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昨日の自民党総裁選と、新潮社の「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」

昨日には、与党・自民党の安倍晋三議員と石破茂議員とが立候補した総裁選の投開票が行われていました(最大与党の総裁選は、総理大臣を決めるものでもありますが、その選挙に参加できるのはその党の議員と党員だけです)。

NHKなどでの中継の様子を放送時間に見ることはできなかったのですが、昨夜のテレビ朝日の「報道ステーション」やTBSの「NEWS23」などの報道番組を見て、現総裁(現総理大臣)の3選という結果を知りました。

国会議員票410票と党員票410票の計810票(実際には807票?)で争われた自民党総裁選は、安倍議員が議員票・329票と地方票・224票の計553票を獲得し、石破議員が議員票・73票と党員票・181票の計254票を獲得したそうです。メディアでは現職の安倍総裁(安倍首相)の3選は確実だと予想されていたのですが、自民党員というわけではない一般市民の私は、そうは言っても投開票日までは分からないと思っていたので、その結果を単純に少し残念に思いました。でも、石破議員の国会議員票は想定されていたよりも約20多く、地方票(党員票)も想定より多かったそうです。安倍首相支持者の麻生太郎財務大臣は、選挙は内容ではなく結果が全てだというようなことを言っていましたが、安倍首相支持側からの圧力や脅しがあったという中、「正直・公平・公正」を掲げる、小さな派閥の?石破議員はやはり「善戦」したということなのだろうと思います。石破さんに国会議員の支持者が増えない理由は、何なのでしょうか。「本ばかり読んでいる」からでしょうか。一緒にお酒を飲んだり遊びに行ったりする“お友達”が増えれば支持者が増えることになるのでしょうか。でも、それも何か違うような気がします。

メディアが前回石破議員を支持した自民党の衆議院議員として注目していた小泉進次郎議員は、前回同様に石破議員に投票したそうなのですが、石破議員支持を記者たちに表明したのは投票の数十分前だったそうです。投開票後のぶら下がりの質問に、石破議員支持について「私の中では決まっていた」と答えた小泉進次郎議員は、もっと早く意思表明すれば良かったのではないかということを記者たちに訊かれて、「もっと早く表明したら私の望む形にならなかったと思う」と答えていました。もしも小泉進次郎議員が石破議員を新しい総裁にしたいと考えていたのなら、自分の発言が「票を動かす」ものとしてメディアで注目されていることを自覚している小泉進次郎議員は早くに意思を表明していたことだろうと思いますし、石破議員を支持していたとしながら石破議員への支持を集めるためにメディアを利用しなかったということは、安倍政権の政策を時々は批判していることもあった小泉進次郎議員は“自民党の多様性”を世間に示すための、石破議員支持派に見せかけた安倍議員支持派なのかもしれないと思います。政治家として与党内で生き残ることは大事なのかもしれませんが、そうだとしても、もっと早くに石破議員支持を表明していたなら(安倍議員支持ではないことを表明していたなら)、タレント性のある小泉進次郎議員は、勇敢な国会議員に見えたのではないかなと思いました。以前は私も小泉進次郎議員に頑張ってほしいと思えていたのですが、最近は小泉進次郎さんがどのような政治家になろうとしているのかがよく分からなく思えてきました。

自民党総裁選の報道に関しては(総裁選を控えた候補者たちの「討論」については、自民党の総裁選ということもあってか『日本国憲法』の改正を行うこと前提に話が進められていたことや、知事選を控える沖縄県の辺野古の米軍基地建設問題やロシア外交と北方領土問題の話題に触れていなかったことなどにも少し違和感はありましたが)、大手テレビ局などのメディアは、このような考えの人物、このような発言をする人物が次の総理大臣(最大与党の総裁)で本当に良いと思いますか、ということを、政治的に「中立」であろうとするあまりに?国民にちゃんと伝えようとしていないのではないかというような気もしました。自民党員の方々の投票が行われたという19日の夜の(「過保護のカホコ2018~ラブ&ドリーム~」の後の)テレビ東京の「ワールドビジネスサテライト(WBC)」の、「今時の自民党員とは」、「自民党員の本音とは」という特集が、短いものだったのですが、何となく新鮮で面白かったです。取材に応じていた何人かの自民党員の方々は、石破さんのお年寄りが誇りを持てる社会にしたいという演説に感動したが安倍さんを支持していたほうが自分に有利になる感じがする、小泉進次郎さんは自分が票を動かせるという自惚れを持っているからあまり好きではない、自民党員は5人いれば5人違う意見を持っている、というようなことを話していました。あるいはこの特集も、(投票が終わった19日の夜ではなく)18日までに放送されていたなら、もっと良かったのかもしれません。

昨夜の「NEWS23」では、LGBT(性的少数者)の方々を子供を生まないから「生産性」がないなどとする内容の自民党の杉田水脈議員(前回の衆議院議員選挙で自民党の中国ブロックの比例代表の1番目だったそうです)の文章を掲載した新潮社の「新潮45」という雑誌の最新刊が杉田議員の発言を擁護するだけではなく、さらにLGBTと犯罪の「痴漢」とを同じものと見なして「痴漢」の触る権利を認めるべきという性犯罪を擁護する内容の謎の文章を掲載したということなどについて、新潮社の内部(新潮社出版部文芸)の良識的な方たちが明治時代に前身となる新声社を設立した新潮社の創業者の佐藤義亮さんの「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」という言葉を用いてSNSで批判し、それを岩波書店の岩波文庫編集部の方や河出書房新社の方が応援しているということが伝えられていました。「新潮45」の差別記事を批判している方々の中には、新潮社と関わりのある小説家や文学者の方も多くいるそうです。

