映画「ファインディング・ドリー」

昨夜、日本テレビの「金曜ロードショー」で地上波初放送されていたディズニーとピクサーのコンピュータアニメーション映画「ファインディング・ドリー」を見ました。日本語吹き替え版です。

2003年に公開された映画「ファインディング・ニモ」の続編として、2016年に公開された映画だそうです。以前に見た映画「ファインディング・ニモ」がとても面白くて、マーリンと一緒にニモを助けに行ったドリーのキャラクターも好きだったので(室井滋さんの声も印象的です)、この映画が放送されると知り、私も見るのを楽しみにしていました。

物語は、前作から1年後、憶えたことをすぐに忘れてしまうナンヨウハギのドリーが、小さい頃に海で迷子になってから会えなくなっている父親と母親を探すため、ドリーを心配するマーリンとニモと一緒にウミガメのクラッシュの協力でグレートバリアリーフから遠いカリフォルニアのモロベイの海へ出かけ、過去を少しずつ思い出しながら、“人間の世界”である「海洋生物研究所」で出会ったミズダコのハンクやジンベエザメのデスティニーやシロイルカのベイリーたちと大冒険を繰り広げるというものでした。

脚本はアンドリュー・スタントンさん、音楽はトーマス・ニューマンさん、監督はアンドリュー・スタントンさんとアンガス・マクレーンさん、製作はリンジー・コリンズさん、製作総指揮はジョン・ラセターさんという作品でした。

映画「ファインディング・ニモ」の続編らしさもちゃんとあったように思いますし、ファンタジー作品らしい現実離れした要素も含めて、映画「ファインディング・ドリー」も楽しく見ることができました。面白かったです。

忘れっぽいドリーは、「今」だけを見て考えているというか、「今」を大切に生きていて、「今」をより良いものに変えるためのアイデアを出す力に長けているのですが、それは両親と仲良く暮らしていた記憶、両親に愛されていた記憶がドリーの中に確実にあったからでもあるのかもしれないなと思いました。

子供の頃の小さいドリーもとてもかわいかったのですが、自分の名前とすぐに忘れてしまうということだけは常に憶えているドリーが、自分の記憶の能力のことで誰かに迷惑をかけているかもしれないということを気にしながらも、困った時にはとにかくすぐに誰かに「助けて!」と助けを求めることができるというのは、本当にすごいことだと思います。私は困ったことがあっても誰かにすぐに助けを求めることがなかなかできないほうなので、単純に、ドリーはすごいなと思いました。

友人や仲間や家族を信じること、勇気を持つこと、愛すること、諦めないことなどが、人生を良い方向へ切り開いていく上では大切だということが、ディズニーやピクサーの映画作品らしく、正面から描かれていたように思いました。

道は一つじゃない、という考え方も良いですし、あなたのことは絶対に忘れないとドリーの両親が小さいドリーに伝えていた場面も、ドリーの両親が行方不明になった娘のドリーのために作って待っていた自宅につながるたくさんの貝殻の道(道標)も、感動的でした。ドリーと両親が再会し、信頼できる仲間や家族が増えていく展開に、ほっとしました。マーリンとニモと「家族」になったドリーの記憶は、以前よりも長く持つようになったのでしょうか。

生物の動きや、海の中や水族館の水槽の中の風景の描写もきれいでした(カリフォルニアの海がゴミだらけだったのが私には少し意外でしたが、そのようなところも良かったように思います)。13年の間にコンピュータアニメーションの技術は進歩しているのだなということも改めて思いました。

映画「ファインディング・ニモ」もそうだったかもしれないのですが、続編の映画「ファインディング・ドリー」も、ハンディキャップを一つの個性としてそのまま前向きに受け止めているというか、ハンディキャップとの向き合い方を描く映画でもあったのだと思います。誰にでも良いところや欠けているところがあるのだと思うので、それを活かしたり補ったりするために、お互いに協力することが大切なのかもしれないなと思いました。

映画「ファインディング・ニモ」の時よりも少し強引な展開の部分(タコのハンクが何でも出来過ぎるなど)はあったのかもしれないのですが、何でもできる、何にでもなれる、を伝えるファンタジー作品として、最後まで楽しく見ることができました。良い話でした。

この映画の後に見た昨日の報道では、東京湾でクジラが目撃されたということが伝えられていました。目撃されているクジラは一頭らしいのですが、遊びに来たのでしょうか。映画でジンベエザメのデスティニーやシロイルカのベイリーが海に出ていたのを見たばかりだったこともあり、その東京湾のクジラのニュースを何となく面白く思いました。

