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「写真家 ユージン・スミスの戦争~タラワ・サイパン・沖縄 678日の記録~」

NHKの「BS1スペシャル」で放送された「写真家 ユージン・スミスの戦争~タラワ・サイパン・沖縄 678日の記録~」を見ました。

昨年(2018年)の12月29日に放送された、生誕100年となる写真家のウィリアム・ユージン・スミスさんの活動を伝えるドキュメンタリー番組です。その1か月前くらいにはNHKのEテレの「ETV特集」で「写真は小さな声である~ユージン・スミスの水俣~」というドキュメンタリー番組が放送されていて、それがとても良かったので、この「写真家 ユージン・スミスの戦争~タラワ・サイパン・沖縄 678日の記録~」を私も見たいと思っていました。そして、年末だったこともあって放送時間には見ることができずに録画をしておいたものを、先日、ようやく見ることができました。

18歳の頃からカメラマンの仕事を始めていたというスミスさんは、カルメン・マルティネスさんと結婚し、子供と過ごす時間を大切にしていたそうです。1941年の12月8日にハワイの真珠湾を旧日本軍が空爆した7年後の24歳の時に、スミスさんはアメリカ海軍の従軍カメラマンとなって、戦闘機に乗って空から戦闘の様子を撮影していたそうです。1943年のタラワ環礁の戦いを撮影する時には、上空200mの場所にも、約4200人の日本兵が全滅した「死の臭い」が漂っていることを感じたそうです。島に下りたスミスさんは、たくさんの日本兵の死体が溝に埋められている写真などを撮影していたようなのですが、その日本軍とアメリカ軍の地上戦の様子を見て衝撃を受け、「この気楽な海軍の生活では語ることは何も無い。私は膨大な時間を無駄にしている。タラワの前線にいる兵士に比べたら、空母での取材は戦争ではない。単なるクルーズだ」と思ったそうです。

そして、グラフ雑誌『LIFE』の従軍記者になり、地上戦の報道を始めたそうです。

マリアナ諸島のサイパン島に上陸した1944年6月27日のスミスさんの日記には「やっと本当の戦争を取材できた」とありました。ウジに覆われた多くの日本兵や家畜の死体、アメリカ兵の死体を見たそうです。

スミスさんの写真には、たくさんの兵士の遺体を埋めている写真が多くあったのですが、1944年の8月15日の日記には、「軍部のお偉いさんは神なのか?突然『これ以上勝手に現像すると太平洋から追放する』と言われた。自分の仕事に決定権がないなら戦争を記録する意味もなくなる。なぜ敵のスパイのように扱われるのか理解に苦しむ」と書かれているそうです。

元アメリカ海兵隊映像部のノーマン・ハッチさん(故人)の証言によると、カメラマンが撮影したスチール写真のフィルムを毎日太平洋軍司令部が現像し、公開すべきでないものが写っていないかを検閲していたそうです。

当時のアメリカ軍の検閲報告書に書き込まれた「制限映像」とは、国民が見た時に戦争に疑念を抱くようなもの、戦争に悪いイメージを抱くようなもののことで、例えば、米兵の遺体や負傷兵の姿を記録した写真や映像のことだそうです。そのような映像や写真を、アメリカ政府は「不都合な真実」として排除したそうです。

それでも、ワシントンにあるアメリカ国立公文書館には、当時検閲で没収した写真などが今も保管されていました。サイパン島やレイテ島などで死亡した日本兵やアメリカ兵、民間人の犠牲者の姿が写されていました。1944年のサイパンの写真の中に、アメリカ兵の遺体が布に包まれてきれいに並べられているものがあったのですが、スミスさんが同じ場所で写したと思われる写真をスミスさんは自身でも持ち続けていたそうです。

アメリカの検閲の歴史を研究しているというオハイオ大学のマイケル・S・スウィーニィ教授は、遺体や墓は重要な検閲ポイントだと話していました。米兵の遺体が雑に扱われている写真をアメリカにいる家族が見たら、その人たちがみんなで平和を訴えて戦争が終わるからだそうです。アメリカ政府は、国民の戦意の低下を恐れて、それらの写真や映像を隠していました。

「検閲」については、国民の間に戦意高揚の、戦争肯定の感情を保つための策として、戦時下の日本政府も同じことをしていたのだろうと思います。

スミスさんは、写真がアメリカ軍に却下されると知っていて、集団墓地や怪我された遺体の写真を撮り続けていたそうです。彼は歴史のために撮った、とスウィーニィ教授は話していました。

2万人の日本人がサトウキビなどを作りながら暮らしていたサイパン島で、スミスさんは、民間人に眼差しを向けるようになったそうです。洞窟の日本人や、逃げ惑う母子の姿を映した写真について、1944年の8月28日号の『LIFE』には、「捕虜になると殺されるという軍部のプロパガンダを日本人の多くは信じていた」と書かれていました。3歳の時に家族でサイパンに移住したという90歳の横田千代子さんは、「アメリカには捕まるな」、「捕まったら国賊」、「男は股を裂かれ、女は辱めに遭う」というデマが飛んでいるし「絶対に捕虜になるな」という教えだったから、と話し、洞窟内には足の踏み場もないくらい遺体があって、怖いというよりも汚かった、膨れている死体を踏んだ時の臭いはなかなか消えない、怖いのは「後ろから戦車が来る」、「アメリカが来る」、「上から弾が落ちる」だけで、声を立てずに静かにしていた、と証言していました。

投降せずに逃げ続け、父と兄を亡くしたという横田さんは、出てきたら殺さないという米兵の発言は嘘だという日本兵の言うことばかりを聞いていたが、あの時に出ていたら父は助かっていたと思うと、涙を拭きながら話していました。

追い込まれた日本人は、崖から身を投げたりして、サイパンでは約1万人の民間の日本人が亡くなったそうです。

写真はどれも白黒でした。子供の遺体の足だけが写っている写真がありました。スミスさんは、家族や友人にたくさんの手紙を送っていたそうなのですが、その頃の手紙には、「日本人の苦しみゆがむ顔に私の妻や母や息子の顔が重なって見えた。彼らは私の家族だったかもしれない。偶然そこにいただけだ。くたばれ戦争屋ども」と書かれているそうです。

アメリカ兵の“敵”としての日本兵を憎むのではなく、戦争を始めた人、戦争を続けている人、そうして終わらないまま虚しく犠牲者を増やしている戦争そのものを憎んでいるという感じが、よく伝わってくるように思いました。

スミスさんと一緒に活動していた妻のアイリーン・美緒子・スミスさんは、彼は日本人の民間人に出会って変わった、彼の写真の質や訴える力が、第二次世界大戦中に発展していった、と考えていました。

転機となった写真は、サイパンの山中でアメリカ兵に発見された瀕死の赤ちゃんの写真だそうです。「血まみれとなって死にゆく子供を私が腕に抱いた瞬間、その子の生命は漏れ出し、私のシャツを通って私の心を焼き尽くした。あの子は私の子供であったのだ。」、「私はシャッターを切るたびに、これらの写真が時を超えて生き残ることを願う。写真が将来人々の心に響くことを願う。これは将来の人々に深く考えさせ、認識させ、実感させるための写真を通した私の願いです」というスミスさんの言葉が残されていました。

1944年11月6日号の『LIFE』の「サイパンの日本人」の特集には、収容所の運動場で元気に走り回る子供たちや久しぶりに水浴びをすることができて嬉しそうな女性の姿の写真は掲載されても、ガリガリにやせ細った幼い子供たちの姿(服を着ていませんでした)の写真は、編集長によって掲載を却下されたそうです。アイリーンさんによると、スミスさんは、あそこの尿の臭いは凄まじかった、と話していたそうです。

スウィーニィ教授は、収容所で遊ぶ子供の写真は幸せそうに見えるからアメリカ軍にとって良いプロパガンダになる、日本国民にもアメリカのおかげで幸せになり好きなことをして遊べるとアメリカ占領下で子供が大切にされている印象を与える、一方で、やせ細った子供たちの写真は子供たちがかわいそうに見えるのでネガティブな印象を与える、と解説していました。

ジャーナリストの取材が、政府や出版社の意向で左右されていくことに、スミスさんは、このままでは自分はアメリカ軍のPRマンになりかねないと危機感を抱いたそうです。「真実が加工され、削除され、飾られて発表されることが疑問でした。書き換えられた記事や検閲で問題なしとされた写真だけが報じられました。真実が曲げられて伝えられたのです。」というスミスさんの言葉が紹介されていました。

