の処理を命じられて、ガソリンをかけて焼いたそうです。その骨を拾いながら、戦争とはこんなものか、戦争とは絶対にするものではないと泣いたと話していました。

いち早く帰国した医学者たちは、戦後、大陸での人体実験のデータと引き換えに戦争責任を免除され、不問となったそうです。このようなアメリカ政府の司法取引のような手法も、本当に卑劣だと思います。データを受け取り代わりに関東軍の731部隊の責任者を野放しにしたということは、アメリカもその酷い人体実験に協力をしたということとほとんど同じことになるのではないかと思います。

教え子たちを731部隊へ送った京都大学医学部長の戸田正三は、金沢大学の初代学長に就任し、731部隊のことを語らないまま、医学界の重鎮となったそうです。田部井和助教授は、京都大学の教授となり、後に細菌学の権威となったそうです。吉村寿は京都大学へ戻って教授となり(後に勲章も授与されたそうです)、自分は非人道的な実験は行っていないと生涯否定し続けたそうです。私は軍隊内において凍傷や凍死から兵隊をいかに守るか、部隊長の命令に従って研究をしたのであって、決して良心を失った悪魔になったわけではない、と吉村さんは回想しているそうです。自分は非人道的な実験は行っていないと、戦後の吉村さんは本気で思っていたのでしょうか。それとも、そのようにでも思い込もうとしなければ長く生きていくことができなかったということなのでしょうか。

731部隊の当事者たちが口を閉ざす中で、残酷な731部隊の話題はタブーになっていったということでした。しかし、戦後72年の今年その歴史が改めて問われていると、今年の3月の日本学術会議の「軍事的安全保障研究に関する声明」のことが伝えられていました。

1949年に創設された日本学術会議では、1950年に「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」旨の声明を出し、1967年には同じ文言を含む「軍事目的のための科学研究を行わない声明」旨の声明を出したそうです。それは、科学者たち自身による戦争協力への反省から生まれたものでした。そして、今年に出された「軍事的安全保障研究に関する声明」は、防衛省が新しく作った防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」では「将来の装備開発につなげるという明確な目的に沿って公募・審査が行われ、外部の専門家でなく同庁内部の職員が研究中の進捗管理を行うなど、政府による研究への介入」が著しいということの問題と懸念を訴えるものでした。

政府が防衛省の予算の中から軍事利用できる研究を行う大学の研究室に「研究費」を配るということを始めているそうで、大学と軍事研究の在り方が改めて議論されていた日本学術会議では、心配する声が上がっていました。その一方で、軍事研究は兵器研究ではないと言っている方もいました。2016年のNHKの「クローズアップ現代+」の「“軍事”と大学 ~岐路に立つ日本の科学者たち~」では、原爆につながる理論を発見したアインシュタイン博士やイギリスの哲学者のラッセルや湯川秀樹博士や朝永振一郎博士が、戦後、科学の平和利用を訴えるようになったということが言われていて(ラッセル=アインシュタイン宣言)、ノーベル物理学賞を受賞した益川敏英博士も、防衛省の予算で大学が軍事関連の研究を行うことに反対していましたが、あまり過去の戦争のことと結びつけて考えずに、研究費を出してもらえるなら何でもいいという風に思っている教授や学生の方たちも増えているようでした。

日本学術会議のスライドには「哲学のない科学・技術は凶器である」と書かれていました。そこでは、アメリカのマンハッタン計画や原爆の話と共に、日本による中国での毒ガス実験や731部隊の話も出ていたそうです。ある科学者の方は、「科学者の責任ということです。科学者は戦争に動員されたのではなく、科学者が戦争を残酷化してきたという歴史があると思います。」と話していました。

ロシアで見つかったハバロフスク裁判の12人は、幹部たちがいち早く逃げた後にソ連軍の捕虜となった人たちだそうです。音声記録に残されていた声の、軍医の柄沢十三夫さんという方は、人体実験に使われた細菌の培養の責任者だったそうなのですが、戦争が終わってようやくその罪の重さに気付いたようでした。番組では最後に、柄沢さんの声が流れていました。「自分は現在平凡な人間といたしまして、自分の実際の心の中に思っていることを少し申してみたいと思います。私には現在、日本に、82歳になる母と、妻並びに2名の子供がございます。なお私は自分の犯した罪の非常に大なることを自覚しております。そうして終始懺悔をし後悔をしております。私は将来生まれ変わって、もし余生がありましたならば、自分の行いました悪事に対しまして、生まれ変わった人間として、人類のために尽くしたいと思っております。」というような言葉でした。柄沢さんはソ連で刑に服した後、帰国直前に自殺したのだそうです。

ハバロフスク裁判の22時間に及ぶ日本軍の証言記録音声は、いつか本になるのかもしれません。「731部隊の真実 ~エリート医学者と人体実験~」を今放送したNHKは、勇気があると思いました。良い特集でした。

戦争の特集を見ていると、人間には残酷な側面があるということがよく分かります。約72年以上前の戦争中の時代が、当時の人たちにとっては日常の延長線上にあったということであるのなら、今の私たちの日常もそのように少しずつ変化していくのかもしれないですし、戦時中の人たちと今現在の人たちとの間にそれほどの性質の違いはないように思えます。今の私たちも気を付けていないと、残酷な側面に支配されてしまうことになるかもしれません。

番組のナレーションでは、「今私たちに問いかける医学者と731部隊の真実。それは戦争へと突き進む中でいつの間にか人として守るべき一線を越えていったこの国の姿でした」と言われていたのですが、戦時中の731部隊が行っていたことは本当に怖いことで、怖くて酷いことだとしても、日本人は忘れてはいけないというか、無かったことにしようとしてはいけないことなのだと思います。

2015年の頃にEテレの「ETV特集」では「“医師の罪”を背負いて~九大生体解剖事件~」が放送されていました。1945年の九州大学(九州帝国大学)の医学部内で捕虜となったアメリカ兵に対する生体解剖実験が行われていたということを、当時現場に立ち会って補助をしていたという医師の東野利夫さんが証言していました。

戦争時代の酷い出来事のことを関係者の方が恐れずに証言をしてくださるおかげで、また、そのことをジャーナリストの方が本や報道番組などで伝えてくださるおかげで、戦争を知らない世代の今の私も、戦時中に何が行われていたのかことを少しでも知ることができます。

戦時中の被害や加害の話には辛いものが多いので、聞いているとやはり重い気持ちになりますし、悲しいというだけではなくて、怒りの気持ちも出てきます。番組の最後に裁判での音声が紹介されていた柄沢さんという軍医のように、終戦直後からだとしても、自分の犯した罪の重さに気付いて自殺をするような人は、まだましなのかもしれません。京都帝国大学の吉村寿人氏は教授から破門すると言われて破門されることよりも人体実験に関わることを選んだようでしたが、教授などから731部隊への入隊を勧められて最後まで拒絶をした人や批判をした人というのは、当時の大学の中にいたのでしょうか。

関東軍に捉えられた「囚人」の中には女性や子供もいたということですが、731部隊で人体実験を行っていた人たちの中にも、「性犯罪者」はいたのではないかと思います。例えば、満州や樺太に侵攻してきたソ連兵の中に日本人女性に対する「性犯罪者」が多くいたことは戦争関連の番組の中ではよく伝えられていて、そのような話を聞く度に、その兵だった人たちには死んでほしいという風にも思ってしまうのですが、その点の日本兵の他国の女性に対する「加害」の事実は、日本の中ではあまり伝えられていないように思います。もしも私の身内や近所を歩いている元兵士のお年寄りの中に戦地で「性犯罪者」になっていた人がいたらと考えるとぞっとしますが、現地の女性(男性の場合もあったでしょうか)に対して「性犯罪者」などにならなかった日本の兵士や外国の兵士も多くいたのだろうと思いますし、当時の酷い行いを、戦争中のことだから仕方がない、として済ますのはやめてほしいと思います。

