「南京事件II 歴史修正を検証せよ」

日本テレビの深夜の「NNNドキュメント'18」で放送されていた「南京事件II 歴史修正を検証せよ」を見ました。

日本の敗戦が市民たちに知らされた1945年8月15日、戦争責任を問われることを恐れた政府は連合国軍が日本に来る前に軍の公式記録を焼却処分することを決定し、陸軍の命令により防衛省参謀本部の裏では多くの書類が燃やされ、3日間煙が上がり続けていたそうです。しかし、それから50年後の1996年、防衛省の敷地内で大量の灰や書類の燃え残りが発見され、その旧日本軍の公式記録の一部は、今は台紙で補強されて、「市ヶ谷台資料」として大切に保管されているそうです。

今回初めて公開されたというその資料を、番組のスタッフの方が防衛省防衛研究所戦史研究センター資料室で見ていました。番組で紹介されていたいくつかの資料の中には、「参謀総長載仁親王」という文字や「大日本帝国☆参謀本部」という円形の青い判子が見えました。そして、その日中戦争時の秘密の書類の中に、「敵国首都南京ヲ攻略スベシ」などと書かれたものがあり、南京戦に関する資料のほとんどが焼却処分されていたことが今回分かったということでした。

南京戦に参加した福島県のある上等兵が書いた「支那事変日記帳」という陣中日記が残されているそうなのですが、そこには、捕虜せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃をもって射殺する、年寄りもいれば子供もいる、一人残らず殺す、刀を借りて首でも切ってみた、というようなことが記されているそうです。

加害事実を認めた日本兵の陣中日記は30冊以上残されていて、元兵士の方が証言をしている肉声も録音記録として残されているそうです。福島県の小野賢二さんは、歩兵第65連隊(聯隊)の南京攻略戦について調べていて、一次資料である陣中日記や、取材した200人ほどの元兵士の方たちの証言記録(音声テープや映像など)を集めていました。

番組スタッフの方は4年間、国内外で調査や取材を続け、今から約81年前の1937年の12月16日と17日の2日間の揚子江の岸辺で起きた日本軍による捕虜殺害の詳細が分かってきたということでした。今回の番組の前作の、2015年10月に放送された「南京事件 兵士たちの遺言」も、番組スタッフの方がその陣中日記を検証したものでした。私もその特集を見ていました。その特集がとても良かったので、その続編かなと、今回の「南京事件II」も見てみることにしたのです。今回の番組の中でその番組の一部が改めて紹介されていました。上海派遣軍(日本軍)の当初の任務は現地の日本人の保護だったが、1937年の12月、日本軍は南京へ迫って行き、日本軍が城壁の要塞を包囲したり、揚子江沿いの坂を登ったりする中で、多くの中国人が揚子江の前に取り残されたということでした。陣中日記の12月16日のところには、捕虜5千人を揚子江に連れ出し、機関銃で射殺、と書かれているそうです。

前作の「南京事件」の放送後、メールが殺到し、視聴者からは、良かったとか、知らなかったという好意的な意見が寄せられたそうなのですが、その一方で、インターネット上では、否定的な意見も書かれ、プロパガンダだとか、中には南京事件そのものを「なかった」と否定する人も存在するということでした。番組で紹介されていた、「外務省目覚めよ!」などと書かれた「南京攻略80年記念大講演会」なるチラシに驚きました(その講演会で南京事件を否定していたらしい現職国会議員として、そのチラシには前防衛大臣の自民党の稲田朋美議員や元希望の党の松原仁議員や自民党の山田宏議員などの名前がありました)。ただ、政府は、南京事件について、「日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できない」としているそうです。

戦後になるまで、日本人のほとんどは大陸で起きた南京事件について知らなかったということなのですが、多くの日本人が戦争の事実を知らなかったのは、明治時代に作られた「新聞紙法」という法律によって軍が検閲を行うようになり、軍にとって都合の悪い記事を載せてはいけないということになったからだそうです。

敗戦直後には政府の命令で戦時中の映画のフィルムも焼却処分されたそうなのですが、焼却命令に従った人たちばかりではなく、焼却命令が出ていた重要な資料を、残すべきだと考えて独自に保管していた方たちもいました。毎日新聞大阪本社のファイルには、焼却されずに残されていた、日本兵と中国人捕虜たちの姿の写る「不許可」と書かれた赤い判子の押されているセピア色の写真が貼られていて、そこには、麻縄で後ろ手に縛られている捕虜、日本兵に銃剣で胸部を突き刺されている捕虜、壁側に寄せられている捕虜たちなどの姿がありました。知っている人が写真を見たなら、これはあの人だと分かるかもしれません。辛いような、暗いような気持ちになる戦時中の写真でした。

番組スタッフの方たちは、小野さんが集めた南京戦に関わった兵士たちの陣中日記や元兵士の方の証言などから得た、桟橋や魚雷営の建物、軍艦学校や海軍兵学校などの当時の現地の情報を基に、70年以上前の古い地図と今の衛星写真の地図とを比べながら、中国人捕虜たちが日本兵に銃殺された揚子江(長江)の岸辺の現場を探していました。朝日新聞社の持っていた資料によると、捕虜収容所には14777人の人が入っていたそうです。食事は出されなかったそうです。

日本兵は、海軍倉庫まで捕虜とした現地の人々を連行し、幕府山という山の前の道を通ったそうです。16日には上元門という場所を左へ曲がって揚子江のほうへ出たそうです。元兵士の証言によると、食べていないのでちゃんと歩けずに転んでしまう捕虜もいて、逃げ出しそうな捕虜は射殺したということでした。海軍倉庫があった捕虜銃殺現場は、今は中国の造船所になっていて、スタッフの方が入ることはできなかったのだそうです。昔の地図と今の地図で探した結果見つかった場所は、上元門という名前の交差点から北東の辺りのようでした。

南京戦の時の下士官だった方によると、日本兵は「捕虜の殺害」を「お客さんを処理する」と言っていて、将校の出す「ピー」という音の合図が出された後、海軍倉庫の前に一か所に集めた中国人捕虜たちを機関銃で射殺したということでした。証言を基に、番組では、1937年の12月16日の捕虜殺害の様子をCGで再現していたのですが、淡々としたものでありながら、リアルでした。兵士たちは揚子江の岸辺にある海軍倉庫の揚子江側の壁の下のほうにお城の狭間のような穴をいくつか開け、それから電話線を引き、夕方になり外が暗くなってから、捕虜たちを揚子江と倉庫の間の広場まで歩かせ、倉庫の内側からその穴に静かに重機関銃の先を出して、揚子江のほうを向けて座らされている捕虜たちの背中に向けて、捕虜たちの後ろから機関銃を一気に撃ったそうです。600発を15分から20分撃って殺害したため、銃身は熱で熱くなり、弾薬箱は空っぽになっていたそうです。撃った後は、銃剣や刀で死体をついて歩けという命令が上官から出され、兵士たちはそれに従ったそうです。死体を揚子江に流して処分しようとしても、1万5千人近くの捕虜の死体は、多過ぎて流れなかったそうです。

12月17日にも日本軍は捕虜たちの銃殺を続けていました。銃身が熱くなると薬莢が薬室に入る前に爆発してしまうので、濡らした服を重機関銃の上に乗せて冷却しながら、集めた捕虜たちを撃ち続けたのだそうです。海軍倉庫の下流の河川敷でも捕虜の銃殺は行われていたということでした。

歩兵第65連隊の第二中隊の伍長のスケッチには、16日や17日に、捕虜たちを連れて幕府山の麓のどの道を通ったのかということも書かれているそうです。事件現場と思われる揚子江の広い岸辺は、今は埋め立てられていました。12月17日、揚子江の前の砂場(16日の現場とは別の場所)に集められた捕虜たちは、川と半円状に張り巡らされた有刺鉄線の柵に囲まれていました。有刺鉄線の外側に一定の間隔で設置された機関銃はシートや柳の葉?でカモフラージュされていました。夕方暗くなってから集められた捕虜たちを入れた半円形の二つの角の辺りには明かりが置かれていて、その明かりがつくことが射殺の合図だったそうです。元兵士の証言によると、柵の中に入れられた捕虜たちの阿鼻叫喚は機関銃からの銃声が聞こえなくなるくらいにすごかったそうです。伍長のスケッチノートには、銃弾から逃げようとする人々が作る3mほどの人柱ができては崩れ、できては崩れしていたということが書かれているそうです。第一大隊本部の一等兵も、その様子を見ていたそうです。射殺後は、16日の時と同じように、兵士たちが刀や銃剣で捕虜の死体を突き刺していました。死体となっていなかった捕虜に刀を奪われて斬りつけられた日本兵もいたそうです。