1944年の10月から、スミスさんは、レイテ島の戦いに従軍し、臨時の病院となっていた教会を取材して、負傷兵と看護師たちの姿を写したそうです。聖母子の絵を表紙とした『LIFE』の1944年の12月25日号に掲載されたそうです。スミスさんの子供たちへの手紙には、「戦争は少女や少年を、さらにその母親や父親を傷つける。そして傷を負った父親が敵国の幼い子供たちを傷つける。戦争は無残だ。私は人を殺したり傷つけたりするためではなく、私の写真を通して“戦争への嫌悪”を伝えるために写真を撮りたい」、「私のすべての愛を込めて 父より」と書かれていました。

1945年の4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸し、沖縄戦が始まりました。3か月間に及ぶ地上戦で、沖縄の住民の4人に1人が亡くなったそうです。スミスさんが村へ行った時、そこに住民はいなかったらしく、4月10日の日記には、「安らぎを感じる穏やかな村の小道を歩いていた。この村は手つかずで平和的で、石垣も瓦もダメージを受けていない。歩いていると我々が外国から破壊のために侵入していることも忘れてしまう。静かで平和的な美しさは戦争を忘れさせた」と書かれていました。

スミスさんは、アメリカ軍の収容所に入っている沖縄の人々の姿を撮影していました。1945年の『LIFE』の5月28日号の「OKINAWA」特集には、「JAP DOCTOR」(日本人の医者)として64歳のクニヨシシンセイさんのことが紹介されていました。国吉さんは、金沢医科大学を卒業後、30年間下原村というところで医者をしていたそうです。地元の新聞社のカメラマンをしていたという次男の和夫さんによると、国吉さんは英語とドイツ語ができたので、スミスさんと会話をすることができたということでした。国吉さんがいた収容所の詳細は判明していないそうなのですが、和夫さんは、スミスさんの写真に映っていた海と郵便局から、泡瀬ではないかと推測していました。

日本軍が南下して首里に司令部を置いてアメリカ軍と戦っていた頃、アメリカ軍は泡瀬に収容所を設置したそうです。そして、近隣の村から住民たちは泡瀬へ戦火を逃れて来たということでした。

スミスさんの写真を見た、当時を知る今の泡瀬の方たちは、子供たちが登って遊んでいる壁はマウスグラ(塩蔵)だと言い、戦争は終わっているつもりだったけれど南部のほうから大砲の音が聞こえてきた。でもここ(泡瀬の収容所)は平和だったと話していました。

写真を見ていたある人は、「豊かではないけれど人間の生活がある。例えば、海で女性が髪を洗うことは余程安心感がないとできない。やっと人間らしい人たちに、逃げ惑うことなく恐怖に怯えることなく生活できている人たちに会えて(ユージン・スミスさんは)ある意味でとてもほっとしたのではないか」、とも話していました。

しかし、泡瀬の収容所での平和な日々は突然終わりました。アメリカ軍が飛行場を作るため、人々は強制的に移動させられたそうです。「これはもうアメリカがやることは絶対ですから、個人の気持ちなんて全く通用しない。喜んで故郷を捨てる人なんていませんから、強制移住ですよ」、「戦争で焼かれて残った家も、尚且つまた(飛行場建設で)無くなりました。二重三重に、非常に寂しかった、悲しかった」と話していました。

5月15日のスミスさんの日記には「アメリカ人は建設を進めていた。沖縄を、攻撃の拠点となる強大な基地に、ブルドーザーで変えていった。一方、南部では戦争を続け、征服者のやり方で日本人を打ち負かしている。女性たちの眼差しや口元は、我々を征服者と言っているように見えた。そんな風に見ないでくれ、僕がやったわけじゃないんだ」と書かれていました。

沖縄では1945年の4月から、泡瀬や普天間などの各地で米軍基地の建設が始められたそうです。戦後73年、沖縄は今も基地の島です、とナレーションでも伝えていました。5月になると、アメリカ軍は日本軍の司令部のある首里を総攻撃し始めました。

スミスさんは、『LIFE』からの電報で、最前線の取材を頼まれたそうです。6月18日号「歩兵テリー・ムーアの24時間」は、その時のものだそうです。5月21日、テリーさんの部隊は11㎞先の最前線へ向けて出発し、スミスさんも同行しました。歩いて行く頭上を、日本軍の砲弾が飛び交っていたそうです。「戦争は夜始まる」ということを示す写真には、花火のような星のような、無数の砲弾の光が写されていました。「夜は怖く、雨も怖い。雨が降ると惨めさが増していく。恐れの感情だけで猛進できるテリーたちが羨ましい。私には恐れと共に、なぜ自分はここにいるのかという疑問が常にあった」というスミスさんの言葉がありました。

5月22日の午後3時、出撃命令を待つテリーさんの部隊にいたスミスさんは、「こんな時に立ち上がっては撃たれるのは目に見えている」、「だがその瞬間を捉えるために私は立ち上がった」ということなのですが、その時、目の前で日本軍の砲弾が炸裂しました。砲弾の破片が背中や腕に突き刺さり、持っていたカメラが顔面を打ち砕いたそうです。口の中は血の感触だけになったそうです。被弾した時の一枚が紹介されていたのですが、それが太平洋戦争のアメリカ軍の従軍カメラマンとしてのスミスさんの最後の写真となったということでした。

1945年8月、日本の敗戦にニューヨークのタイムズスクエアが200万の人々の歓喜で埋め尽くされていた頃、ニューヨーク郊外の自宅で療養していたスミスさんは、それから約2年半写真を撮ることができなかったそうなのですが、家族の存在を支えにして暮らしていたそうです。

二人の子供たちと散歩に行った時の、カメラを持つと背中に激痛が走るという中でシャッターを切った写真は、「楽園への歩み」という、スミスさんの代表作となっていました。木のトンネルの向こうの明るい場所へ子供たちが歩き出していく写真です。「君たちが歩むその足元から新しい世界が始まる」と書き添えられているそうです。

「楽園への歩み」がスミスさんの写真家としての復活の第一歩となったそうです。番組では、戦後の『LIFE』の「カントリードクター」(1948年)や「スペインの村」(1950年)、「慈悲の人」(1954年)、遺作となった「水俣」(1971年から1974年)などが紹介されていました。写真集の冒頭には、「過去の誤りをもって、未来に絶望しない人々に捧げる」と書かれているそうです。

「写真は写っている世界を否定するためではなく、その世界を現実として受け止めるためにあります。私にとって『楽園への歩み』という写真は、世界は酷い状況だが、ただ悲観するのではなく、私たちにはまだ希望があり、その可能性を信じて歩んで行かなければならないことを意味しています。この写真は、私の人類を信じる心の表れです」と、声なき声を伝えてきたユージン・スミスさんの言葉が、最後に紹介されていました。

「写真は小さな声である~ユージン・スミスの水俣~」も良かったのですが、「写真家 ユージン・スミスの戦争~タラワ・サイパン・沖縄~」も、とても良い特集でした。

昔のことなのに、今のことのようでした。

ユージン・スミスさんの遺したメッセージの内容は、普遍的なものになっているのかもしれないと思います。でも、それはつまり、戦争や経済発展の犠牲になる弱い立場の人々を苦しめる権力者側の力は今も働いていて、その構造はほとんど変わっていないということでもあるのかもしれません。

弱い立場の人々に寄り添いながらその声なき声を伝えてきたユージン・スミスさんのような、優しくて真面目で勇敢なジャーナリストの方たちは、様々な場所で今も、権力と戦いながら活躍しているのだろうと思います。私のようなぼんやりの一市民が、様々なことを知ることができるのは、メディアの記者さんやフリーで行動しているジャーナリストの方たちのおかげなのだということが、近年は特によく分かるようになってきました。

先月の東京MXの「モーニングクロス」では、映画「記者たち」のロブ・ライナー監督に堀潤さんがインタビューをしていたのですが、その中でロブ・ライナー監督は、国民が真実を知ることは本当に重要なことだ、国民が真実を知らなければベトナム戦争やイラク戦争のような惨劇が起こってしまう、自由で独立した報道がなければ民主主義は生き残ることができない、と話していました(日本語訳です)。

インターネットが普及している現代のプロパガンダについて、「フェイクニュースという概念だったり、トランプ大統領がマスコミを“国民の敵”と呼んでいたり、こういった洗脳めいたものや情報操作で人々の頭にガセネタを植え込んでいる。これは権威主義の基本的な信念であり、戦略だ。基本的に大衆に大衆が喜ぶような聞きたいことを聞かせて現実を捻じ曲げながら『私が皆のために解決する』と言い、混乱させながら依存させる考えを植え付ける。今ではそれが恐ろしいことになっている。世界中で起こっているからだ。あちこちで起こっている。民主主義と独裁主義の間で本物の戦いが起こっているのだ」とロブ・ライナー監督は危惧していました。番組では、ニュース報道はビジネスとは切り離すべきだ、政府を追及する時ジャーナリストは正義の“代表”ではなく正義の“味方”であるべきだ、メディアと国家権力の在り方が問われているが、今はメディアが権力に依存している、メディアは権力を称賛することで自らが権力を持とうとしている、メディアの信用が失われているのはそのジャーナリズム精神を捨てたところから始まっている、“自発的隷従”からどう脱するかを考えなくてはいけない、というようなことが言われていました。短かったのですが、良い特集でした。

