映画「帝一の國」

先週のフジテレビの「土曜プレミアム」で地上波初放送されていた映画「帝一の國」を見ました。

昨年の2017年の4月に公開された東宝映画です。公開当時、映画の予告編などで男子生徒たちが褌姿で和太鼓を叩く場面などを見て、妙なテンションの映画だなという風にも思えていました。それでも、もしかしたら面白いのかなと何となく気になって、内容を知らないまま、地上波初放送というこの映画を見てみたのですが、映画を見る前に思っていたのとは違い、とても面白かったです。

映画の原作の古屋兎丸さんの漫画『帝一の國』を私は未読なので、漫画と映画とを比べることはできないのですが、通産省の高級官僚である父親の赤場譲介(吉田鋼太郎さん)にピアノを弾くことを禁じられ、総理大臣になって自分の国を作ると決意して政財界に強力なコネを持つ日本一の名門・海帝高校に進学した赤場帝一(菅田将暉さん)が、将来の総理大臣の椅子に最も近いとされる生徒会長を目指して男子生徒たちと生徒会会長選挙を戦い抜く、というような物語は、政財界の中心にいる親たちの野心とも重なる、男子生徒たちの友情と政治的権力闘争の物語でした。

学園ものなので人が多いのですが、1年生の帝一さん以外の主な登場人物は、帝一さんの親友の榊原光明(志尊淳さん)、帝一さんを潰そうとする幼なじみの東郷菊馬(野村周平さん)、実直な性格で人望の厚い大鷹弾(竹内涼真さん)、次期生徒会長候補者の2年生で“狂犬”と恐れられる氷室ローランド(ローランド・氷室=レッドフォード、間宮祥太朗さん)、同じく次期生徒会長候補者の2年生で生徒会会長選挙の民主化案を打ち出す穏やかで理知的な森園億人(千葉雄大さん)、全校生徒から信頼されている現生徒会長の堂山圭吾(木村了さん)、帝一さんの幼なじみで交際中の帝一さんと電話で会話をする白鳥美美子(永野芽郁さん)です。

脚本はいずみ吉紘さん、音楽は渡邊崇さん、監督は永井聡さんでした。

永野芽郁さんの演じる美美子さんが糸電話で帝一さんと話しているのを見て、永野芽郁さんが主演を務める今のNHKの連続テレビ小説の「半分、青い。」の主人公の鈴愛さんが糸電話で話していたことを思い出しました。帝一さんの親友で発明家?の光明を演じていた志尊淳さんもNHKの「半分、青い。」に第4週から出演していますが、NHKのドラマ「女子的生活。」で主人公のトランスジェンダーのみきさんを演じていた印象が私にはまだ残っているので、志尊淳さんは、ジェンダーレスというかボーダーレスというか、そのような人物を演じることが多い方なのだなと思いました。

「時は昭和」と始まっていたのですが、「昭和」らしい雰囲気は、「通産省」(通商産業省、現在の経済産業省)以外には、それほどなかったような気がします。でも、昭和の空気感は少なくても、登場人物の人物像や世界観がしっかりと作られていたので、違和感はありませんでした。原作の漫画のことも何も知らずに見始めても、すぐに物語に惹き込まれました。海帝高校の生徒会の高速拍手やマイムマイムのリズム感覚も良かったのだと思います。私は録画をしておいたものを見たのですが、見終わるのがもったいなく思えるほどでした。

エンディングのクレジットの部分に流れていた主題歌は、クリープハイプの「イト」という曲でした。最後、帝一さんは生徒会長就任式でピアノを弾いていて、何の曲だと訊く菊馬に、光明は「帝一の一番好きな曲。『マリオネット』」と答えていました。それを聞いた大鷹弾が「あやつり人形か」と呟いた直後の、帝一さんの正面を見据えた「君たちのことだよ」のラストカットが、とても鮮やかでかっこよかったです。主題歌のクリープハイプの「イト」の前奏の流れてくるエンディングの入り方もとても良かったのですが、ただ、映画のエンドロールの部分については、エレキギターを持った永野芽郁さんの美美子さんが踊るという映像で本当に良かったのかなという風にも少し思えてしまいました。