広島と長崎へ原子爆弾投下したアメリカ政府は、被爆した方たちの検査データを得ていたということですが、占領政策中やその後の日本政府の協力の下に行われていたということが、いつも不思議に思えます。日本は原爆の被害者なのに、どうしてアメリカの味方をし、被爆させられた日本人の味方にならなかったのでしょうか。731部隊の幹部たちがデータを渡したことで「戦争犯罪者」とされず、処罰を受けずに解放されたということは、本当に日本のためになったのでしょうか。A級戦犯を合祀した靖国神社のことが問題になる時、韓国政府や中国政府が日本政府の批判をするということもあって内政干渉の問題のように扱われることも多いですが、本当はもっと国内で問題にしなければいけないことなのだろうと思います。

第二次世界大戦に勝った連合国側による東京裁判を否定する考えを持つ安倍首相やその仲間の方たちは、それなら一体誰を先の戦争の責任者だと考えているのでしょうか。日本の国民の間でも、そのことはほとんど話し合われていないのだと思います。BC級戦犯のことも含めて、戦犯についてよく分からないということもありますが、A級戦犯になるべき本当の戦犯は、「協力者」を優遇するアメリカとの「司法取引」のようなものによって、公職追放を解除されるなどして、戦後に見逃されてしまったということもあるのかもしれません。今もまだ在日米軍基地の多い戦後の日本の国内問題として、先の戦争の原因や責任者を調べようとしなければいけないのだと思います。

先日のBS日テレの「深層ニュース」では、「海軍反省会」の音声テープの中で証言されていた「特攻」を認めた異様な空気について、大和ミュージアムの館長の戸高一成さん(高の文字ははしご高です)と作家のなかにし礼さんが話していました。「海軍反省会」のことを、私は以前に見た「NHKスペシャル」の「日本海軍 400時間の証言」という特集で知りました。当時の大日本帝国海軍の幹部たちは、人間を消耗品と考えたり、自動操縦機の代わりと考えたりしていたそうです。「特攻」の発想は、そのような中から出て来た「一億総玉砕」の思想の集約したものでした。軍上層部は、そのような「特攻」を志願によるものにしたかったのだそうです。戸高さんは、「負けた」と言って戦争を終わらせることができなかったところに軍人の弱さがあったと話していました。「特攻」の作戦は、「神風特別攻撃隊」(この場合の「神風」は、本当は「かみかぜ」ではなく「しんぷう」と読むそうです)を創設した大西瀧治郎海軍中将が考えたものとされることがありますが、実際には神風特攻隊が創られる前に、海軍が人間魚雷の「桜花」や人間爆弾の「回天」や特攻艇の「震洋」を計画していたそうです。海軍の幹部は「特攻」をやってはいけないものと知りながら神風特攻隊が創られるとそれを戦意高揚に利用し、多くの日本兵をその雑な作戦の下で殺していたということでした。

当時の日本軍の死に方を考えて生き方を考えていないということについては、先日のテレビ朝日の「報道ステーション」で作家の西村京太郎さんも話していました。生きようとしないという点で戦争は日本人には合っていないという説を聞いて、なるほどなと思いました。「海軍反省会」の証言を本にまとめている大和ミュージアムの戸高さんは、テープは重要で貴重な資料であり、公文書として残すことが大切だけれど、その際に一語一句残すことが大切で、重要そうなところだけを選んで残すようなことをしてはいけないと話していました。その話を聞いていて、本当にそうだと思いましたし、また、獣医学部新設を巡る政府の国家戦略特区ワーキンググループ(WG)のヒアリングに学校法人・加計学園の幹部が同席していたにもかかわらず公表された議事録(議事要旨)にはそのことが外されて書かれていたという出来事とも重なるような気がしました。

戦争中に起きた酷い嫌な出来事を、戦争中のことだから、そのような時代だったからなどとして、仕方がない、という風にはしてほしくないように思います。そのように言ってしまうと、これからいつかの未来に、もしも万が一日本がまた「戦争時代」になった時にも、仕方がない、で片付けられてしまうように思えます。

「良心的兵役拒否」というものが外国にはあると聞いたことがありますが、日本では、今でも、太平洋戦争の頃に兵役を拒否して逃走した人のことを「非国民」とか「国賊」という風に扱っているようなところがあるように思います。でも、兵役を逃れた人を「非国民」とか「国賊」とか呼んで罵るほど戦争へ行くことが嫌で不服であるのなら、戦争を始めて徴兵の法律を制定して「一億総火の玉」などというキャッチコピーを作って召集令状を送ってくるような政府や軍や地域の役所などに文句を言うほうが正しいのではないかという気がします。どうすれば良いのか私には分からないのですが、少なくとも戦争は自然災害とは違う人災なので、先の大戦を人災としてきちんと考えるようになるといいのではないかなと思います。

「戦慄の記録 インパール」と「綾瀬はるか『戦争を聞く』」のことなど

昨日は72年目の終戦の日でした。

全国戦没者追悼式には天皇皇后両陛下が臨席していました。天皇陛下がお言葉の中で「深い反省」を述べられたのは3年連続だということでした。安倍首相がアジアへの加害の責任について触れないのは5年連続だそうです。日本テレビの報道では、式場を後にする際に天皇陛下の動きが止まり、美智子さまに声を掛けられて退出なされたと伝えていたのですが、天皇陛下はしばらく「全国戦没者之霊」を見つめていたように見えましたし、何かをお思いになっていたのかもしれません。

NHKの「NHKスペシャル」では「戦慄の記録 インパール」が放送されていました。今から73年前の1944年の3月に始められた、ミャンマー(ビルマ)の国境地帯の山を超えてインドのイギリス軍の拠点のインパールの陥落を目指したとされる「インパール作戦」は、大日本帝国陸軍の歴史的な敗北と無謀な作戦の代名詞的なものとなっていますが、昨夜の番組は、その戦地で何が起きていたのかということを、メイヒョーという地からインパール作戦やコヒマの戦いの命令を下していた司令官の牟田口廉也中将(支那事変とも呼ばれる日中戦争のきっかけとなった1937年の盧溝橋事件の指導者でもあったそうです)の孫の方が反戦の考えを持っていた父親の代から保管していた遺品や資料、1960年代に残された牟田口中将の音声テープの証言記録、73年前に牟田口中将の近くにいた第15軍の齋藤博圀少尉の当時の日記から探っていくという特集でした。

インパール作戦は、もともとは大本営が立案をしていたそうなのですが、そのことを知った牟田口中将は、「大本営の意向」を実現したいと思うようになり、盧溝橋事件の頃の仲間でもあったビルマ方面軍の河辺正三司令官が牟田口中将にその作戦を実行させてあげたいと思い、報告を受けたその上官の南方軍の寺内寿一総司令官がそれを推し進め、その上官の大本営の杉山元参謀長が作戦の実行を許可したということのようでした。でも、戦後には、大本営は自分たちは命令していないと否定したのだそうです。日本の組織の意思決定の曖昧さ、責任の所在の無さが、73年前のインパール作戦にもありました。