映画「ズートピア」

昨夜、日本テレビの「金曜ロードショー」枠で地上波初放送されていた、2016年公開のディズニーの3Dコンピュータアニメーション映画「ズートピア」を見ました。

世の中を良くしたいという希望を持ってウサギの中で初めて(小型動物の中で初めて)警察学校を卒業し、大都市・ズートピアのライオンのライオンハート市長とヒツジのベルウェザー副市長に祝福されて、にんじん畑の田舎町から草食動物と肉食動物が共存するズートピアに出て来た新米警察官のジュディ・ホップスが、署長の水牛のボゴの命令で14名の肉食動物失踪事件の捜査には参加させてもらえず、仕方なく駐車違反を取り締まる任務を遂行していた時、夢が叶うとは限らないと世の中を冷めた目で見ている地元のキツネの詐欺師のニック・ワイルドと出会い、脱税の証拠となる録音データでニックを脅して捜査に協力させて行方不明になったカワウソのオッタートン夫人の夫のエミットを捜す中、裏社会を仕切るネズミのミスター・ビッグに教えられて訪ねた元タクシー運転手のジャガーのマンチェスが突然野生化するという事態に遭遇し、マンチェスが話していた「夜の遠吠え」について調べを進めるうちに、ズートピアが隠していたある秘密を知り、相棒となったニックと二人でズートピアの平和な社会を守るために奔走する、というような話でした。

脚本はジャレド・ブッシュさんとフィル・ジョンストンさん、監督はバイロン・ハワードさんとリッチ・ムーアさん、共同監督はジャレド・ブッシュさん、音楽はマイケル・ジアッチーノさん、製作はクラーク・スペンサーさん、製作総指揮はジョン・ラセターさんという作品です。

私はこの映画のことを、公開当時に話題になっていたということ以外にはよく知らず、面白そうかなというくらいの気持ちで見始めた映画だったのですが、とても面白かったです。

動物を擬人化したアニメーション映画ということで、映画の公開当時に流れていた「ズートピア」の映像を見た時、私は、昔の東映アニメの「メイプルタウン物語」や、映画「ドラえもん のび太のアニマル惑星(プラネット)」のことを何となく思い出していたのですが、映画「ズートピア」の登場人物(登場動物)たちは、そのような作品の擬人化された動物たちとは異なり、どちらかというと手塚治虫の「ジャングル大帝」の動物たちに近いというか、その動物らしい特性を残して人間化されているという印象でした。

「メイプルタウン物語」や「のび太のアニマル惑星」や「鳥獣人物戯画」などの擬人化された動物たちは、現実の動物の身体の大きさとは関係なく、ほぼ同じ大きさで描かれていますが、「ズートピア」の動物たちは、動物の種類ごとにそれぞれの大きさで描かれていました。

「ズートピア(Zootopia)」は、「zoo(動物園)」と「utopia(理想郷)」を合わせた造語のようです。大都市のズートピアでは、かつては食べられる・食べるの関係にあった草食・肉食の動物たち(哺乳類ばかりだったように思います)がお互いを尊重し合って仲良く共存しているのですが、同じ街中に混ざって住んでいるというよりは、それぞれの動物の大きさや環境に合った地区ごとに分かれて住んでいるようでした。建物や列車のドアの大きさ、駅の出入り口も大きさによって分かれていました。でも、それは、その動物が暮らしやすいようにという配慮の下に設計されているという、バリアフリーの感じでした。差別ではなく区別、ということなのだと思います。

そのように進化した大都市ですが、動物たちの間には、まだ「種類」を気にした差別があり、ジュディがウサギ初(小型動物初)の警察官になったのも、小型草食動物のウサギは警察官にはなれないという、大型動物や肉食動物からの偏見があったためでした。また、ジュディの両親であるウサギ自身も、ウサギが警察官になるのは無理なのではないか、大都会に出るよりも田舎でにんじんを売る仕事をしていたほうが安全なのではないかと心配し、キツネ対策用の防犯グッズを娘のジュディに持たせていました。

この物語は、世界をより良いものにしていくために、自分の中にもある差別や偏見や思い込みや決めつけや古い常識を自覚し、乗り越えていく話だったのだと思います。

現実は厳しいので、みんなが仲良く暮らし、誰でも何にでもなれるという理想通りにはいかないかもしれないけれど、お互いをよく知って理解しようと努めれば、その理想に近付いていくことができる、まずは自分を見つめ、諦めずに自分を変えることから始めようというような内容の、最後のジュディの警察学校での演説の言葉に集約されていたように思います。

「生物学的に」とか「DNAの中に組み込まれている」などの何となくもっともらしく聞こえる説を持ち出して草食動物たちの間に肉食動物への猜疑心や恐怖心を植え付け、平和な社会を恐怖政治で分断しようと目論んでいた“巨悪”に、警察官として立ち向かっていったウサギのジュディとその相棒のキツネのニックがかっこよかったです。

「金曜ロードショー」の映画「ズートピア」の解説には、「友情と冒険」の物語だと書かれていて、確かに「友情と冒険」の話でもあるのですが、それ以上に、「ズートピア」の世界は、現実の人間の今の社会と未来の社会をよく表していたように思います。人間で描いたなら重くなってしまうかもしれない話を、ユーモアのある動物たちの絵とポップな音楽のエンターテインメント性で軽くしていたのだと思います。

ジュディやニックもそうだったように、多様性を認めて生きると言いながら、自分の中にも自覚的・無自覚的な差別や偏見の考えがあって、それが思わぬ時に出て、その不用意な言動で相手を傷つけてしまうということは、やはりあると思います。