今活躍している人気俳優さんたちが多数登場しているポップな感じの映画なので、本編とは何の脈絡もないような美美子さんのかわいいダンスのエンディングでも今は良いと思うのですが、例えば10年後に見た時にも違和感なく見ることができるのかなと、少し気になりました。あるいは、あえてそのナンセンスな感じを物語と現実とを切り離すように最後に持って来たということなのかもしれないなとも思います。普遍的ではなくても、「今」を切り取ることは大事なことなのかもしれません。

ともかく、映画「帝一の國」は、とても面白い作品でした。社会の縮図のような学校でトップを目指す男子高校生たちの真っ直ぐな青春映画でした。私も見ることができて良かったです。楽しかったです。

「極夜 記憶の彼方へ」

昨夜、NHKのEテレの「ETV特集」の「極夜 記憶の彼方へ~角幡唯介の旅~」を見ました。

TBSの「CDTV祝25周年SP」(司会は中居正広さんでした。25年間の総合ランキングの1位はSMAPの「世界に一つだけの花」でした)から流れてくる歌を何気なく聴いた後、「新・情報7daysニュースキャスター」の北海道日本ハムファイターズから移籍したメジャーリーグのロサンゼルス・エンゼルスのデビュー戦から3試合連続でホームランを打って投打で活躍している“二刀流”の大谷翔平選手の「ショウ(翔)タイム」の特集(大谷選手は本当にすごいなと思います。あと、私もスポーツニュースなどで見る大谷選手を大谷さんと呼んでいたので、アメリカの野球解説者の方が「オオタニサーン!」と呼んでいるのも面白く思います)を見たりしていたので、昨夜のこの「極夜 記憶の彼方へ」を私は途中から見たのですが、探検家の角幡唯介さんという方がハンディビデオカメラで映していた極夜の北極圏の幻想的な風景、雪と氷の極限的な暗闇の環境に圧倒されました。

「極夜」というのは日中の時間帯でも太陽が昇らずに夜のような状況になっている現象のことで、反対の言葉は「白夜」です。探検家の角幡さんは、12月の初め(5日?)から2月の末(21日?)という約3か月の間、懐中電灯やデジタルカメラなどの人工的な光の他には月や星の光のみというほとんど真っ暗の北極の世界を、そりを引く犬たちと共に旅していました。

しばらくしてたどり着いた小屋がシロクマに屋根を破壊されて荒らされていたり、持参した犬の食べ物が尽きたりという現実的な死の気配にも角幡さんは直面していたようだったのですが(万が一には犬を食べるという選択肢も考えたそうです)、ビデオカメラに映された雪と氷と湖の見えるモノクロの世界が不思議で、その様子を私はテレビの前で見ながら、そのような世界を一人で進む探検家の方は勇気があるなと思いました。映像では、とても暗く見えていたのですが、実際にはどのくらいの明るさでその場所の風景が見えていたのでしょうか。

宇宙を歩いているかのよう、凄まじいまでの美しさと容赦のない冷たさと静寂さだと、探検家の方はその北極の極夜の世界を評していました。1月26日頃、地平線が少し白み始め、2月になると、空はもう少し明るくなっていました。そして、21日の頃には、強風に吹き飛ばされる青白い雪がドライアイスの煙のような地平線の上に丸い太陽の金色の光が輝いていました。

探検家の方は、その太陽のことを火の玉だと言っていました。極夜の後の太陽の光を、出生の時に見たであろう光に重ねていました。その方の話していたように、古代の人々の見たり感じたりしていた月や星や太陽の光は、現代の日本で暮らしていると見えない光、感じることのできない光なのかもしれないなと思いました。