牟田口中将のインパール作戦には、当初は第15軍の小畑信良参謀長が、兵站が足りないという面から作戦の実行に反対したそうなのですが、その消極的な意見に牟田口中将が激怒し、就任してから1か月ほどで左遷されてしまった後、反対していたビルマ方面軍の稲田総参謀副長も更迭され、反対の声を上げる人たちは少しずついなくなっていったということでした。

具体的な作戦内容よりも、組織内の人間関係が優先される中、1944年の1月7日にインパール作戦は認可されたそうです。

齋藤さんの日記によると、牟田口中将たち上層部は「何千人殺せばどこが取れる」という言い方で攻略の作戦を話し合っていたそうなのですが、「殺せば」の相手は敵兵ではなく、各師団の各連隊の日本兵たちのことでした。

後方支援のないインパール作戦での日本兵の死因の多くは餓死や疫病による病死で、無謀な作戦は4か月経ってようやく中止となったそうなのですが、死者の6割はその帰りの道で亡くなったそうです。作戦は明らかに失敗で、牟田口中将も最後のほうではそれを自覚し、秦中将も中止を進言していたそうなのですが、当時の東条英機首相は天皇陛下(昭和天皇)にも、失敗していないという趣旨の嘘の報告をしたのだそうです。

牟田口中将は作戦の途中に師団長を更迭するということもしていたそうなのですが、齋藤さんの日記の、牟田口中将の毎朝の「インパールを落とさせ給え」という祝詞の話にも驚きました。意味不明です。全滅(玉砕)をしてもインパールを取れ、という考え方の論理は破綻しています。具体的な作戦がないまま毎朝祝詞を唱えるとか、皇軍(日本軍)の支えはやはり「宗教」だったのかもしれません。戦地から遠い場所で指示を出している牟田口中将の、戦地の現場にいる部下たちのことを分かろうとしていないような言動にぞっとしました。

インパール作戦中の日本軍は、ミャンマーの方の家から大切な牛や山羊などを連れて行ってしまったそうなのですが、ミャンマーの方たちは日本軍に対してそれほど悪い印象を持っていないのか、病に倒れた日本兵の世話をしていた方もいて、今も日本兵の遺骨や遺品を発掘すると、それを保管してくださっているようでした。イギリス軍に反撃された日本兵の血が流れた丘は「レッドヒル」と呼ばれ、雨季のミャンマーでは遺体の腐敗が早く進み、日本兵の通った道は「白骨街道」と呼ばれたそうです。

日本兵は上官から、肉薄攻撃という今の自爆テロ事件のようなことも命じられていたそうなのですが、自決をする際にも、天皇陛下万歳と叫ぶ人はほとんどいなくて、みんな母親や父親の名前を叫んで死んでいったのだそうです。

インパール作戦を決行した牟田口中将は、作戦の中止後、部下たちを残して、一早く帰国したということでした。齋藤さんは、病気になり、置き去りにされたのだそうです。ミャンマーの山には、兵士の遺体を食べるインドヒョウやハゲタカがいたそうです。兵士だった望月さんの絵には、日本人が日本人の死体から肉を切り取る様子が描かれていました。その肉で物々交換をしたのだそうです。話を聞いていて、大岡昇平の小説『野火』を思い出しました。望月さんは、日本軍はそのような軍隊だった、落ちぶれていた、それがインパール作戦だと話していました。

チンドウィン河の近くには、多数の日本兵の遺体があったそうです。傷病兵には銃や手榴弾が渡され、野戦病院では700人の兵士が自決を余儀なくされたそうです。インパール作戦での戦死者は約3万人、傷病者は約4万人ということでした。

戦後、上層部はインパール作戦の責任とどう向き合ったのかについては、牟田口中将は、作戦は上司の指示だと言い、イギリス軍に責任を問われた大本営は、作戦を立案していないと言い、結局、南方軍やビルマ方面軍や第15師団の作戦の拡大によると、部下の責任にしたようでした。牟田口中将は、敗戦後、世間の人々から批判されていたそうで、イギリス軍のバーカー中佐からの手紙の、日本軍に苦しめられた、との一文を読むと、褒められていると解釈し、神のお告げかという風に喜んでいたのだそうです。

牟田口中将は77歳で亡くなったそうなのですが、日記を書いた齋藤さんは、96歳でご存命でした。車椅子に座っていました。齋藤さんは、連合軍の捕虜となり、生きて帰国することができたそうなのですが、結婚後、家族には戦争のことをほとんど語らなかったそうです。よく見つけたな、あまり思い出したくないな、とスタッフの方に言っていた、当時23歳の齋藤さんの日記には、将校や下士官の死体はなかったということが書かれていました。

齋藤さんは、日本の軍隊の兵隊に対する考え方はそんなものです、だから内実を知っちゃったら辛いです、と話していたのですが、その話し方は本当にとても辛そうでした。元兵士の方たちは、思い出したくもないような酷いものを、たくさん記憶しているのだろうと思います。牟田口中将の勲章や資料などを保管していた孫の方とそのお父様の、牟田口中将の行為に対する冷静な姿勢も(実際には複雑な思いをしているのだろうとは思いますが)、すごいなと思いました。当時の日本軍の資料には捨てられたり燃やされたりしているものも多いそうなので、牟田口中将の資料や、凄惨な実情を記録した齋藤さんの日記はとても貴重なものなのだと思います。


BS日テレの「深層ニュース」(先週の自民党議員の石破茂さんと民進党議員の前原誠司さんの千葉のいすみ鉄道の旅も何だか面白く思えました)では、「戦争を知らない方へ」として、元官房長官の野中広務さんと元自民党幹事長の古賀誠さんが、ご自身の戦争体験や、フィリピンのレイテ島へ慰霊に行った時の神秘的な体験、戦争を知らない政治家による日本国憲法9条改正の問題や、東京裁判でA級戦犯とされた人々が突如合祀された靖国神社参拝の問題について話していました。対談が行われていたのは、陸軍第16師団司令部の庁舎だったという京都の聖母女学院の本館でした。

野中さんは、8月15日ではなく2日後の17日になって「終戦」を知り、仲間たち3人と高知の浜で切腹自殺しようとしたそうなのですが、そんなことをするくらいなら東京へ行って東條英機を斬ってこいと自殺を止められたそうです。野中さんも古賀さんも、(昭和天皇が靖国神社を参拝できなくなった理由ともされている)A級戦犯の合祀をやめて分祀することや国立の追悼施設の建設を提案していて、憲法の特に第9条の改正は戦後処理が終わってからでないといけないと話していました。靖国問題は国内の問題なのだから、まずは国民が考えなくてはいけないという風に話していて、確かにそうだなと思いました。少しでも戦争を知っている政治家が、戦争の怖さや、戦争がどれほどの不幸を残すかという伝えていかなければいけない、他国の人にも日本人にも大きな傷を残したということを政治家は忘れてはいけない、悔しい思いをすることがあったとしても戦争をしないということを政治家が自覚するしかないと訴えていました。

読売新聞の吉田清久編集委員は、戦争をイメージできない人が政治を引っ張っていることに何か嫌なものを感じると話していて、司会の近野宏明キャスターは、戦争は政治家だけの責任ではない、政治家を選ぶ国民にも責任の一端はあるという風に話していました。吉田さんは、戦争はまだ終わっていない、歴史家の手に委ねるのはまだ早いと思うと、番組をまとめていました。