映像の中で話をしていたある兵士の方は、あの場合にすればやっぱり気違いだった、天皇の軍隊として、何時間後に殺す人を連れていくのに気持ち悪いとか恐ろしい気持ちはなかった、今からでは考えられないと証言し、別の元兵士の方は、何万という捕虜を殺したのは間違いないと証言していました。

しかし、現在の日本で、あれは虐殺ではなかった、南京事件はなかった、という声が上がっているのだそうです。番組によると、その方たち(稲田元防衛大臣もその一人でしょうか)が「虐殺ではない」としている根拠の一つは、日本兵に殺された捕虜は中国の民間人ではなく中国兵が民間人のふりをしている「便衣兵」だから、ということだそうなのですが、一次資料の伍長のスケッチには、捕虜たちが降参して武器を捨てて手を挙げて歩いてくる様子が描かれていました。日本軍は、捕虜たちの武器を積み上げて燃やしていました。そして数日後には、捕虜として監禁した人たちを殺したということでした。

南京事件が起きたのは昭和時代ですが、明治時代でも、抵抗できない捕虜の殺害は国際法違反だったそうです。南京事件での捕虜殺害を「虐殺ではない」とか「南京事件はなかった」と否定する人が否定している根拠のもう一つは、「自衛発砲」だから、というものだそうです。否定する人たちは、中国人捕虜を解放しようとしたのに捕虜が暴動を起こしたのでやむを得ず「自衛のために」発砲したという説?を信じているのだそうです。しかし、軍の公式記録にはそのようなことは書かれていないということで、その説のルーツをスタッフの方が探したところ、現在インターネット上で広がっている否定説のほとんどは近年に発行された南京事件を否定する本からの情報だそうです。それらの本はさらに1970年代から1980年代に出された南京事件を否定する本からの情報を引用していて、スタッフの方がその情報の基になっている資料は何なのかと調べたところ、1964年に発行された『郷土部隊戦記』という、福島県の歩兵第65連隊の地元で出版されていた本でした。本の表紙には、福島県の遺族会、郷友会、傷痍軍人会、民友新聞社の共同企画ということが印刷されていました。

その本の中には南京虐殺と部隊とは関係ないということが書かれていて、本の中でそのように主張していたのは、両角業作という歩兵第65連隊の連隊長でした。第65連隊の建物があった場所は、今は学校になっているようでした。庭には、昭和初期に置かれたという石の記念碑がありました。「自衛発砲説」の謎を追って、スタッフの方は、雪深い福島県会津若松市の「陸上自衛隊郡山駐屯地防衛館」を訪れていました。軍服や特攻隊の服や機関銃の写真などが展示されているガラス戸の中に、南京戦の当時の組織図があり、その中に大佐の両角業作連隊長の名前がありました(長野出身の方のようでした)。

『郷土部隊戦記』という本は、1962年の1月頃の福島民友新聞に連載されていた「郷土部隊戦記」という記事をまとめたもので、当時のその記事の題字を書いたのは両角業作さん本人でした。「花の白虎部隊」とか「両角部隊に関係なし」などという記事には、捕虜を解放しようとして思わぬ事態が生じ、たちまち大混乱になって制止しても聞かないので、恐怖を感じた日本兵は発砲するしかなかった、というようなことが書かれていました。つまり、両角業作連隊長という南京戦に参加していた部隊の責任者が、自衛のための発砲だった、と主張していたのでした。大佐だった両角さんは、記事の出た翌年の1963年に亡くなったそうです。

両角さんのメモの12月17日のところには「捕虜解放準備」と書かれていたのですが、16日の出来事は書かれていませんでした。確かに、16日に現場の兵士たちが数千人の捕虜たちを殺害しているのに、なぜ17日に捕虜解放の準備をするのか分かりません。17日の両角連隊長は、実際には、「南京入城式」に参加していたそうです。両角連隊長本人は、部隊の兵士たちによる捕虜殺害の現場にはおらず、その様子も見ていないということでした。

山田支隊の?田山大隊長の護衛の上等兵の方の陣中日記には、「12月16日 2500名殺す」、「12月17日 今日は南京入場なり 俺らは今日も捕虜の始末だ 一万五千」と書かれていました。田山大隊長を知る人によると、内地に帰ってからあれだけはしゃべらないでくれと、緘口令を敷かれたのだそうです。現場にいた第65連隊の少尉だった方は、「(捕虜を)解放しようなんて、船もないのに、偉い人はよくもぬけぬけというなと思いました。戦後記事になったでしょう、捕虜を釈放しろとか、とんでもない詭弁ですよ」と証言していました。別の下士官の方は、捕虜の解放を私は考えたこともないし、一回もやりませんでした。戦略上屠殺するほかなかったのかな」と証言していました。南京事件を否定する根拠となっているという「自衛発砲説」の、日本兵は捕虜たちを解放しようとしたけれど捕虜たちの暴動が起きたのでやむを得ず殺したという話は、部隊の責任者だった両角連隊長による嘘の話、戦争責任を問われることを恐れた軍の幹部による捏造話でした。

それを調べたスタッフの方は、さらに56年前に両角連隊長の「郷土部隊戦記」の記事を書いた元記者の方を探し、85歳の阿部輝郎さんに出会いました。阿部輝郎さんは、戦後の両角さんを取材し、「自衛発砲」を初めて世に伝えた元記者の方です。阿部さんは、両角元大佐をその自宅で取材し、1日5時間の話を2日間聞いたそうです。その翌年に両角さんは亡くなったので、阿部さんは両角さんを直接取材した唯一の記者だということでした。

阿部さんによると、両角さんは、軍から捕虜を殺せという命令が来ていた、暴動が起きて自衛のために発砲したという話を何度か繰り返していたそうです。両角さんのメモに書かれていることについてスタッフに訊かれた阿部さんは、両角さんは見ていない、両角さんのメモは昭和30年代になって書いたものであると証言し、最近南京虐殺はなかったという話があるが…というスタッフの方からの質問に、「あったと思いますよ」と答えた阿部さんは、「虐殺があったことは認めて、謙虚に反省しながら進んだほうがいいのではないかと思っています」と話していました。

番組スタッフの調査により、南京事件を否定する人がその根拠としているという「自衛発砲説」なるものは(私はそのような説があることを知らなかったのですが)、軍の責任者が戦後に言い出した弁明だったということがよく分かりました。軍の幹部が戦犯になることを恐れて言った弁明を、南京事件の事実を否定したい人たちが、捏造話と知ってか知らずか、一部本にしたりやネットの記事にしたりして広めていたということでした。

南京虐殺はなかったとする日本の政治家の「歴史修正」の声も、殺された捕虜は30万人いるという中国政府の主張も、それはどちらも正確ではないことなのだろうと思うのですが、番組でも言われていたように、81年前の事件の当事者は亡くなっていますし、今はもう当時の本当の話を聞くことは難しいです。

「だからこそ重要な意味を持つはずだった公式記録を焼却したこの国(日本)。今は残り少ない記録と証言から一歩ずつその輪郭に迫るしかないのです」と、番組は最後に伝えていました。

「南京事件II 歴史修正を検証せよ」は、「一次資料と兵士たちの証言から事実の重みを検証します」ということだったのですが、81年前の重い事実を、「なかった」ということにしてはいけないというか、捕虜殺害現場にいなかった人や後世の人が安易に「なかった」と過去の事実を無視して消そうとしてしまうことの怖さを思いました。