探検家の方の歩いていた極夜の冷たい北極の場合と同じに考えてはいけないかもしれませんが、例えば、私も以前に「戒壇巡り」や「胎内巡り」と呼ばれるお寺の地下の真っ暗な洞窟のような場所を恐る恐る歩いたことがあるのですが、出口付近から外の光が差し込んでいるのが見えた時には、ほっとしました。そして外へ出て、その明るさに感動しました。朝やお昼に外が明るく平和であるということは、普段には“普通”のことだけれど、本当には“普通”のことではないのだと思いました。

北極でも南極でも、極夜の終わりを告げる太陽の光には、実際に気温が上昇するというだけではなく、安心して、気持ちも温かくなるのかもしれないなと思います。ギリシャ神話の春の女神のペルセポネの話を思い出します。良い特集でした。

映画「レッドタートル ある島の物語」と、高畑勲監督が亡くなったこと

今年のお正月の頃に日本テレビの深夜の「映画天国」という枠で地上波初放送、ノーカット放送されていた、2016年のスタジオジブリのアニメーション映画「レッドタートル ある島の物語」を見ました。録画をしておいたものを一昨日にようやく見ることができました。

この作品は、第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門特別賞受賞作品、第44回アニー賞インデペンデント最優秀長編作品賞受賞作品だそうです。

原作・脚本・監督はオランダ出身のマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィットさん、脚本はパスカル・フェランさん、アーティスティックプロデューサーは高畑勲さん、音楽はローラン・ペレズ・デル・マールさんという作品でした。

スタジオジブリの映画なのにどうして「金曜ロードショー」の枠での放送ではないのだろうと少し不思議にも思っていたのですが、映画を見て、確かに「金曜ロードショー」向きの映画ではないようにも思いました。

自然の風景がとても丁寧に描写されている、とても静かなアニメーション映画でした。映画の中には音楽らしい音楽も使われているのですが、ほとんどが雨の音や波の音や風で木が揺れる音や鳥の声などの自然の音で、登場人物も、驚いたり叫んだりする際に発声する以外には言葉を発しませんでした。

物語は、ある嵐の日の荒れた海に飲み込まれた一人の男が、無人島に漂着して砂浜で目を覚ます、というところから始まりました。数日後、男は、時々スコールの降る無人島を脱出しようと島の竹林の竹を使って筏を作るのですが、海に漕ぎだしてしばらくすると、何かに筏を壊されてしまいました。再び作った筏も壊され、死んでいたオットセイの皮で作った服を着て、椰子の実を積んで3作目の筏を漕ぎ出した男は、ふと海面に浮かび上がってきた赤いウミガメと目を合わせた矢先、その赤ウミガメに?また筏を壊されてしまいました。憤りながら、島の浜へ戻った男は、夕方、赤ウミガメが浜に上がってきたのを見つけると、竹を掴んで赤ウミガメの前に立ち、怒りにまかせてその頭部を叩いて甲羅を返し、裏返ったままの甲羅を踏みつけて立ち去りました。その翌日の夜、男は死んでいる赤ウミガメを見て、その赤ウミガメ殺したことを後悔しました。男は、ヒレをさすったり、海水を頭にかけたりして、赤ウミガメを生き返らせようとしたのですが、その甲羅は音を立ててひび割れました。しかし、赤ウミガメの死にショックを受けていた男がよく見ると、そのカメのヒレは人間の腕に変わっていました。そして、白い甲羅の中にいたのは、長い赤い髪の人間の女でした。男は驚いて、甲羅の中で眠る人間の女のために池の水を汲みに行き、強い日差しから守るために女の上に笹の葉の屋根を作りました。女は甲羅を海に帰し、同じように筏を海に帰した男に、自分から近付いていきました。

そうして、しばらくして、男と女の間に男のの子が生まれたようでした。2歳くらいになった男の子は浜辺で瓶を拾い、大切にしていました。男の子は、人間と赤ウミガメの子供なので、海の岩場の深い水の中に落ちても、すぐに出口を見つけることができました。カメたちともすぐに仲良くなりました。