確かに、戦争には国民の責任もあると思います。でも、戦争の初期の頃に国民が積極的に戦争を応援したり、戦争に協力したりしていたのは、そのような国民への教育が常に行われていたからで、戦争に反対する人たちを社会主義者だとか共産主義者だとか言って投獄するような明治時代以降の近代の歴史があったから、ということもあるのではないでしょうか。少なくとも、子供が“軍国少年”になったのは、当時の政治家やメディアや財界人や教育者たちが、国民をそのように誘導・扇動したからなのではないかと思います。盛り上がる方や威勢のいい方や活発な方へ流される人が多いのかもしれないとも思いますが、そうして誘導された人が増えていけば、戦争に反対する少数派は圧倒されてしまいます。戦争反対の意思を貫くことができた方もいたかもしれませんが、戦争賛成派の人々に非国民などと罵られて苦しんだ方や、それを恐れて黙ってしまった方もいたかもしれません。

国民自身が自分たちにも戦争の責任はあったと反省するのは良いことだと思いますが、政治家の側の人たちが、国民にも責任があったと言うのは、卑怯だと思います。戦時中に国内の国民の生活が国に強く抑えつけられていたのは1943年以降だという意見もあるそうなのですが、太平洋戦争は1941年から始まっているので、仮に2年間だとしても十分長いですし、その抑圧は深いものだったのではないかなと思います。

旧約聖書の「モーセの十戒」の後半に書かれていることは、当時から現在まで一貫して人類への普遍的な禁止事項であるように思えますが、どうして守られないのだろうと思う一方で、人類が守ることができないからわざわざ神様による禁止事項として戒律を残そうとしているのかもしれないとも思います。


TBSの「NEWS23」では、恒例の、特別企画の「綾瀬はるか『戦争』を聞く」が放送されていました。イギリスのロンドンで開催されていた「世界陸上」の試合の生中継があったので、もしかしたら今年はこの企画は無いのだろうかとも思っていたのですが、大丈夫でした。ちゃんと有りました。

今回は、今は“うさぎ島”として知られているという、広島県竹原市の大久野島で行われていた日本軍による毒ガス製造の事実を伝える特集でした。

大久野島では1929年から毒ガスの製造が始まり、その頃にはまだ地図に記載されていたのですが、1938年の地図からは消されたのだそうです。地図から消された理由は、毒ガスの製造が国際法では禁止されていたために隠れて造ることになったからだそうです。その頃、海沿いを走る列車の窓は閉められていて、窓の隙間から島を見ようとすると、見張りの憲兵に逮捕されたそうです。

女優の綾瀬はるかさんは、大久野島へ行き、14歳の頃に工場で毒ガスを製造していたという91歳の藤本安馬さんから当時の話を聞いていました。島には資料館があり、当時の道具や資料が展示されていました。藤本さんは、当時は“軍国少年”で、お金をもらって勉強ができるという理由で島へ来たそうです。毒ガスの液体は、触ると火傷をしたように爛れるものだったようで、「死の露」と呼ばれていたそうです。

島で造られていた毒ガスは日中戦争で使用するためのもので、藤本さんは、自分が造っていた毒ガスのルイサイトの化学式を今でも憶えていたのですが、それは自分が中国人を殺した加害者だったという事実を忘れないようにするためだと、綾瀬はるかさんに話していました。毒ガスの方程式を忘れることは、犯罪の根拠を忘れること、無かったことにすることだから、絶対に忘れてはいけないのだと話していたのですが、自分のことを「犯罪者だ」とはっきりと言う藤本さんは、すごいと思いました。

1942年の5月には、中国の河北省の北たん村(たんの文字は田偏に童でした)というところで、その毒ガスが使われたそうです。村の人々が避難した地下道へ毒ガスが投げ込まれ、女性も子供も苦しみながら死んでいったそうです。そこで妹の手を離してしまったという李さんは、家族4人を失ったそうで、日本人を死ぬほど恨むと話していました。藤本さんは、2004年にその村を訪れ、李さんに直接会って、事実を打ち明けて謝罪をしたのだそうです。藤本さんについて、88歳の李さんは、本当のことを話してくれる人は少ない、正直に話してくれて良かった、彼も戦争の犠牲者だと話していました。

女子学生も毒ガスの製造に関わっていたそうなのですが、証言をなさっていた黎子さんによると、毒ガスとも、危険なものだとも教えられず、ドラム缶に触れた後の手で頬に触ってはいけないとだけ言われていたそうです。マスクも普通の綿製のものでした。水泡ができたり、視力が衰えたりした方もいたそうで、多くの人は慢性気管支炎になったそうです。島の近くの病院には、約3000人分のカルテが残されていたのですが、毒ガスで約3700人が亡くなったのだそうです。藤本さんも、たくさんの薬を飲み続けていました。それでも、毒ガスの事実を証言するために生きるのだと話していました。今は、自分の戦争体験と日本の戦争の負の歴史を伝えるため、語り部をなさっているそうです。

島の奥の工場は、廃墟になっていました。庭にはうさぎたちがいました。長浦毒ガス貯蔵庫の黒い焦げは、アメリカ軍の火炎放射器で燃やされた跡でした。その時に多くの資料も燃えたそうです。綾瀬はるかさんは、藤本さんに案内されてその施設を見ていました。藤本さんは、毒ガスを造ったこと、中国人を殺したこと、当時は日本の“英雄”だったことは事実だと話していて、それを聞いた綾瀬はるかさんは、事実をそのまま受け止めているんですね、と藤本さんの絶対に戦争をしてはいけないという強い思いに理解を示していました。

綾瀬はるかさんのこの企画が長く続いているのは、良いことだと思います。星キャスターは、政治指導者が加害の歴史を認めて後世に残していくことが必要だと話していました。「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」ためには、被害の事実だけではなく、加害の事実も戦時下の事実として冷静に受け止めて反省し、当時の出来事を様々な角度から検証して後世に残していくことが大切なのだと思います。


NHKの「時論公論」では、「人道に対する罪」で裁かれたBC級戦犯を看取った教誨師だったという神奈川県の川崎のお寺の住職の関口亮共さんの遺した兵士やその家族との手紙を、国がプロジェクトとして調査し、資料をデジタル化して保存するべきだと提案していました。これも、日本が「加害」の歴史と向き合うということなのかもしれません。加害の歴史を遺すことは、「自虐史観」と呼ばれるようなものではないと思います。日本が先の大戦の中で良いことを行ったのならその良いことを、悪いことを行ったのならその悪いことを、事実として受け止めて冷静に後世に伝えることは、戦争を防ぐためにも、歴史の研究のためにも、重要なことだと思います。


昨日の報道によると、韓国では、慰安婦の少女像を大量に作り、さらに軍艦島の?徴用工の像も作ったということでした。日本では考えられないことのように思いますが、一方で、韓国に近い北朝鮮でも、このような(日本に負けたということを表すような)像は作りそうにないように思いました(あるいは、知られていないだけで、北朝鮮でも似たようなものを作っているのでしょうか)。

アメリカのトランプ大統領は、12日、バージニア州のシャーロッツビルという町で白人至上主義団体と反対派が衝突して、少なくとも1人が死亡したという事件の会見が遅れた上に、白人至上主義を明確に非難しなかったことを激しく批判され、14日に改めて声明を出して、人種差別は悪だと言い、ネオナチや白人至上主義者団体「クー・クラックス・クラン(KKK)」などを名指しで非難したそうです。昨日の報道では、トランプタワーの前でトランプ大統領に反対する人々のデモが行われている様子も伝えられていました。