ドイツの人の中にもホロコーストを「なかった」と言い出している人たちがいるそうなのですが、虐殺を行った側の国の人たちの中に虐殺行為を「なかった」と主張する人たちが現れるということは、その人たちは「愛国」と思ってそう主張しているのかもしれないとしても、本当の「愛国」にはならないのではないかなと思います。両角大佐を取材した記者の阿部さんがスタッフの方に話していたことが正しいのだと思います。

昔は「南京大虐殺」という言葉で習いましたが、今の学校の歴史教科書には「南京事件」という言葉で記されているのでしょうか。従軍慰安婦はいなかったとか、関東大震災の時の朝鮮人虐殺はなかったとか、731部隊による残虐行為はなかったなどの謎の「歴史修正の声」は一体何のための上げられているのでしょうか。少なくとも、日本のため、にはなっていないような気がします。一次資料もありますし、日本政府も当時の加害の事実を認めているのですし、日本を含めどの国の場合でも、戦争時の被害の事実を訴えることだけではなく、加害の事実も謙虚に認めて反省したり謝罪したりすることも、戦争をまた始めないようにするためには、大切なことなのだと思います。

「A級戦犯」などが突然合祀された結果昭和天皇が参拝できなくなってしまったという東京の九段の靖国神社に総理大臣職の国会議員が総理大臣として公式に参拝するかどうかというような毎年の話題の時にも、「東京裁判(極東国際軍事裁判)」の裁判で決まった「A級戦犯」について、戦勝国が裁いたものだからとして否定する方が時々いるように思うのですが、「東京裁判」を否定し、陸軍大臣で太平洋戦争開戦時の内閣総理大臣だった東條英機さんを「A級戦犯ではない」とする方たちは、それなら一体誰を本当の「戦犯(戦争責任者)」だと考えているのかなと、少し不思議に思います。その方たちが考えている「戦犯」とは、東條英機さんとは別の内閣総理大臣でしょうか、それとも、まさか、昭和天皇でしょうか。「東京裁判」の結果に関わらず、日本国内で誰が本当の「戦犯」なのかをもう一度考え直したほうがいいということなのでしょうか。あるいは、「戦犯はいなかった」などとするつもりなのでしょうか。戦争を実際に始めて指揮し、国民を統率していた政治家や軍人が戦争の責任者だと考えるのは、戦勝国による裁判などなくても、普通のことのように思えます。

私は日中戦争(支那事変)や太平洋戦争(大東亜戦争)などの先の大戦時代を生きていないので、時々本を読んだり、映画やドラマを見たり、今回のようなドキュメンタリー番組を何気なく見たりしなければ、戦争の時に何があったのかを知ることはできません。もっといろいろ知りたいなら自分で調べればいいのに、ということもあるかとは思いますが、それもなかなか難しいので、記者の方たちが調べて本やドキュメンタリー番組などにして伝えてくださることは、本当に有り難いことだと思っています。(といっても、放送されているドキュメンタリー番組の全部を見ることはできないのですが、時々、偶然、良い内容のものを見ることができた場合には、有り難いなと思います。)

「NNNドキュメント」は日本テレビの“良心”だと思うのですが、以前に「南京事件」が放送されたのを見た時には、勇気があるなと思いました。でも、戦争時代の日本側の加害についてを検証する番組を見て、勇気があるな、と思ってしまうような「空気」を感じることも、良くないのかもしれないなと思います。今の安倍政権下では、政権にとって都合の悪い事実を隠すために行政が公文書の改竄や偽造や捏造が行うという不思議な問題が起きていて、公文書の管理の在り方や情報公開の在り方が問われています。そのような中で「南京事件II 歴史修正を検証せよ」を放送したことには、(勇気があるなという風にもまた思ってしまうのですが)意義深いことであるように思いました。国民の未来のためにも行政文書がちゃんと保管されていくような仕組みを作ることが大事なのだと思うのですが、後世の人たちが嘘や噂に流されずに過去の出来事(歴史)を正しく考えるためには、一次資料の存在が本当に重要なのだなということをまた改めて思いました。取材や調査を行ったジャーナリストの清水潔さんを初め、スタッフの方々、ありがとうございました。深夜の番組なので、録画をしておいたのを見たのですが、歴史に疎い私も、最後まで興味深く見ることができました。事実に真摯に向き合う、とても良い特集でした。

「日本人のおなまえっ!」の元号特集と、昨日の柳瀬元総理秘書官のことなど

昨日のNHKの「ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!」は、日本の元号の特集だったのですが(録画をしておいたものを後で見ました)、外国の敵と戦うためには全ての日本の人に国と天皇陛下のために生きて死ぬ同一の日本人という意識を持たせなければいけないと考えた明治新政府による天皇陛下(明治天皇)全国PR作戦の話も、テレビ朝日の「朝まで生テレビ!」の司会の田原総一朗さんのものまね?が上手い田原総一朗さんの司会の「難陳(改元難陳)」(公家たちが元号候補に難癖をつけてその時代に最も相応しい元号を探る会議だそうです)の再現も、「平成おじさん」だった小渕恵三元官房長官(元内閣総理大臣)とは別の本当の「平成おじさん」だったという元内閣内政審議室長の的場順三さんの元号「平成」決定までの話も、その直後に分かった岐阜県の村の小字の「平成(へなり)」の話も、面白かったです。

敗戦後の1947年(昭和22年)に日本国憲法ができて新しい皇室典範ができてから1979年(昭和54年)に元号法が制定されるまでの間の「昭和生まれ」の人たちにはその法的根拠がないということも、私はよく知らなかったので、そうなのかと面白く思いました。

来年の5月に新元号が発表されるまでは、これからも度々日本の元号(元号制度を最初に始めたのは昔の中国だそうです)の特集が組まれるのかなと思うのですが、私が最近にどこかで見た元号の特集よりも、今回のこの番組での特集は観点が新鮮だったような気がしました。

ところで、昨日には、NHKで国会中継が放送されていて、国会に参考人招致されていた柳瀬唯夫元首相秘書官(現経済産業審議官)は、国家戦略特別区域諮問会議の議長を務める安倍首相の「腹心の友」が理事長を務める学校法人加計学園の経営する岡山理科大学への獣医学部新設を巡って、柳瀬元首相秘書官が首相官邸で加計学園関係者や愛媛県の職員や今治市の職員と会ったかどうかについて、昨年の国会では会った記憶がないとしていたものを、加計学園関係者とは会ったことを認めたものの、愛媛県職員の方の書いた文書の「首相案件」という言葉と文書の内容を否定し、愛媛県職員や今治市職員と会ったかどうかについても認めず、もしかしたらその場にいたかもしれないという風なごまかしに終始していました。

私はその中継の全てを見ることができたわけではないのですが、結局、柳瀬元首相秘書官(意外と饒舌な方のようでした)は、加計学園への獣医学部新設認可に“安倍首相が直接関与した”ということにならないように、その件に触れそうなことを懸命に否定し、昨年の国会での記憶をなくした答弁のことを「ご迷惑をおかけした」と簡単に謝りながら、再び同じように安倍首相を守った(守ろうとした)ということなのかなと思いました。

記者の質問に答えていた愛媛県の中村時弘知事は、参考人の柳瀬元首相秘書官の国会での発言について、(柳瀬さんの印象は)誠心誠意全ての真実を語らない正直な方、愛媛県の信頼を損ねるような発言があったことは非常に残念、真実ではない嘘は第三者をその世界に引きずり込むことになる、だからこそ特に公の人間は嘘をついてはいけない、職員には仲間がいて信頼関係で成り立っている、職員には大切な家族がいる、その方々の世界を壊しかねない、どうして正直に言わないのか分からない、愛媛県には文書を改竄する理由がない、当時の担当職員は一生懸命、一字一句漏らさず報告したいという気持ちがあるからありのままを書いた、人間には誇りがある、プライドがある、なぜそういうものに思いをはせていただけないのか、と批判していました。

総理大臣の秘書官が国家戦略特区域諮問会議の議長の安倍首相に、国家戦略特区制度を使いたいと愛媛県や今治市の職員よりも率先して?官邸に来た安倍首相の親友が理事長を務める加計学園の職員たちと会ったことを、安倍首相に一度も報告したことがないと(しかもそこだけははっきりとした記憶を持っていて)断言するというのは、妙なことだなと思います。首相官邸で首相と無関係な人と首相秘書官が会うということも、本当に行われているのなら官邸の使われ方としても謎に思えます。官邸を訪れた人の記録がないということも、本当ならセキュリティ意識の低さが問題になりそうなことにも思えますし、嘘なのではないかなと思います。