昨年には、講談社の出版した中国人や韓国人を差別する内容の本について、講談社の社員の方がそのような本を出版する講談社の在り方を社内会報で批判したり、ジュンク堂書店の店長の方が批判したりするという報道もあったように思います。差別を扇動する本の作者に安倍首相の支持者が多いらしい(そればかりかどうかは分かりませんが)ということにも驚くのですが、それも今の安倍政権下の日本社会の一面を表す寂しい現実なのかもしれないと思います。特定の国の人を非難するような本が普通の書店に堂々と並べられているのは日本くらいだと聞いたことがあるのですが、それが本当なら、政府が“観光立国”にしようとしている日本の恥だと思います。野党(野党の第一党は立憲民主党だそうです)の力がまだ弱い中、昨日の与党の自民党の総裁選によって、公文書の破棄や改竄などの不正もある現政権の現職の総理大臣があと3年(平成時代の終わる時にもその後にも)総理大臣であり続けることに決まりましたが、もしかしたらこのような差別的な出来事もまだ続いていくのかなと(未来のことは分かりませんが)残念に思います。

それでも、私も本を読んで生きてきた一人として、人々の知性を豊かにする一端を担っているはずの出版業界の内部からある種の差別を助長するような本に対する疑問の声が上がったり批判が出たりしているという現実には、少しほっとします。紙の本が売れない時代だから出版業界の経営は厳しいというようなことも言われていますが、新潮社だけではなくどの出版社も「良心に背く出版は、殺されてもせぬ事」を貫いてほしいように思いました。

「“悪魔の医師”か“赤ひげ”か」

NHKのEテレの「ETV特集」の「“悪魔の医師”か“赤ひげ”か」を見ました。

2006年に愛媛県宇和島市の徳洲会病院の医師の万波誠さんが行った、ドナーになる人の病のある腎臓をその患部を切除するなどして修復した後に移植を待つ患者(レシピエント)に移植するという「病気(修復)腎移植」の手術は、当時、移植学会やマスコミから猛烈に批判されていたのだそうです。

7月上旬の頃に放送されたものを一応録画しておいたのですが、まだ見ることができていなかったので、私は昨夜の再放送(アンコール放送)を見てみることにしたのですが、番組を見る前に思っていたよりも怖くなく、当時万波誠医師を批判していた日本の移植学会の医師や週刊誌の記者、アメリカの移植学会の医師、人工透析治療を受けている患者の方、万波医師ご本人などの淡々とした証言の構成もすっきりと見やすく、当時の騒動と論争から日本社会での臓器移植医療の在り方を冷静に伝えるドキュメンタリー番組でした。

私も2006年の頃にこの移植手術の報道を見たことがあると思うのですが、今回の番組を見て、「病気腎移植」あるいは「修復腎移植」と呼ばれる腎臓移植手術のことを知ることができたような気がしました。

番組のサブタイトルにある「赤ひげ」は、江戸の小石川養生所を舞台にした山本周五郎の時代小説『赤ひげ診療譚』の、江戸時代に実在した町医者の小川笙船をモデルにした主人公の新出去定という、貧しい患者を救うために最善を尽くす誠実な医者のことだそうです。患者の側からすると、病気を治してくれる医者、見放さずに治療に最善を尽くしてくれる医者が良い医者なのだと思います。ペローの童話(あるいはグリム童話)の「青ひげ」は殺人者ですが、「赤ひげ」は良い医者です。

宇和島市で糖尿病の治療中の犬と暮らしているという万波医師は、飄々とした雰囲気の方に見えました。万波医師に診てもらっているという患者さんたちは、万波医師の存在を有難く思っているようでした。

移植医療の進んでいるアメリカでは、病気腎移植(修復腎移植)はごく普通のことだったそうで、当時の騒動を知ったアメリカの医師は、どうして問題になっているのか分からなかったと話していました。

番組によると、日本では、波紋を広げたこの問題から12年経った今年の7月、厚生労働省が病気腎移植(修復腎移植)を「先進医療」と認めたそうです。

賛否両論あるそうなのですが、番組の中で証言していた方々の反対意見も賛成意見も、医学を詳しく知らない私には、なるほどなと思えるものでした。

腎移植には「生体腎移植」と「死体腎移植」があり、生体腎移植は提供者(ドナー)となる家族から腎臓を提供される腎臓移植で、死体腎移植は脳死や心停止した提供者から腎臓を摘出して移植する腎臓移植だそうです。移植学会の方は、生体腎移植や病気腎移植(修復腎移植)のリスクを心配し、死体腎移植を増やさなくてはいけないと考えているようでした。家族から提供された腎臓に、数年後に拒否反応が出ることもあるそうです。

移植の際には患者に説明を行い、検査を受けて移植を行っても大丈夫ということになった患者が納得した上で病気(修復)腎移植手術を行うそうです。癌の部分を切除した病気腎(修復腎)を移植された患者が後に癌になった場合、現代では、それが患者本人由来の癌であるか、移植された腎臓由来の癌であるかを調べることができるということでした。

病気腎移植(修復腎移植)は、腎臓の悪い患者さんのもともとの腎臓よりも少しは良い腎臓を使った移植手術というか、例えば、ある機械の部品が壊れて動かなくなってしまい、修理をしようとしたらちょうどよい新品の部品はないけれど少し錆びた古い部品ならあるという時、それなら錆びを取ってその古い部品を使って修理してみようというようなことなのかなと思いました。(間違っていたらごめんなさい。)

私は脳死臓器移植というものをまだあまり良いと思えないでいるというか、心停止ではなく「脳死」を人の死とするということにまだ少し違和感があるというか、そのような感じなのですが、番組で人工透析を受けている患者さんの大変そうな様子を見ていると、病気腎(修復腎)の移植手術を受けることでその方が少しでも楽に自由に生きることができるようになるのならそれで良いのではないかとも思えてきます。

