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馬毛島、75年前の青函連絡船、関東大震災から97年のことなど

先月の8月30日の早朝のテレビ朝日の「テレメンタリー2020」の「島の宝の島 軍事基地は誰のため」を見ました。

鹿児島県の種子島の西にある、地元の方たちにとっては豊かな漁場である馬毛島が、日米両政府の意向によってその大部分を国有地化され、地元の西之表市の賛否が分かれている中、政府からの説明もなく、政府と住民の間で十分な議論が行われることもなく、軍事基地に変えられていく、ということを伝える特集でした。

山口県岩国基地の自衛隊とアメリカ軍がFCLP(陸上空母離着陸訓練)を行うための滑走路を、75年前の激戦地だった硫黄島から、燃料の節約と南西諸島の防衛力強化のために?、40年前に無人島となった馬毛島へ移転させるという計画は、2011年に決まったそうなのですが、そもそも2007年から、馬毛島では勝手に(鹿児島県も西之表市も内容を把握できない)謎の土地整備工事が始められていたのだそうです。

軍事基地建設に反対している方は、軍事訓練のことだけではなく、アメリカ兵は本当に馬毛島にだけいるのだろうか、西之表市にも来るのではないだろうかということも心配していました。賛成派の方(商工会や建設会社の方ということでした)は、自衛隊の駐留による経済効果や「米軍再編交付金」で“地元の経済が潤う”ことを期待しているようでした。

西之表市の八板市長は、軍事基地反対を主張して当選したそうです。馬毛島のマゲシカや草原や海の、自然と文化の重要性を話していました。FCLPに利用するより、子供たちの自然教育に利用したほうがメリットがあると考えていました。

しかし、鹿児島の種子島付近から、隣国の台湾まで続く海上に見える、沖縄本島を含む南西諸島、奄美大島や宮古島や石垣島には、既に米軍施設、自衛隊施設が作られていました。地図を見た印象では、ほとんど全部の島に置かれているように見えました。

19歳の時に種子島から馬毛島に移り住み、サトウキビを栽培していたという山下六男さんは、生活苦から仲間たちが次々と島を離れていく中、40歳の時に土地を開発業者に売ったということなのですが、賛成とか反対とかではないが、自衛隊が来て駄目になったということでは困ると話していました。

馬毛島には、旧日本軍の監視塔が残されていました。国(防衛省)は、2019年、タストンエアポートという東京の土地開発会社から、国が計算した不動産価格の45億円よりも高い160億円で馬毛島の土地を買収したそうなのですが、買収の経緯などは今も国民に隠され続けているそうです。全ての土地を買収したのではなく、港近くの4万坪の土地はまだタストン社が所有しているということでした(社長の立石氏は、5000億円から1兆円の工事に参画したいからと話していました)。

西之表市独自の不動産鑑定は、防衛省から拒否されているのだそうです。元住民の森さんは、滑走路建設が計画されている島の中央辺りにあるという父親の開拓した2千坪の土地をまだ手放していないということでした。防衛省からの売却話を断っているそうです。森さんは、父親が開拓した大切な土地、父親は宝物として扱っていた、この島をどう良くしていけるのか考えていきたいと話していました。

沖縄国際大学の前泊博盛教授は、「基地を受け入れるのは簡単だが廃止するのは不可能。その覚悟を決めて受け入れを決めなくてはいけない。宮古島の自衛隊基地工事も始まっているが、最初はキャンプ程度と言われていたが実際は3倍くらいの広さだった。貯蔵庫は弾薬庫だった。しかもミサイル基地だった。沖縄では自衛隊基地が作られる時、全て嘘で固められて説明が行われ、完成したら別物が出来上がる。自衛隊と米軍の共同使用施設化することで、米軍も自由に使える環境を作られてしまう。一度作られてしまうと「既成事実」に弱いのが日本人という話で、それはアメリカ側からも言われているが、日本人自身も納得する形で作られてしまうのが今の自衛隊基地建設の問題だと思っています。」と話していました。

普天間基地の県外移設の話が出た時には、馬毛島もその候補地の一つになっていたそうです。

今年の2020年の8月6日、西之表市は、馬毛島で子供たちの自然体験学習を行ったそうです。参加した子供たちは、きれいでまだ人が住めるなと思いました、もっとたくさんの人に知られるといいなと思います、と話していました。翌日の8月7日、防衛副大臣が種子島の西之表市を訪れたそうです。防衛省は地元を軽視していると、八板市長は防衛省のやり方を批判していました。

「無人島」だから都合が良いと、「宝の島」がまた姿を変えられようとしている、という語りがありました。

沖縄の前泊教授は、「種子島にも米軍用の施設ができたり、米兵たちが休養で訪れることになって犯罪が起こる可能性が高まる。そういうのが段階的に増えると思う。それに対してどう対処するかという地位協定の問題をまた味わうことになる。そのためにも事前にしっかりした協定を結んでおく必要なあると思う。」と心配していました。元馬毛島の住民の山下さんは、この島で漁をしていこうとしている若い人たちがかわいそうと話していました。

番組を見ながら、先月の日本テレビの「NNNドキュメント'20」の「シリーズ戦後75年 民意再編 戦後75年 岩国の選択」を思い出す部分もありました。

例えば新型コロナウイルス感染症や、モーリシャス島の沖に座礁した日本の三井商船と長鋪汽船の貨物船からの重油流出事故、北京政府から弾圧を受ける香港の自由と民主主義、アメリカの黒人差別への抗議デモ、ロシアやベラルーシでの大統領の退陣を求めるデモなどの報道の中、馬毛島の軍事基地化の話は、最近テレビの報道番組から消えているようにも思えていました。

私は昨日に知ったのですが、石垣島の陸上自衛隊の配備計画の賛否を問う石垣市住民投票の実施を求めた裁判で、那覇地裁は、訴訟要件を満たしていないなどとして、原告側の訴えを却下したのだそうです。私は以前、NHKの「あさイチ」(前の「あさイチ」)で石垣島の自衛隊基地建設問題が取り上げられていたのを見たことがあります。例によって、というか、石垣島の住民の方たちの賛否は分かれているようでした。

軍事施設の建設に反対している人たちに対し、「反日」という言葉を使って非難する方々がいるのを時々テレビや雑誌の見出しやインターネット上の文字などで見かけることがあるのですが、軍備拡大に反対するのを「反・日本」?だと思っている方々は、「日本=軍事」だと思っているということなのでしょうか。それとも、仮に、自分の家のすぐ近くに建設される予定になっている何かが、軍事基地ではなく、遊園地や火葬場、公園、駐車場、新興宗教団体施設、ごみ処理施設、核の最終処分場だったとしても、それが「国家の推進する事業」であったなら、それに反対する人たちを全て「反・日本」とするつもりなのでしょうか。住民投票の実施を裁判所が却下したのは、住民投票を行えば反対票のほうが多くなるはずと裁判所が考えたからなのかなとも思います。