ウサギはにんじんが好きとか、キツネはずる賢いとか、ヒツジは眠る時に自分の数を数えるのかとか、動物に対する人間の妙な思い込みも登場動物たちの姿に重ねて描かれていたように思いますが、これもあえてそのように描いたということなのかなと思います。(映画の中の肉食動物または元肉食動物たちは、アイスキャンディやケーキやドーナツなどのお菓子や野菜や果物を食べていたように見えたのですが、「肉」は食べていないということなのでしょうか。草食動物たちは、草食動物らしく?野菜や果物を食べていたのですが、肉食動物だった動物たちだけが「肉」を食べなくても済むように進化したということなのでしょうか。少し気になりました。)

キャラクターの絵もその動きもかわいらしかったですし、正義感の強い新米警察官と意外と優しい詐欺師が協力し合って謎の事件の真相を追う社会派ミステリーとしても、単純に楽しく見ることができたのですが、昨夜のこのアニメーション映画を見ながら、現代の民主主義国家アメリカのディズニー作品らしいよく練られた物語の映画だなと思うと同時に、作品を見る人に自己反省を促す自省の映画だなとも思いました。

ともかく、映画「ズートピア」には、動物を擬人化した映画というだけではない新鮮さがありました。私が見たのは日本テレビの「金曜ロードショー」の日本語吹き替え版ですが、見ることができて良かったです。もう一度見たなら、あるいは吹き替えではないもので見たなら、また違う発見があるのかもしれません。

二度目の映画「かぐや姫の物語」

昨夜、日本テレビの「金曜ロードショー」では、高畑勲監督の遺作となったスタジオジブリのアニメ映画「かぐや姫の物語」がノーカット放送されていました。冒頭では、高畑勲監督のお別れの会の様子が少し流れていました。

2015年に一度放送されたので、私がこの映画を見るのは今回で二度目です。

日本最古の物語として有名な『竹取物語』を原作とした映画です。原案と監督は高畑勲さん、脚本は高畑勲さんと坂口理子さん、音楽は久石譲さんです。

前回に見た時には、私は「姫の犯した罪と罰」という当時のポスターのキャッチコピーに囚われていたような気がします。「姫の犯した罪と罰」とは何だろうと思いながら見ていたからです。

今回は、映画の物語の内容を知っている状態で見ることができました。絵巻物のような流れ、水彩画や水墨画のような淡い色合い、手描きの輪郭線の動きが絵に生き生きとした命を吹き込んでいる感じを、そのまま楽しむことができたように思います。赤ちゃん時代の姫の動きなどは、本当にかわいいです。比較してはいけないのかもしれませんが、スタジオジブリの映画「ゲド戦記」の中の固まっているような絵とは対照的です。

竹林で竹取の翁(声・地井武男さん)に拾われ、媼(声・宮本信子さん)に育てられて、数日のうちに野山で元気に成長したかぐや姫(声・朝倉あきさん)は、誰のものにもならずに自分らしく自由に好きなように生きたいと願っていたのだと思います。でも、成長するに従って、そのように生きることが困難になり、生きることが嫌になってしまったのだと思います。

姫がもしも養父である翁の考える通りのことを自分でも望んでいたなら、地球上で幸せに生きることができたのでしょうか。

最初にこの映画を見た時、私は、月に帰ることになった姫は、自分が性的な存在になること(そのように見られること)、人間の大人になること(そのように見られること)を拒絶したのだと思いました。映画に登場する男性たちは、世俗の象徴のようでした。その印象は、改めて映画を見てもそれほどには変わりませんでした。「私は誰のものにもならない」という姫の言葉の中の「誰」の中には、姫を生まれたばかりの頃から知っている、地元の子供たちみんなの兄のような存在だった捨丸(声・高良健吾さん)も含まれているのではないかと思います。

姫が都のお屋敷に閉じ込められている間、捨丸は様々な社会経験をして大人になり、妻子もいました。捨丸兄ちゃんに妻子がいるのを、姫は直接見てはいません。でも、姫は、それが現実だったのか夢だったのかは分かりませんが、大人になった捨丸の腕の間からも落ちていきました。

「高貴な人は人ではないのね」と姫は言っていましたが、小さい頃あれほど成長の早かった聡明で活発な姫は(周囲の人たちが求める理想的な「高貴な人」になるために眉毛を抜いてお歯黒にする)“大人の女性”になりかけてからは、成長が止まってしまったようにも見えます。

自分が求める幸せの通りに自由に生きることができたなら、姫はどのくらい(何歳頃まで)地球上で生きることができたのでしょうか。

もしも地球が生の象徴で、月が死の象徴であるとするなら、「月に助けを求めてしまった」という姫の後悔は、もうこの世界では生きていたくない、死にたいと願ってしまった、ということになるのではないかと思います。

部屋に侵入してきた御門(帝、声・中村七之助さん)に突然背後から抱きすくめられてぞっとした姫は、それから御門に拉致されそうになって、一気に魂が抜けたようになっていたのですが、昨夜のその場面を見ていて、私は、姫は拒絶のあまりに「自殺未遂」のようなことをしたのではないかと思いました。一度でも「月に助けを求めてしまった」ことが「もう遅い」ことになるということは、そのようなことなのではないかなと思います。