TBSで2016年に放送されていた「JNNルポルタージュ 報道の魂」の「言論のちから 民主主義のかたち~ヒトラーを生まないために~」では、言論を通して民主主義を強くしたいという思いで「言論NPO」を立ち上げたという、その代表の工藤泰志さんを取材していました。工藤さんは、新聞社や出版社に勤務し、『論争 東洋経済』の元編集長などを務めた、青森県出身の方だそうです。私は、2016年に録画しておいたままになっていたこの番組を、先月になってようやく見ることができました。2019年の今の「言論NPO」や工藤泰志さんが、当時と同じ志を持ち続けているかどうか、私には分からないのですが、政治家の公約を市民はチェックしなくてはいけない、市民が強くならないと民主主義は機能しない、ということは、今でも重要というか、今こそ重要なことであるように思えました。

工藤さんは、今の課題を解決することに知識層は本気で挑んでいない、自分の地位を維持するための手段を自己目的化している、自分の地位を守ることを目的としていると話していたのですが、政治家と市民をつなぐ知識エリート層やマスメディアが市民の不安(=ポピュリズム)に向き合わないでいることが、民主主義の存続の危機につながり、市民の不安を利用して既存の政治家や知的エリートを攻撃することで大衆を引き付けようとする政治家(=ポピュリスト)が出現する、ということのようでした。(安倍内閣の大臣たちが集団的自衛権の行使を違憲と判断する多くの憲法学者たちを学者という理由で否定しようとしていたことを思い出します。)

市民が強くならない限り民主主義は強くならないと考え、言論による民間レベルの外交(言論外交)を進めているという工藤さんは、安倍政権の「集団的自衛権の行使容認」や「積極的平和主義」を自分たちの国益しか考えていない、戦地で人が死ぬことを考えていないと批判し、市民やメディアは自分たちが選んだ現政権がどうなのかをチェックしてほしいということを話していました。今は世界の民主主義国の各地で、民主主義自体に疑問を持つ人々も出てきているのだそうです。でも、民主主義(民主制、民主政治)が完全にすばらしいものというわけではなかったとしても、今のところは(人類史上?)最良のものなのではないかと思います。民主主義よりも独裁主義や国家社会主義や共産主義や全体主義のほうが良いという風には、私にはまだ思えません。民主主義の存続には、人々の絶え間ない努力が必要なのだそうです。

もしも、ユージン・スミスさんが今も生きていたなら、この世界を、この日本を、どう見るのだろうかと思います。

沖縄県の県民投票の「反対」の結果を無視しながら、名護市辺野古の珊瑚礁の海にアメリカ軍基地の滑走路を新設する(本当は何を建設するのでしょうか)という埋め立て工事を強行している政府の、沖縄には沖縄の民主主義、国(日本)には国の民主主義がある、との謎の発言には、民主主義というか、そもそも国民や市民を重視するという考え方が足りないような気がします

NHKのBS1の「BS世界のドキュメンタリー」で放送されていた「NYタイムズの100日間」(前後編でした)は、ドナルド・トランプ大統領から“フェイクニュース”だと目の敵にされながらもしっかりと「権力の監視」を続けるアメリカの大手新聞「ニューヨークタイムズ」の記者たちが、トランプ政権の最初の100日間をどのように報道していったのかを伝える特集でした。民主主義を守ろうとする新聞記者たちの仕事を見せるドキュメンタリーとしても面白かったので、日本でもこのような(現政権に従属せず、そのの権威主義的な在り方に毅然と立ち向かっていく真面目な新聞記者たちの仕事を伝えるような)ドキュメンタリー番組を制作すればいいのにということも、少し思いました。

1918年生まれの写真家のユージン・スミスさんと、先月の2月24日に96歳で亡くなった、1922年生まれの日本文学研究者・日本文化研究者のドナルド・キーンさんは、4歳違いですが、同世代ともいえると思います。ドナルド・キーンさんが2015年の8月にBS-TBSの「週刊報道LIFE」に出演した時の映像を、先日のBS‐TBSの「報道1930」のキーンさんの追悼特集で一部放送していたのですが、反戦主義者・平和主義者であるということを断言していた、先の大戦を知るキーンさんは、「戦後の平和と民主主義のおかげで、日本全体は、現在を日本の歴史の上で最良の時代だと感じています。けれども、もし日本人がこの幸福を軽んじたらどうなるでしょう。経済的・政治的な目的を達するために、あるいは単に戦争の恐ろしさを知らぬゆえに、平和も民主主義も犠牲にして構わないという者たちによって、いかにたやすくその幸福は壊されてしまうか、もしも人々がそれに気付いていないとしたら、日本人の幸福を守るには、この国で最も古い呼び名の持つ意味を決して忘れないことです。そうです。 『大和』。古来この国の名は『大いなる平和』と書かれていたのです。」という言葉を、私たちに遺していました。

一昨日の報道によると、日本天文学会は、2017年3月に軍事目的の科学研究を否定する声明を出した日本学術会議に続き、「人類の安全や平和を脅かすことにつながる研究や活動は行わない」とする声明を発表したそうです。私はこの報道を、16日の夜のNHKのニュースで知りました。議論のきっかけとなった、防衛省が研究者に資金を出すという「安全保障技術研究推進制度」への応募の可否については、若手研究者を中心にその制度に賛同する意見(研究費が減らされているのだからその制度を使うべきだとか、世界情勢を考えると国防に協力すべきだなど)も出ているそうで、その選択は3300人の天文研究者の自主性に任せることにしたそうです。

積極的に軍事協力したい研究者もいるそうで(そのような科学者は昔も今も世界中にいるのかもしれませんが)、日本天文学会の柴田一成会長は、若い世代ほど防衛省の制度に賛成する意見が多くなっているということについて、(自分たちの世代とは)考え方がかなり違っていて驚いた、若い研究者には戦争への嫌悪感がなくなっている、科学者として軍事につながる研究かどうかを慎重に考えないといけないと話していました。

上手く伝えることができないのですが、「戦争への嫌悪感」という言葉を聞いて、この「戦争は嫌だ」というある種の素朴な「戦争への嫌悪感」こそが、戦争をなくすため(人間が戦争をしないようにするため)には必要な要素なのかもしれないと思いました。片渕須直監督の2016年のアニメ映画「この世界の片隅に」(とても良い映画でした)が公開された頃、映画の広告に書かれていた、戦争時代を描いている映画だけれど「反戦」を声高に叫んでいないところが良いというような感想を読んで、少し不思議に思ったことがあります。

今の若い世代(30歳代以下くらいのことでしょうか)の人々が、「戦争は嫌なものだ」とか「戦争は絶対にしてはいけない」とか、「反戦」とか「非戦」などの言葉に否定的な印象を持っているのだとすれば、それはつまり、今の日本国憲法を変えようと考えてまで、アメリカと自衛隊とを“一体化”させるために戦争のできる国を作ろうとしている現内閣の政治家たちの軍備・軍需産業の拡大(空母を造ったりミサイルを開発したりすると言われています)の思想と親和性が高いということにもなるのかもしれませんし、多くの人たちが日々の自分の生活に忙しく、立ち止まってよく考えることができないという現代の社会の在り方とも関連しているのかもしれません。

あるいは、人を殺したり傷つけたり人に殺されたり傷つけられたりする、一度始められてしまったらいつ終わるか分からないような、国家間による戦争という、巨大な暴力に対する嫌悪感や拒絶感のない方たちは、例えば日頃の自分の怪我などの身体的な痛みに対しても、あまり気にならないものなのでしょうか。