先週の水曜日の深夜だったと思うのですが、NHKのBSプレミアムで放送されていた「北海道戦後75年特集 海底に眠る青函連絡船」は、75年前の太平洋戦争末期の1945年7月14日から15日、国策として北海道の炭坑から掘り出した石炭を本州へ運ぶ予定だった青函連絡船の12隻が、アメリカ軍の空襲を受けて沈没したという、戦争の悲劇を伝える特集でした。

今年、沈没した青函連絡船の一隻の第四青函丸が、函館沖の海底で発見されたのだそうです。

郷土史家の89歳の浅利政俊さんは、遺族や目撃者から話を聞くなど、青函連絡船の空襲の被害の実態を調査してきたそうです。番組では、浅利さんがまとめた記録の「図」の一部が紹介されていたのですが、それによると、死亡者は1248人、死亡者が出た船は49隻以上、名前の分からない人は82人、船員(軍属)と乗客の合計523人が死亡したということでした。空襲により、連絡船と港湾施設が破壊されたそうです。

第四青函丸では、78人中54人の方が亡くなったそうです。第四青函丸について、浅利さんは、瞬く間に攻撃されて沈んだ、本当に悲劇を持った青函連絡船であったわけですと話していました。

神奈川県の浦賀の造船所(浦賀ドッグ)で19歳の時に船の建造に携わったという96歳の佐川光郎さんは、魂を込めて造った船だと懐かしそうに話していました。船は、秘密裏に造られたそうです。カメラを持っていると特高警察や憲兵に連れて行かれる、大変だったということも話していました。

東京の元航海士の方たちによる青函連絡船研究グループが、第四青函丸の設計図を持っていたそうで、それによると、全長118mの大型船で、6つのボイラーが搭載されていたそうです。石炭を乗せた貨車ごと運び入れるための線路もついているということでした。外側は、灰色の迷彩だったそうです。第四青函丸は、函館から青森を当時最速の4時間半で移動するため、当時は最高傑作と称されていたそうです。

第四青函丸の船長として、35歳で亡くなった沼田亨さんは、娘の82歳の吉村征子さんによると、優しい父親だったそうです。当時7歳だった征子さんは、空襲の前日、家を出る父親の姿を今でも憶えているそうです。いつも朗らかだったのに何か暗い感じだった、何か予感でもしていたのでしょうか、家を出た後引き返し、航海を終えたら靴を買うと約束していたくじ引きの引換券を玄関に置いていった、まさか帰って来ないなんて思わなかったと話していました。征子さんのお父さまは、船長として船と共に、ということを、いつもお母さまに話していたのだそうです。覚悟をしていたと思う、と征子さんは話していました。

しかし、「昭和二十年 青函連絡船 戦災記録」によると、軍や国鉄の幹部は、米軍による空襲が近いという情報を事前につかんでいたということでした。運行責任者の証言によると、空襲の3日前、安全なところへ避難させたいと海軍に提案したが、石炭の輸送を急ぎたい海軍に否定されてしまったそうです。「青函連絡船は一日たりとも戦争遂行上休むことはできない。そのような考え方は敗戦思想に結びつくもので許し難い」と言われたそうです。

その頃、アメリカ第三艦隊は太平洋を北上し、日本軍の青函航路、港湾施設や輸送船を破壊する任務に就いていたそうです。そうして、1945年7月14日の朝5時10分、青森港を目指して函館港を出た青函連絡船は、30分後、米軍戦闘機の攻撃を受けたということでした。空襲警報と同時に、機銃掃射に遭ったそうです。船に乗っている人もそうなのですが、破壊されていく立派な船もまたかわいそうに思えました。

その空襲を目撃した柴田博司さんは、戦闘機がどんどん突っ込んで行って太い水柱が上がった、気持ち悪いのが機銃掃射だったと証言していました。45分後、第四青函丸は沈没したそうです。沼田船長を含む54人が亡くなりました。翌15日には、8隻が沈没し、4隻が航行不能となり、青函連絡船は全滅したのでした。その2日後の「最高戦争指導会議」の記録にも書かれているそうです。1か月後、日本軍は連合国軍に無条件降伏をしました。

漁場調査の船が函館沖5kmの青い海底で発見した巨大な人工物の映像を見た研究者の方たちは、第四青函丸に間違いないとしていました。ブリッジが痕跡もないことから、その時の船の中の指揮系統はズタズタになっていただろうと話していました。破壊されていた船首から浸水したのではないかと推察されていました。

沼田船長の娘の征子さんは、一瞬のうちに命を落としたのかもしれない、苦しまなかったのかもしれないと、お父さまのことを思って涙を流していました。それから、船で函館沖へ向かった征子さんと妹さんが、海上に花を手向けていました。

75年前の戦争で沈没した青函連絡船は、今も海底に眠っているそうです。

でも、その船が発見されたことについては、良かったと思いました。遺族の方が話していたように、魂だけは漂っているのかもしれません。


あと、昨日は、1923年(大正12年)9月1日のお昼に発生した関東大地震に始まる、関東大震災から97年の「防災の日」でした。報道の多くが現与党・自民党の総裁選の話題を伝えていて(現首相が今月の何日かに辞任した後の次の総理大臣が決まるものでもあるので、それも重要なことだとは思います)、関東大震災の報道だけではなく、防災関連の報道自体が少なかったような印象もあるのですが、私は、TBSのニュースで少しだけ、東京の墨田区の横網町公園で関東大震災と戦災の犠牲者を追悼する「秋季慰霊大法要」が新型コロナウイルス感染拡大の影響により規模を縮小して開かれた様子が報じられているのを見ました。関東大震災朝鮮人虐殺追悼式も開かれたそうです。小池百合子東京都知事は出席せず、また、虐殺された朝鮮人(朝鮮人の他、中国人や日本人も、軍や警察や自警団に虐殺されたそうです)への追悼文は今年も送らなかったそうです。しかし、その報道によると、1か月前に東京都は関東大震災朝鮮人虐殺追悼式への右翼系団体による妨害行為をヘイトスピーチと認定し、小池都知事による「誓約書提出要求」なるものも撤回したそうで、そのため、その団体による集会自体は行われたものの、大きな妨害行為はなく、静かに被害者の追悼式を行うことができたということでした。