姫は、そのために(自殺を試みたために)その後生死の境を彷徨い、自らの臨むように自由に生きようとしなかったこと、当時の他の普通の女性たちのような生き方、あるいは生き続けること自体を否定したことを後悔し、この世が辛くても死にたいと思ったりしてはいけなかった、もっとこの世界で生きたかったと泣いていたのかもしれないなと思いました。自分らしく生きたい、この世界で生きたいと願っていた姫が、そのことにはっきりと気付いた時には、自身の命の時間は残り少なくなっていたのです。そのような姫を、十五夜の夜に仏様(阿弥陀如来)の姿をした月の王が、死が、迎えに来たのだろうと思います。

地球に憧れて地球に生まれた月の姫が地球での人生に挫折して月に帰る話、ということにもなると思うのですが、「生きるために生まれたのに」というかぐや姫の言葉も印象的でした。生きるために生まれたのに、生きるのが嫌になって、死にたくなることはあると思います。五人の公達の一人の石作皇子(声・上川隆也さん)の言葉の中の「真心」や「自然」という言葉に、姫は心を動かされていましたが、そのような美しい青い地球と、世俗的で穢れたように見える(美しくないように見える)世界が、同一のものだということを受け入れないと、石上中納言(声・古城環さん)の死の報せにショックを受けて自暴自棄になってしまうような、感受性の強い姫のような人は生きることが難しくなってしまうのかもしれません。感受性豊かな姫が自分の存在に罪悪感を感じて次第に閉じこもっていく様子が悲しく思えました。

ともかく、春夏秋冬の、四季の草木や花や生き物たちの描写が、とてもきれいでした。自然の中の草花の美しさに感動している時の晴れやかで生き生きとした姫と、ふと我に返って暗く沈む姫の、揺れ動く感情の波も、自然の一部のような感じがしました。

そして、エンディングに流れる主題歌の「いのちの記憶」(作詞・作曲・歌は二階堂和美さん)がとても良いです。姫は確かに翁と媼に愛されていました。姫は二人の娘でした。「生生流転」であることや「輪廻転生」ということを考えます。地球を振り返っていた姫は、いつかまた地球に戻ってくるのかもしれません。翁と媼は、かぐや姫がいなくなってからは、どのように生きていったのでしょうか。かぐや姫がいなくなった後の世界は、かぐや姫が来る前の世界、かぐや姫がいた頃の世界とは変わっているのでしょうか。

もしもいつか数年後にこの映画を見たなら、今とはまた少し印象が変わっているかもしれません。物語そのものが最初から最後まで面白いかどうかというのとは少し違うようにも思うのですが、前回に見終わった後、映画のことを考えるうちに少しずつこの映画が良い映画だったように思えてきて、好きになりました。高畑勲監督、ありがとうございました。

映画「火垂るの墓」

先週の13日の金曜日の夜、日本テレビの「金曜ロードショー」で高畑勲監督の追悼企画として放送されていた、スタジオジブリのアニメ映画「火垂るの墓」を見ました。

映画本編の直前には、高畑勲監督を取材した過去のドキュメンタリー映像が流れていました。

「火垂るの墓」は1988年に公開された映画で、「金曜ロードショー」の枠では10回以上放送されていると思うのですが、私は今までこの映画を見たことがありませんでした。理由は、戦争もので、怖そうだったからです。先にこの映画を見た人が怖いと言っているのを聞いた私は、怖い映画なのだと思い込み、ずっと見ないようにしていました。でも、先週に高畑勲監督の追悼企画で放送されたこの映画「火垂るの墓」を見て、それは間違っていたと思いました。あるいは、日本の戦争の歴史を昔よりも少しは知っている今にこの映画を見たことが、私にはちょうど良かったのかもしれません。空襲の場面もあって、人の死体も描かれていますし、怖く思える部分もあるのですが、怖い話というよりは、とても悲しい話でした。

「14歳の兄と4歳の妹が懸命に生きようとする感動作」と番組の解説に書かれていたのですが、「感動作」と言ってしまうと、悲しさが弱まってしまうような気がします。

物語の舞台は、6月5日に空襲のあった兵庫県神戸市と西宮市の辺りだそうです。主人公は、旧制中学校に通う生徒だった清太(声・辰巳努さん)です。6月の空襲から敗戦1か月後の9月までの、約3か月間の物語でした。

脚本と監督は高畑勲さんです。音楽は間宮芳生さんです。映画の原作は、野坂昭如さんの小説『火垂るの墓』です。

「昭和20年9月21日夜、僕は死んだ」と、三ノ宮駅の柱の脇で息絶える戦争孤児となった自分の姿を見つめていた清太さんが、駅員の投げ捨てたサクラドロップの缶の中から零れ落ちた小さな遺骨から現れた、先に亡くなって荼毘に付された妹の節子(声・白石綾乃さん)の幽霊(魂)と蛍の儚い光の中で再会し、節子さんと二人で電車に乗って旅をするというところから始まる冒頭が圧倒的で、その場面にこの映画の全部が詰め込まれているのではないかと思えるほどでした。