でも、安倍首相も、昨年に神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で殺傷事件が起きた後、なぜか記者会見を行いませんでした。19人の方が殺されて26人の方が重軽傷を負うという「戦後最悪の大量殺人事件」と言われている社会問題になっている事件であるにも関わらず、事件から一年目となった先月にも、記者会見を行いませんでした。自民党の大島衆議院議長宛ての犯人の手紙が残されていたということは良かったと思いますが、障害者への差別思想を持った人物による「ヘイトクライム(憎悪犯罪)」と呼ばれる種類のものだということは明らかであるのに、政府は「差別」については触れませんでした。障害者差別のことに触れないまま、すぐに「措置入院制度」の話にすり替えました。政府も警察も、この事件を「テロ事件」として扱いませんでした。ニュースで白人至上主義団体の事件とトランプ大統領の話を聞いていて、直接には関係のないことではあるかもしれないのですが、何となく、この昨年の「津久井やまゆり園」での障害者殺傷事件と安倍首相のことを思い出しました。

72年以上前の第二次世界大戦の頃のナチス・ドイツの「優生思想」や「ホロコースト」の歴史以外にも、「差別」は昔からあるそうですし、これからの戦争は20世紀の戦争のようにはならないと言う方もいますが、科学技術は進んでも人間から赤い血が流れるということは変わっていませんし、負の歴史に関して、歴史は繰り返す、ということにならないといいなと思います。

「戦後72年の郵便配達」のことなど

今日は、アメリカ軍の原子爆弾が長崎に投下されてから72年目の日です。日本は唯一の戦争被爆国なので、その点では、広島は世界最初の被爆地であり、今のところは、長崎が世界最後の被爆地です。日本が話し合いに参加していない核兵器禁止条約は国連で採択されましたが、長崎が最後の被爆地という今の状況を世界の各国の政治家が維持していくようにしてほしいと思います。

先日のNHKのBS1で放送されていた「BS1スペシャル」の「戦後72年の郵便配達」を見ました。

太平洋戦争中に戦地と故郷とをつないでいた軍事郵便と呼ばれる手紙の中には、文書や日記などと共に、日本軍の動向を探るための資料や戦利品としてアメリカ軍に押収されたものもあったそうです。番組を見て、日本軍の検閲の判子や押収されたことを示すアメリカ軍の判子の押されている手紙(葉書)がオークションで売買されているということを知り、少し驚きました。

兵庫県の龍谷寺というお寺の住職さんは軍事郵便の収集家で、納屋に積まれた箱の中にはたくさんの古い郵便物が納められていました。供養のために一か所に集めていると話していた住職さんは、手紙に記されている名前の人を探し出して本人や遺族に届けるというようなことはしているのかと訊かれて、そうしたいけれど個人情報の問題もあって自分の能力では難しいという風に答えていました。そのようなことから、番組のスタッフの方たちが住職さんの代わりに、72年前の手紙を届けることにしたようでした。

でも、手紙に名前や住所が記されているといっても、配達は簡単なことではなかったようでした。東京の下町のような人の入れ替わりが多かったり区画整理や再開発の進んだりした町で70年以上前の特定の誰かを探すということは、ほとんど不可能であるようでした。

手紙をスタッフの方たちが直接届けることができたのは、静岡県や長野県で暮らしている遺族の方でした。都会よりも、昔からその場所に住んでいるという方の多い田舎の地域のほうが、72年前の手紙の送り主や宛先に書かれている人の手掛かりを見つけることができるのかもしれません。

硫黄島やペリリュー島などの激戦地となった南の島々から日本の故郷へ送られるはずだった昔の人の手紙の文章が美しいので、そのこともあってより悲しい気持ちになったのかもしれないと思います。日本軍側の検閲もあるので、兵士が戦場の様子などを内地の人に書き送るようなことはそもそもできないのかもしれませんが、相手のことを心配したり元気付けたり、日本の季節を思ったりするような優しい内容の、日本にいる大切な人へ届けられるはずだったその手紙には、戦地で辛い思いや苦しい思いをしていたはずの送り主の命が詰まっているような気がしました。

静岡では、兄を戦争で亡くした妹の方に手紙が届けられました。兄の戦死の知らせはあったものの、遺骨などはなく、紙一枚だけだったそうです。長男の戦死の知らせを受けた母親は、悲しみのあまりに心を病んでしまったのだそうです。遺族の妹の方は、手紙を兄のお墓の前に置いて、手を合わせていました。

長野では、手紙の宛先のときさんが通っていたろう学校や遺族会から、ときさんの長男の進さんにたどり着き、ときさん本人に直接手紙を届けることができました。戦後、結婚して神奈川県の横浜で暮らしていたというときさんは、今は川崎の福祉施設で暮らしているということでした。母は最近はいつも戦死した兄の話ばかりしていると、長男の方は話していたのですが、ディレクターの駒井さんから軍事郵便の葉書を渡されたときさんは、本当に嬉しそうでした。ときさんは、お兄さまにとても感謝していました。兄のおかげでろう学校(当時は聾唖学校という名前だったそうです)へ入ることができ、結婚することができて、自慢の長男にも恵まれたのだと話していました。駒井さんはときさんに、今のときさんのことを知ったらお兄さまも喜ぶと思うと伝えていたのですが、番組を見ていた私も、本当にそうだろうなと思いました。

奥住隊という部隊に所属していたときさんのお兄さまは、昭和19年の9月、ペリリュー島の最前線でアメリカ軍の上陸を食い止めるために戦っていて、退却して3日後に総攻撃に遭い、玉砕したということでした。葉書に日本側の検閲の判子がなかったのは、玉砕してしまったのが手紙を出す前だったからでした。

番組では、アメリカ軍の海兵隊の諜報部隊にいたというシークスさんという方に、アメリカ軍が集めようとしたり取るに足らないものと考えたりしていた日本兵の軍事郵便の内容を伝えていました。アメリカ軍は戦争が始まってから日本の情報を知ることができる人が足りないということに気付き、日本のことを知る研究者や学生を諜報部員として集めたそうです(日本文学者のドナルド・キーンさんも、コロンビア大学で日本文学を研究していて、太平洋戦争時には日本人の捕虜の通訳をしたり日本兵の日記を読んだりしていたそうです)。シークスさんは、ハーバード大学の2年生だった頃、中国文学を学んでいたというような理由で呼ばれたそうなのですが、短時間に日本語(外国語)を覚えるのは大変なことで、ノイローゼになる学生もいたのだそうです。

シークスさんは、ときさんの兄の手紙の文面を通訳を介して聞いて、胸が詰まると話していました。内地は秋の運動の季節でしょうと始まっていた手紙は、兄も負けないぞ、戦に勝たずば生きて帰らぬ覚悟で、と結ばれていました。

届かなかった軍事郵便がたくさんある中で、2通だとしても、番組でご遺族の方に72年前の手紙を届けることができたというのは、本当にすごいことだと思います。手紙を受け取った遺族の方が、本当に嬉しそうだったのが印象的でした。何十年経っても、亡くなった大切な人のことを忘れることはないのだと思いました。単純ですけれど、戦争は本当にあってはいけないものだと思います。


先日の8月6日のお昼頃に放送されていたテレビ朝日の「ザ・スクープスペシャル」の「ビキニ事件63年目の真実」は、アメリカ軍の「キャッスル作戦」という核実験の一つの1954年の3月1日の水素爆弾「ブラボー」の爆破実験によって放射能に汚染され、人体実験のサンプルデータとして扱われた、マーシャル諸島のビキニ環礁(ビキニ島)やロンゲラップ島(ロンゲラップ環礁)の住民たち、日本の遠洋漁船・第五福竜丸の大石又七さんたち乗組員の苦悩を伝える特集でした。