「防災の日」の前後になると私も防災の準備のことを考えるのですが(本当はいつも考えておいたほうが良いのだと思いますが)、近所の避難施設の場所を何となく憶えているくらいで、いつも中途半端のままです。とりあえず、自然災害が起きた時には、慌て過ぎず、変な噂を鵜呑みにしたりせず、できる限り平常心で対応できるといいなと思います。

「民意再編 戦後75年 岩国の選択」のこと

日本テレビの「NNNドキュメント'20」の「シリーズ戦後75年 民意再編 戦後75年 岩国の選択」を見ました。

山口県岩国市の在日アメリカ軍基地に戦闘機を厚木基地から移動させて増やすという再編計画は、2005年、麻生太郎内閣(麻生首相、町村信孝官房長官、石破茂防衛大臣)の頃に始まったそうです。当時の岩国市民たちの大多数が戦闘機の増設に反対し、翌年の住民投票でも反対の民意が示されたにもかかわらず、しかし、日本政府とアメリカ政府(当時のアメリカ大統領はジョージ・ブッシュ氏)は民意を無視して勝手に米軍岩国基地の再編計画に合意し、日本政府は岩国市民の反対の民意を崩すため、市役所の新庁舎建設の補助金35億円を凍結し、さらに防衛省は米軍基地の再編に協力する自治体にお金を出す「再編交付金」を創設して、その対象から岩国市を外したということでした。

その後の岩国市長選挙では、岩国基地の再編(軍備拡大)に反対する当時の現職の井原市長への対抗馬として自民党が擁立した福田氏が僅差で勝利し、麻生政権の石破防衛大臣や町村官房長官が福田氏の当選を祝っていました。自民党推薦議員の岩国市長選当選を受けて、防衛省は新庁舎建設補助金の凍結を解除し、200億円の「再編交付金」の交付対象自治体に岩国市を追加したそうです。

「基地マネー」が岩国市に入り、小学生・中学生の給食費や医療費が無料になるなどしたそうです。自民党の安倍晋三内閣の2018年に空母艦載機の移転が完了したそうなのですが、その約12年の間に、岩国市の民意は負担と恩恵の両方を受け入れようというものに変っていったということでした。

一貫して反対してきたという市議の田村さんは、きちんとした民主主義の国のやることではないと思う、際限なく町の軍事化が進む、戦争の道具が定着してしまう、大きな負の遺産ができたと思う、と話していました。

岩国市に暮らす74歳の戸村さんが米軍岩国基地の写真を撮り続け、それを公開し続けているのは、米軍基地について自分で考えることのできる材料を提供するためだそうです。戸村さんが撮影した岩国基地の戦闘機の写真の中には、空中給油機のプロペラの一つが止まっているものや、戦闘機に給油管が突き刺さって着陸したものなどもありました。75年前、何故広島に原子爆弾が投下されたか、それは「軍都ヒロシマ」だったからだと考える広島出身の戸村さんは、民が軍を指導する形にならなくてはいけない、日本でも同じように民主主義とはそういうこと、市民に仕える軍隊であってほしい、市民より軍隊のほうが偉いというのは法律にない、だけど実際にはそうなってしまう、それが暴走してしまうことを何回も何回も繰り返して戦前の日本は軍隊が上になってしまった、それで広島みたいになっておしまい、そういう結末はもう見えている、と話していました。

2016年、岩国基地に入ったバラク・オバマ前大統領は、岩国は両国の信頼・協力・友好の好例だ、と演説をしていました。戸村さんは、75年前の「軍都ヒロシマ」が、今は「軍都イワクニ」になっていることを危惧していました。「昔は広島、今は岩国。一番狙われやすい場所に私らは住んでいる。それは肝に銘じておかなくてはいけない。内緒にされて騙されれるのではなく、よく知っておいて危ない方向になったらみんなで何とかする、何とかしたい、そっちに賭けたい。」と戸村さんは話していました。

岩国市では、岩国基地の再編計画が浮上する前の1997年頃から、基地を拡張する滑走路沖合移設工事(新滑走路建設のための海の埋め立て工事)が行われていたそうなのですが、その結果、戦闘機の騒音が減るどころか、新たな米軍部隊の呼び水になってしまったそうです。海の埋め立て工事には、地元で鎮守の森と呼ばれていた愛宕山から削り出した土が使われたそうなのですが、その山頂にあった愛宕神社を別の場所に移転してまで、日本政府は岩国基地の拡張工事を優先したのだそうです。

その愛宕山を削り取った跡地には、大規模な新興住宅地を作る予定だったそうなのですが、需要の現象からその計画が頓挫すると、政府は米軍住宅への転用を決めたそうです。なぜ鎮守の森に米軍住宅地を作るのかと、「怒」を掲げる住民の反対運動が起きたそうなのですが、結局また民意は無視され、米軍住宅地は完成したということでした。負の遺産にするのは申し訳ないと、土地を売ったことを後悔し、米軍住宅地建設に反対していたという元地権者の廣兼さんは、米軍住宅地が完成した1か月後に79歳で亡くなったそうです。

愛宕山にその米軍住宅(262戸?)が完成したのは、2017年7月だそうです。そこには、野球場や陸上競技場もあり、日米共同で使用できるものになっているそうなのですが、米軍の住宅エリアへの日本人の立ち入りは「禁止」されているそうです。赤い看板が設置されていました。

2019年5月、岩国基地では、空母艦載機部隊による「タッチアンドゴー」が行われたのですが、それは岩国市が実施を認めていない、事実上のFCLP(模擬着艦訓練)でした。飛行中の読書や自撮りなど、常駐部隊の規律違反も横行しているそうです。しかし、今年1月の岩国市の市長選挙でも、約14年前に「基地マネー」を受け入れることにした自民党推薦の福田市長が、基地からの自立を訴えていた対抗馬の米重氏に約3倍の得票数で勝ち、現職を継続することになったそうです。

その選挙の出口調査によると、岩国市民が「基地問題で市長に期待すること」は、「基地財源による地域振興策」が60%に上ったのだそうです(「実効性のある防音・防犯対策」は27%、「基地縮小撤去に向けた政策」は13%だったようでした)。

米軍基地問題に対する岩国市民のかつての「反対」の民意は、いつしか「恩恵」を求めるようになっていた、ということでした。それについて、廣兼さんの妻は、みんな疲弊している、疲れたということでしょう、どう足掻いても次々にやって来る、と話していました。