母親が空襲で大火傷を負って死んだ後、戦艦に乗る海軍の軍人だった父親が行方不明となる中、栄養失調で病気になった妹を看取った清太さんが戦争孤児となって衰弱して儚く死んでいく不幸な現実と、比較的豊かな生活を送っていた幸福な過去(第二次世界大戦前の頃または清太さんと節子さんの死後)との差が、対比(コントラスト)として際立っていました。

清太さんと節子さんに冷たい態度を取っていた父方の親戚のおばさん(声・山口朱美さん)は、愛国婦人というか、軍国主義・全体主義の思想が染みついている感じの婦人でした。清太さんは、観艦式で見送った父親を尊敬しているようでしたし、軍歌も憶えて歌っていたのですが、通っていた旧制中学校が焼失してからは学校へ通っていませんでした。清太さんのことを「お国のため」の活動を行っている自分の子供たちと比較して「ぶらぶらしている」と非難していたおばさんの話によると、消防団にも隣組にも参加しておらず、4歳の妹の節子さんを一人で守る暮らしに徹していました。

そのような点で、居辛い親戚の家を自ら出た後、近くの洞窟(壕)で妹の節子さんと二人だけの暮らしを始めることにした清太さんは、当時の日本の社会(戦争を始めた社会、戦争に協力する社会)から切り離されていました。清太さんは、戦時なのだから国民は一丸となってお国のために生きて死ぬべきというような、軍国主義・全体主義の思想の蔓延している当時の社会生活を完全に拒絶していたのだと思います。

戦争の最中の苦しい時に、時々ふと戦前の穏やかな日々の出来事を思い出す感じも、悲しい感じがしました。清太さんは、節子さんを食べさせるために近くの畑から野菜を盗んだり、空襲時には火事場泥棒のようなこともしていましたが、もともとは良家の子のようだった清太さんと節子さんは、ある種の純粋さや気高さのようなものを、最期の時まで持っていたのかもしれないと思います。

戦時下の生活が描かれていた映画の中には、当時の政治家も、戦う日本兵も登場しませんでした。ただ、日本(神戸)の上空に現れる米軍の戦闘機の群れと、そこから雨のように地上に降り注ぐ焼夷弾と、燃える家々と死体の山、怪我や飢えや病で衰弱して死にかけている人々とその周囲を飛ぶ蠅、飛ぶ蛍の黄緑色の光、光を弱めて死んでいく蛍の姿が描かれていました。

夜、清太さんが節子さんのために蚊帳の中に放った蛍たちは、翌朝みんな死んだようでした。死んだ蛍を集めて土の穴に埋めようとしていた節子さんの手の中で無数の黒い死骸がカサカサとした音を立てていました。

清太さんの前でよく笑う節子さんの元気な声がかわいらしかったです。青い空や白い雲、空襲で壊された街の水道管から噴水のように上がる水、青々と茂る草木や野菜、氷、スイカ、雨、カエルの棲む池、洞窟、母親の形見の着物や指輪、ガラスのおはじき、人形、土鍋や七輪、ごはん、ブランコ、穴の開いた番傘、サクラドロップの缶など、節子さんの元気だった頃には楽しそうに見えていたものが、節子さんがいなくなると色褪せていきました。

清太さんは、「玉音放送」を聴かなかったようでした。日本が敗戦したという事実を知らなかったようでした。現実逃避的な生活を送っていた清太さんが銀行へ行ってそのことを知った時には、世の中は敗戦を受け入れた「戦後」になっていました。洞窟の中で衰弱死した節子さんを荼毘に付した清太さんが、その後、三ノ宮の駅で浮浪児となるまでの出来事は特に描かれてはいませんでしたが、亡くなる間際の清太さんが持っていたのは、節子さんの遺骨の入ったサクラドロップの缶だけだったようでした。

最後、電車の椅子に座っていた清太さんと節子さんの幽霊は、丘の上のベンチから、復興した現代の神戸の街の夜景を二人で見ていました。

今から約30年前の1988年の映画とは思えないというか、絵柄も色使いも、登場人物の台詞も物語の展開も、全く古さを感じさせない映画だなと、映画を見終わって思いました。今までにこのアニメ映画を好きで見てきた方にとっては当然のことなのかもしれませんが、今回初めて見た私には、驚きでもありました。普遍的な映画のように思いました。

1988年は昭和63年ですが、「火垂るの墓」が、先の第二次世界大戦(太平洋戦争、大東亜戦争)のあった昭和の時代の終わる年(昭和64年は1週間で平成元年に替わりました)に公開された映画であるということも、偶然なのだろうとは思いますが、何か象徴的であるような気がします。

何度も放送されているこの「火垂るの墓」は、有名な映画ですし、今更一視聴者の私が言うことでもないとは思うのですが、確かに「名作」でした。片渕須直監督の2016年のアニメ映画「この世界の片隅に」を好きな人は、「火垂るの墓」も好きなのではないかと思います。