戦争への嫌悪感がないという研究者の方たちは、「軍事的研究」や「軍拡」から「戦争」を連想しないのかもしれませんが、私は、戦争のことを考える時、その被害や加害を自分のこととして考えてしまいます。例えば、映画「この世界の片隅に」の主人公のすずさんも、爆弾で手首を吹き飛ばされてしまいましたが、戦争が起きたなら(大きな自然災害に巻き込まれた場合もそうかもしれませんが)私や私の周囲の人たちも、死ぬかもしれないというだけではなく、手足や顔や胴体に信じられないような大怪我をすることになってしまうかもしれません。少しも望まない嫌な体験を、理不尽な命令によってたくさんさせられることになるかもしれません。日常が突然破壊されてしまう戦争や紛争のことを嫌だなと思うのは、痛いのや苦しいのは嫌だなとか、眠れないのや不潔なのは嫌だなとか、そのような単純な感覚で良いような気もします。私も約74年前の世界戦争を直接知らない一人なのですが(祖父に戦時中の話を聞いたことがあるくらいです)、戦争について直接知らなくても、戦争は嫌だという感覚を持つことはできるように思います。

公共放送の要素が失われつつあるNHKの夜7時のニュース番組は、国会中継放送のあった日でも、その中からなぜか「新元号」の話題を選んで流していました。今の元号の「平成」の時代が終わっても本当には時間はそこで区切られないものなのですが、何となく区切られたように感じている間に、平成時代よりも昔の昭和時代の世界大戦時を描くドラマや映画などの映像作品は、時代の移り変わりと共に、少しずつ制作されなくなっていくのかもしれません。以前には戦争のドラマや映画がたくさん作られていたためにそう思ってしまうのかもしれませんが、それもまた新たな「若い世代」の人々の戦争や暴力への嫌悪感を薄め、戦争や暴力への抵抗感を弱めることにつながってしまうような気がして、何となく不安に思えるのです。今日は「9.11」の同時多発テロ事件を受けたアメリカがイラク戦争を開始してから16年という日で、平成時代の日本に直接的な戦争や紛争はありませんでしたが、海外の各地では戦争や紛争が起きていますし、日本もその戦争や紛争に加担しています。

日本天文学会の反軍事研究の声明に関しては、確かに、天文学に使う技術や研究と軍事に使う技術や研究とは重なり合う部分も多いのだろうとも思うのですが、例えば「ドラえもん」の場合と同じように、その道具をどのような性質の人間がどのような目的で使うのかというところにかかっているように思えます。ユージン・スミスさんの写真「楽園への歩み」の言葉にあったように、それは、人類を信じることができるか、という問題なのかもしれません。

民法にある「懲戒権」という権利のこと

一昨日の報道によると、国会での議決の際に妊娠中や出産前後の国会議員(女性議員)にインターネットを使った遠隔投票を認める制度について、安倍晋三首相が総裁を務める自由民主党は今国会での導入を見送る方針を固めたのだそうです。

新聞の記事によると、その理由は、議決は出席議員で行うと定めた憲法に抵触しかねないとの懸念に配慮したというものだということのようなのですが、この記事を読んで、“少子化対策”にも“女性活躍社会”にもつながらない、女性議員差別の理由のようにも思えました。差別というか、少なくとも子供を生みたい女性議員を不利にするものであるように思います。日本国憲法の第56条には「出席議員」とありますが、何を「出席」とするかということなら、例えば、妊娠中や出産前後の女性議員は議決の際に国会の座席に着いていることができなくても「出席議員」として遠隔投票を認める、という風に決めれば良いのではないのかなと思いました。

また、政府は、民法第822条で親権者に認められている「懲戒権」に関して、「親権者が子に反省を促すべく注意をしようとしたところ、子がこれに応じずにその場を立ち去ろうとしたため、子の手を取って引き止め、説教を継続する行為は懲戒に該当する」とする答弁書を15日に閣議決定したのだそうです。

今、親による「躾(しつけ)」と称する子供への虐待行為が問題となっている中、児童虐待防止法に体罰禁止を入れるかどうかが検討されていて、明治時代に作られたという「懲戒権」(私は最近の報道でこの権利のことを知りました)の削除も指摘されていますが、現内閣はそのような謎の答弁書を閣議決定してまで(閣議で決定したというだけで国会では決定していないのですが)「懲戒権」を残したいということなのかなと、不思議に思いました。そもそも、親権者が子供を懲戒するということを、あえて権利として法律で定めている(国が親権者に許可している)意味が、よく分かりません。なぜ明治時代の政治家たちはあえて「懲戒権」という権利を法律の中に作ったのでしょうか。

先月のTBSの日曜日の朝の報道番組「サンデーモーニング」の最後のほうの、コラムのような「風をよむ」のコーナーでは、「躾」と「虐待(暴力)」について考えていました。

2011年(平成23年)5月に一部改正されたという民法の「懲戒権」は、「親が子供を戒める権利」で、親が子供を「叱る、殴る、捻る、縛る、押入れに入れる、蔵に入れる、禁食せしめる」権利なのだそうです。「子供の利益になる場合に限って」とか「必要な範囲内で」などとされてはいるそうなのですが、その範囲は曖昧です。

「懲戒権」を削除すべきかどうかが国会で話し合われていた当時の江田五月法務大臣は、「懲戒という言葉をなくすと今度は躾もできないのではないかと誤解されることもあるいは出てくるかもしれない」と削除に反対していたそうです。

16世紀から18世紀の江戸時代に来日した外国人の多くは、子供に体罰を行わない当時の日本人の親たちの姿に驚いていたそうです。イエズス会の宣教師のルイス・フロイスは「日本では子供を育てるのに懲罰ではなく言葉で戒めている」と書き残しているそうです。スウェーデンの医師のツュンベリー(カール・ペーテル・ツンベルク)は、「子供を打つ、叩く、殴るといったことはほとんどなかった」と書き残しているそうです。

山梨県立大学の人間福祉学部の西澤哲教授は、明治期以降にヨーロッパやキリスト教文化圏から移入された考えに基づくものが日本の躾で、生まれ持って悪魔を心に宿していると考える性悪説によって子供は叩かないとだめな大人になってしまう思想に基づいた体罰という方法を日本は無批判的に取り入れた、それが昭和に入る頃軍国主義的な教育に持ち込まれることになる、富国強兵政策が入ってきて、体罰も日常的に行われるようになったのだと思うと話していました。

戦後、子供の見方が変わり、子供は他人としての権利を持つ主体であるとして、国連は1959年に「児童の権利宣言」を、1989年に「子どもの権利条約」を採択したそうです。日本は1994年に批准したそうです。しかし、2017年の「セーブ・ザ・チルドレンジャパン」の調査によると、しつけのために子供に体罰を加えることについて、「決してすべきではない」は43.3%、「他に手段がない時のみすべき」は39.3%、「必要に応じてすべき」は16.3%、「積極的にすべき」は1.2%だったそうです。体罰を、6割近くの親が認めている、または容認しているということでした。しつけとして子供を叩いたことがあるという親は、70.1%だったそうです。

なぜ体罰を肯定する意識がなくならないかということについて、西澤教授は、「叩いてでも言うことを聞かせるのが親の務めだ」という体罰肯定感を持つ人の多くが、自分自身が暴力を受けて厳しく育てられた人たちで、自分がやられた方法と同じ方法で子供のことをコントロールしようとする、人間というのは誰しも自分の過去を肯定したいという思いが強いので、不適切な、叩かれるというような養育を受けたとしてもそのことを肯定したいのだろうと思うと話していました。

今年の2月7日、国連の「子どもの権利委員会」は、日本で子供への虐待などの暴力が頻繁に起きていることを懸念し、日本政府に対策を求める勧告をしたそうです。そして、国会でも、超党派の議員たちが「懲戒権」の規定を見直そうと動き始めたそうです。

虐待、いじめ、少子化など子供に関わる問題が深刻化する今、子供という存在にどう向き合うのか社会が試されています、ということでした。

小さな子供にも大人と同じ人権があるということがなかなか感覚的には分からないところが親にはある、親は上から目線で子供を見てしまうと、司会の関口宏さんが話しているのを聞いて少し驚いたのですが、でも、そのような大人たちは、もしかしたら多いのかもしれません。

西澤教授の意見も、良かったです。私も、体罰を肯定する人たちの多くは、体罰を受けて育ってきた人たちで、その体罰のおかげで今の自分があるのだという風に、自分の過去とそこからの今の自分を肯定的に捉えている人たちなのだろうなと、何となく思っていたからです。でも、「虐待」や「体罰」が親から子へ受け継がれている場合は、親のほうにそれ以外の子供への接し方が分からないというような場合もあるのかもしれないとも思います。

子供は親の物ではなく、「叱る」ことと親の感情に任せた「怒る」ことは別のものなので、暴力や傷害は駄目だということを人々は共有しなくてはいけないが、社会不安や経済格差の中で親たちが追い詰められているということも考えなくてはいけない、「ブラック企業」や「ブラック部活」のような、自分たちの支配層に「NO」と言えないまま堪えて死ぬという日本社会の構造を変える必要がある、というような意見が番組のコメンテーターの方たちからは出ていました。