最近は日本政府が公文書を蔑ろにしているという報道をよく聞くので、アメリカでは当時の公文書が無事に残されて慎重に保管されて公開されているということに関しては本当に立派だなと思うのですが、そのアメリカの公文書館に残されている「プロジェクト4.1」という「被曝した人間に関する研究」の文書には、水爆実験に関して、「人間ボランティア」による人体実験が必要だということが書かれているそうです。島民のことを「ネズミよりも人間に近い」と表現していることにもぞっとしました。水爆実験の際、ビキニ島の人々は強制移住させられていたそうなのですが、ロンゲラップ島の86人の人々はそのまま残されていたそうです。静岡の焼津の第五福竜丸の乗組員の方と同じように、虹のような色とりどりの太陽のような強い光を見たり、白い灰を浴びたりしたそうです。島の子供たちは、今は「死の灰」と呼ばれている放射性物質の白い灰を、絵本でしか見たことのない雪だと思って遊んでいたということでした。

被曝した島の人々は、アメリカ人の医師によって治療もされず、検査や観察だけされたのだそうです。「水爆実験によって被曝した人間の完全なデータ」を得るために、被曝した島の人々に抗生物質の投与を行わなかったそうです。第五福竜丸の乗組員を診ていた新谷和夫医師は、アメリカ政府にはデータを渡さないようにしていたと話していたのですが、アメリカは完全なデータを失ったと憤り、最初に亡くなった久保山愛吉さんの病理解剖にはアメリカ人医師が立ち会って、その骨や細胞の組織などをアメリカへ持ち帰ったのだそうです。

ビキニ島の人々は、アメリカ政府による嘘の「安全宣言」で一旦は帰島したものの、ほとんど除染されていない島で病状の悪化する人や死亡する人が続出し、再び全員で島を離れ、今はアメリカ政府が住宅を用意したキリ島という小さな島に移住しているそうなのですが、キリ島は温暖化か何かの影響で水没の危険にさらされていて、島民選挙の結果、アメリカ本土への移住を決めたということでした。環境の変化によって移住を余儀なくされた人々のことを「環境難民」と呼ぶそうです。アメリカの核実験によって内部被曝者となった島の人々は、同時に環境難民でもあるということでした。

2011年に原発事故のあった福島を3年前に訪れたというロンゲラップ島の国会議員の方は、放射性物質の汚染によって故郷を離れなければいけなくなった福島の人々にも思いを馳せていました。広島に投下された原爆の千倍の威力があったという水爆実験の被害と東京電力の原子力発電所の爆発の被害とは異なるとしても、土地が放射能に汚染されたというところは同じです。ビキニ島には2010年にも「安全宣言」が出されたということなのですが、島の土地全体が除染されたわけではないと知っている島民の方たちは、帰還したい思いはあっても、毒があるからと、帰還しなかったそうです。

第五福竜丸の事件後、日本では反核運動が盛んになったため、日本に原子力の平和利用というものを普及させようとしていたアメリカ政府は、日本人の原子力への拒絶感をなくすため、乗組員の病気は珊瑚の飛散の化学反応の影響によるものだと嘘を吐いて、事故の事実を隠蔽し、日本人を騙そうとしていたそうです(昔の大阪万博も原子力発電所の普及に利用されていました)。日本政府も、謝罪をしないアメリカ政府からの僅かな「見舞金(慰謝料)」(賠償金ではない)を受け取り、「最終解決」に合意し、被曝の検査を行わなかったそうです。そして、アメリカとの最終合意を守っている?日本政府は、公式には今でも第五福竜丸事件の元船員の方の病気と被曝との因果関係を認めていないのだそうです。

アメリカ政府がマーシャル諸島の人々を、帰還しなければ支援を打ち切ると脅したという話を聞いて、日本政府と福島の場合にも似ているように思えました。「除染」がなされた村に帰還する人々の住宅支援の期間は延長されたということは報道されていましたが、自主避難者への住宅支援は打ち切られてしまいました。政府には、被災した方々が救われるような支援を早く行ってほしいと思います。

それにしても、核実験を地上で行うことは禁止されているものの、地下で行うことはまだ禁止されていないということなのですが、地下で行われている核実験による放射性物質の汚染は、どのようになっているのでしょうか。山の木にも水にも、そこで暮らす小さな生き物たちにも、川にも海にも影響があるように思うのですが、例えば北朝鮮による核実験の際に、日本政府が「核の脅威」ということを言っても、環境破壊や環境汚染のことを言わないのはなぜなのでしょうか。地下は一体どのようなことになっているのだろうか、本当は大変なことになっているのではないかと、環境被害が少しも報道されないことを少し不思議に思います。


BS日テレの「深層ニュース」では、オバマ前アメリカ大統領が広島を訪問した際に慰霊碑の前で抱きしめていた被爆者の森重昭さんが、広島で12人のアメリカ兵が被爆していたという事実を独自に調査してきたことの思いを伝えていました。調査を始めるきっかけは、「原爆の絵」にアメリカ人が描かれているのを見たことだったそうです。

森さんは、オバマ大統領が公の場で森さんの功績を認めたということに、本当に感激しているようでした。飛行機が撃墜されて日本の捕虜となったカートライト機長は、東京に移送されていたので被爆を免れたそうなのですが、捕虜となった部下たちが広島の収容所の上で爆発した原爆によって亡くなったことに、長く苦しんでいたようでした。カートライト機長は、息子を連れて原爆ドームの前に立った時、これが戦争だ、と叫んだそうです。森さんは、カートライト機長とは、市民と市民も国と国も同じで、話し合いが大切だという意見で一致したそうです。最初の攻撃もいけないけれど、「仕返し」の連鎖が悲劇を生み出すのだということを話していました。

アメリカ政府は戦死者を「英霊」とするために、被爆の事実を遺族にも隠していたそうで、森さんが被爆したアメリカ兵の遺族の方たちに連絡を取ると、家族の最期を知ることができて良かったと喜んでいたそうです。「戦後72年の郵便配達」の中で「軍事郵便」を受け取っていた方もそうでしたが、戦死の事実がよく分からないまま60年も70年も過ごしてきた家族にとって、遺品が戻ってきたり、その死の真相が判明したりするということは、本当に嬉しいことなのだろうと思いました。

戦争関連の番組は、最近はまた減ってきているのかもしれないと思いますが、70年ほど前には日本も戦争を行っていたということを忘れないようにするためにも、必要なものだと思います。安倍政権が日本を再び“戦争のできる国”に変えようとしているのではないかという不安もまだ払拭されていませんが、72年以上前の頃の世の中を生きていない私には、知らないことがまだたくさんあるので、今や未来のことを考えるためにも、過去の歴史を少しでも知ることができるといいなと思います。


ところで、昨日の報道番組で、「第3次安倍第3次改造内閣」で沖縄・北方担当大臣に任命された自民党の二階派の江崎鉄磨衆議院議員が、午前の閣議後の記者会見で、沖縄の米軍基地から飛んだオスプレイが沖縄の名護市の海やオーストラリア沖に墜落したことについて、「日米地協定をもう少し見直さないと」と述べている映像を見て、驚きました。日米地位協定は直すところは直すという交渉にするべきだ、時間がかかってでも沖縄県民の気持ちを政府がしっかり受け止めながらアメリカには言うべきことは言いながら見直すべきという考えを持っている、ということを話していたようなのですが、安倍政権の閣僚議員で日米地位協定の見直しに言及する政治家がいるとは思いませんでした。