日米両政府によって米軍基地が再編され、多額のお金によって「反対」の民意が「容認」へ“再編”されていったという流れは、山口の岩国基地の問題だけではなく、沖縄の米軍基地の問題や、東京その他の全国各地の米軍基地の問題、あるいは原子力発電所の問題にも通じているように思います。地元の人々がいくら反対しても国家の決定を押し通すという民主主義に反した日本の自民党系の政府は、やはり国民・市民を見ていないというか、国民・市民よりも国家を見ているということなのだと思います。自民党は自由民主党の略ですが、特に近年の自民党には“自由と民主主義”が激減してしまっているように思います。しかし、一方では、選挙権を持つ国民の約半分がそのような政党の政権を支持しているという、謎の現象も問題なのだと思います。

自民党と民主党で国会対策委員長を務めた渡部恒三元衆議院議員が88歳で亡くなったということを報じていた昨日のメディアでは、安倍晋三首相の連続在職日数(第2次・第3次・第4次安倍内閣)が歴代最長になったということも報じていましたが、総理大臣の在職日数が長いこととその政治の内容がしっかりしているということとは全く関係がないのだということ、“長期政権は腐敗する”ということがよく分かるようになっていく約8年間だったのではないかと思いました。新型コロナウイルス感染拡大の中、与党の自民党(と公明党)の議員が、野党の要望を無視して国会を閉じたままでいることについて、「日本国憲法」に違反している、違憲状態だと指摘されても、いつまでに国会を開かなくてはいけないとは憲法に書かれていないと言って“抜け道”を探し、細かく書いていない憲法のほうが悪いという風に言い出すことは、罪悪ではなかったとしても、卑怯なことであり、政治家の政治的良心に欠けることだと思います。憲法に細かく書くということになったら、際限なく改憲が行われるようにもなるかもしれませんし、もしもそうなったら日本国憲法は国の在り方や理念を謳うものではなく法律の一つになってしまうのではないかと思います。

長期政権は安定するというのは、違うのではないかと思います(日本の首相でも長く政権に居続ければ各国の政治リーダー同士で集合写真を撮る時に端ではなく真ん中のほうで写ることができるとか、時々メディアで言われているその話が本当なら、とても馬鹿馬鹿しいことだと思います)。今、ベラルーシで大統領退陣と民主化を求める市民デモが起きていることが報じられていますが、ベラルーシの大統領(デモに参加する市民をネズミと呼んでいました)の後ろ盾になっているロシアや、前国王の亡き後の軍事政権のタイや、香港の一国二制度を一気に形骸化させた中国など、長期政権によって安定するのは、自由を求める市民社会ではなく、独裁によって市民を管理・統制しようとする政治権力者側の地位なのではないかなと思います。でも、独裁的な政府、強い政治リーダーを求める?市民が一定数いるというのも事実のようです。市民が「基地マネー」や「原発マネー」と呼ばれる多額のお金やインフラ整備を求めることが悪いのではなく、困っている市民を苦しめながら、つまり、政府による「恩恵」なるものを一種の人質のようにして、その地域の未来にとってはあまり良いものとは言えない“嫌なこと”を容認させる政府の手法が悪いのではないかと思います。政府が米軍基地新設(滑走路建設)のために強行した沖縄県名護市の辺野古の海の埋め立て工事は、今も中止になっていません。市民の意向を無視して国が決めたことを覆すというのは簡単なことではないかもしれないと思うのですが、しかし、お金を出すと言えば市民の「反対」の民意は再編される、市民を苦しめて脅かせば国家事業を容認させることができるという前例を、増やしてはいけないように思います。

76年前の対馬丸の沈没、メレヨン島の悲劇のことなど

今日は、アジア太平洋戦争中、長崎へ疎開することになった沖縄の児童たちを乗せた対馬丸が鹿児島県の悪石島沖でアメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没してから76年の日です。1944年の8月22日のことでした。貨物船の対馬丸には、国民学校の児童や一般の疎開者1661人を含む1788人が乗っていて、1484人が亡くなったそうです。

沖縄県の新型コロナウイルス感染拡大の影響も心配ですが、報道によると、今日の対馬丸の慰霊祭も、規模が縮小されて開催されたということでした。対馬丸の慰霊祭の様子は、NHKでも民放のテレビ局でも、全国的には中継されていません。その日のニュースで、その取材映像の一部が報道されるくらいです。

NHKでは、先月だったと思うのですが、「私と沖縄戦」という5分番組が(夜11時台の「時論公論」の後に)放送されていました。知花くららさんやガレッジセールのゴリさんやりゅうちぇるさんやMAXのMINAさんが沖縄戦と向き合って生きることについて話していました。

「戦後75年」の証言記録も放送されているのですが、私はその全部を見ることはできていないかもしれません。NHKの夜9時台の報道番組「ニュースウォッチ9」では、スタジオジブリの高畑勲監督のアニメ「火垂るの墓」の原作となった、野坂昭如さんの小説『火垂るの墓』の記念碑が、土屋純男さんたちの尽力により、また多くの人々の寄付によって、兵庫県の西宮震災記念碑公園に完成したことを伝えていました。その翌日の、一昨日の「ニュースウォッチ9」では、「メレヨン島」で起きた悲劇についてを伝えていました。

赤道近くのミクロネシアのメレヨン島は、現在はウォレアイ環礁と呼ばれているそうなのですが、私はその島のことを知りませんでした。第二次世界大戦中、サイパン島に近いメレヨン島には、絶対国防圏を守るため、旧日本軍の基地や飛行場が造られていて、昭和19年頃から兵が増員されたそうです。しかし、アメリカ軍はメレヨン島ではなくサイパン島に上陸し、日本軍の玉砕によってサイパン島が陥落すると、日本からの補給路が断たれ、アメリカ軍からも放置されたため、その孤島に残された約7000人中約5000人が病や飢餓で死亡したということでした。

番組では、生存者の一人の99歳の柿本胤二さんが証言をしていました。餓死して仰向けに横たわる仲間の兵士の口に蟻の行列ができている絵を描いていた柿本さんは、補給が断たれて食料がないのでネズミを焼いて頭からかじって牙を取り出しながら食べたというような体験を語っていました。旧日本軍兵士によってマラリヤ感染症の島に送られた沖縄の生存者の方や、ナチス・ドイツに捕まったユダヤ人の生存者の方も話していましたが、食べるものがない空腹、飢餓がとても辛いそうです。そうなのだと思います。敗戦までの1年以上、毎日日本兵が病死・餓死していくメレヨン島では、次第に軍隊の上下関係もなくなっていったそうなのですが、盗んだり、盗んだ人を殺したり、柿本さんは、人間の一番最低のところを見せつけられたと話していました。