私は、親には叩かれたことはないのですが、小学校の担任教師には叩かれたことがあります。言葉よりも先に手が出るという、暴力的な教師がいたのです。先生、先生と他の児童たちのように親しまない私のことを、その教師は嫌いだったのかもしれません。

だからということではないのですが、殴られたり叩かれたりして嬉しい気持ちになる子供など、私はいないと思います。嫌な気持ち、加害者に対して憤る気持ちにしかならないと思います(殴られて嬉しい気持ちになる子供がいるとすれば、それはかなり変わった子のように思います)。間違っているということを注意したいのであるなら、ごく普通に言葉の通じる子供に対しては、言葉で注意をするので十分であるように思います。多くの子供は決してバカではないので、親がちゃんとその子の顔を見て説明をすれば、きっと分かってくれると思います。

言葉で親が訴えただけではすぐには分かってくれない子も中にはいるかもしれませんが、そのために現代でもあえて民法の「懲戒権」が必要であるということにはならないように思います。基本的には子供を物理的に殴ったり蹴ったり、精神的に痛めつけたり傷つけたりしないでほしいという、ただそれだけのことなのではないでしょうか。

例えば、今は小さな3歳の子供も、10年経てば13歳、20年経てば23歳、30年経てば33歳、40年経てば43歳になるのです。嫌な記憶は、いつまでも、何となく残っているものです。子供が嫌な気持ちになるとしても、それでも子供をしつけとして殴る親は、その子供が成長して大人になった時、自分も同じように殴られるかもしれないということを、あまり考えないのでしょうか。それとも、それも覚悟して殴っているのでしょうか。自分がいつか殴られる側になるかもしれないことを恐れて子供(他者)を殴らないということではなく、自分がされて不快だったこと、あるいは自分がされたら嫌だなと思えることは他者には行わないということが、(それはごく普通のことのようにも思えるのですが)大切なことであるように思います。

子供を叩かずに言葉で戒めていたという江戸時代の親たちはすごいなと思うのですが、その子育ての様子を見た外国人の方たちは、江戸時代当時の日本のどの地域で見たのでしょうか。そのことは番組の中では特に言われていなかったのですが、もしも江戸(現在の東京)やその近郊の話であったのなら、もしかしたら、分かりませんが、例えば江戸幕府を倒して明治新政府を作った薩長土肥などの藩士の方たちの生まれ育った西日本の?地域、明治時代の法律に「懲戒権」を作った議員の出身地域には当てはまらないものだったのかもしれないなとも思いました。

ニュージーランドのモスク銃乱射テロ事件、「災害弱者」のことなど

昨日の報道によると、ニュージーランドのクライストチャーチの2か所のモスク(イスラム教の礼拝堂)で銃乱射事件が発生したそうです。49人の方が亡くなり、48人の方が負傷したそうです。ニュージーランドの警察の記者会見には手話通訳の方もいました。

日本では、この銃乱射事件の犯人たちのことを過激思想の持主と報じていますが、犯人の一人が国籍を持っていたというオーストラリアのスコット・モリソン首相は、犯人たちのことを暴力的な極右テロリストと呼んでいるそうです。殺人の様子をインターネットで中継していたという犯人たちは、「犯行声明文」も出しているということなのですが、実際に、ヘイトクライムの事件なのだと思います。

事件の起きたニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相は、この差別主義者による銃乱射事件をテロ事件と認定していました。アーダーン首相は、暗黒の日となった、犯人はニュージーランドはおろか世界に存在してはならない思想の持ち主だと発言し、オーストラリアのモリソン首相は、私たちは極右による暴力的な犯行を絶対的に非難すると発言していました。

神奈川県相模原市の障害者福祉施設「津久井やまゆり園」で起きた殺傷事件もヘイトクライムのテロ事件だと思うのですが、その「やまゆり園」の殺傷事件の直後、安倍晋三首相や菅義偉官房長官も、このくらいのことを言うべきだったと思います。「やまゆり園」事件の直後も今も、安倍首相や菅官房長官は、差別主義者やその人物による殺人を非難する声明を出していません。

ニュージーランドは世界で2番目?に安全な国と言われているそうなのですが、そのようなニュージーランドで起きたモスク襲撃テロ事件のようなヘイトクライムの事件は、世界中のどこでも、日本でも、起こり得る事件なのだろうと思います。防犯カメラなどを今以上に多く設置したとしても、監視社会を今以上に強めたとしても、差別と排除の思想が人間の中からなくならない限り、完全には防ぐことができない事件のような気がします。というか、監視社会を強めたならますます差別主義が横行するような気もしますし、どちらにしても、閉塞感を拭うことはできません。


昨夜のNHKの「ニュースウォッチ9」では、東京都福生市の公立福生病院の人工透析治療中止死亡事件のことを少し伝えていたのですが、安倍政権がアメリカ政府から高額で自衛隊基地内に導入することを独自に決めたというミサイル防衛システム「イージス・アショア」の配備計画の候補とされている県の秋田県と山口県のうちの、山口県の阿武町の花田町長が、Iターンの町づくりが順調に進む中、街と住民たちを守るために「イージス・アショア」の配備に反対している、ということを伝えていました。

アメリカと「100%共にある」と公言している日本政府は、日本国民よりもアメリカのほうを向いているのかもしれないのですが、日本が秋田県と山口県に置こうとしている「イージス・アショア」は自衛隊が導入したとしてもアメリカ軍のもので、大陸からミサイルが飛んできた際に、日本の土地ではなく、アメリカの土地(ハワイやグアム)を守るためのものなのだそうです。アメリカの土地が守られるのなら(「風が吹けば桶屋が儲かる」のように?)“同盟国”の日本の土地も守られると思うかもしれませんが、秋田県や山口県の住民(国民)の命が脅かされるのだとしたら、本末転倒になるではないかと思います。

政府が米軍新基地(滑走路)を建設するために強行している沖縄県名護市の辺野古の海の埋め立て工事の問題では、先日、珊瑚礁の海の地盤の軟弱性を補強する工事に3年8か月かかるという防衛省の見積もりが報じられていましたが、そのことと、宜野湾市の市街地にある普天間飛行場の返還が2023年以降になるということは本来別々の話なのに、テレビの報道番組では、まるで辺野古の工事が沖縄県民や玉城デニー沖縄県知事の反対によって遅れているために普天間飛行場の返還が遅れるかのような伝え方をしているように思います。政府の見解通りに伝えているだけなのかもしれませんが、それが報道の在り方として良いこととは、あまり思えません。

山口県の阿武町も、沖縄県の辺野古のように、住民の方たちが反対をしていても、配備が強行されることになってしまうのでしょうか。秋田県や山口県が、第二、第三の“沖縄辺野古”になってしまうのではないかと、不安に思いました。そして、これもまた、沖縄県や秋田県や山口県だけの問題ではなく、日本全体の問題として、他の都道府県の人々も考えなくてはいけないことなのだろうと思います。

2011年3月11日の東日本大震災の東京電力福島第一原発の爆発事故とメルトダウン事故で故郷を失い、避難生活を強いられた被災者の方たちの起こした訴訟の裁判では、裁判官たちは、東京電力に責任があることは認めても、国(政府)に責任があることは認めないそうです(千葉地裁は、津波は予見できたということは認めたそうです)。でも、東京電力は「半官半民」の企業ということなので、その企業が起こした大事故なら、津波などの自然災害への対策不十分の責任は、国にもあるのではないかと思います。

昨日の報道によると、愛媛県の四国電力伊方原子力発電所の再稼働した3号機の運転停止を求める山口県の島の住民の訴訟について、山口地裁は、住民側の申し立てを却下したそうです。伊方原発から西に130㎞の場所にある熊本県の阿蘇山で巨大噴火が起きる可能性は小さいから大丈夫だと、担当裁判官が判断したそうなのですが、裁判官に阿蘇山がいつ噴火をするか分かるものなのでしょうか。何かあってからでは遅いということを市民は心配しているのに、裁判所は、国や電力会社に忠告するでもなく、どうしてその市民のほうを抑圧しようとするのでしょうか。裁判官も、市民のほうではなく、国ほうを見ているのかもしれません。

旧優生保護法の下の強制不妊手術の被害者への補償や謝罪について、与野党の議員がまとめた救済法案の条文の前書きには、「心から深くおわびする」、「このような事態を二度と繰り返さない」という言葉も書かれているそうなのですが、その主語は「我々」となっているそうです。政策の責任は国にあるのですから、その責任者を「我々」として、日本国民全員に(国民全員の責任にするということは、その中には被害者も入ってしまうということになります)当時の行政の政策の責任を分散させるのは、欺瞞であるように思えます。どうして国は国民に謝らないのだろうと、いつも不思議に思うのですが、責任の所在は曖昧にせず、その法案の条文には、ちゃんと国の責任も明記するようにしたほうが良いと思います。