自由民主党の細田派と麻生派の?国会議員の方の暴言にも、本当に嫌気が差します。野党議員がすばらしいとも思いませんが、今の与党議員は酷いように思います。自民党(や公明党)の中でそのような自民党議員に対しての批判が起きているのかどうか分かりませんが、苦言を呈する、くらいでは弱いと思います。福田淳一前財務事務次官によるセクハラ被害を訴えた女性記者を貶める発言を繰り返す麻生太郎副総理大臣兼財務大臣(本当に吉田茂元内閣総理大臣の孫の方なのでしょうか)の「セクハラ罪という罪はない」とか(その罪名を日本の刑法にも作ったほうがいいという趣旨ならまた違うかもしれませんが)、加藤寛治という議員の方の「国のために結婚して3人以上の子供を生んで育てろ」とか、「そうしないと他人の子供が支払った税金で老人ホームへ行くことになる」とか、そのような内容のことを他人に言って平気でいる人たちが存在することに驚きます。世の中には様々な人たちがいて、辛い気持ちを抱えて生きているかもしれないということに思いをはせるということをしようとしない方たちなのかなと思います。暴言的な発言をした人自身がその発言を撤回しないよりは撤回したほうがいいと思いますが、発言を撤回しますと言っても、発言をした過去も、その言葉を言われて傷ついた人の心の傷も消えません。結婚をして子供を生み育てるということでもいいかもしれませんが、結婚をしたからといってその家に子供が生まれるとは限りませんし、政治家の方たちには、例えば、子供を生み育てたい人が結婚をしなくても安心して子供を生み育てることのできる世の中、どのような影響下に生まれた子供たちでも伸びやかに育つことのできる世の中、それぞれが幸せに自分の人生を生きていくことができるような世の中を作るようにしてほしいと思います。税金は、公の福祉のためにも使われるべきもので、消費税も含めて、全て市民の大人や子供、誰かがいつかどこかで支払ったものを国が集めたものです。安倍首相やその周囲の方たちは本当に「膿を出し切りたい」と、加計学園問題や財務省による公文書改竄も発覚した森友学園問題や自衛隊PKO日報隠蔽疑惑問題や裁量労働制データ偽造問題などをクリアにしたいと考えているのかなと疑問に思います。

「憲法と日本人 ~1949-64 知られざる攻防~」

日本国憲法の施行から71年目となる先日の5月3日の「憲法記念日」の夜8時から放送されていた「NHKスペシャル」の「憲法と日本人 ~1949-64 知られざる攻防~」を見ました。約50分のドキュメンタリー番組でした。

番組によると、過去に一度だけ、現在と同じように憲法改正を巡る国民的論議が交わされた時代があり、それは「GHQが憲法制定についての公式報告書を刊行した1949年から政府の憲法調査会が憲法改正を棚上げする報告書を提出した1964年までの15年間」なのだそうです。1949年には中華人民共和国が建国され、翌年には朝鮮戦争が起きていました。1964年は、東京オリンピックが開催された年でもあります。

今回の番組のため、ということではないかもしれないのですが、NHKは、憲法改正論議についての新しく見つかったさまざまな大量の一次資料を見つけ、その資料と当事者たちの証言から、「この15年間の憲法論議に“現在の論点”が凝縮されている」(現在と同じく、現行の日本国憲法が「GHQによる押しつけ」か否か、「第9条」や「自衛隊」をどう扱うか)ということが分かったということでした。

社会部の吉田好克さん(吉の文字は上が土のほうの文字です)という方が冒頭で話していたので、この番組はNHKの社会部が制作したということなのかなと思ったのですが、冷静に今の憲法改正の動きと向き合おうとする番組になっていたように思います。EテレのETV特集「平和に生きる権利を求めて~恵庭・長沼事件と憲法~」も良い特集でしたが、こちらも良い特集でした。

山梨県の甲州市の蔵で見つかったというのは、広瀬久忠さんという自由民主党の議員で元厚生労働大臣の方の残した資料でした。私は広瀬忠久元大臣のことを知らなかったのですが、日本国憲法の改憲を主張し、「自主憲法期成議員同盟」の初代会長に就任して、天皇の「首位」化や自衛軍の創設や基本的人権の制限規定などを特徴とする「広瀬試案」という改憲案を発表した方で、戦前には、阪急電鉄や宝塚歌劇団を作った阪急東宝グループの創業者で商工大臣だった小林一三さんと対立していた商工次官の岸信介元総理大臣(安倍晋三首相の祖父)のいた、国家総動員法を推進する企画院(作家の小林多喜二が虐殺されたことでも有名な特高警察の安倍源基という人が最後の総裁だそうです)の参与でもあった方だそうです。

1949年(昭和24年)から1964年(昭和39年)の内閣とは、第3次吉田茂内閣から第3次池田勇人内閣のことのようでした。その後の佐藤栄作元総理大臣や田中角栄元総理大臣は、日本国憲法を守る方向で頑張っていたようなのですが、その前の、戦後のその15年間の当時、政府直属の機関であり法の番人として中立であるはずの内閣法制局の職員たちは、「自主憲法期成議員同盟」(1955年に結成されたそうです)の改憲派議員たちに協力していたそうです。内閣法制局の改憲派の今枝常男さんという人の残した文書が発見されたそうです。名簿の名前を見た部下の浅野さんは、そうそうたる人たちだと話していました。

後(1991年)に総理大臣となる、アメリカ政府のウォルター・ロバートソンという人と会った大蔵省の官僚時代の宮澤喜一さんの手記には、敗戦直後の日本に軍をなくしたアメリカが、東西冷戦時代になって共産主義国の台頭を恐れ、防衛力のためとして、アメリカと共に戦わせるために日本に再軍備をさせようとし、そのために障壁となる憲法9条を改正ようと日本政府に圧力をかけてきたことについて、アメリカは日本を防衛ビジネスに引き込もうとしている、ということが書かれているのだそうです。アメリカと日本の関係はアメリカに支配されるようになった日本の敗戦直後から変わっていないというか、アメリカから大量の武器を買っている(言い値で買わされている)安倍政権下の今の状況と同じであるように思えて、驚きました。

番組では、戦前には零戦(零式艦上戦闘機)を作った三菱重工業の社長であり、戦後には「A級戦犯」として逮捕されて巣鴨プリズンに収監され、公職追放されたという郷古潔という人のことも伝えていました。郷古さんは、戦前には大政翼賛会の生産拡充委員長を務め、敗戦の直前には軍需省の顧問でもあったそうです(太平洋戦争時に東條内閣顧問になったことによって、政治は関わらないとしていた三菱の総帥の岩崎小彌太に社長の座を解任されて閑職の会長に左遷されたそうです)。約73年前の戦時中の軍需産業に深く関わっていた方が、今の経団連(一般社団法人日本経済団体連合会)の基礎を作ったということのようでした。

アメリカは、日本に再軍備をさせるため、日本兵を作るため、防衛生産委員会を経団連の中に作ったそうです。郷古潔さん他、自衛軍を作りたいと考えていた経団連の人たちと、憲法第9条改正を迫るアメリカとは、利害関係が一致していたようでした。そして、憲法を改正したい自由民主党の岸信介議員や鳩山一郎議員や経団連の人たちは、戦後の日本国憲法がGHQに一方的に押し付けられたものではないということを実際には知りながら、日本国憲法の改正の賛同者を増やすために、日本国憲法は制定過程でGHQのマッカーサー元帥に一方的に押し付けられた憲法だからそれをやめて独立国として自主憲法を制定するべきだという風な自説を流した、ということのようでした。

浅野さんが番組の記者の方に紹介した、参議院法制局の職員の一人だった、今は90歳の福田穣(ゆたか)さんは、舌癌の後遺症のために筆談で記者と話していました。学生の頃に施行された日本国憲法に感銘を受けて法制局の官僚になったという福田さんは、一政治家の改憲案に協力することに戸惑いがあったそうです。