日本軍にもアメリカ軍にも見放されたメレヨン島は、駐留した日本兵が戦わずして玉砕(全滅)した島ということでした。アッツ島やガダルカナル島やサイパン島やグアム島やニューギニア島やペリリュー島や硫黄島などとは異なっていました。番組の中で柿本さんは、もっとメレヨン島の悲劇が知られるようになってほしいということも話していました。

学校の日本史の授業で少しだけ習う昔の戦争時代のことについて、知らないことのほうが圧倒的に多い私は(知らないのは戦争時代のことに限りませんが)、番組表を見て何となく気になって録画をしておいたため、放送されていた特集を見ることができましたが、そうして偶然見たり聞いたりすることがなければ、今もメレヨン島のことを知らないまま過ごしていただろうと思います。一昨日のTBSの「NEWS23」では、2012年の「綾瀬はるか『戦争』を聞く」でも証言なさっていた、75年前に撮影されていた写真の黒焦げになった母親の遺体のそばに立ち尽くす少女だった長崎の被爆者の龍智江子さんが15日に90歳で亡くなったということが報じられていました。広島と長崎への原子爆弾の爆撃後の、日本の敗戦で終わった75年前の太平洋戦争は、(あるいは一応終戦を迎えた過去のどの国・地域の戦争でも)戦争を直接体験した方やその遺族の方にとっては、今も終わっていないのだと思います。戦争・紛争や政治の問題、自然環境や災害を含め、世界で起きている様々な良い出来事や悪い出来事について、一読者や一視聴者としての私は、本を書いてくれる人や絵を描いてくれる人や音楽を作ってくれる人、日々のニュース番組やドキュメンタリーやドラマや映画や演劇などを作ってくれる人がいなければ、きっと、何もかも知らないままです。その上、その全てのものを読んだり見たり聞いたりすることはできません。時間の経つ中で、読んだり見たり聞いたりした内容を長く記憶したり、考え直したりすることもできません。「情報弱者」という言葉を数年前に聞いた時から、ぼんやりしている私はその一人なのだろうなと思っているのですが、しかし、一体何をどのように知っていれば「情報強者」ということになるのでしょうか。忘れることや考え過ぎないことも日常を生きるために必要なことなのだと思いますが、自分や世の中にとって重大な事実があっても、知る機会がなければ知らないまま通り過ぎてしまうかもしれないということを、時々少し怖く思います。

「非戦の軍人・堀悌吉の譲れない信念」

TBSの深夜の「JNNドキュメント ザ・フォーカス」の「非戦の軍人・堀悌吉の譲れない信念」を見ました。

1941年12月8日の真珠湾攻撃を指揮した連合艦隊司令長官の山本五十六の生涯の友だった、海軍軍人の堀悌吉の特集でした。

先週の8月16日にNHKのBSプレミアムで「昭和の選択」の「山本五十六 開戦への葛藤“避戦派”提督はなぜ真珠湾を攻撃したのか」が再放送されていましたが(昨年の12月に放送されたものです)、私は過去の海軍軍人の山本五十六の特集の中で堀悌吉さんの名前を聞いたことがあるだけで、あまりよく知らないままでした。

堀悌吉さんは1883年(明治16年)8月16日に現在の大分県杵築市に生まれたそうで、江戸時代の頃からその地域には地元の歴史を書き残すという伝統があるのだそうです。大分県立先哲資料館には堀悌吉さんの家の蔵に革鞄に入って遺されていたという、堀悌吉さんの日記や山本五十六からの手紙、同封されていた真珠湾攻撃の奇襲作戦を書き記した文書や遺髪?などが保管されているそうです。

甥の矢野さんによると、堀悌吉さんは、趣味のない勤勉実直な人だったということでした。

番組では、堀悌吉さんによるいくつかの「自伝」のノートの言葉が紹介されていたのですが、「海軍志望ト兵学校入学」によると、堀悌吉さんは日清戦争のあった子供の頃に軍人になりたいと思ったそうです。広島の江田島の海軍兵学校(現在は海上自衛隊幹部候補学校として使われているそうです)の32期生で、山本五十六は2番で入学し、堀悌吉さんは3番で入学したのだそうです。その後、成績を落として落ち込んでいる山本五十六を、堀さんは、自分のベストを尽くせば順位は関係ないと励まし、仲良くなったということでした。

卒業の年に日露戦争が始まり、堀さんは三笠に乗って、1905年5月27日と28日の日本海海戦に参戦したそうです。自伝「戦争ト軍備」には、ロシアのバルチック艦隊が沈没していくのを甲板で見た堀さんの、「ああ気の毒だ、かわいそうだと思わぬ者はなかったと思う」という言葉が書かれていました。山本五十六は、この時暴発した砲弾によって左手の指二本を失ったそうです。

苦悩の中、船で世界各国の人と出会った堀悌吉さんは、海はつながっているということを実感するようになったそうです。「築波日記」の1907年8月15日のところには、「今度は何処と戦争することになるだろうか」と書かれていました。「戦争ト軍備」には、「軍備は平和の保証である、海軍は世界の平和を維持するためにこれを備うるものであらねばならぬと体感することに依りて自分の気持ちを落ち着けようと努力することにした。身を海軍に置いて民族平和的発展に貢献できるように努力することを天職として心得ていこうと決心することにした」と書かれていました。

堀悌吉さんは、軍人として、戦わないために何ができるかを模索していたそうです。そのような中、1913年(大正2年)から3年間ほど、フランスに駐在しました。そのフランス時代は、堀悌吉さんにとって、「自分の個性に根本の影響を与えた」ものだったそうです。番組によると、堀さんはフランスのダンディズムを身に着けた人だったそうです。ルソーやモンテスキューやユゴーなどの原書を読み、劇場へ通い、フランス文化を吸収したそうです。

しかし、フランス駐在中の1914年、第一次世界大戦がはじまりました。自伝「仏国駐在三年ノ思ヒ出」によると、堀さんはフランスに宣戦布告したドイツに対し、「ドイツのミリタリズム(軍国主義)やインペリアリズム(帝国主義)というものが極度に嫌になってきた。日本人のドイツ崇拝の有り様を見るとたまらなく不愉快であり、ことにドイツのことといえば一も二もなく盲目的に感服し、称賛するのを見たり聞いたりすると耐え難い思いがするようになった」ということでした。

帰国後、堀さんは、「戦争善悪論」という論文をまとめました。そこには、「人は先ず生きんがために生まれてくるものなり。自己の生存を欲すれば同様に他人の生存を尊重せざるべからず。あらゆる場合において国家が行う戦争を是認して善となすべからざるなり。」、「戦争なる行為は常に乱、凶、悪なり。」と書かれていました。