昨日には、東京福祉大学という大学の「研究生」と呼ばれる留学生が3年間で約1400人所在不明となって除籍され、同じ3年間で500人以上の「研究生」が退学となっていたことが分かったということが報じられていました(TBSの独自取材による報道だったようでした)。昨年度では、2700人の研究生のうち約700人が行方不明、約240人が退学となっているそうです。

政府は2008年頃から「留学生30万人計画」というものを実行していて、2020年までに達成させるとしているそうなのですが、この“消えた留学生”の問題は、安倍内閣が急いで成立させた改正入管難民法(出入国管理及び難民認定法)による「外国人技能実習生」と呼ばれる外国人労働者の受け入れ拡大の問題や、入国管理局の収容所への終わりの見えない長期収容という人権問題(精神を病んで自殺をする方もいるそうなのですが、13日の報道によると、長期収容されているクルド人難民の申請者が病気になり、救急車が来たそうなのですが、診断した入国管理局の看護師?の判断で救急車が追い返されて、病院へ搬送してもらえないという事態も起きていたそうです。家族や支援者が抗議活動を行っているそうです)とも、無関係ではないような気がします。

日本政府が社会的に弱い立場に置かれている日本人に対しても冷たいということを考えると、いわんや外国人をや、という風にも思えます。入国管理局の外国人収容者の問題は、どうしてなかなか改善されないのでしょうか。

今月の6日頃に放送されていたNHKのEテレの「ハートネットTV」の「シリーズ 平成がのこした“宿題”」の第8回「災害弱者」は、なぜ災害時の被災の格差は消えないのか、ということを、昭和時代から平成時代の災害と法律の歴史と共に伝える特集でした。障害のある人や病気の人や高齢の人の救済は、緊急事態でもある被災時には、行政の支援策の中から零れ落ちてしまう、という話でした。キャスターは中野淳さんで、NPO「ゆめ風基金」の理事の福永年久さんと熊本の弁護士の東俊裕さんが話をしていました。

2011年(平成23年)3月11日の午前中に「障害者基本法改正案」が当時の菅直人総理大臣によって了承されたそうなのですが、同じ日の午後2時46分に、東日本大震災の巨大地震が起きました。2年後の2013年(平成25年)6月19日に、障害のある人への不平等をなくすための「障害者差別解消法」が成立し、2日後には、「災害対策支援法」が改正されたそうです。2014年(平成26年)8月には広島に豪雨と土砂災害が起き、2015年(平成27年)9月には関東・東北豪雨災害が起きました。そして、2016年(平成28年)4月1日に「障害者差別解消法」が施行されたすぐ後、4月14日に熊本地震が起きたということでした。「障害者差別解消法」ができたのに、車椅子の人や目の見えない人は、避難所から排除されたそうです。

行政の側にも市民にも、何かが欠けていると、東さんは思ったようでした。東さんは、やはり法律ができるということはとても大きな影響力が本来はあるのだが、実際に起きてみるともう全くがっかりというか、これほどまでに災害支援の施策の中に(障害者が)位置づけられていないのだということをいやというほど感じました、と話していました。熊本地震の被害を受けた益城町の仮設住宅は、10戸に1戸は玄関先にスロープが付いているということだったのですが、部屋の中は全くバリアフリーになっていなかったそうです。その仮設住宅を見た東さんは、できたものは全く障害者がいないかのごとき社会を想定したものでしかなかった、と憤り、障害者は一般の人よりも大変であるにも関わらず(障害者を助けるものは)何もない、建前としては「福祉」という言葉が駆け巡っているが、いざという時には本当に何もないんだというのが本当にショックだったと残念そうに話していました。

2018年(平成30年)の7月の西日本広域豪雨災害を受けた岡山県倉敷市の真備町では、亡くなった人の9割が家の1階に暮らす高齢者だったそうです。その災害で亡くなった、知的障害のある母親と娘は、近隣の人々との交流がほとんどなかったそうです。東さんは、災害が“年中行事”となっている今、行政も市民もみんなが意識を変える必要がある、そのためには子供たちへの「防災教育」が欠かせないのだということを話していました。確かに、幼稚園生や小学生の頃から、障害のある人やお年寄りや外国から来ている人を助けるということを具体的に学んでいたなら、そのことへ意識を向けることのできるような人になるのかもしれないなと思いました。

宮内庁が24年かけて編纂した『昭和天皇実録』の5000か所に誤りがあったという報道にも、どうして出版後にそのようなミスが発覚するのだろうと驚いたのですが(校正者はいなかったのでしょうか)、「平成」に改元したことに関する公文書の公開を、政府が今年1月に3月末(31日?)に公開すると決めたのにも関わらず、4月1日に公表する新元号の選定に影響を与えるというような奇妙な理由で公開を「1年以上」延期することに変更したという報道も、謎です。今の政府にとって都合が悪いことでも書かれているのでしょうか。気になるなら2か月延期というくらいでも十分なような気がするのですが、「1年“以上”」延期とはどういうことなのだろうと奇妙に思いました。

今日の朝のTBSの「上田晋也のサタデージャーナル」(2017年の春に始まった、くりぃむしちゅーの上田さんが司会を務める報道系のニュース解説番組です)では、「官房長官会見」での東京新聞の望月衣塑子記者の質問に対して、内閣広報官が「質問は完結にお願いします」という言葉を質問途中に挟んで妨害したり、菅官房長官が苛立って「あなたに答える必要はありません」と発言したりしたことなどを取り上げ、政府の会見や記者の質問は何のためにあるのかということを特集していたのですが、番組では、望月記者の質問のどの部分が菅官房長官の言う「事実に基づかない質問」ということなのかは、検証していませんでした。その時の他の記者の質問との比較もしていませんでした。望月記者の質問を字幕付きで放送していたのは良かったと思うのですが、菅官房長官と望月記者のどちらも悪いという風にまとめるのは、良くないように思えました。番組で紹介されていた「官房長官会見」での望月記者の質問は、政府(沖縄防衛局)が辺野古の海に投入している土砂の成分は何かというものだったのですが、菅官房長官が思っているように赤土汚染がないのであるなら、政府は堂々と、沖縄県知事や一般国民に辺野古の海に投入している土砂の成分を公表すればいいのではないかと思います。2011年3月の放射性物質の飛散の時もそうでしたが、政府は、どうしていつも国民に事実を隠そうとするのでしょうか。

「平成最後の」や「新元号最初の」はしばらく続くのかもしれませんが、「日本らしさ」や「日本人らしさ」のような何かも、日本の歴史に中において、今も気付かない間に少しずつ変わっていっているのかもしれないなと思います。

ドラマ「女川 いのちの坂道」、「誰が命を救うのか 医師たちの原発事故」のことなど

明日は2011年の3月11日の東日本大震災から8年の日ですが、今日は第二次世界大戦の太平洋戦争の最中の1945年の3月10日の、民間人へのアメリカ軍の無差別爆撃によって、一夜にして10万人が命を落としたという東京大空襲から74年の日です。74年経った今も、東京大空襲を含め、当時の各地の空襲の被害の全容は解明されていないそうですし、被害に遭った一般住民たちへの戦後補償も十分に行われていないそうなのですが、少なくとも、私のように当時の戦争を直接知らない世代の日本人が戦争のことを忘れないように、メディアは戦争時代に何があったのかということや現代に続く敗戦後のことを報じ続けてほしいように思います。

昨夜のNHKのBS1の「BS1スペシャル」では、「天皇・皇后の肖像画」というドキュメンタリー番組が放送されていました。皇后美智子さまと長年交流のある画家の野田弘志さんが、天皇皇后両陛下の最初で最後の肖像画を、北海道のアトリエで写真を見ながら約3年半かけて丁寧に描き終えるまでを取材した特集でした。肖像画は、今は三の丸尚蔵館に展示されています(私はまだ見に行くことができていません)。絵画を扱っているという点では「日曜美術館」のようでもあり、ピアノを弾く美智子さまが美しかった話や、ユウスゲの話や、野田さんの友人の作家の加賀乙彦さんのアトリエ訪問などもあって、見応えがありました。

BSプレミアムでは、ドラマ「女川 いのちの坂道」が放送されていました。大津波の被害のあった宮城県女川町では、小学校卒業間際に被災した子供たちが、“1000年後の命を守ろう”と、津波が到達した21か所に「いのちの石碑」を建てる活動を始め、今も続けて行っているそうです。その実際の活動をもとにしたドラマということでした。脚本は岡下慶仁さん、演出は石井永二さんでした。