福田さんは、白い紙にボールペンで文字を書いて筆談をしていました。「『広瀬憲法試案』というような表紙の文書を見せられて、『君の意見を聞かせてほしい』と頼まれたのだったと思います。私用と心得て役所で見ることはしない、とにかく目を通すのは自宅でした。現憲法のうまくできていないところを整備補修はしたほうがいいと考えている方は多かったのではないか。有力な意見を知って参考にし、公正な結論に至りたいといったお考えであった。」。福田さんは、(法制官僚たちは)やっぱり広瀬先生のいわば悲願を達成するためには、と話していました。

外務省、大蔵省、防衛庁、内閣法制局の協力の下、広瀬久忠議員の憲法改正試案が作られたそうです。軍を持たずして平和は成立しない、それは空論だという風な広瀬さんの意見は、今の改憲派にも共通しているような気がします。軍を作ったり国が個人の自由を制限したりする広瀬改憲試案に、国民は戦前回帰だと大反対し、戦争の絶大なる犠牲によって得た平和憲法を守るべきとする護憲派の政治運動も広まったそうです。

1956年、鳩山政権は、公職選挙法改正案で小選挙区法案を出したそうです。しかし、憲法改正のための党利党略との批判を浴び、自民党内からも批判が相次ぎ、廃案となったそうです。そして、国政選挙で自民党は過半数も獲得できなかったということでした。その時の日本国民は、自由を制限する自民党の改憲案よりも、日本国憲法を選択したのです。

憲法調査会の会長の高柳賢三さんは、1959年、押し付け憲法説を調査するためにアメリカへ渡り、GHQの関係者に聞き取りを行って制定過程を検証し、800ページに及ぶ文書を作成したそうです。アメリカの資料の中には、日本国民の意思で憲法を起草するのが望ましいとあったそうです。日本の憲法学者の意見も相当に重要視された、天皇制の維持と引き換えに押し付けられたというのは全然誤解であり、憲法は単純な押し付けとは言えないと結論付けたそうです。高柳さんは、(憲法制定は)日本人によって自発的に行われるべきものであるという態度を(アメリカは)とっております、日本に押し付ける草案を作っていたのではないかという一部の日本人の憶測には何らの根拠もありません、と会見で?述べていました。

アメリカでの調査や世論の変化によって、意見を変えるようになった改憲派もいたそうです。宇治俊彦さんという東京新聞や中日新聞の記者の方は、憲法調査会の副会長で憲法学者の矢部貞治さんは、改憲派の中曾根康弘元総理大臣も師と仰ぐ人だそうですが、施行から10年以上経った日本国憲法が日本人に根付いていると考えるようになり、「改憲は国民の盛り上がる指示なしにはやれないし、やるべきではない。改正を強引に強行することによって国内を分裂状態に導いた例はある。改憲勢力が3分の2を占めたというだけで改憲などできるものではない」としたそうです。国を二分することは国民の幸せにはつながらないと、矢部さんは思っていたのではないかということでした。憲法調査会は、改憲すべきという結論は出さなかったそうです。

アメリカも、自衛隊が発足すると、改憲への圧力を弱めていき、憲法調査会の議論終了の3か月後、東京オリンピックが開かれたそうです。それから、歴代の内閣総理大臣は、改憲を掲げなくなったということでした。次に改憲を目標に掲げ出した内閣は、現在の安倍内閣ということになります。

憲法調査会の議論終了の頃の広瀬久忠議員のノートには、「現行憲法を改正するか否か、いかに改正するかは、すべて主権者たる国民の判断にかかっている、5年かかっても、10年かかっても良いではないか、国民の大部分の納得を取り付けるまで、飽くまで努力を重ねるべきである」と書かれているそうです。改憲派の議員でも、と言ってはいけないのかもしれませんが、昔の人は誠実だったのかもしれないなと思いました。今の改憲派の議員さんたちとは、違うような気がしました。

広瀬改憲案に関わった元法制局の福田穣さんは、今の憲法改正の動きを見守っているそうです。「憲法改正は、国民の権利自由に関わる大問題です。私が若かった頃と今とでは世の中は大きく変わっているのではないかと感じています。人はみな本来自由なのです。それぞれの権利自由を実現するように計らうのが国家目的でなければならないと考えます」という、最後に紹介されていた福田さんの筆談の言葉も、とても良かったです。貴重な言葉であるように思えました。桜の花びらの静かに散ってゆく日本の春の風景も印象的でした。

日本軍とした自衛隊をアメリカ軍と一体化させて海外で武力攻撃を行うことができるようにするために憲法を変えようとしている改憲派や自主憲法制定派とはどのような人たちなのか、戦後の大多数の国民に歓迎されたという平和主義の新しい憲法(現行の日本国憲法)を改正したいということを、主権者である国民側からではなく政治家側から発信するのはなぜなのか、ということを、一次資料をもとに伝える、意欲的な特集だったように思います。

改憲派の安倍首相は「自衛隊は“違憲”」という言葉を繰り返し公の場で述べて憲法9条の中に自衛隊を明記するという案を認めるよう訴えているようですが、安全保障関連法で日米安全保障条約を強化して武器の製造や輸出や集団的自衛権の行使を可能にし、自衛隊を派遣先の海外でも武力を使う違憲的な存在にしようとしているのは、憲法学者たちではなく、政治家たちのように思えます。安全保障関連法案が国会で話し合われていた時、憲法学者たちの多くが違憲だと判断していたのは、自衛隊ではなく、集団的自衛権のほうでした。

それに、憲法第9条に第3項として自衛隊を明記することが、どうして自衛隊の誇りにつながるのか分かりません。安倍首相の発言によると、自衛隊員の方たちの多くは自分たちの所属する自衛隊を誇りに思っていないということになりますが、それは本当なのでしょうか。自衛隊がどのような隊なのかということを曖昧にしたまま、今の憲法に自衛隊を明記するという案では、自衛隊をより矛盾した存在にしてしまうのではないかと思います。憲法にとりあえず自衛隊と書けば自衛隊は憲法学者から違憲とは言われなくなるだろうという発想は浅いと思いますし、今の政府は、自衛隊員の方たちの命のことを本当には大切に思っていないように見えます。自民党または祖父の岸元総理大臣の“悲願”を達成するために?憲法改正のための改正をしたいだけ、まだ一度も改正されたことない憲法に傷をつけたいだけのようにも見えます。

以前にNHKの特集で伝えられていたことによると、敗戦直後にGHQのアメリカの人たちが日本の新しい憲法の草案を考えていた頃から、独立した国の最低限の軍事的な権利として個別的自衛権(他国から攻撃を受けた場合に自国を守るために戦う権利)を認められていたということなので、第9条が日本のほうから戦争を仕掛けてはいけないということではあったとしても、専守防衛のための軍備さえ認めないということではないのかもしれないですし、一切の武力を持ってはいけないということではないのかもしれないと思います。昔の裁判で自衛隊は違憲だということになった時も、当時の自衛隊の軍備増強が問題になったということなのではないでしょうか。

自衛隊に新しく入る方たちは、救助隊のような部隊ではなく、軍隊に入隊するという気持ちで入っているのでしょうか。そのご家族の方も、自衛隊は日本の軍隊だと(あるいは軍隊であるべきだと)考えて子供を送り出しているのでしょうか。護衛艦「いずも」をアメリカ軍が?空母として使うことができるようにするという計画も、高額な維持費のかかるイージスアショアをアメリカから購入して国内に配備するという計画も、沖縄の辺野古に新しいアメリカ軍基地を作るという計画も、日本政府が自衛隊の軍備を拡張するという計画の中にアメリカ政府が関わっていないものはないのだろうと思います。日本国憲法を変えるより安全保障条約や(不平等条約とも言われている)日米地位協定を変えるようにしたほうがいいという意見のほうが、正しいように思えます。