穏やかな日常が誰かの始めた戦争によって突然破壊されるということへの恐怖や怒りや悲しみは、でも、映画「この世界の片隅に」を映画館で見た時のほうが強かったように思います。映画「火垂るの墓」には、空から爆弾の落ちていく地上を見るという(米軍機目線のような)構図はなかったような気がします。一貫して清太さんの目線で描かれていました。空も、街も、人も、地面も、蛍も、です。最後の都市の夜景も、清太さんと節子さんの幽霊の見ているものを、今私は見ているのだという感じがしました。

映画の中で農家のおじさんが清太さんを説得しようとしていたように、もしも清太さんが節子さんを連れて親戚のおばさんの家に戻っていたなら、節子さんは死ななかったかもしれません。でも、母親を空襲で亡くした後、当時の全体主義的な社会生活を拒絶し、幼い妹との暮しの中に閉じこもっていた清太さんには、その社会の中に再び戻ることはできなかったのだろうと思います。個人主義的な清太さんのことを自分勝手だという風に思う方ももしかしたらいるのかもしれませんが、私にはそうは思えません。

清太さんはある意味では現代的な少年として描かれているので、その気持ちが現代の私に分かりやすいということなのかもしれませんが、そもそも為政者や軍人などの大人たちが戦争を始めなければ、子供の清太さんも節子さんも、戦争の社会を生きるような事態にはなりませんでした。

今年は戦後73年の年ですが、軍備を拡張し、軍事的圧力で平和を作ろうという「積極的平和主義」なるものを掲げて日本国憲法の平和主義を否定する現政権(安倍政権)下の日本には、戦前のような、戦争に向かいそうな「空気」があるそうです。私は昔の戦争時代を生きていないのですが、そうなのかもしれないと、何となく不安に思います。第二次世界大戦になる頃の社会主義や全体主義について書かれている本を読むと、今の日本の政治や社会の様子とも重なる部分が意外と多いことに驚きます。報道によると、一昨日にアメリカ政府とイギリス政府とフランス政府がロシア政府の支援を受けているシリア政府の自国民に対する「化学兵器使用」を疑ってその“報復”のためにシリアにミサイル攻撃を行い、日本政府はその米英仏の軍事行動を支持しているそうです。でも、武力攻撃でシリア国内の戦争が収まるようには思えませんし、その国の人々が助かるようにも思えません。

約73年前の昭和20年の初秋に命を落とした14歳の清太さんと4歳の節子さんの魂は、今もあの場所から現代の街を見ているのかもしれません。清太さんと節子さんが生きることのできなかった戦後の、一見戦争のない平和になった未来の日本を今の私たちは生きているけれど、いつか新たな戦争が始まらないようにするためにも、清太さんや節子さんの生きていた時代のことを忘れて生きていてはいけないのだと思います。

高畑勲監督の映画「火垂るの墓」も、片渕須直監督の映画「この世界の片隅に」も、宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」も、「反戦映画」として作られたものではないのだろうと思いますが、結果的には「反戦映画」になっているのかもしれないと思います。少なくとも、この映画を見て、戦争という災いに良い印象を持つ人はいないだろうと思います。「あの頃は今よりも良かった」などという風に、昭和の戦争時代を懐かしむような映画(私はその時代を生きていないのではっきりとは分かりませんが)でもないと思います。

怖い映画と聞いて、怖そうに思って、私は今までこの映画「火垂るの墓」を見るのを何となく避けていたのですが、今回見ることができて本当に良かったです。原作の野坂昭如さんの短編小説も私は未読なのですが、読んでみようと思います。スタジオジブリの高畑勲監督の映画「火垂るの墓」は、悲しい映画でしたが、怖い映画ではありませんでした。戦争の映画なので過酷な場面もありますが、現代性もありますし、戦時下を二人で生き抜こうとした兄妹の生と死を静かに見つめていく、鎮魂の映画でした。

映画「ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険」

テレビ朝日で地上波初放送されていた映画「ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険」を見ました。

ドラえもんの映画としては第37作目の、新シリーズのドラえもんの映画としては第12作目の映画だそうです。

昨年の春にこの映画が公開されていた頃、映画の絵のようなデザインのポスターが話題になっていました。そのポスターの雰囲気がとても良かったという印象があったので、今回テレビで放送されると知って、私も見るのを楽しみにしていました。

でも、映画を見始めて、面白そうに思えていた印象は消えてしまいました。この映画を好きな方もたくさんいるのだろうと思いますし、リニューアルされてから(声優さんが一新されたり、主題歌が変わったり、絵柄が変わったりしてから)の新しいドラえもんのテレビシリーズをほとんど見たことがない私がいろいろ言うのは良くないかもしれないとも思うのですが、昨年の春頃に見た映画「ドラえもん 新・のび太の日本誕生」(「のび太の日本誕生」のリメイク作品)のほうが、今回のオリジナル作品より、ずっと良かったように思えました。