ただ、生きている人の全員が臓器ドナーとみなされるようになってしまうとすれば、それは不気味なことだと思います。カズオ・イシグロさんの小説を原作としたTBSのドラマ「わたしを離さないで」では、臓器移植のドナーになるために生み出された人の人生が描かれていました。いつかiPS細胞などから身体の部品(臓器)が作られるようになると良いのかもしれませんが、ドナーの数が足りない、移植用の臓器の数が足りない、と医療業界や政府がドナー不足を訴える中、「脳死」と判定される人が妙に増えたり、「臓器売買」のような出来事があったりするとやはり怖いので、臓器移植医療の広がっていく先に、そのようなことが起きないことを願います。

救命にもなり殺人にもなり得る医術を巡る問題には論争が付きものなのかもしれませんが、善いか悪いか、改善点はどこにあるのか、論争が続いていくことも大切なことのような気がしました。医者の道徳的な善と悪の問題を描くという点では、昨年にBS1の「BS世界のドキュメンタリー」で放送されていた「反骨の医師」の、マニュアル化されて不自由なスウェーデンの病院を離れ、エチオピアの山村で10年間ほど創意工夫を施した自由な医療活動を行って様々な病気や怪我の人々を助けていたというエリクセン医師の話も少し思い出しました。その番組もそうだったのですが、この「ETV特集」の「“悪魔の医師”か“赤ひげ”か」も、良い医療ドキュメンタリー番組でした。

「歴史部のぼく」

NHKのEテレの「ハートネットTV」の、「歴史部のぼく」という特集を見ました。

「歴史部のぼく」というタイトルが何となく気になって、録画をしておいたものを後で見てみたのですが、意外と面白かったです。「スクールカースト」の話でした。

番組のディレクターを務めている城(たち)秀樹さんという39歳の独身の方(独身の場合は独身となぜかあえて書かれていました)は、歴史部に所属していた男子校の高校生時代のご自身を、勉強も運動も苦手で、特にいじめられているというわけでもないけれど教室で一人になることが多い、空気のような生徒だったと振り返っていました。歴史部では、戦国武将のお墓の写真を撮って集めたり、文化祭で城下町の模型を作ったり(誰も見に来なかったそうです)していたのだそうです。

そのような城さんが、かつて同じクラスの生徒だった人たちに会いに行き、当時の自分たちについて話すという、ロードムービーのような、約30分のドキュメンタリー番組でした。

城さんは、誰とでも広く浅く仲良くできる元生徒会長で今は大学の英語講師をしているという独身の松井さん、元サッカー部員(城さんはサッカー部を歴史部と真逆と思っていたようでした)で今はバンド活動をしているという星野さん、後輩ディレクターの26歳の笹井孝介さんが松井さんに尋ねて探し出した元「危うい人」で、今はゲストハウスを経営しているという、書くことが好きで一人でいることが苦にならない犬養さんと対話をする中で、みんなそれぞれ自分のことで精いっぱいだった、みんなそれぞれ一生懸命だったということに気付いていったようでした。

ドキュメンタリー番組の演出もあると思いますが、高校を卒業してから20年経った人たちの青春物語という雰囲気が、何となく良かったのだと思います。

相手に自分はどう見えていたか、自分は相手をどう見ていたかには、合っているところもあり、間違っているところもありました。高校時代の出来事で忘れていること、憶えていることにも違いがありました。

「スクールカーストプレイリスト」というサブタイトルは、洋楽が好きだったという共通点から付けられたものだったのでしょうか。

生徒会長なのに学校をよく休んでいたという松井さんは、溝を埋めることはできないから溝がある前提でやっていくしかないと話していました。そして、ザ・クラッシュというロックバンドの「All The Yong Punks」という歌の、死ぬほどの価値があるものなど無いのだから生きろ、世の中に泣くほどの価値は無いのだから笑え、というような歌詞の言葉を紹介していました。

城さんからはキラキラした高校生に見えていたサッカー部の星野さんは、部活漬けの毎日を送っていて、休み時間だけが友達と気楽に遊べる時間だったようでした。中学校に入ったばかりの頃にもしも机の上に座っていた生徒と話さなかったなら、明るい生徒にはならなかったかもしれないということでした。サッカーをやめ、大学卒業後にピアノを練習したという星野さんは、「たくさんの『ありがとう』」という歌を城さんに歌っていました。

黒板にジョン・レノンの「イマジン」の歌詞を英語で書いたりしていたという犬養さんと話した城さんが、当時の自分のクラスを、辛いって思っていたけれど良いクラスだったのかもしれないと思い直していく感じも良かったです。私は、松任谷由実さんの「冬の終り」を思い出しました。

秋田大学を訪ねた城さんと教育社会学の講師の鈴木さんとの対談によると、「スクールカースト」は、高度経済成長も終わりバブルも崩壊した90年代、教師が生徒に「夢」を教えることができなくなった学校の教育方針が、勉強やスポーツができることよりも友達が多いことの方が重要だと、人間関係を築くためのコミュニケーションを重視した方針に変わり、学校へ通う目的が人間関係を形成することになっていったことから生まれたものだということのようでした。

城さんは、友達がいないことよりも友達がいない人だと思われることが辛かったということなのですが、それについて講師の鈴木さんは、そう思わせる社会の問題だと話していました。

「スクールカースト」というのは、現代の日本の学校で、生徒の間にいつの間にか形成されていく「序列」と「分断」の構造を、インドの階層制度の「カースト制度」になぞらえて表現したものだそうです。