日本国憲法を改正したほうがいいか改正しないほうがいいか、改憲か護憲か、という分け方は無意味であるような気がします。憲法論議に興味のない国民もいるかもしれませんし、どの条文のどの辺りをどのように変えるか変えないか、というような話し合いをしたほうがいいと思います。改憲派の人といっても、その中には前文や第9条は変えなくていいと考える方もいるかもしれませんし、天皇陛下に関する条文を変えたほうがいいと考える方もいるのかもしれませんし、どの条文をどのように変えたいかということについては、人によって(それこそ個人によって)、いろいろな考えがあるのだろうと思います。

日本国憲法の前文を削除したり、個人を削除したり、国民の権利自由を制限して義務を強化して国民を監視し、国家や為政者の権力を強化するような2012年の自民党の改憲草案を、私は怖く思えているのですが、私には、その改憲草案の内容を現在も否定しない(あるいは積極的に肯定している)今の、憲法や国会を軽視しているように見える自民党議員の考える改憲案が、日本人の未来のために良いものになるとは思えないという漠然とした不安感があるのだろうと思います。(先日には、今上天皇陛下の退位(譲位)と新天皇の即位にあわせて政府が「恩赦」の実施を検討しているらしいということが報道されていましたが、天皇家に重大な出来事がある際に犯罪者の刑を軽くするという「恩赦」は、もうやめたほうがいいと思います。)

憲法第99条には「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。」と書かれています。番組で紹介されていた、昔の改憲派の矢部貞治さんや広瀬久忠さんの言葉にあったように、国民主権なのだから国民の大多数が改憲に納得するまでは政治家は努力を重ねるべきだという考えは、誠実であるように思いました。

日本国憲法の内容を他の普通の法律で補っているというところは、これからもそれで良いように思えます。政府が国会などで憲法改正の話をするようになったことで、憲法のことを私も以前よりは考えるようになりましたが、よく分からなく思えてしまう部分も多いです。憲法記念日の前日の朝のNHKの「あさイチ」の「知ってビックリ!日本の憲法を世界と比べてみたら」という特集も意外と面白かったのですが、施行されてから71年間変わっていない憲法は世界で唯一だという日本の憲法は、他国の憲法のように、あるいは普通の法律のように、条文の内容を細かく規定するような、分厚いものにはしないほうがいいということを改めて思いました。

今回の番組の中で伝えられていた1949年から1964年の15年間の当時と現在とが、憲法改正論議の起きた時代として決定的に違うのは、第二次世界大戦や太平洋戦争(大東亜戦争)の時代が遠い時代となり、その戦争時代を生き抜いた国民が少なくなってきているということなのではないかと思います。日本国憲法は当然のことながら他国と戦争をしないためだけの憲法ではありませんが、先の戦争を体験したことがある、あるいはその戦争のことを多少なりとも知っているという国民が多いか少ないかということは、平和憲法としての日本国憲法を維持するためには、個人が個人として尊重される穏やかな世の中を作っていくためには、やはり重要なことであるような気がします。

「平和に生きる権利を求めて~恵庭・長沼事件と憲法~」

先月末に放送された、NHKのEテレのETV特集「平和に生きる権利を求めて~恵庭・長沼事件と憲法~」を見ました。

恵庭事件のことも長沼ナイキ事件のことも、このドキュメンタリーを見るまで、私は知りませんでした。恵庭事件というのは、北海道の恵庭町で両親と酪農の仕事をして暮らしていた野崎健美さんと美晴さんの兄弟が、敗戦後にアメリカ軍の演習基地となっていたのを陸上自衛隊が引き継いだ島松演習場での射撃訓練の爆音に耐えかね、訓練のある時には事前に連絡すると約束した自衛隊がその約束を守らないため、1962年の12月、自衛隊が訓練に使っていた電話線を自衛隊員たちの目の前で切断した、というような事件でした。射撃訓練の爆音に人間も牛も苦しみ、体調を崩していた野崎さんの母親は裁判の公判中に亡くなったそうです。

長沼ナイキ事件というのは、北海道の恵庭町の隣の長沼町の馬追山の中腹に航空自衛隊の「ナイキ地対空ミサイル基地」を建設するため、1969年、農林大臣がその馬追山の中腹の林を伐採することを決め、町を水害から守る保安林を伐採されては困る、攻撃対象にされるミサイル基地を作られては町の平和が脅かされると反対した長沼町の住民たちが、自衛隊が憲法違反の存在であるなら自衛隊のミサイル基地建設に公益性はないと主張して行政訴訟を起こした、というような事件でした。

番組は前半と後半で別れていて、前半は「第一章 恵庭事件」、後半は「第二章 長沼ナイキ事件」でした。元自民党衆議院議員の小泉純一郎さんが総理大臣を務めていた2003年の「イラク復興支援特措法」での自衛隊のイラク派遣を日本国憲法9条違反だとして3264人の原告が名古屋地裁に訴訟を起こしたことも伝えられていました。

恵庭事件の野崎さん兄弟が自衛隊法第121条違反で逮捕されると、内藤功さんを始めとした弁護団がすぐに組まれたそうです。国際基督教大学の名誉教授の笹川紀勝さんは、北海道大学の学生だった頃、自衛隊法第121条違反で逮捕されたという野崎さん兄弟の小さな新聞記事を深瀬忠一准教授に見せたところ、深瀬先生は、これは大変なことだと驚き、野崎さん兄弟に会いに行ったそうです。

恵庭事件の特集では、今回テレビ初公開となったという、裁判時の録音テープの音声の一部が公開されていました。証人の田中義男元陸軍大将?は、朝鮮半島で武力紛争が起きた場合には日米共同で軍事行動を行い、米軍が敵国を攻撃した時には日本が後方支援をするとシミュレーションした「三矢作戦研究」(1963年)という資料について、自衛隊は軍隊だと思うかと訊かれた田中さんは、自衛隊は軍隊だと思います、でも「三矢研究」は憲法に抵触していないと答えていて、「“敵に勝つ”ということは優勢になったというだけでは敵が参ったということにはならないわけで、勝った勢いをさらに拡充して徹底的な成果を治めることによって本当に勝負がついたということになる」と話していました。つまり、田中さんの考えでは、自衛戦争はしても侵略戦争はしないという風に言いつつ、反撃作戦では自衛隊が日本の領域外に出る可能性も十分にあり得るということのようでした。

内藤弁護士は、「三矢研究」を考えていた田中さんたちが自衛隊を軍隊と思っているということは重大なことで、自衛隊が軍隊であるなら憲法違反なので野崎兄弟は無罪になる可能性が高いと考えたそうです。しかし、担当の親崎検察官は、高度に政治的なので裁判所は審理すべきではないとし、砂川事件の時と同じ、「統治行為論」を持ち出して裁判から逃げたようでした。東京大学の名誉教授という高橋和之さんという方は、裁判所がこの件には立ち入らないでおこうと審理を避ける「統治行為論」について、認められると話していました。

現在82歳という野崎健美さんは、弁護団は被告の正当防衛よりも、自衛隊が違憲だから被告は無罪だとして自衛隊は違憲だということを勝ち取ろうとしていたので、私とはちょっと立場は違う、私は自衛隊がいかに酷いことをやったか、平和に生きる権利を侵害してきたかを証明しようとしたという趣旨のことを話していました。野崎さんにとっては、自衛隊が違憲か合憲かということの前に、平和な生活を取り戻すための闘いだった、自衛隊の行いから身を守るための正当防衛だったということでした。野崎さんは、平和に生きる権利は国民の不断の努力によって保持しなければ、守るために行動しなければ、守ることができないと話していました。

番組では、深瀬先生の、「野崎さん一家が米軍及び自衛隊による軍事演習によって憲法が保障している生命、自由、財産、幸福の上にどれだけ深刻不当な被害を受けたか、どれだけ粘り強く不断の努力によって憲法が国民に保証している正当な権利を守るろうとしてきたか。これは野崎さん兄弟だけの問題ではない。野崎さんが守ろうとした憲法上の徹底的に平和な人権主義か、それとも検察官、自衛隊側が押し付けようとしている軍事目的優先主義かという憲法原則の争いだ。国民はどちらを勝たせるか高みの見物では済まされない。ここでの野崎さん兄弟を通じて自分自身の権利が争われているのだという本質を国民は見なければならない。野崎さん兄弟の平和な乳牛牧場での生活権は日本国民のみならず平和を愛する全ての国民の人権に関わりを持っていると申して過言ではない。軍備拡張、核の拡散は現実に留まるところを知らない。このような恐怖から免れて地上の最大悪から日本国民と世界の諸国民を救うためには憲法として何をなし得るか。それはまず人間の普遍的な理性と尊厳の名において『平和的な生存権』を確認し、その破壊が客観的な正義に反することを宣言することだ。それは決して単なる悲壮な倫理の叫びではない」という言葉を伝えていました(本当はここに書いた言葉よりももっと丁寧な言葉で話していました)。