江崎大臣は、昨日就任後初めて沖縄を訪問し、翁長知事と会談をしたそうです。しばらくは文章を「朗読」していたのですが、その後の、沖縄のファンです、のところは自分の言葉で話したのか、紙を見ていませんでした。日米地位協定を見直さないと、と述べたことについて、地位協定のあるべき姿を追求していくべきではないかとの気持ちを申し上げた、と記者たちに話したそうです。日米地位協定の見直し発言については、安倍政権の方針に沿ったものだとメモを読んでいたのですが、安倍政権は地位協定の見直しを掲げてはいないので、メディアでは「異例の発言」と言われています。

また、終戦記念日の前後に靖国神社を参拝するかどうか記者に尋ねられて、「十数年来、靖国は出かけておりません。理由はできうれば分祀かな」と、靖国神社に合祀されたA級戦犯を分祀することが望ましいという意見を述べていたことにも驚きました。これもまた、安倍政権の中でこのような発言をする議員がいるのかと、意外に思いました。でも、正直そうで、面白く思いました。

沖縄・北方担当大臣に決まった時、安倍首相からの大臣の要請を「重荷」だと断ったのを二階俊博幹事長に叱責されたので入閣したというようなことを話していましたが、総務大臣になった野田聖子議員や外務大臣になった河野太郎議員よりも、今の官邸から遠い意見を持っている議員なのかもしれないというか、安倍首相と意見が異なるから安倍内閣に入りたくなかったなのかなとか、安倍内閣に入りたくなかったから「異例の発言」を行っているのかなとも思いました。私はこれまで江崎議員のことを知らなかったのですが、ゆっくりとした口調で穏やかに話す方という印象です。良い人物だといいなと思います。

その一方で、報道によると、学校法人・森友学園の問題で安倍首相寄りの発言を貫いて国税庁長官に“栄転”した佐川宣寿前財務省理財局長は、「諸般の事情により」就任の記者会見を開かないそうです。これも「異例」のことだそうなのですが、佐川国税庁長官は森友問題について訊かれることから逃げているようです。

小池百合子都知事が創設した「都民ファーストの会」から派生した国政政党の「日本ファーストの会」が設立されたという報道もありますが、どうして「国民ファースト」ではないのかということよりも、アメリカのトランプ大統領のような「ファースト」を使う流れはやめたほうがいいように思いました。それに、「日本ファーストの会」の「日本」が、「日本のこころを大切にする党」?(安倍首相を応援している政党です)の「日本」のようで、少し不気味に思えました。

あと、報道によると、昨日の8日の夜、中国の四川省のアバ・チベット族チャン族自治州の九寨溝でマグニチュード7の地震が発生したそうです。地元メディアの発表では、13人の方が亡くなり、175人の方が負傷したのだそうです。今回の震源地は、2008年に起きた四川大地震の時の断層と重なる場所にあるのだそうです。世界遺産になっている九寨溝を、私はテレビの映像でしか見たことがないのですが、山梨県の西沢渓谷の七ツ釜五段の滝の規模の大きなものというか、山からの石灰岩の成分が積もったところに流れる水は透明で、とても青くて、昔にこの九寨溝のことを知った時には感動しました。紅葉もきれいなのだそうです。石灰の成分が溶けているので飲料水にはならないそうなのですが、生き物がいなくて、落ち葉や枯れ枝も腐敗していない青い水の風景を見ていて、チベットのほうにはこのような美しい場所があるのだなと思いました。九寨溝の近くにある黄龍という石灰棚の池も、青くてきれいでした。地震の状況がよく分からないのですが、災害が拡大しないといいなと思います。

戦後4年の広島に家を建てたフロイド・シュモーさんのこと

テレビ朝日の木曜ドラマ「黒革の手帖」の第3話の放送前の時間の、フジテレビの「奇跡体験!アンビリバボー」(TBSの「プレバト!!」の後、久しぶりにこの番組を見ました)では、アメリカのカンザス州の農場に生まれた森林学者のフロイド・シュモーさんという方の特集が放送されていました。

シュモーさんは、戦争を嫌う母親から命の大切さを教えられて育ち、19歳の時に始まった第一次世界大戦の時には武器を扱わない後方支援の部署での任務に就きながら、武器を持っていても持っていなくても死の恐怖と隣り合わせにさせられる戦争を憎むようになっていったそうです。結婚してワシントン大学で講師をしていた時、第二次世界大戦が勃発し、日本が真珠湾を攻撃して太平洋戦争が始まると、大学内でも日系の職員や学生が連行され、アメリカ西海岸からの退去命令が出されるようになったそうなのですが、シュモーさんは一般の日系人の強制収容に抗議し、大学を退職して日系人の支援団体に就職して、日系人を助ける活動を行っていたそうです。そうして、3年ほど経った1945年の8月6日、アメリカ軍が広島の町に原爆を投下したというニュースを知って、どのような理由があっても10万人もの市民が犠牲になっていいはずがないと愕然としたシュモーさんは、被害に遭った広島の日本人のために家を建てるということを決断し、募金活動を始め、アメリカ政府やアメリカ軍や広島市長に思いを伝える手紙を書き、少しずつ賛同を得るようになっていった4年後の1949年の8月、アメリカ軍の許可を得て、牧師のエメリー・アンドリウスさんと大学講師のデイジー・デイブスさんと小学校教諭のルース・ジェンキンズさんと共に、広島の地に降り立ち、賛同した広島の学生さんたちなどと一緒に、広島市が提供した土地に家を建て始めたそうです。森の中で育ったシュモーさんは、大工仕事が得意だったということでした。

原爆で家族を失った地元の人たちから、アメリカ人は出ていてと言われることもあったそうなのですが、そのうちに地元の人たちも真面目なシュモーさんに協力するようになり、日本に来てから2か月後に2棟の家を完成させたそうです。「みなみ町平和住宅」と名付けられたその家の入所者は、公平にくじ引きで決められたのだそうです。シュモーさんは、その後も来日し、1945年の8月9日に原爆を投下された長崎にも、人種や国籍を超えて平和を願う象徴としての家を建て続けたそうです。シュモーさんは、朝鮮戦争後の韓国にも家を建てたそうです。そしてアメリカの原爆実験を批判し、アフリカでは難民の救援活動を行ったそうで、日本政府は1982年に勲章を授与し、翌年には広島の名誉市民の称号を贈り、平和活動家に贈られるという谷本清平和賞を贈ったそうです。シュモーさんは、賞金を全て平和活動に使い、2001年の4月20日に105歳で亡くなったそうです。先日にお亡くなりになった、命の大切さや平和の尊さを伝え続けていた医師の日野原重明さんも105歳だったので、シュモーさんが105歳まで生きたと知って、そのことを思い出しました。

21軒あったというシュモーさん作の木造の家は、老朽化のためにほとんど取り壊されてしまったそうなのですが、広島に1軒だけ、当時の外壁が一部保存された状態で残っていて、今は「シュモーハウス」と名付けられた記念館(資料館?)のようになっているようでした。シュモーさんは、みんなで建てた家だからと自身の名前を付けることを拒否していたそうなのですが、シュモーさんの功績を忘れずに伝えるためにその1軒を「シュモーハウス」と名付けたのだそうです。そして、今年の春にリニューアルされたという広島平和記念資料館には、それを機に新しくシュモーさんの功績が展示されるようになったのだそうです。『シュモーおじさん』という絵本も出版されたそうです。