映画は、真夏の暑さから逃げるように遊びに出かけた南極大陸で、10万年前の氷の中に閉じ込められている金の輪を拾い、持ち主に返そうと、氷の中から目を覚ましたパオパオと共にタイムベルトで10万年前の同じ場所に時間移動したドラえもんとのび太くんとしずかちゃんとジャイアンとスネ夫が、10万光年離れているヒョウガヒョウガ星から古代の先祖の遺跡を調べに地球に来たという地球人に似た少女・カーラとヒャッコイ博士に出会い、遺跡でカーラが封印を解いてしまっていた、ヒョウガヒョウガ星を氷漬けにした氷の怪物(「氷の石像」というのは謎ですが、氷像でしょうか)のブリザーガと戦い、10万年後の地球の未来を救う、というような物語でした。

監督・脚本・絵コンテ・演出は、高橋敦史さんでした。

私は藤子・F・不二雄さんのいた頃の「ドラえもん」を見てきたので、ドラえもんの映画についても、どうしてもつい昔の作品と比べてしまうのですが、絵柄の幼さ(ぐにゃぐにゃとしたような安定感のない感じ)や登場人物の台詞の不自然さや展開の唐突さのようなものを、(仮に最近の小学生の方たちが気にならないのだとしても)映画を作っているスタッフの大人の方たちはあまり気にならないのでしょうか。

このような言い方をしてはいけないのかもしれないのですが、今の新シリーズのドラえもんの映画を作っている方が、かつてのドラえもんの映画を好きだった方だとしたら、このような作品にはならないのではないかという風にも思えてしまいました。

原作のところには「藤子・F・不二雄」と書かれていたのですが、「原作」よりは「原案」とするほうが正しいようにも思えました。

主要なキャラクターであるドラえもんやドラミちゃんの性格も、昔の作品と比べて、何か少し幼くなっているような印象があったのですが、映画のジャイアンは普段よりも良い人になるという部分も、弱くなっていたような気がしました(後半、ブリザーガのことでジャイアンとスネ夫がカーラに文句を言い、のび太がそれを制止するという場面がありましたが、昔のジャイアンならそもそもカーラを追い詰めるようなことは言わなかっただろうと思います)。

「未来」の要素も薄いように思えました。既存の道具と一緒に使われていた新しい道具?も、あまり画期的なものには思えませんでした。

真夏の暑さに疲れ切っていたドラえもんやのび太くんが、最初にどこでもドアを開けてドアの向こうに南極の風景を見た時に、流れ込んできたであろう南極の氷からの冷気に当たって「涼しい」とも何とも言わなかったということにも驚きました。南極で大冒険をするという割には、南極そのものの描写も、少なかったように思います(遠くに南極観測基地が少しだけ見えていたような気がします)。ドラえもんとのび太くんは、どこでもドアで南極へ行ってすぐに未来の道具を使ってそこの氷を加工した人工建造物(遊園地など)を作ってしまい、しずかちゃんやジャイアンやスネ夫もそこで一緒に遊んでいたので、自然の中で遊んだり冒険をしたりするという風でもありませんでした。また、10万年前の氷の下の地底の古代文明の遺跡は凍っておらず、その中の気温がよく分からなかったので、ドラえもんが取り出したほんやくこんにゃくが凍っていたというのも、どうしてなのだろうと少し謎のように思えました。

氷が10万年前のものだと聞いたのび太くんたちが、タイムマシンで10万年前に行こうと思わなかったというところもそうなのですが、「日本誕生」の時の7万年前のククルの村のことを少しも思い出さないというのも不思議です。

10万年後のパオパオが持っていた博士の鞄の中に入っていた電池(経年劣化していなかったのは未来の電池だからでしょうか)が、10万年前のドラえもんがパオパオに預けたタイムベルトの電池だったというところは分かったのですが、10万年前に封印を解かれていた完成間近のブリザーガがその後の地球の氷河期に影響したのかどうかというところなどは、アトランティス大陸を探しに行く件がすぐに消えていたのと同じくらいに、曖昧なままでした。ヒャッコイ博士は、地球の氷河期へのブリザーガの影響の有無を断定してはいませんでしたが、10万年前に「運命」のように現れたドラえもんたちによって倒されていたなら、初めから影響はなかったということになります。

今回の、H・P・ラヴクラフトの小説『狂気の山脈にて(狂気山脈)』を扱っているという説もあるアニメ映画「ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険」を見ていて(『狂気山脈』はなかなか映画化されないようです)、映画「ロード・オブ・ザ・リング」を思い出すような金の輪の落ちていく様子や、スタジオジブリのアニメ映画「天空の城ラピュタ」のラピュタの遺跡を思い出すような南極の地底の古代文明遺跡(10万年前から見てさらに古代ということのようでした)の様子にも少し違和感があったのですが、ラピュタのロボットや映画「風の谷のナウシカ」の巨神兵や映画「もののけ姫」の森のシシ神のデイダラボッチを思い出すようなブリザーガのデザインにもまた驚きました。監督の高橋敦史さんがスタジオジブリ出身の方だとしても、どうしてそのような(有名な映画を思い出すような)要素を取り入れることにしたのだろうと、少し不思議に思いました。

途中、のび太くんたちが古代遺跡の塔の中を「冒険」する部分がなぜかダイジェストのような映像になっていたのですが、昨日に地上波初放送されていたものはノーカット放送ということではなかったので、編集されていないノーカット版を見たなら、その「冒険」の場面もちゃんと描かれているのかもしれません。