海の近くに取り残されたおばあさんたちを助けようとして津波に巻き込まれた母親の行方があの日から8年経った今も分からないままであることに苦しんでいる19歳の咲(平祐奈さん)が、坂の上に新しく建てられる「いのちの石碑」の除幕式に合わせて、東京で出会ったドローンオタクの交際相手(平埜生成さん)を連れて故郷へ戻り、町の人々と一緒に石碑まで登る避難訓練に参加する中、大切な命のつながりを実感していく、という物語でした。

報道によると、100年以上前の災害を伝える当時の石碑の中には誰かに退かされてしまっていたものもあるそうなのですが、2011年の東日本大震災の時にはここまで津波が到達したから今度大地震が起きたらこの石碑の場所かその上まで逃げてほしいということを伝える石碑は、やはり、絶対にあったほうがいいと思います。坂の上の石碑まで、あるいは神社までは、津波が来ると思って逃げたほうがいいのだと思います。

全編ドローン撮影のドラマということで、今の女川町の風景の全体を見渡すように映されていました。画面の安定感は少し足りなかったように思いますし、ダンサーを目指して上京したという咲さんの最後のダンスのシーンが、私には少し唐突のようにも思えてしまったのですが、母親が津波にさらわれるきっかけとなった、母親が助けたおばあさんを、咲さんが受け止める場面は良かったです。

同じ宮城県内でも都市部の仙台に暮らす20歳前後の人たちの中には女川や被災地に関心を持っていない人もいるということもドラマの中で言われていたのですが、それは他の都道府県でもそうなのかもしれないなと思いました。少し離れた地域のことが全く分からないということは、私にもあります。関心を持ち続けるということは、そうなるように意識していないとできないことなのかもしれません。

報道によると、東日本大震災の被災者の約5万2千人が今も避難生活を送り、仮設住宅では約3千人が暮らしていて、亡くなった人は1万5897人、行方不明の人は2533人いるそうです。

忘れることはできませんし、無理に忘れようとする必要もないのかもしれませんが、巨大地震と巨大津波、全電源を喪失した東京電力福島第一原子力発電所の水蒸気爆発とメルトダウンの大事故の重なった東日本大震災の甚大な被害を、岩手県や宮城県や福島県を中心とした東北や北関東の被災地で直接大きく受けた方たちのショックは、私には計り知れないものがあるのだろうと思います。

Eテレの「ETV特集」は、前回は「原発事故 命を脅かした心の傷」という、安住の地を失ったまま転居を繰り返す過酷な避難生活を送る中で心身ともに疲弊していく被災者の苦しみを伝える特集でしたが、今回は「誰が命を救うのか 医師たちの原発事故」という、3月11日から今まで経験したことのない“被曝医療”の活動に当たることになった地元福島や広島や長崎の医師たち、広島DMATの医師たち、自衛隊の医師たち、東京消防庁のハイパーレスキュー隊の人たちが、高線量の放射性物質の飛散する未曽有の災害に直面し、国からの正確な指示や東京電力からの正確な情報がない中で、戸惑いながらも、病気の人や怪我をした人や高齢の人たちの命を救うことに全力を注いでいたことを、当時の約3千枚の写真のデータと証言を基に伝える特集でした(もう少し長いものが「BS1スペシャル」の「緊急被ばく医療の闘い~誰が命を救うのか~」で放送されるそうです)。語りは、吉川晃司さんでした。

「ヨウ素」の錠剤の配布や原発から半径30㎞の圏外への避難を告げられた地域の病院の患者さんたちの移動などの対応が、8年前の当時の被災地でスムーズに行われなかったことについて、8年経った今から考えると、あの大変な災害時にはある程度は仕方のないことだったのかもしれないと、番組を見て思いました。

当時用意されていた災害対応のマニュアルは、現実の大災害時には通用しなかったそうです。高線量の放射線被曝医療の訓練を受けている医師も、当時はほとんどいなかったそうです。8年経った今は、マニュアルも進化し、被曝医療の訓練を受けている医師も全国に増えているのでしょうか。

震災直後から被災地で被曝医療活動に当たっていた、番組が取材をしていた医師たちは、福島大学や東北大学など、被災地に残る決断をしたそうで、今もそこで被災者を救う活動や被曝医療の後継者を育てる活動を続けているそうです。

東日本大震災の時の政府の対応について報道される際には、当然のことながら、当時の与党の民主党の菅直人総理大臣と枝野幸男官房長官の言動が報道されます。不安な気持ちになっている国民に詳細な情報を出さずに「直ちに影響はない」を繰り返していた当時の政府の対応は酷かったと思うのですが、一方で、長い間与党だった当時野党の自民党(自由民主党)や公明党が民主党の災害対応の協力要請を引き受けていたなら、もっと助かる国民はいたのではないかとも思います。

多くの医師たちが、大災害直後の大混乱の中で、ご自身も被災しながら、冷静に、放射線量の高い被災地の傷病者を助けていたということが、全体のごく一部なのかもしれませんが、この番組を見ていた私にもよく伝わってきました。

でも、今もしも東日本大震災のような大災害が再び起きたなら、やはりまた、多くの場所では、8年前と同じような状態になってしまうのではないかとも思いました。身体の弱い人や高齢者が、8年前と同じように、“避難所”に指定された学校の体育館の冷たくて硬い床に寝かされることになるのではないかと思います。

8年前の当時は、原発事故現場の30㎞圏内の病院から圏外のどこへ患者さんたちを避難させるかということも決まっていなかったそうなのですが(しかも、地面が壊れていたり、放射線量が高まり続けていたりして道路を普通に使うことができない状況でもありました)、弱っている患者さんたちを病院から避難させたとしても、避難させなかったとしても、その後に患者さんが体調を悪化させて亡くなったなら、この判断は間違っていたのかもしれないと、後悔するのではないかと思います。

とにかく、原発の廃炉にも時間がかかるそうですし、責任を負っているはずの国と東京電力(半官半民の企業だそうです)が事故の責任を取らない日本では、原発を再稼働してはいけないのではないかということを、番組を見て改めて思いました。原発産業の推進を掲げていた自民党の議員たちが東京電力福島第一原発の外部電源の位置を内陸側に移動させるべきだという他党の案を否定し続けたまま言い続けていた「原発安全神話」は、東日本大震災の時に崩れ去ったのです。8年前の2011年3月11日以降、国民の大多数がそのことを知ったはずです。原発事故が起きて放射性物質に汚染されたらそれまで人々が穏やかに暮らしていた街や地域がどうなるのか、それは8年経った今も続いている問題ですが、忘れてはいけないと思います。

昨夜のNHKの報道によると、NHKが岩手県と宮城県と福島県の被災者にアンケート調査を行ったところ、政府が「復興五輪」としている東京オリンピック・パラリンピックが復興の後押しにならないと考える人は6割いるということが分かったそうです。「復興五輪は誘致名目にすぎない」、「経済効果に期待が持てない」、「復興のための工事が遅れる」、「復興の途上で、開催時期が早すぎる」、「五輪のことを考える余裕がない」という項目を聞いて、それはそうだろうなと思いました。

国土交通省の調査で全国各地の建設に使う大型の高力ボルトが東京オリンピック・パラリンピック関連の建設や東京都心の再開発のために足りなくなっているという報道もあったのですが、それは招致が決まる頃から言われていたことです。「こども園」の建設が遅れるなど、市民の暮らしに支障が出ているそうです。

TBSの「報道特集」では、先日の「クローズアップ現代+」と同じく、被災地の町中に黒色や緑色の袋に入れられた状態で置かれたままになっている除染ごみや汚染土と呼ばれる放射性廃棄物が、「最終処分場」の場所が決まらない中、福島県内や県外の公共工事に「再生利用」されようとしている問題を報じていました(先週には、福島県双葉郡の前田川の上流の川魚の放射線量が高いという、放射性物質と食物連鎖のドキュメンタリーを伝えていました)。汚染された土を全国の公共工事に使うとか、汚染された水を海に放出するとか、原発の再稼働や輸出を計画するような今の政府の中枢の人々の中には、それを怖く思わない人のほうが多いのかもしれませんが、止めたほうがいいように思います。「対案を出せ」と言われたら、どうすればいいのか分からないのですが、でも、政府やそれに付随する企業が目先の利益や利権を追及するだけでは、日本は良くならないような気がします。

政府や東京大学は、地震に関しては、「南海トラフ地震」のことを最も心配しているようなのですが、東日本大震災のような、大地震と大津波に原発のメルトダウンと爆発の事故が重なるような大災害は、またいつ起きるか分かりません。