野崎健美さんの弟の美晴さんは、「私はこの裁判を通じてより大きなものを得ることができました。その一つは平和を求める多くの仲間たちを知ったことです。私はかつて『あたらしい憲法のはなし』という本で教育を受けました。先生も一切の戦争はしないのだと教えてくれました。それを日本人の誇りにしろとも教えてくれました。検察官や裁判官も、戦後、法律を勉強されたのなら憲法第九条は一切の戦力をもってはならないと教えられたはずです。」と裁判で述べていました。

笹川さんは、日本国憲法の「前文」は理念で規範性はないという人もいるが、深瀬先生は「前文」で言っていることを各条文で保障する関係にあると考えていたと話していました。憲法のいろいろな条文の中に染み通って動かしている根底にあるのは「平和的生存権=基本的人権」だということでした。

1967年の3月29日に恵庭事件の判決が出たそうなのですが、辻三雄裁判長の出した判決内容は、野崎さん兄弟が切断した通信線は自衛隊の訓練に重要な意義を持っていないから自衛隊法違反にはならない、だから無罪とする、というようなものだったようでした。裁判所は、自衛隊が違憲か合憲かという点には触れないようにし、自衛隊が合憲か違憲かという論争をなかったことにしたのでした。そのため、「肩すかし判決」と呼ばれていて、控訴できなくなった当時の弁護団は怒っていたそうです。笹川さんは、判決の報告会で弁護士たちが憤慨して酷い裁判だと言っていたことが忘れられません、でも深瀬先生一人は違った、勝ったんだと言った、それは弁護士たちの言わない言葉でした、野崎さんが勝ったんだ、野崎さんが生活を守るために(訴訟を)やって無罪を勝ち取ったんだ、勝利なんだ、と喜んでいたそうです。笹川さんは、深瀬先生は基本的に個人の権利を守るということを貫いた、譲らなかった、それは本当に大きな視点だと思う、と話していました。

検察側は、被告が無罪となって検察側が裁判には負けたのに喜んでいて、控訴をしなかったそうです。早稲田大学の水島教授によると、それは政府側が自衛隊に違憲判決が出ることを恐れたために非常に不自然な形で収束させたということでした。

長沼ナイキ基地訴訟の特集では、ミサイル基地建設に反対する長沼町の幅田末吉さん(現在83歳だそうです)たちが訴訟を起こした札幌地方裁判所の裁判官で今は弁護士の仕事をしているという87歳の福島重雄さんが、当時の裁判について話していました。

福島裁判官は、裁判の前に、裁判所の平賀健太所長から一通の手紙を受け取ったそうなのですが、そこには、国が行う治水工事によって長沼町への水害は十分に防止できる、という内容のことが書かれていたそうです。それを読んだ福島さんは「裁判干渉」だと思い、記者会見を開いて、時の政治権力に進んで迎合したはっきりとした証左であると、メディアに手紙の事実を告白したそうです。裁判官の独立を揺るがしかねない司法の危機だと、当時大きく報じられたそうです。

1969年の8月の裁判で福島さんは執行停止を認めたそうです。しかし、国は控訴し、翌年の札幌高裁で福島さんの判決は取り消されたということでした。ミサイル基地の建設が本格化すると、幅田さんたち住民は行政訴訟を起こしたそうです。長沼ナイキ基地訴訟です。福島さんは再び裁判に臨み、2年前の恵庭事件の内藤弁護士たちも住民側として加わったそうです。憲法学者や自衛官や元軍人(真珠湾攻撃の航空参謀だった源田実という人?)や軍事評論家などの24人の証人尋問が行われ、自衛隊は合憲か否かを話し合ったそうです。長沼町の住民にとっては、ミサイル基地を作られることは、他国から攻撃を受けるかもしれないという恐怖であり、平和に生きたいから軍事施設を作られては困る、しかも、その軍事施設は憲法に違反しているかもしれない、そのような基地を作られては困る、という思いでした。憲法の前文に書かれている平和的生存権が脅かされると考えていました。

1973年の9月、札幌地裁の福島さんは、保安林の指定解除の指定を取り消す判決を出したそうです。自衛隊が軍隊であるなら「戦力の保持」を禁じている憲法9条違反に当たるとし、「統治行為論」で逃げるようなことはしなかったのでした。そのことについて記者の方に訊かれた福島さんは、できるのに何でそうするんですか?、政府を擁護するために?、それが今流行りの忖度でしょう、それでは裁判の問題の解決にはならないと言い、重大な憲法違反の状態の発生の疑いがあって国民の権利が侵害されている時には裁判所は憲法判断をする義務があるという趣旨のことを毅然と話していました。

国が控訴すると、1976年8月、札幌高裁は平和的生存権を認めず、一審の判決を破棄したそうです。東京大学の高橋教授は、福島さんたちの考えとは異なり、権利の内容としては非常に抽象的な規定だから白黒つけるのは土台無理があるのだと話していました。

政府とは異なる見解を示した福島裁判官は、家庭裁判所に“左遷”になったそうです。福島さんは、15年ほど冷や飯を食わされたが、出世がしたくて裁判所に入ったわけではない、自分の良心に従って生きたことが大きな喜びだと話していました。

1977年の茨城県の百里基地建設訴訟でも、自衛隊が合憲か否かは裁判で争われたそうです。基地建設に反対する住民側は、自衛隊は違憲という判断を求めていたそうなのですが、裁判所は「統治行為論」を使って自衛隊の違憲性について判断を避けたため、住民側は敗訴となり、百里基地は建設されたそうです。

福島さんは、憲法の前文の「平和的生存権」を特殊な権利かのごとく考えるほうがおかしい、世界平和のためには事あるごとに裁判で具体的な事例を積み重ねていかないといけないと話していました。

自民党の衆議院議員だった小泉純一郎さんが総理大臣だった頃の2003年にアメリカはイラク戦争を始め、日本政府はイラク復興支援特措法を作って自衛隊のイラク派遣を決めたのですが、その日本政府に対して行われた自衛隊イラク派遣差し止め訴訟では、鈴木善幸内閣の元郵政大臣で元防衛政策次官の北海道出身の箕輪登さんたちが、自衛隊のイラク派遣は憲法9条違反だと札幌地裁に訴えたそうです。箕輪さんたちは、自衛隊のイラク派遣により、日本はテロの標的となり、国民一人一人の平和的生存権が脅かされると考えていました。日本はどうなるのかと心配していたという箕輪さんは、「軍隊とは血を流す政治です。外交とは血を流さない政治です」と言ったそうです。その後の2004年のイラク日本人人質事件の時には、箕輪さんは、自分を人質の身代わりにしてほしという声明を犯行グループ側に出していたそうです。

名古屋の川口弁護士と3264人の原告は、「戦争や武力行使をしない日本に生きる権利」を、名古屋地裁に訴えたそうです。その権利は、「他国の市民に対して加害者にならずに生きる権利」でもありました。2006年に訴えは棄却され、裁判に勝った国側は、平和的生存権は具体的な権利ではないから訴えは無意味だとしたそうなのですが(その国の考えは東京大学教授の高橋さんの考えと同じようでした)、その際、裁判所は、航空自衛隊の空輸活動の一部は憲法第9条違反である、平和的生存権は具体的な権利であり、基本的人権の基礎にある規定的権利であり、単に憲法の基本的精神や理念に留まるものではないと認めたそうです。