それから堀悌吉さんは、「堀は共産主義だ、危険思想だ」と問題視されるようになる中で、国際協調と軍縮に奔走するようになったそうです(自伝「海軍現役ヲ離ルル迄」、「世界ノ平等文明」)。

軍艦の建造が国家財政を圧迫する中、1921年にワシントン海軍軍縮会議が開かれました。海軍中佐の堀悌吉さんは、海軍大臣の加藤友三郎の随員として参加し、首席随員の加藤寛治や次席随員の末次信正の主張する主力艦と空母の保有比率の米英日で「10:10:7」というのを抑え、「10:10:6」というアメリカの提案を受け入れました。12月27日、堀さんは、加藤友三郎海軍大臣から伝言を託されたそうです。「日本は米軍との戦争を避けるを必要とす。国防は国力に相応する武力を整うると同時に国力を養し、一方、外交手段に依り戦争を避けることが目下の時勢に於て国防の本義なりと信ず。即ち、国防は軍人の専有物に在らずとの結論に到着す。」と書かれていました。

帝京大学の日本近代史の筒井清忠教授は、堀悌吉の軍縮の思想には平和主義と合理主義がある、と話していました。合理的に考えれば各国が軍備拡張をむやみにやり出せば経済が費消してお互いに困る、ということでした。しかし、軍縮を目指す海軍省(軍政、条約派)と、軍縮条約は屈辱的だと主張する軍令部(作戦指導、艦隊派)は、さらに対立するようになったそうです。

その後、補助艦を巡る軍縮会議が不調に終わったジュネーブを経て、1930年(昭和5年)、ロンドンで海軍軍縮会議が行われました。艦隊派は、条約派を攻撃するようになりました。1932年の第一次上海事変の際、堀悌吉が一旦退避してから攻撃に転じたのを、艦隊派の海軍軍人たちは、逃亡したのだと言って、指揮官には不適格だと主張したそうです。

甥の渡辺さんによると、堀悌吉さんは、自分に攻撃的に対立して来る人とはやり合わないようにしていたそうなのですが、自伝「戦争ト軍備」には、「子々孫々に至るまでかかる海軍の人となるなかれ。戦果誇張、功名争いの餓鬼道の展開である。同僚反撃の醜悪なる畜生道の展開である。斯様な友軍に共同して警備に従軍せねばならなかったのは自分の不幸の廻り合わせである。」と書かれていました。堀悌吉さんは、海軍も、世の中も、危惧していたそうです。

1940年(昭和15年)の「五峯録」には、「ややもすれば落ち着いて考える努力を惜しみ、しかも人前では大きな強いことを言う様な風潮が一般を支配し始めていた。」とありました。山本五十六は、同じ考えを持つ堀悌吉を守ろうと、軍令部総長官に直談判をしたそうです(「軍令部総長官ニ言上覚」)。しかし、昭和9年12月14日、堀悌吉さんは、大角海軍大臣により、現役を退けられ、12月15日に「予備役」に入れられたそうです。戦争回避を主張した結果、海軍を追われることとなったのでした。そうして、海軍は、主流となった艦隊派、強硬派の軍人たちが支配するようになったそうです。筒井教授は、堀悌吉の運命が日本の運命になったと話していました。

山本五十六は、堀悌吉さん宛ての1934年12月9日のロンドンからの手紙に、「海軍の前途は真に寒心の至りなり。身を殺しても海軍のためなどという意気込みはなくなってしまった。」と記していました。山本五十六は、堀さんのような人がいなくなった海軍がこれからどうなるのかと、落ち込んでいたようでした。

堀悌吉さんの自伝「海軍現役ヲ離ルル迄」には、「山本は口にこそ出さなかったが、自分に私生活上の物心両面における不自由をさせまいと涙の出る程気を付けてくれた。何か不自由はないかと言ってくれた。」と書かれていました。山本五十六は、堀悌吉さんの再就職を探すなど、堀さんの生活を助けたそうです。

1935年5月31日の「山本五十六十述志」によると、山本五十六は、日本が英米と敵対しているヒトラー率いるナチス・ドイツやムッソリーニ率いるイタリアと軍事同盟を結ぼうとしていることを、同盟締結は戦争につながると反対していました。「この身滅すべし。この志奪うべからず」と、日米開戦に反対していました。

しかし、1940年9月、日独伊三国同盟が締結されました。山本五十六は、連合艦隊司令長官になりました(1941年1月7日「戦備訓練作戦方針等ノ件覚」)。1941年10月11日の堀悌吉への手紙には、「個人としての意見と性格に反対の決意を固め、その方向に一途に邁進の他なき現在の立場はまことに変なもの」、「これも命というものか」と書かれていました。

真珠湾攻撃の4日前の1941年の12月4日、横浜駅に山本五十六を見送りに来た堀悌吉さんと、山本五十六との会話が堀さんのノートに記されていました。「万事休すか」、「ウン、万事休す。もし交渉が妥結を見るようなことになれば出動部隊はすぐ引き返すだけの手筈はしてあるが、どうもね」、別れにのぞみ握手をして「ぢゃ、元気で」というと、山本氏は「ありがと…、もう俺は帰れんだろうな」と答えながら列車に上り、走行を始める時静かに一言、「千代子さんお大事に」。これが最後の別れであった。

その1年4か月後、山本五十六はブーゲンビル島の上空で撃墜され、戦死しました。堀悌吉さんの「回顧録」には、「三国同盟に反対でも時局収集に関してでも何かもっとしっかりした貢献ができたのではないだろうか。たとえ天下の大成すべき決死、いかんともし難い事由があったとすれども、何らかの形において何らかの方向に自分の力を致すことができたのではなかったものであろうか。これらの点は悔恨の念が永久に消え去らず。いかにか心の奥底に潜む所以である。」と書かれているそうです。

信念を貫いたが故の苦悩を悌吉は密かに抱え続けていた、という言葉で番組は終わっていました。

堀悌吉さんの特集が堀悌吉さんのお誕生日に放送されたというのは偶然のことなのかもしれないと思いますが、堀悌吉さんのことを私はほとんど知らなかったので、この番組を見て、堀悌吉さんのことを、第二次世界大戦前の海軍に堀悌吉さんのような非戦反戦の平和主義の軍人さんがいたということを、少しでも知ることができて良かったです。

堀悌吉さんが多くの「自伝」のノートや日記、受け取った手紙などを意識的に(歴史的資料になるかもしれないという観点から)残していたということにも驚きました(“記録魔”的というか、この場合の比較する相手として適切かどうかは分からないのですが、『貼雑年譜』を残した江戸川乱歩みたいだなと、少し思いました)。でも、その意識の高さのおかげで、また、それを発掘した作家や研究者、番組スタッフの方たちのおかげで、ぼんやりと生きている一市民の私も、歴史的事実の一端に触れ、当時のことやその時代とつながっている今のことを、考えることができるのだと思います。