最後、もっと自分から話しかけていけば良かったと後悔していた城さんは、「スクールカースト」を作っていたのは僕だった、とまとめていました。それを壊す方法は「明日も生きること」で、その理由は、黒板にどんな落書きがあるかわからないからでした。黒板の落書きは、人生を変える「きっかけ」になるものなのかもしれないなと思いました。

私の頃には、「スクールカースト」というものはありませんでした。少なくとも、「スクールカースト」という言葉を聞いたことはありませんでした。クラスの生徒の間に好き嫌いはあっても、それは序列ではなかったように思います。大人しい人もいれば、騒がしい人もいました。優等生的な人やスポーツの得意な人もいれば、そうでない人もいました。もしかしたら教師内にグループはあったのかもしれませんが、私はそのどこにも属していなかったのかもしれません。「歴史部のぼく」の城さんたちのクラスで言うなら、松井さんと犬養さんの間くらいだったのかもしれません。誰かが「上位」だとも「下位」だとも思ったことはありませんでした。ただ、私には「先輩」や「後輩」の意識も薄かったので、いわゆる「縦社会」の雰囲気に疎いだけだったという可能性もあります。先生には敬語(丁寧語)で話すようにしていましたが、それは距離感の問題かもしれませんし、先生(大学で教職員資格を取得した人)のことを先生だから偉いという風に思うことも特にありませんでした。学校のカースト制度は、カースト制度を認知している人の間でしか成立しないもののように思えます。

「8月31日の夜に」を昨年から放送している「ハートネットTV」らしく、学校生活(集団生活)に上手く馴染めずに悩んでいる人たちを応援する番組だったのかなと思います。学校の時にはほとんど話したことがなかった人と、いつかどこかで偶然に再会し、その時にはもう少し楽しく話ができるということも、もしかしたらあるのかもしれません。夏の海と砂浜の風景を教室に見立てた演出も、良かったような気がします。

昨日の自民党の総裁選の演説会のことなど

昨日の午前10時台と11時台にNHKで自民党総裁選の立ち会い演説会と共同記者会見の様子が放送されていました。私は一応録画をしておいたものを後で見たのですが、生中継されていた番組ではなかったのかもしれません。記者会見の放送はぶつ切りの状態で終わっていました(記者の中には女性の記者も数名いたようなのですが、質問をすることはできたのでしょうか)。

今は自民党が最大与党の政党なので、その総裁選は次の総理大臣を決める選挙でもあります。でも、夜の報道番組では、自民党の総裁選に立候補した現総裁で総理大臣の安倍晋三議員と石破茂議員の演説や記者会見での応答のごく一部しか報道されていませんでした。この演説会と共同記者会見の様子は、例えばインターネットでも見ることができるのかもしれませんが、50分ずつくらいの放送だったので、見ることができなかった一般視聴者のために、NHKは深夜に再放送するなどをしても良いのではないかなと、何となく思いました。

昨日の自民党総裁選の演説会では、安倍候補と石破候補(「候補」と付けて呼んでいました)が20分ずつ演説をし、共同記者会見では、手を挙げて当てられたメディアの記者の方が安倍候補と石破候補の両方に質問をして、安倍候補と石破候補が順番に応じていました。

お二人が並んで話していたこともあり、落ち着かない様子で早口に自らの約6年間の“功績”を述べる現総裁の安倍議員と、落ち着いた様子で論理的に自らの政治への思いを語る石破議員との違いが際立っていたようにも思います。安倍さんの落ち着きのなさは、声にだけではなく表情にも身体の動きにも表れていたように思うのですが、(体調不良ということではないとすれば)それは自分をその場にいる他の人より大きく見せるためのものなのかもしれないなとも思いました。

候補者のお二人とも、「何人」とか「何割」とか「何%」とか、データの「数字」を挙げて話していたのですが、公文書や行政文書の隠蔽や改竄や捏造を行ってきた今の政府の出す「数字」は本当に信用できるものなのでしょうか。安倍議員の「丁寧」や「謙虚」は、また選挙の時だけのもののような気がします。「何者をもおそれず、ただ国民のみをおそれる」という石破議員の言葉が、政治家の方々の初心としてあるといいなと思います。

テレビや新聞では、石破議員ではなく安倍議員が総裁選に勝つだろうという風に伝えているように思いますが、当然のことながら、本当の結果は投開票の日にならなければ分かりません。

安倍議員も石破議員も、日本国憲法の平和主義や“個人”の人権や自由を否定するような2012年の自民党の憲法改正草案を撤回していないということが、一市民の私にはまだ不安でもあるのですが、どちらにしても、災害対策は、災害が起きる前の対策と共に、急がなくてはいけないことのように思いました。安倍首相の考える首相を最大の責任者としたトップダウンの災害対策は、機能しているのでしょうか。昨夜のEテレの「ハートネットTV」の「北海道の地震 障害や病気のある人たちは」という特集では、手話付きの生放送で、厚真町の福祉施設が地震で壊れたこと、治療のために電気を使う医療機器が必要な方、障害や病気のある方、高齢の方や体の不自由な方で避難所生活ができない方などの支援について考えていました。

もしも石破議員が総裁選に買ったとして、石破議員が総理大臣になったらどうなるのかということが未知のことだとしても、それは過去の解散総選挙や総裁選の時にもそうだったのですし(大臣経験のない安倍議員が第一次安倍内閣を始める時にもそうだったのではないでしょうか)、政権内の不正問題を解決しようとしない現総理を“現状維持”させるよりは、多少でも新しい風を入れるために、新しい人に代わったほうが良いのではないかとも思います。