息子が10歳代の中頃くらいに成長したある日、海辺で鳥たちが騒いでいました。いつの間にか水が引いた岩場に魚が打ち上げられているのを見た女は、大津波が島に近付いていることに気付き、男の手を引いて慌てて走り出しました。少年も津波を見て島の奥へ走ったのですが、津波はあっという間に島に到達し、竹林を破壊して進みました。少年も、両親も、大津波に飲み込まれてしまいました。

積み上がった竹の間で目を覚ました少年は、津波に荒らされた島の中、両親を捜し回りました。泥の中に脚を怪我した母親を見つけると、カメたちと海を泳いで、竹に掴まって浮いている父親を見つけました。親子3人は再会することができました。それから、散乱している竹を集め、燃やすなどして島を片付けました。

数年後、青年に成長した息子は、両親に島を離れる決意を打ち明けました。両親はカメたちと島を離れる息子を見送ると、再び二人で生き始めました。二人とも、髪は白髪になっていきました。ある満月の夜の星空の下で、年老いた男は眠るように息を引き取りました。隣で眠っていた女は、夫の異変に気付いて飛び起きると、夫の腕をさすりながら、赤ウミガメの姿に戻り、海に帰っていきました。

このような物語の、絵本のようなアニメーション映画でした。

ところどころ実写の映像なのではないかと思えるような絵になっていたようにも思います(現代のアニメーションなので、そもそもセル画の作品というわけではないのかもしれません)。月の満ち欠けで時の経過が描かれていました。空や海の青色、夜の星空や雨雲やオットセイの灰色、竹林の緑色、夕日やウミガメの赤色などの様々な色が、とても鮮やかでした。

最後は、黒い背景に小さな文字のみのエンドロールでした。

男性と女性が出会って子供を生んで、二人で子供を育てて、成長して離れていく子供を見送って、年老いて死に別れる、という展開だけを見ると、近年のCMの映像としてもよくある、ありふれた生活者の話のようにも思えるのですが、冒頭から、何というか、神話的な物語、昔話風の物語であるように思えました。

シンプルな絵とストーリー展開は、最初からそのように作られたというよりも、削り落とされて洗練されたものというような雰囲気でした。

映画の題名は、原題の英語では「ザ・レッド・タートル」、フランス語では「ラ・トルテュ・ルージュ」と書かれていたのですが、筏を壊した赤ウミガメ(アカウミガメなのかどうかは分かりません)は、最初から、主人公の男と仲良くなりたくて近付いたということなのでしょうか。それとも、無人島に閉じ込められた孤独な男の魂が引き寄せたものというような意味だったのでしょうか。海に浮かぶ筏を下から打ち壊した“犯人”が赤ウミガメなのか、何か別のものなのかは不明です。

男のそばを離れない砂浜の小さなカニたちの動きがかわいくて、ジブリ作品らしいといえばジブリ作品らしかったように思います。ただ、これまでに私がよく見てきたジブリ作品とは異なり、物語の中に、生物の生と死が繰り返し描かれていました。津波が島を襲う場面もありましたが、この作品の中では、生も死も、何かドラマティックなものや特別なものとしてではなく、あっけないものとして描かれていたような気がします。男が島に来て最初に見たオットセイも、林の竹も、カニも、魚も、巨大なムカデも、赤いウミガメも、みんなあっけなく死にました。男の足の上を歩いていたムカデもそうだったのかもしれませんが、黒い蟻たちや、死体に集る蠅の羽音が、生物の死を常に感じさせるような印象でした。

この物語は、異類婚の話(異類婚姻譚)でもあるのだろうと思います。日本昔話風のタイトルにするなら、「赤亀女房」かなと思います。男と女(死んだ赤ウミガメ)の間に生まれ、成長して島を離れた青年が、その後どうなったのかは、描かれていないので分かりません。父親が知っている大陸(島と海の向こう側の世界)にたどり着くことができたのかもしれませんし、その前にどこかで命を落としたかもしれません。主人公の男は、結局、この島で生き、老いて亡くなりました。男は漂着した時から老いて死ぬまでずっと島で生きていたのかもしれませんし、島で数日生きた後、オットセイのように、いつかの夜にすでに亡くなっていたのかもしれません。