アメリカ留学経験のある、開戦に強く反対していた連合艦隊司令長官の山本五十六が、悩みながらも結局、海軍組織の中でハワイの真珠湾奇襲攻撃の指揮者になってしまったということは、皮肉ということ以上に、何か、2020年の今の日本でも起こり得ることとして、検証し直したほうが良いことであるように思いました。堀悌吉や山本五十六の戦争回避の主張が当時の海軍の中で通らなかったということ(それは当時の陸軍でも起きていたことかもしれませんが)、外国の勢力に対して強硬的な人々の意見のほうが通ってしまったということの中には、その時から75年ほど経った現在の日本の政治や社会にも通じる問題があるような気がします。

先週の、同じ8月16日のTBSの「サンデーモーニング」の最後の「風をよむ」の、「先人たちの声」も良かったです。作家の三島由紀夫さんや野中広務元官房長官、後藤田正晴元副総理大臣、医師の中村哲さん、医師の日野原重明さん、作家の野坂昭如さん、ジャーナリストの筑紫哲也さんの、戦争なき平和を考える言葉が紹介されていました。

私は海軍軍人だった堀悌吉さんのことを、この番組を見るまでほとんど知らなかったのですが、今よりも言論や思想の自由が制限されていた戦前や戦中に戦争反対をはっきりと訴えていた方の言葉を聞くと、単純に、すごいなと感動します。

堀悌吉さんは、1959年(昭和34年)5月12日に76歳で亡くなったそうです。先週の8月15日には現内閣の閣僚など国会議員の一部が靖国神社を参拝したということが報じられていましたが、新潟県長岡市出身の山本五十六さんの魂は、東京の靖国神社には“合祀”されていないのでしょうか。堀悌吉さんの生前には、靖国神社にA級戦犯(日米開戦時の総理大臣だった東條英機など、東京裁判でA級戦犯とされた人たち。日本政府はまだ国内の戦犯について独自の検証をしていない)は合祀されていないわけですが、ご自身の生まれる10年ほど前に建立された靖国神社という神社のことを、堀悌吉さんや山本五十六さんが戦時下でどのように思っていたのかなということも、少し気になりました。

とにかく、良い特集を見ることができて良かったです。当時の堀悌吉さんの感じていた、「落ち着いて考える努力を惜しみ、しかも人前では大きな強いことを言う様な風潮」には、現代を生きる私も、気を付けていなくてはいけないのだと思います。

「原子の力を解放せよ~戦争に翻弄された核物理学者たち~」

NHKのBS1の「BS1スペシャル」の「原子の力を解放せよ~戦争に翻弄された核物理学者たち~」は、戦後75年の「終戦の日」の夜に放送された国際共同制作特集ドラマ「太陽の子 GIFT OF FIRE」の基になった、アジア太平洋戦争末期のアメリカやソ連、ドイツや日本の核開発競争を伝えるドキュメンタリー番組でした。

ナビゲーターが吉川晃司さんだったということもあり、「フランケンシュタインの誘惑 科学史 闇の事件簿」のような作りになっていたようにも思うのですが、途中に「BSニュース」の挟まれた、約2時間の特集番組でした。

海軍の三井大佐の依頼を受け、原子核の分裂時のエネルギーを新型爆弾に使える可能性を研究室の学生たちと共に調査研究していたという京都帝国大学の理学部の原子物理学者の荒勝文策教授とは、ドラマ「太陽の子」の中では國村準さんが演じていた人でした。

原子核分裂のエネルギーを新型爆弾に使うという“パンドラ”の箱を最初に開けたのはアメリカだった、と語られていたのですが、アメリカは終戦後、日本の原子爆弾開発を疑い、GHQの調査団を京都大学などに派遣していたそうです。理化学研究所の仁科芳雄博士も疑われたそうなのですが、空襲で研究所が破壊されていたために疑いを免れ、京都大学の湯川秀樹博士は性格が内向的という理由?で疑いを免れ、そこでGHQは、海軍の軍人への聞き取り調査から、荒勝博士に疑いの目を向けたのだそうです。アメリカの国立公文書館には、その時のロバート・ファーマンの調査報告書や、荒勝博士から接収(没収)した研究ノートが残されていました。

一昨年に『荒勝文策と原子核物理学の黎明』という本を著した素粒子物理学者の政池明教授は、荒勝文策教授のことは日本でも海外でもほとんど知られていないと話していました。私もドラマを見るまで荒勝教授のことを知らなかったのですが、番組によると、研究室に胸像が残っているという京都大学でも荒勝教授のことを知る人は少ないということでした。

イギリスの物理学者アーネスト・ラザフォードが原子核を発見した後、36歳でベルリン大学へ留学した荒勝さんは、アルベルト・アインシュタイン博士に直接教わったことがあるそうです。アインシュタイン博士のことを、高い人類愛を持つ人格の素晴らしい人という風に評しているそうです。その後、ケンブリッジ大学のラザフォード博士のキャヴェンディッシュ研究所へ行き、ドイツの理論重視ではなくイギリスの実験重視の、観察したり発見したり開拓したり測定したりする姿勢に感銘を受けたそうです。

1928年に台北帝国大学(現・台湾大学)の教授になった時には、アジアで初めてコッククロフト・ウォルトン型の加速器を作ったそうです。バウムクーヘンのような、不思議な塔のような形の加速器です。1934年の7月、44歳の荒勝教授は、原子核分裂の実験にアジアで初めて成功したそうです。宇宙の成り立ちが一歩一歩分かっていくだろうと、科学の光明を信じていました。

しかし、1936年に京都帝国大学教授に就任した2年後の1939年、第二次世界大戦が始まりました。連合国はナチス・ドイツが原子爆弾を開発することを恐れ、アメリカはウラン235に中性子を衝突させることで生じる核分裂の連鎖反応を新型爆弾に利用しようと考え、「マンハッタン計画」に20億ドルの予算を投じたそうです。

ドイツでは、1945年4月に洞窟の研究所で核分裂の実験をしていたヴェルナー・ハイゼンベルクが捕まり、5月にナチスが降伏しました。その時、アメリカ軍が拿捕したナチスのUボートには、560㎏のウランが積まれていたそうなのですが、それは日本の依頼で日本へ送る予定のものだったということでした。