「公平・公正・正直」が安倍首相への個人攻撃になると思っている議員の方は、安倍首相がそれとは反対の人だと思っているということでしょうか。誰の場合でも、例えば、嘘をつかない人、ごまかさない人、誠実な人、差別を助長しない人、周囲を利害関係のあるイエスマンばかりで固めない人、近隣諸国の悪口を言わない人、政教分離ができる人、憲法や国会を軽んじない人、話し合いを大事にする人、知識が豊富で論理的に話すことができる人、独創的な人、人の話をよく聞いて自分の頭で考えることのできる人、すぐに感情的にならない人、武力(暴力)をちらつかせない人、文化・芸術を大切にする人、優しい人、謙虚な人、そのような人に政治指導者になってほしいと思うことは、それなりに普通のことなのではないかなと思います。

先月の読売新聞の国際面の「ワールドビュー」というコラムを偶然読みました。読売新聞の?アメリカ総局長の小川聡さんという記者の方の「トランプ崇拝 理より情」というアメリカのトランプ大統領とその支持者のことを分析した記事の中に、ニューヨークタイムズ紙は社説で共和党を「トランプ崇拝(カルト・オブ・トランプ)」の政党になった、個人崇拝のカルト宗教のような政党になったと評していたと書かれているのを読んで、今の日本の安倍政権下の政治にも当てはまることのように思えました。この記者の方は読売新聞の方なので、読売新聞らしく安倍政権を支持しているのかもしれないとも思うのですが、この記事の文章は、「トランプ大統領」を「安倍総理大臣」に置き換えて読むことができる文章のようにも思えました。記事によると、トランプ大統領の「カルト」は有権者の2~3割を占めているそうです。その支持者たちは不都合な事実を知らないか気にしないかで、「トランプ大統領が米国の利益になると言っていることを、支持者たちが根拠なく信じている」のだそうです。トランプ大統領の支持者は「慣れ親しんだ米国の文化・慣習が否定されつつあると危機感を抱いて」いて、「彼らは、論理的な理由でトランプ氏を支持しているというよりは、『過去の政権から見捨てられた君たちのために戦う』と訴えるトランプ氏にすがっているようだ。政策よりも感情がトランプ氏の政権運営を支えている。」ということでした。

2016年頃には「ポスト真実(post truth)」という言葉が話題になっていましたが、「ポスト真実」の時代は今も続いているように思いますし、日本のメディアは、海外の政治権力者についての否定的な話を考える時に、日本の今の政治はどうだろうかということも顧みて考えるようにしたほうが良いのではないかと思います。

今日は、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件から17年の日ですが、報道によると、ユナイテッド航空93便が墜落したペンシルベニア州のシャンクスビルの近くに、死亡した乗客乗員40人(日本人1人を含む)を追悼する高さ93フィート(約28メートル)の記念碑(慰霊塔)が完成したそうで、9日には記念式典が開かれたのだそうです。テロ事件で多くの市民が亡くなりましたが、当時のブッシュ大統領はそのテロ事件を機にアフガニスタンやイラクを攻撃し、その戦争でも多くの市民が亡くなりました。そして、今もその時のテロ事件と戦争の影響が続いています。当時の小泉純一郎政権はアメリカの“報復”の戦争に賛同し、後方支援を行いました。「9.11」と呼ばれる2011年のアメリカの同時多発テロ事件のことを思う時、私は当時のローマ法王(教皇)だったヨハネ・パウロ二世がブッシュ大統領に直接戦争を始めないように進言していたのに聞き入れられずに戦争が始められてしまったということを思い出します。

ローマ法王が止めようとしても止まらなかったキリスト教を信じる国とイスラム教を信じる国との間の宗教戦争を、日本が止めるのは難しかったのかもしれませんが、一応独立した日本の政府としてアメリカの“報復”の武力攻撃に協力することはなかったのではないかと思います。

自民党員ではない私にはそもそも総裁選への投票権?はないのですが、今のところは与党の総裁が自動的に総理大臣になる仕組みになっているので、自民党員かそうでないかに関わらず、日本に暮らしている誰にでも、全くの無関心でいることはできない総裁選挙なのではないかなと思います。あるいは、「総裁選」という言い方ではなく、「次期総理大臣決定選」とか、そのような言い方にしたほうが分かりやすくて良いのかもしれません。

報道によると、沖縄県の名護市議選挙の投開票の結果、在日米軍の普天間飛行場の返還に伴う辺野古新基地建設に賛否を示していない渡具知武豊市長を支持する与党と、新基地建設に明確に反対する野党がそれぞれ13人当選し、議席を二分したそうです。野党は改選前の14議席から1議席を減らしたそうなのですが、新基地建設反対の立場の議員は公明党を含む15人となり、過半数を占めたのだそうです。辺野古の青い海を埋め立てる新基地建設が、在日米軍の既存の基地(普天間飛行場)を無くすこと(沖縄戦後アメリカに接収されたその土地の全てが沖縄の人へ返されること)に本当につながるのでしょうか。

沖縄県の問題は、米軍基地の問題だけではないと思いますが、米軍基地の問題も経済格差の問題も日本全体の問題だと思いますし、新基地建設工事を推進するために振興予算を利用して沖縄県民を脅す政府の政治姿勢を怖く思います。何の力もない一市民の私にはどうすることもできないことではあるのですが、次の総理大臣を決める自民党の総裁選も気になりますし、翁長雄志知事の急逝による沖縄県知事選挙の行方も気になります。未来のことは分かりませんが、日本が良い国になっていくといいなと思います。

「消えた村のしんぶん」

先月の8月末のTBSの「報道特集」で放送されていた「消えた村のしんぶん」という特集では、長野県の各地で青年団によって発行されていた「時報」という新聞が太平洋戦争へ突き進んでいく国家によって消されていったということが伝えられていました。地元の特高警察が新聞記事の内容や青年団の動きを監視していたそうです。