その災害から逃げることは、簡単にはできないことなのかもしれません。でも、その時、もしも私も誰かを少しでも助けることができる状態にあったなら、助けたいと思います。

「SCRATCH(スクラッチ) 差別と平成」

先日の日曜日の深夜1時(午前0時を過ぎているので月曜日でしょうか)にTBSラジオで放送されていた、「SCRATCH 差別と平成」という1時間の報道ドキュメンタリー番組を聴きました。

私は、「差別と平成」というタイトルが気になって聴いてみることにしたのですが、番組は、2016年(平成28年)の7月26日に神奈川県相模原市の障害者福祉施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が殺され、入所者と職員の27人が重軽傷を負った戦後最悪と言われている大量殺人事件を中心に、平成時代の「ヘイトクライム」について伝えるものでした。

昨年に放送された「SCRATCH 線を引く人たち」を加筆修正し、追加取材を加えて再構成したTBSラジオとRKB毎日放送(福岡県)の共同制作のドキュメンタリー番組ということでした。

SCRATCH(スクラッチ)とは、地面にガリガリと線を引く、という意味だそうです。番組では、「自分と他者の間に線を引き、向こう側の人々の尊厳や存在を認めない言動」をスクラッチ行為と名付けていました。

知的障害のある長男を持つRKB毎日放送東京報道部の神戸金史記者は、拘置所の植松聖被告に面会に行き、対話を重ねる中で(番組ではTBSラジオの鳥山穣さんが植松被告の言葉を朗読していました)、植松被告の考えの浅はかさや、障害のある子供を持つ自分の家族に向けられた謎の憎悪と向き合っていました。

番組の途中途中で聴こえてくる、何かを削る音が、記者の方の心が傷ついている音に聴こえました。

番組で聴いた限りでは、「障害者は生きている価値がない」として入所者を殺したり傷つけたりした植松被告の言う「障害者」とは「社会の役に立たない人間」や「社会の負担となる人間」を指している言葉のようでした。植松被告は、犯行後、自分が少しは「社会の役に立つ人間」になったと思ったそうです。植松被告のその「障害者」に対する憎悪と殺人事件は、もしかしたら、「社会の役に立たない人間」だった(と自分で思っていた)自分自身を、そのコンプレックスから脱却させるためのものでもあったのかもしれません。

最近は「テロ」ではないものにも「テロ」という言葉が使われているように思いますが、本来の「テロ(テロリズム)」は、社会の変革など政治的目的を実現するためにある思想に基づいて引き起こされる恐ろしい事件に対して使われる言葉であるように思います。1995年(平成7年)のオウム真理教の地下鉄サリン事件などが「テロ事件」と言われているように、この津久井やまゆり園での障害者殺人事件も「テロ事件」であるように私には思えるのですが、メディアではなぜかこの事件を「テロ事件」とは呼んでいません。

神戸記者は番組の中で、衝撃的だったこととして、植松被告が犯行前に大島理森衆議院議長(と安倍晋三総理大臣)宛てに政府に協力したい旨を記した障害者殺害の具体的な犯行計画の手紙を出していたことにも少し触れていました。植松被告が大森衆議院議長と安倍首相宛てに手紙を出していたことや安倍首相(あるいはその支持者たち)の思想(考え)にシンパシーを感じていたということは、事件直後以降、ほとんどメディアでは触れられなくなっていることのように思いますが、この相模原市の津久井やまゆり園での障害者殺人事件に関して、忘れてはいけない重要な点であるように思います。

実際に、「お見舞い申し上げます」とか「再発防止策を検討します」とか述べていた安倍首相や政府は、植松被告が起こした障害者殺人事件を非難したり、障害者差別思想や「ヘイトクライム」に嫌悪感を表明したりするような声明を今も出していません。

植松被告の初公判はまだ行われていないようなのですが、国家的使命を背負っているかのように?犯行に及んでいたらしい植松被告が記者に話していたという、拘置所での暮らしがつまらないというような台詞を聴きながら、もしかしたら植松被告は天皇の代替わりの「恩赦」によって自分が釈放されるかもしれないとどこかで期待しているのではないかということも、何となく思いました。

他の国でもそうなのかもしれませんが、時の政治指導者の姿勢、“平成時代末期”の日本では、江戸幕府を倒して富国強兵を目指した150年前の明治新政府を称賛したり、「教育勅語」を現代の子供たちの“道徳教育”に取り入れようとしたり、「ナチスの手口に学べ」と考えたり、現行の日本国憲法の平和主義や個人の規定を否定しようとしたり、「LGBT」(性的マイノリティ)の人々のことを「生産性がない」と寄稿したり、「私は森羅万象を担当している」とか「私が国家」とか発言したり、沖縄県の人々の辺野古の海への新基地建設工事反対の民意を無視するために「日本の民主主義」と「沖縄の民主主義」とを分けたりするような国会議員を抱える安倍内閣の施政の在り方、弱い立場に置かれている人々を社会から切り捨てるような政策が、それまでにも一部の人々の中にあった「ヘイト」を可視化できるほどに表面化させ、増幅させているのではないかと思います。

相模原市の津久井やまゆり園で46人の人を殺したり傷つけたりした犯人が、自分の作った基準(名前や住所を言えるかどうかだったそうです)によって、殺すべき障害者と殺すべきではない障害者という風に、その間に線引きをしていたということも、怖いことだと思いました。

でも、私も、私の中には全く差別意識がないとはっきりと断言することができません。差別をしているつもりがなくても、誰かのことを、あまり関わりたくはないなと、どこかで差別してしまっているのかもしれないと思います。例えば、私は「ヘイトスピーチ」のデモ行進を報道などで見たことしかなく、実際に遭遇したことはないのですが、もしもいつか遭遇した時に「やめてください」と声を上げてその「ヘイト」を叫ぶ人々を止めることができるかどうかと考えてみると、怖くて、まだできないような気がします。

安倍首相たちの考えやそれにシンパシーを感じて殺人行為に及んだ植松被告の考えに共感することは、私にはできないですし、その考え方がこれからも世の中にあり続けることを怖く思うのですが、例えば生活保護の話も含め、そのような社会の「危機」が可視化されてきたからこそ、それについて多くの人が考えることができるようになるという部分は、確かにあるような気がします。

そもそも「社会の役に立つ存在」というものに人間としての高い価値を置くような考え方は、人間が社会を形成して生きる動物である間は、それが一般的ということなのでしょうか。何に価値を置くかは、人によってそれぞれだと思いますが、人間は「社会の役に立つ存在」にならなくてはいけないとする考え方は、少し窮屈です。

障害のある人を殺したことについて「社会の負担を減らすため」、「母親の負担を減らすため」だと言うのは、犯人の言い訳に過ぎないと思います。子供を虐待して傷つけたり殺したりしたことについて「躾けのため」だったと言う悪い親たちと、それほど変わらないと思います。

インターネットが普及した現代の、平成時代の日本では、「未来(将来)」があやふやなものになり、経済的格差や差別の意識が広がって、人々の不満や不安や苛立ちが可視化されるようになった一方で、それではいけないと、それに抗う人々も目に見えて現れてきたような気がします。気になった本の全部を買って読むことができないのがとても残念なのですが、本屋さんへ行くと、良い本が本棚にたくさん並んでいるのを見ることができます。作家の方も、本屋さんも、世の中を少しでも良くするために、頑張っているのだと思います。

現政権の不正を国会で追及している野党議員の方たちが、いまいちまとまらず、2011年3月11日の東日本大震災やそれ以降の時々の大きな災害の後遺症の残る世間に訴える力が少し弱いので、まだ今の自民党の奇妙な一強体制は続いていますが(日本政府の話題よりも外国政府の話題のほうを連日大きく取り上げるマスコミの責任もあると思います)、それもいずれは、朽ちながら、終わっていくのだろうと思います(終わるといいと思います)。

久しぶりに深夜1時の放送時間にラジオを聴いてみたので(最近は深夜1時台のラジオ番組を聴かなくなっていました)、そのためにより怖く、憂鬱に思えた部分もあると思うのですが、良いドキュメンタリー番組だったように思います。途中でCMが挟まれなかったところも良かったです。

「自分と他者の間に線を引き、向こう側の人々の尊厳や存在を認めない言動」をこの番組ではスクラッチ行為と呼んでいたのですが、自分が「こちら側」ではなく「向こう側」の人々の一人かもしれないということを想像することも大切なのだと思います。自分の中の弱さを見つめる問題でもあるのかもしれません。「差別と平成」は、平成時代が終わって次の元号の時代が始まっても、引き続き、考え続けていかなくてはいけないことなのだと思いました。
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