ドラえもんとのび太くんの「友情」を描きたいのだろうということも、何となくは分かるのですが、「ドラえもん」の作品は、無理して「感動する話」や「泣ける話」のように作らないほうが良いような気がします。藤子・F・不二雄さんの「大長編ドラえもん」の頃の映画では、そのような部分は、近年の作品ほど前面には出されていなかったように思います。

昔の映画をリメイクした近年の新しいドラえもんの作品でも元の作品と変わっている部分(オリジナルの新キャラクターが登場するなど)がありましたが、藤子・F・不二雄さんの漫画のない、藤子・F・不二雄さんの脚本ではないオリジナル作品なのだとしても、昔の映画「ドラえもん のび太のパラレル西遊記」はとても面白かったですし、藤子・F・不二雄さんのいなくなった後の、2000年の映画「ドラえもん のび太の太陽王伝説」もとてもよく出来ていたと思います。

今回の映画では、カーラと博士が「敵」としていた、地上を凍らせるブリザーガという氷の怪物は、ドラえもんたちにただ倒されて終わりましたが、ドラえもんの映画の物語は、何というか、善悪二元論というか、勧善懲悪の物語にはなってはいけないような気もします。

声優の方々が大山のぶ代さんたちから新しく水田わさびさんたちに代わったことについては、私も少し慣れてきたというか、あまり気にならなくなってきたのですが、物語自体が雑であまり面白くないように思えてしまうというのは、少し致命的であるような気がします。「ドラえもんの作品」というよりは「ドラえもんのパロディの作品」のように思って見たほうが、(今の私には)もっと気軽な気持ちで見ることができるのかなとも思います。

新作の映画「ドラえもん」の話題を聞いた時には毎回思うことなのですが、昔の映画「ドラえもん」の主題歌のほとんどを武田鉄矢さんが作っていたというのも、すごいことのような気がします。昔のドラえもんの映画の頃とは異なり、今は「タイアップ」とか、いろいろ「ビジネス」になっているのだろうと思います。最新作のドラえもんの映画「のび太の宝島」の歌を歌うのは、星野源さんだそうです。(先日、初めて星野源さんのドラえもんの歌を聴きました。「機械」という言葉に、はっとしました。その歌詞の「機械」がもしもドラえもんを指しているならということなのですが、「猫型ロボット」のドラえもんは普段「機械」とは言われていないので、意外というか、少し寂しい感じもしました。)

私がとても好きで見ていた昔のドラえもんの映画の主題歌の中では、「のび太の宇宙小戦争」の「少年期」や、「のび太と鉄人兵団」の「わたしが不思議」、「のび太のパラレル西遊記」の「君がいるから」や、「のび太の日本誕生」の「時の旅人」や、「のび太とアニマル惑星」の「天までとどけ」や、「のび太のドラビアンナイト」の「夢のゆくえ」などが、特に印象に残っています。この言葉が相応しいかどうか分からないのですが、子供には美しいものを、という、いわゆる「情操教育」の側面が、昔の作品の中には、今よりも多くあったのではないかと思います。ある種の暗さのようなものも、意外とあったのかもしれません。

今のドラえもんしか知らない現代の幼稚園生や小学生の方たちが映画「ドラえもん」の物語を楽しく見ることができているのならそれはそれでいいということでもありますし、そもそも新しい映画「ドラえもん」のシリーズをあまり良く思っていないないなら最初から見なければいいのにということにもなってしまうかもしれないのですが、それでも今の私が何となく、放送される新作を見てみたく思えるのは、次の作品はもしかしたら面白くなっているのではないかと、よく分からないながらもまだ少し期待をしているところがあるからなのだろうと思います。

衛星放送のWOWOWでは、映画「ドラえもん」の過去の37作品が一挙に放送されるのだそうです。でも、私はWOWOWの会員ではないので見ることはできません。今公開されている最新作の映画「ドラえもん のび太の宝島」も、先日に予告編の映像を見ただけの印象では、私としては何とも言えない感じだったのですが、しばらくしていつか放送されることがあったなら、また見てみようかなと思います。


ところで、一昨日の1日には昼頃に鹿児島県と宮崎県の境の霧島山の新燃岳が噴火をし、夜には沖縄県竹富町の西表島の付近で地震が起きたという報道がありましたが、私は昨日になって、2月26日の朝に南太平洋のパプアニューギニアでマグニチュード7.5の大きな地震が起きていたことを知りました。韓国で開催されていた平昌オリンピックの閉幕の翌日なので、ニュース番組はオリンピック関連のものが多かったかもしれません。その中のどこかではパプアニューギニアの地震のことも報じられていたのだろうと思うので、私が見逃したり聞き逃したりしていただけなのかもしれないのですが、昨日に分かったそのパプアニューギニアの地震のニュースで、たくさんの建物が倒壊したり道が崩れたりする被害が出ていて、数百人という多数の死者も出ているらしいと知って、驚きました。先月の台湾の地震のこともそうなのですが、報道番組などでは、地震後の今の状況も、もっと伝えてほしいように思います。
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