長野県の東御市の89歳の高橋隆巳さん(高の文字ははしご高です)は、滋野村の青年団長を務め戦争末期に徴兵されて34歳で戦死したという親戚の高橋正さんが発行していた「滋野新聞」を、戦後に再開した新聞と併せて「滋野新聞 志げ乃むら」として10年前に復刻したそうです。

大正時代末の頃から、長野県の上田市周辺の33町村では、地元の青年団員たちが「時報」を発行していたそうです。並べられていたいくつかの古い新聞には、「滋野時報」の他、「東塩田時報」や「泉田時報」、「浦里村時報」、「立科時報」などがありました。

大妻大学の里見教授は、「時報」という当時のミニコミ紙が時事的なことをテーマにして言論を戦わせているということ自体、他の県には全くと言っていいほど見られていない、長野県の特徴と言ってもいいと話していました。

大正デモクラシーの影響の残る昭和2年(1927年)に「滋野時報」は創刊されたそうです。6月の「滋野時報」の第2号には、「滋野時報創刊に就いて」という宮坂忠弘さんの記事がありました。「現代の総ての文化は出版物に依って多く世の中に発行せられるのだ。」と始まっていました。「つかれきった農村」を立て直すために、今までのように無関心・無頓着でいるのではなく、村民みんなで村の教育問題や組合や国の政治に関心を持ってより良い村になるようにしていこうという決意の下に作られた新聞だったようです。「その無頓着が我等自分自身の発達を妨害していたのだった。今や滋野は明け放たれんとしている暁だ。最早徳川幕制になれた。」、「よらしむべし知らしむべからずと言う言葉は過去だ遺物だ、顧みるいとまもないのだ。一歩調で進む時だ。我ら昭和の民はよろしく村政に携わって今まで為政者の為の感の有った政治を捨てて、絶対的の村民のための為政であらしむべく村当局、否、大きくは国政までも注視すべきだ。」という記事の言葉が、現代日本の今の私たちにも突き刺さってくるように思われます。

「滋野時報」は、月に1回発行され、村内の約700戸に無料で配布されていたそうです。本当に村の人たちに国内外の情報を伝えたい、村の人たちみんなで一緒に考えていきたいという思いがあったのだろうと思います。「滋野新聞」の創刊の翌年の昭和3年(1928年)の2月には、「第1回普通選挙」(当時は選挙権を持つのは男性のみでした)があったということなので、投票する村民が選挙権を十分に活かすことができるようにするための新聞でもあったようです。

復刻版を作った高橋隆巳さんは、ラジオは村の一軒くらいにしかないから本当の情報は滋野時報を頼りにして知った、時報は待ち遠しいくらいに非常に村民に愛されていたんですよ、と話していました。大正時代の長野県の上田市周辺は、養蚕業や製糸業も盛んだったそうです。

郷土史家の小平千文さんは、批判があっても、村の方でそういう批判があるからお前たちには補助しないとか発行をやめろという声はほとんど出ていないと話していました。「お金は出すけれど口は出さない」という姿勢だったようです。

昭和5年(1930年)の長野県連合青年団の「団報」には、「自主化運動委員記録」という文書がありました。当時の青年団員たちは「自主」であることを重視していたそうです。「研究大会」では、「言論、集会、出版、結社の自由」を要求していました。

昭和3年(1928年)4月の「滋野時報」の第12号には、「県連合青年団研究大会出席記」という唐澤生という署名の記事がありました。「研究は頗る真剣、龍虎相闘つ論争ありきけれど、総合的に見るなら農民の政治的自覚並びに農民の政治的団結、政治的進出を実現せしめんとする意見が多数だった。」とありました。「政治は即ち生活」であり、「都会中心主義」の政治を変えるべきだと考えていたようでした。

そのような青年団員の真面目な考えが、長野県の特高警察に狙われることになったようでした。「長野県特高警察概況書」には、「滋野時報」や「和時報」などに関して、「思想容疑記事多し」と書かれていました。東京大学に残されている史料によると、昭和14年2月に長野県の特高課が作った「長野県社会運動(青年運動)史」には、青年団の研究大会について、「左翼分子の策動」と書かれていました。特高警察は、研究大会などの前に、事前に青年たちを拘束するようになっていったそうです。

昭和4年(1929年)の「滋野時報」の第25号には、第八回研究会に参加する青年の数人が警察署(大町署)に拘束され、場内が大混乱になったという事件の経緯が記されていました。「決議文」には、取締当局が青年団員を不当に拘束した事実は明確で、自主的青年団の精神を冒涜し人権を蹂躙するの甚だしいものだ、思想取締当局の猛省を促す、ということが書かれていました。

しかし、それから長野の上田周辺の村や町の「時報」は、次々と記事が差し止めになり、発行禁止になり、廃刊に追い込まれていったそうです。

昭和4年(1928年)に「世界恐慌」が起こると、長野県の製糸業も大打撃を受けたそうです。特高警察の文書には、「経済界の不況に基づく繭糸価格の暴落は急進青年に最もよき題目を与えたる感あり」と書かれているそうです。そうして、警察による「検閲」は厳しくなり、「発禁」とされる「時報」が増えたそうです。昭和6年(1931年)7月の「青木時報」の第116号には、「青木時報」は「養蚕農民はどこへ行く」の記事で発禁にされ、「和時報」は「メイデー」の記事で発禁にされ、「神科時報」も本年に2回発禁になった矢先に「滋野時報」も「誤謬の衣を捨てよ」の記事が尖鋭的という理由で戒告書を上田署に取られたということが記事に書かれていました。

郷土史家の小平さんによると、取り締まりの中心は最初は共産主義だとかを対象にしていたが、次第に今度は自由主義者だとか、宗教者に対しても弾圧が行われるようになり、検閲の対象が広がっていったということでした。特高警察は、各村町の青年団員の中の数を数え、その中の「無産政党」の動きを特に気にしていたようでした。