その判決を高く評価した原告の住民側は、控訴をしませんでした。名古屋高裁の青山邦夫裁判長は、その裁判を最後に退官し、今は弁護士の仕事をしているそうです。

青山さんは、この番組で初めてテレビの取材に答えたそうです。青山さんは、「平和的生存権には学説の対立がありまして、多数説をいわれる人たちは裁判所に救済を求めるような権利ではないと言うが、そうではないのではないかと感じていた。平和という概念が抽象的だからいけないのか?しかし、権利はそれだけに発生して発展していくものだから最初から、内容が全て明らかになるというのはなかなかないので、いろんな辞令の集積があって内容が充実していく面がありますから、抽象的過ぎるということでみんな切り捨てていったら時代の動き、あるいはニーズに応えるような形にはできない」という趣旨のことを、ゆっくりとした口調で話していました。

青山さんは、今も平和的生存権の意味を考え続けているそうです。平和主義と人権保障は表裏一体になっている、その中にあるのが平和的生存権で、不断に自分たちで守る努力をしなければいけない、誰かがやってくれるということではない、蔑ろにすれば失われてしまうものだ、特に平和というのは戦争行為が始まれば誰も止められなくなる、そのずっとずっと前から用心して、そういう違法行為のないように目を光らせていくことが必要である、戦前の歴史がそれを証明している、と話していました。そうなのだなと思いました。

沖縄の在日米軍の普天間基地の近くに住んでいる呉屋さんという方も、生活を守るためには声を上げていくことが必要だと話していました。子供が生まれてから、爆音の響く基地のある環境が異常であることに気付いたということでした。普天間基地の爆音差し止め訴訟を起こしているそうです。法的根拠は、人格権、環境権及び平和的生存権という、基本的人権でした。2017年の12月に普天間第二小学校の校庭に米軍機の窓枠が落下するという事故が起きましたが、その後、その学校の屋上には監視員の方が立つようになったそうです。そのようなことになっているとは、知りませんでした。あまり報道されていないのかもしれません。

米軍基地に反対する沖縄の住民の方たちが、基地の前で、日本国憲法の前文を朗読していました。恵庭事件から半世紀、平和的生存権はいくつもの裁判を経て権利として認められるようになってきた、これは一人一人の人権から平和を取り戻していく試みだと、番組は最後に伝えていました。

日本国憲法の前文に書かれている平和的生存権(全世界の国民が平和のうちに生存する権利)を国民の基本的人権として認めるか認めないかは、そのことを判断する人が、政府の側につくか、国民や社会的弱者の側につくかによって違うのかもしれないと思います。「個人」が消されているの2012年(平成24年)の自由民主党の憲法改正草案では、「前文」も削除されて内容の違う別の文章に書き換えられています。この自民党の改憲草案の内容は、今も撤回されてはいないようなのですが、私には怖く思えるものでした。崇高な理想を達成すべき目的として掲げる日本国憲法の前文は、個人である全ての人々にとって、やはりとても大切なものなのだと思います。

恵庭事件の原告だった野崎さんは、「話せば分かるとその時は思っていた。ところが彼らの考え方は違っていた」と話していました。もしかしたら、それは今でも、穏やかに暮らしたいと願っている人と、軍備拡大や武力増強を目指す人との間で続いていることなのかもしれません。私は約56年前の恵庭事件のことも長沼ナイキ事件のことも知らなかったのですが、今回の特集を見て、少しでも知ることができて良かったです。良い特集でした。

昨日の南北首脳会談のこと

昨日、韓国の軍事境界線(38度線)上の板門店の韓国側の「平和の家」という施設で、韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長との南北首脳会談が行われました。南北首脳会談としては約11年ぶり(10年半ぶり)の史上3回目で、軍事境界線を越えたのは、北朝鮮の最高指導者としては金正恩委員長が初めてだそうです。

北朝鮮側の施設・板門閣から出てきた金正恩委員長が文在寅大統領と笑顔で対面した後、韓国に来た金正恩委員長と文在寅大統領とが手を取り合って、嬉しそうに軍事境界線を越えて北朝鮮に文在寅大統領を招待したり、またお二人で韓国に戻ったりしている様子を報道で見て、朝鮮半島の戦争や政治の歴史を少ししか知らないような一日本人の私も、ほっとしたような、嬉しいような気持ちになりました。あの場所が少し前に銃撃戦のあった場所だと思うと、少し不思議な感じもしました。

少し緊張した様子の金正恩委員長は、妹の金与正さんのサポートを受けながら、素直に会談に臨んでいるように見えました。金正恩委員長は、署名した芳名録に、「新しい歴史はこれから 平和の時代 歴史の出発点で」と記したそうです。文在寅大統領は金正恩委員長の勇断だと述べていましたが、その金正恩委員長の勇断と、文在寅大統領の落ち着いた判断、韓国政府と北朝鮮政府の職員の方たちの地道な交渉と入念な準備が、朝鮮戦争を休戦から終戦にして朝鮮半島の完全な非核化を目指す、核なき朝鮮半島を目指すという「板門店宣言」につながったのだろうと思います。

今すぐに非核化が実現するわけではないとしても、戦争も核兵器もない平和な朝鮮半島にすることを目指すと韓国と北朝鮮が公式に宣言をしただけでも、それは立派な進歩だと思います。北朝鮮にいるという拉致被害者の方たちが早く帰国できるようになるといいなと思います。報道によると、拉致被害者家族の方たちの中には、宣言を聞いてがっかりしたと話していた方もいるようなのですが、がっかりしたという言葉は、何というか、どちらかというと、拉致問題を解決すると言いながら北朝鮮政府や金正恩委員長と直接対話をしようとしないで他国の政府に頼ろうとしている日本政府の政治家に言ったほうがいい言葉なのではないかとも思いました。

金正恩委員長は、「冷麺」を遠くから持ってきたと文在寅大統領に言って、遠くからと言ってはいけませんねと言い換えていましたが、「冷麺」は北朝鮮発祥の料理なのだそうです。朝鮮戦争の時に北朝鮮から韓国へ移った方たちが韓国に広め、日本にも広まったのだそうです。私はテレビ東京の池上彰さんの番組で知りました。

昨日の南北首脳会談の様子を報道番組で見ていて、NHKの番組で韓国に住んでみた草なぎ剛さんが会って話していた、故郷が北朝鮮にあるという方や親戚が北朝鮮に住んでいるという方たちも、今回の南北首脳会談を嬉しく思っているのかなと思いました。文在寅大統領のご両親の?実家も北朝鮮にあるそうなのですが、もしも韓国の大統領がリベラルな文在寅大統領になっていなければ、南北首脳会談はまだ行われていなかったのかもしれません。父親の金正日総書記の亡き後、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)という一国の最高指導者となった20歳代後半か30歳代前半くらいの若い金正恩委員長と笑顔で穏やかに話す文在寅大統領が、何となく、金正恩委員長の久しぶりに会う親切な親戚のおじさんのようにも見えました。金正恩委員長を乗せた黒い車の周囲を護衛の方たちが取り囲むようにしてゆっくりと走る様子も、(初めて見たからかもしれないのですが)何だか面白く思えました。

アメリカのドナルド・トランプ大統領と金正恩委員長との会談はこれからですし、東アジアを取り巻く世界の未来がどうなるのかは分かりませんが、今回の南北首脳会談が平和のうちに無事に終わったことに、日本でこの首脳会談ことを伝えるニュース番組を見ていただけの私もほっとしました。首脳会談は、行わないよりは行ったほうがいいものなのだと思います。「微笑み外交」という言葉を時々聞きますが、それは、どこの国の政治家も行っていることのように思えます。ドイツの「ベルリンの壁」が壊された時もそうでしたが、自分たちの世界を隔てていた壁を壊すのは「今」なのだというスピード感は、大事だと思います。今後は話し合いもしやすくなるのだろうと思いますし、具体的なことは、これからまた各国の政府間で話し合って決めていくのだろうと思います。良い方向に変わっていくといいなと思います。戦争は絶対に起きてほしくないです。先日の「持論公論」では、学校を軍事関連施設として使わないようにしようという人道上の観点から考えられた「安全な学校宣言」に日本政府やアメリカ政府は賛成せず不支持の立場であるということが言われていましたが、一体どうしてなのでしょうか。他に言いようがないのですが、戦争のない、平和な世の中になってほしいです。
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