私は、このフロイド・シュモーさんという方のことを全く知らなかったので、このような方がいたのかと驚きましたし、すごいなと思いました。アメリカのシアトルの平和公園にあるという広島の被爆者の佐々木禎子さんの像も、シュモーさんの働きかけで置かれたものなのだそうです。

平和運動を続けていたシュモーさんは、アメリカ人でありながらアメリカ軍の原爆投下を非難していたということなので、アメリカ人のいわゆる「右翼」の方たちからは「左翼」と思われていたかもしれないですし(今の日本でも、反戦の平和運動を行う方は、なぜか「右翼」の側の方たちから「左翼」として敵視されるようです)、そうだとすると、募金活動などになかなか賛同を得られないというだけではなく、シュモーさん自身の命が脅かされるような危険な目にも遭ったのではないかなと思いました。

戦争とは、国家間の武力を行使する争いのことです。交渉に失敗した政府や、外国の財産(人や土地や資源など)を奪おうとする政府が引き起こすものです。軍人だけではなく現地の一般市民も巻き込んで殺傷する戦争を悪いものだと思うということは、普通のことであるように私には思えます。誰かを傷つけたり殺したりするのは嫌ですし、誰かに傷つけられたり殺されたりするのも嫌です。私がその殺傷の当事者になるのも嫌ですし、周囲の人や見知らぬ誰かがその当事者になるのも嫌です。でも、私は嫌だなと思っているだけで、具体的なことは何もすることができていません。シュモーさんは、自国の軍隊が台無しにした他国の地に平和のためにその象徴としての家を建てるという具体的な活動を行いました。森林学者だという自然を愛するシュモーさんの戦争の被害を受けた地に家を建てるという活動は、何というか、芸術家の方の活動のようにも思えました。平和を愛する情熱が深いのだと思いました。

私は昨夜の特集で初めてシュモーさんのことを知ったのですが、少しでも知ることができて良かったです。もっと有名になっても良い方なのではないかと思います。

シュモーさんは、クエーカー教徒だということでした。私はその宗派を聞いたことがないようにも思えたのですが、17世紀のイングランドで作られたキリスト教の宗教団体の一つのキリスト友会(フレンド派)のことを、クエーカーと呼ぶそうです。詳しいことは私にはよく分からないのですが、クエーカーは、非暴力のキリスト教平和主義を重んじる平和教会(歴史的平和教会)の一つで、誠実で平等で質素であることを大切にしているそうです。日本の戦後のキリスト教会は、クエーカーでなくても、カトリックでもプロテスタントでも、平和主義だということなので、そうだとすると、私の持つ一般的なキリスト教会の平和のイメージは、日本のキリスト教の独自のものであるのかもしれませんし、クエーカーはそれに当てはまるものであるのかもしれないなと思いました。

キリスト教の『聖書』(旧約聖書はユダヤ教徒の方も信仰しています)には「殺してはいけない」と書かれているのにどうしてキリスト教の信者は殺すのだろうか、という世界史の授業の時に思うような素朴な疑問は、同じように日本史の授業で習う武闘派の僧侶や仏教徒の武士の場合にも多少疑問に思うことではありますが、そうではない、平和主義を貫いているキリスト教会もあるという事実によって、少し解決するような気がしました。

今上天皇陛下の皇太子時代の家庭教師を務めていらしたヴァイニング夫人、エリザベス・ヴァイニングさんも、クエーカー教徒なのだそうです。私は先ほどそのことを知ったのですが、なるほどなと思いました。『武士道』を著した新渡戸稲造も、最初は思想家の内村鑑三と同じくキリスト教のプロテスタント教派のメソジスト教徒だったそうなのですが、後にクエーカーの信徒となったそうです。クエーカーの考え方は、もしかしたら、日本に合っているのかもしれません。


ところで、昨日には、「第3次安倍晋三第3次改造内閣」の閣僚となった議員たちの名前が発表されていました。

「河野談話」を出した河野洋平さんの息子の自民党の河野太郎衆議院議員が外務大臣になったり、安倍首相と同期の野田聖子衆議院議員が総務大臣になったりしたことを「サプライズ人事」だと言っているコメンテーターの方もいましたが、そのお二人は安倍首相の政策を批判しているというほどでもないですし、一市民の私には特に「サプライズ」とは思えませんでした(そもそも閣僚人事に「サプライズ」など必要ないような気もしますが)。菅義偉官房長官や麻生太郎財務大臣などそのまま留任の方もいます。幹事長も二階俊博衆議院議員のままです。内閣人事局長に任命された、萩生田光一官房副長官に代わった杉田和博官房副長官は、元警察官僚だそうです。自民党への支持率の低下を止めるために行った閣僚人事だとしても、支持率低下の原因と責任がもしも安倍首相自身にあるというのなら、首相を交代しないと意味がないような気もします。

前回の内閣の人たちと比べて分かりやすく変わっているところは、東京大学の出身者や、アメリカのハーバード大学の出身者の、いわゆる「高学歴」の方が増えている点でしょうか。昔の内閣には東大出身者が多かったように思いますが、これまでの安倍内閣にはなぜか東大出身者は少なかったように思います(選ぶ人に学歴コンプレックスでもあるのかなと、何となく思えていました)。

この改造内閣のテーマは「人心一新」だそうです。人心一新とは、人の心を全く新しくするという意味の四字熟語です。でも、人(この場合は自民党の議員さんたち)の心をすっかり新しくすることなどできるのでしょうか。経済再生担当大臣に任命された自民党政務調査会長の茂木敏充衆議院議員の、新しく作られた謎の「人づくり革命担当大臣」というポストの名称も何だか不気味ですし、「女性活躍」とか「女性が輝く社会」とか、「一億総活躍」とか、安倍内閣の使う名称は奇妙です。

安倍首相は会見の中でこの改造内閣を「結果本位の“仕事人内閣”」と呼んでいましたが、これまでの安倍内閣は仕事をしていなかったということを認めたのでしょうか。それとも、時代劇の「必殺仕事人」のように、誰かを殺す(抹殺する)という意味でしょうか。内閣にテーマ名を付けるのは市民や政治評論家のすることで、首相自身が記者会見で主張するようなことではないのではないかと思います。学校法人・森友学園や加計学園の関係者は極力外したということですが、その問題の解決を、自民党はなぜか引き延ばしています。「『日報』問題」を逃げ切ったかのような稲田朋美前防衛大臣を国会へ呼ぶことも自民党は拒否しています。あるいは、安倍首相の言う「人心一新」は、過去の問題をすっかり忘れるということなのでしょうか。

良い内閣に変わるのか、今までの安倍内閣とあまり変わらないのか、まだほとんど始動していないので分かりませんが、2012年の自民党の憲法改正草案の内容を否定しない、あるいは良いと思っている自民党の議員さんたちの考え方を、すぐに支持することは私には少し難しいような気がします。

あと、昨日の報道によると、夕方の5時頃、東京の築地の場外市場で火災があったそうです。発生から8時間後の午前1時頃にようやくほぼ消火された状態となり、発生から15時間後の午前8時頃に鎮火したのだそうです。その火事で怪我をした方はいなかったということなのですが、小池百合子都知事の築地市場の豊洲市場移転の問題も続いている中、大変なことだなと思いました。ちゃんと補償などがなされて、築地の場外市場が直るといいなと思います。
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