塩田地域自治センターというところには、昭和7年(1932年)の「時報に関する書類綴」が残されていました。当時の西塩田時報編集部が作ったもので、記事差し止めについての特高警察からの「命令書」の記録のようでした。

昭和6年(1931年)には日本の関東軍が中国東北部を占領し、翌年には「満州国」を建国しました。そのため、「時報」の記事の中の満州国の国防に関する事項は、かなり注意深く検閲の対象となっていたそうです。載せてはいけないという通牒が何度も出されていたそうです。戦地から兵士が家族に宛てて送る「軍事便り(軍事郵便)」に関する記事も、禁止されたのだそうです。

このような取り締まりや記事の差し止め、発行禁止に対して、青年団員たちは強く反発したそうです。2度押収されたという昭和7年(1932年)1月の「滋野時報」第57号の「資本主義に映じた尖鋭化とは?」の記事には、「赤いとか左翼だとかの言葉は何によって生じたのだろう。」、「農民の生活権擁護という正しい要求、偽りのない実際の問題を農民が主張する時報を尖鋭化とか赤いとかの名に於て押収するのはあまりの重圧である。我々農民をして奴隷化せしめ、あまつさい餓死線上を辿はせ、辿はせつつある罪は誰にあるのだ、官憲当局者よ。君達が尖鋭化とか赤いとかを論ずる前に、農民をして尖鋭化させるような原因を考慮せよ。原因を知り、農民の苦のむ今日の結果を見よ。」、「民衆こそ哀れだ。今後満州に蓄積された資本二十億が五十億百億に増税され、満州の産業が繁栄したとてブルジアジー(ブルジョアジー)以外の民衆に何の利益があろうぞ。幸福があろうぞ。満州はただブルジアジーの生命線なのだ。だから満州の利益擁護に要する金は全部資本家に於て出すべきであるといへどもひいて人類幸福の為め一切支那より手を引け。圧迫の下にある民衆はあくまで人類幸福の為めに叫ぼう。」と書かれていました。すごいです。

しかし、この昭和7年1月の第57号以降、滋野時報は発行されなかったそうです。昭和8年も9年も10年もなく、古書店で見つかったいくつかの時報の原本の中には「滋野時報」もあったのですが(他には豊里時報や上田新聞?がありました)、昭和14年(1939年)1月の「滋野時報」第124号の内容は、昔のものとは一変していました。日章旗と旭日旗の絵が描かれていて、軍国主義を賛美するものになっていました。「人生最大最後の御奉公をなせし英霊に敬虔の意を表はし又身以て国難の大防楯となり遂に名誉とは申せ傷疾せられし軍人に敬意を致すを忘るべからざるを脳裏に深刻し且つ銃後の生産業その他後援に精進し」とか、「聖戦の目的の達成を皇祖皇宗並に八百万の神々に国運隆昌皇軍武運長久の御加護を」とか、「年とともに栄えゆく御世に生を受けたることの有難さをつくづく思はせられ御国のために出来る丈務めたい、働きたいという心持で一杯である」など書かれていました。

これまでの「滋野時報」の正しさ、鋭さはどこへ行ってしまったのかと不思議に思えるほどですが、昭和12年(1937年)から日中戦争(支那事変)が始まったことの影響だそうです。高橋さんは、軍国主義で死ぬことはいとも簡単だし名誉であるというような思想を植えつけられていた、それに対して反論すれば非国民だとされるようになったということを話していました。

長野県の上田市の文化センターでは、上田小県近現代史研究会の方たちが集まっていました(信州の上田というと「真田の里」という印象があるのですが、本当に今でも「小県」なのだなと何となく少し嬉しく思いました)。

昭和12年(1937年)11月の「神川」という時報の第124号には、「先生は毎日毎日兵隊さんの話をして下さいます。私の父さんがいきているなら今ごろはてきの兵隊をころして、てがらをたてて、いたかもしれません。兵隊さん支那の兵隊のくびをとってきて下さい。」という子供の書いた文章が載せられていました。「「時報」に見る子どもたちと戦争」などの本を書いた桂木恵さんは、不安定な状態である中国や満州地域を安定させるために出かけて行っているのであり、良いことをやっている日本の軍隊に対して刃向かうなんてとんでもない話だという、そういう論調が子供たちの頭の中にもすっと入っていった、と話していました。

特高警察に取り締まれた人たちも、戦争で家族を亡くしていく中で、「国策」に異議を唱えなくなっていき、取り締まる側も、取り締まられる側も、戦時体制に突き進んでいったそうです。

昭和14年の長野県の特効警察の資料にも、支那事変が勃発してから時報が政策に従うようになっていったということが書かれているのだそうです。戦争が始まって少しすると、パルプ資源の節約などの理由で、新聞の「整理」(統廃合)が全国で進められ、一つの市にいくつもあった新聞は、順に減らされていったそうです。長野県内では、滋野時報を含む350以上の新聞が、「一県一紙」という方針のもとに廃刊となったそうです。言論統制です。

特高警察側は、強行的や暴力的にではなく、「協力を求め慫慂(しょうよう)す」と、新聞を作っている人たちが自発的に時報などの新聞の発行を諦めて廃刊を申し出るように仕向けていったようでした。(今風に言うと)“忖度”させた、ということでもあるそうです。

「滋野時報」は、日本軍が真珠湾攻撃を始める約1年2か月前の、昭和15年(1940年)10月に廃刊になったそうです。「滋野時報」第147号には、「警察署の要請により滋野時報本月号限りにて廃刊のやむなきに至りました。」と、滋野青年団による「廃刊告知」が記載されていました。この号の論調は、昭和7年の頃のものに戻っていたのでしょうか。「今回政府の方針により言論統制乃至新聞用紙節約の見地により県下各地に併立せる新聞紙の整理統合せられたり」と、青年団長の高橋正さんの無念の思いが綴られていました。編集部長は心痛のあまり病床に伏したそうです。今後の青年運動に大なる欠如を与える事と思う、ということも書かれていました。