海軍から新型爆弾開発のための研究(「目的物質の軍事化の可能性を探る研究」)の依頼を受けた荒勝教授の研究は、通称「F研究」と呼ばれていたそうです。ウラン235を濃縮するための遠心分離器の研究開発でした。清水榮さんの息子の勝さんは、濃縮ウランを作るための空気タービン式超遠心分離器の設計図を保管していました。

F研究の会議には、湯川秀樹博士も参加していたそうです。番組で紹介されていた1931年の湯川博士の記事には、「科学者の使命」、「全ては戦力のために」などと書かれていました。東条英機内閣は、科学研究は全て軍事遂行のため、ということを“閣議決定”したのだそうです(現在から考えると、嫌なことだなと思います)。

海軍の助成を受けていたことから、荒勝教授は依頼を引き受けることにしたそうなのですが、原子爆弾は理論的には可能だが今度の戦争には間に合わないと考えていたそうです。依頼を引き受けたのには、基礎研究を続けるためと、「学徒出陣」で学生を戦地へ送ることを避けるためでもあったようでした(『昭和史の天皇 原爆投下』)。しかし、日本ではほとんどウランが入手できなくなっていました。

政池さんは、荒勝は科学者の倫理的側面から消極的だったが、戦争末期には原爆開発研究を認めてしまったということを話していました。

戦後、日本の原爆開発を調査していたGHQのファーマンは、日本の原爆の研究はアメリカの1942年のレベルで学問の域を出ていないと結論付けたそうです。

番組の後半は、広島に原子爆弾が落とされた後、原子爆弾の破壊力を知った科学者たちの葛藤を伝えていました。荒勝さんや清水さんたちは、破壊された広島に2度入り、各地点の放射性物質を調査して、β放射能を検出したそうです。そして、海軍に、新型爆弾は原子核爆弾だとする手紙を送ったそうなのですが、それは玉音放送の流れる8月15日のことでした。戦争は終わりました。

しかし、9月、原爆が落とされてから40日後の放射線量を調べるため、三度目の広島に入った荒勝教授や木村毅一助教授は、台風のやって来た広島で、花谷暉一さんなど3人の研究員を亡くしたそうです。台風の直撃を受けた広島陸軍病院の宿舎では、3人を含む11人がなくなったのだそうです。現地には、記念碑が建てられているようでした。原爆投下の翌月の広島の人々がさらに台風の被害に遭っていたということは、もっと知られていたほうが良いことであるようにも思えました。

GHQの調査団が荒勝教授の研究室を訪ねてきたのは、その年の11月だそうです。全ての研究装置を破壊せよ、との命令が出ていたため、GHQは、コッククロフト・ウォルトン型の進化系という、荒勝教授が研究していた原子核の構造を調べるためのサイクロトロンという円形の加速器を破壊し、さらに学生たちと研究に取り組んだ荒勝教授の研究ノート25冊を没収したそうです。

アメリカに残されている200点の資料を、政池さんが見ていました。清水榮さんによると、荒勝教授は、年取った人は軍の研究をやってもいいが、若い者は純粋な学問をするようにと話していたそうです。

GHQのファーマンの調査団の通訳だったトーマス・スミスさんは、自分の研究に軍事的な利用を見出したことはないと、研究所や研究ノートを誠実に公開した荒勝教授に感銘を受け、学問研究の道へ進み、日本の近代史の研究を始めたのだそうです。

米ソ冷戦時代、1954年のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験に巻き込まれた第五福竜丸の乗組員が被曝した事件で、京都大学の清水榮教授は放射性物質を含む「死の灰」を分析し、「清水リポート」は世界中の科学者に注目されたそうです。哲学者のバートランド・ラッセルがそのリポートを読み、アルベルト・アインシュタインとの「ラッセル=アインシュタイン宣言」につながったそうです。ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹博士もその宣言に署名し、日本や海外での反核運動につながっていったということでした。

科学者は、自分の研究が悪用されないように、発言して行動することが大切なのだそうです。荒勝さんの息子さんの妻の五十鈴さんは、荒勝教授の胸像を見て、似ていると話していました。京都大学を定年で退官した後は、甲南大学の初代学長に就任したそうです。茨城県の東海村には、シンクロトロンと言う全長1.6㎞の加速器があるそうで、京都大学の理学部の学生の方たちは、それを使って研究しているそうです。

科学者の研究は軍によって兵器開発に利用されてきましたが、人類の平和目的に利用するという希望は達成されるでしょうか。

戦時中、軍事協力に消極的だった荒勝文策さんのような科学者は、他にもいたのかもしれませんが、結局時代の波にのまれてしまうというのが、何か悲しいような気がします。荒勝さんは、1973年に83歳で亡くなったそうです。

アメリカの「平和のための原子力」の提言を受けた日本政府は、その後、原子力発電所の建設に傾倒していきます。1973年に亡くなった荒勝さんは2011年の東日本大震災を知らないわけですが、荒勝さんのような戦前を知る原子物理学者たちは、アメリカの“同盟国”となった日本政府が原子力発電所を全国各地に建設していくことを、あるいはその後の原発事故の可能性を、どのように考えていたのだろうかと思いました。

ドラマ「太陽の子」を見ていたからということもあるのかもしれませんが、とても良い特集でした。

戦後75年の日本では、「平和憲法」とも呼ばれる「日本国憲法」をほとんど憎んでいるかのように軽んじている安倍首相たち与党・自民党系の国会議員が、「積極的平和主義」と名付けた軍事行動の拡大や、「敵基地攻撃能力」なるものの保有を言い出しているので、不安です。数年前のNHKの「クローズアップ現代+」の「日本の技術はどこへ~拡がる“軍事”転用~」や「“軍事”と大学 ~岐路に立つ日本の科学者たち~」などで、ノーベル物理学賞を受賞した科学者の益川敏英さんたちが伝えていたことを、忘れてはいけないように思います。


ところで、報道によると、モーリシャス島の沖の珊瑚礁に座礁し、大量の重油を流出させてモーリシャスの生態系の豊かな自然を汚染してしまった日本の商船三井の貨物船「わかしお」は、割れていたところから完全に分裂したのだそうです。重油は、自然だけではなく、現地の人々の健康と生活にも悪影響を及ぼしているそうです。過去にも重油流出事故はありましたが、今朝の報道のモーリシャスの青い海や浜が黒く汚染されている報道映像を見ながら、軍艦や戦闘機が海中に沈んだ第二次世界大戦や太平洋戦争中の海や海岸も、船や飛行機から流れ出た油などに汚染されていたのかもしれないと思いました。湾岸戦争の時のペルシャ湾の報道映像が有名かもしれませんが、75年前の戦時中の海洋汚染についても、私が知らないだけで、調査・研究されているのかもしれません。
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