高橋さんは、新聞がないから世の中がどうなったのか全然分からなかった、「見ざる」、「聞かざる」のような状況に陥ってしまっていた、と話していました。太平洋戦争(大東亜戦争)の始まる昭和16年(1941年)に、青年団は解散になったそうです。そのときの白黒の記念写真が残されていました。青年団長だった高橋正さんは、陸軍歩兵上等兵として戦地へ送られ、34歳で戦死したそうです。

戦争が終わってから2年後の昭和22年(1947年)1月、廃刊になった「滋野時報」は「志げ乃むら」として新たに発刊(創刊)されたそうです。「昭和二十二年平和文化国家再建に燃える希望の新春。」と始まり、戦前の自分たちの「信ずべからざるものを信じ、聴くべからざるものに盲従した哀れな奴隷的無知性」を悔やみ、「吾等の理想は、深き知性による平和的文化国家の建設であり民族の再建である。」と書いています(でも、青年団長の田口正男さんのその文章の書き方は、何となく、日中戦争前のものより、その後のもののほうにまだ少し似ているようにも思いました)。「若人よ、立ち上がろう。光を慕う真夏の虫の如く。吾々も文化の栄光を求めて。」という言葉で「志げ乃むら」の冒頭の挨拶の言葉は終わっていました。

取材をしたのはSBC信越放送の湯本さんという記者の方でした。

長野県は教育に熱心な県だった(今もそうでしょうか)と聞いたことがあるのですが、長野県内の各地域の20歳や30歳前後の青年団員たちが「時報」という新聞を作り、無料で各家々に配布して、農村の生活や国民生活を少しでも良くしていこうと真剣に考えていたということは、本当にすごいことだと思いますし、立派なことだなと思いました。

明治時代初期の東京の五日市町(現・あきる野市)の人たちが「五日市憲法」という私擬憲法を作って、国民の自由や平等や権利を国に守らせるための憲法草案を独自に考えていたということもそうなのですが、その内容が今から見ると完全なものではなかったとしても、その基本的人権を求める理想が現実のものにならなかったとしても、当時の人たちの、自分たちの生きている世界を少しでも良いものにしようと真剣に考えていく真面目さや誠実さの痕跡にはっとします。

新聞が減っていき、情報が“大本営発表”を軸に淘汰され、均一化されていくというような状況は、もしかしたら現代にも続いていることなのかもしれませんが、インターネット時代の今にはいわゆる“フェイクニュース”の問題もあるというか、たくさんあるように見える情報の中のどれを自らが選んで受け取るかという問題もあるように思います。もしも戦死した昭和初期の「滋野時報」などの新聞の記者(評論家?)だった青年団員たちが現代の記者であったなら、今の世の中をどのように見て、市民のためにどのような記事を書くのだろうと思います。

「滋野時報」やその他の時報のいくつかが今に残されていたということも、長野県の特高警察の関係者の見識のある何人かが後世のために貴重な資料を燃やさずに残しておいたということも、有り難いことのように思えました。

先日の報道によると、経済産業省の公文書管理のガイドラインの内部文書には議事録のように政治家の個別の発言まで記録する必要はないなどと記載されていたそうです。公文書を隠蔽したり改竄したりしている今の政府は、自分たちの保身のために政治家の発言を公的な記録に残さないようにしているのかもしれないということなのですが、今回のこの特集を見て、行政文書や公的な記録を後世に残すことの大切さを改めて思いました。

先月の8月15日の「時論公論」では、「戦争伝える『遺品』 どう引き継ぐ」というテーマで、地方の高齢化や人口減少や財政難などの中、各地の民間の戦争資料館に保管されている戦時中の記録や資料などを後世に残していくためにはどうすればいいのかということを考えていたのですが、資料館にエアコンやガラスケースがないために貴重な遺品が痛んだり、遺品がオークションサイトに出されて流出したりという問題もあるということでした。後世に伝えるべき戦争に関する遺品や資料を国や自治体が率先して保存しようとはしていないということのようでもありました。民間の戦争資料館同士が連携するということも、特にしていないのでしょうか。解説委員の方が話していたように、遺品の数々は人々が戦争時代を生きていた証なので、市民や自治体や国が協力して今できる限り多くの遺品や資料を集めて保管し、歴史を正しく継承できるようにしたほうが良いように思えます。

また、今回のTBSの「報道特集」の長野県の「時報」の特集(「消えた村のしんぶん~滋野村青年団と特高警察~」はSBCでは1時間のドキュメンタリー番組だったようです)は、先月のNHKの「ETV特集」の「自由はこうして奪われた~治安維持法 10万人の記録~」と「隠されたトラウマ~精神障害兵士8000人の記録~」にも通じるように思えました。農村で穏やかに暮らしていた青年たちが徴兵されて人を殺す兵士として戦地へ送られたこと、長野県の人々や北海道の人々が特高警察に狙われて考え方を「転向」するよう追い詰められて徴兵後には満州や大本営が本土決戦の「捨て石」とした沖縄へ送られたことなど、つながっているように思えました。

民主主義の社会における言論の自由とは何か、報道の自由とは何かということを、戦争の時代と現代とで比較しながら考えることのできる、良い特集でした。私は昭和初期の長野県の「滋野時報」などの新聞のことも、その頃の人々の反骨精神に溢れる自由で論理的な意見や議論が戦争に突き進んでいく時代の中で消されていったということも、全く知らなかったので、少しだけでも知ることができて良かったです。ありがとうございました。
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