赤ウミガメが死んでいたかどうかということも、はっきりとはしていないのですが、裏返されたまま青空の下の強い日差しの浜辺で動かなくなっていた赤いウミガメの甲羅が割れたのは、赤ウミガメは死んだという意味だったのではないかなと思います。赤ウミガメを殺してしまったことを後悔していた男は、生き返ってほしいと強く願う中で、赤ウミガメの魂を引き寄せ、結びついたということなのかもしれません。

男と出会った女が死んだ赤ウミガメの魂の変身した姿であったなら、あるいはそれが、嵐の海で死んでいた、または死んでいたかもしれない、漂着した無人島を脱出できなかった男の幻覚なのだとしても(女がひび割れた甲羅を海に帰したのが弔いであったなら、男が作りかけの筏を海に帰したのも弔いであり、覚悟でもあったのだろうと思います)、このアニメーション映画の物語を貫いていたのは、生よりも死でした。男(とその息子)は時々「夢」を見ていましたが、眠るということも、一種の死なのかもしれないと思います。男の死を見届けた女が赤ウミガメの姿に戻って帰っていった海が、普通の海ではなく、例えばニライカナイのような、この世ではないあの世のような、異界であるようにも見えました。

映画「レッドタートル ある島の物語」は、宗教的な意味では決してなく、でも、どちらかというと少しスピリチュアル的(精神的、霊的)な意味の、魂の物語であるように思えました。

スタジオジブリの作品としては、例えば「天空の城ラピュタ」や「となりのトトロ」や「魔女の宅急便」や「耳をすませば」や「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」などの作品のように(「風の谷のナウシカ」はトップクラフトと徳間書店の作品で、厳密にはスタジオジブリの作品ではないようです)、何度も見たことがあるのに「金曜ロードショー」で放送されるとまた見てしまうという感じの映画とは、少し違うように思います。でも、もしかしたら数年後にこの作品をまた見たくなることもあるのかもしれません。私は、2013年の夏の宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」や秋の高畑勲監督の映画「かぐや姫の物語」も好きなのですが、なぜか、地上波(「金曜ロードショー」)では、どちらもまだ一度しか放送されていないような気がします。

番組の最後に、鈴木敏夫プロデューサーがスタジオジブリの次回作となる、宮崎駿監督の長編アニメ映画「君たちはどう生きるか」について少しだけ話していたのですが、宮崎駿監督は、オランダ出身のマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督の映画「レッドタートル ある島の物語」を見て、また長編作品を作りたい、スタジオジブリの最後の作品は自分の作品にしたいという風に思って、引退を撤回したということでした。タイトルは、吉野源三郎さんの小説『君たちはどう生きるか』から取ったそうなのですが、内容はそれとは異なる“冒険活劇ファンタジー”になるそうです。

最近、反戦ジャーナリストで戦後に岩波書店の雑誌『世界』を創刊した吉野源三郎さん(もともとは『真実一路』や『路傍の石』などを書いた小説家の山本有三さんが執筆する予定だったそうです)の小説『君たちはどう生きるか』を原作とした羽賀翔一さんという方による漫画版が大人気ということで、本屋さんの店頭にその関連本と共に平積みにされているのですが、私は未読です。吉野源三郎さんの小説のほうも、昔に古書店で見かけて読もうとして、軍国少年たちの登場するその何となく説教臭い雰囲気(しかも道徳的にはそれほど斬新なことが言われているわけでもないように思えました)から、途中で読むのをやめてしまったことがあるのですが、でも、この小説が書かれた戦前という時期(この本が出版される前年の昭和11年には皇道派の陸軍青年将校たちによる二・二六事件が起きていますし、昭和12年・1937年には日本軍の侵攻していた中国で盧溝橋事件が起きています)を踏まえた上で読み返したなら、今度はもう少し面白く読むことができるのかもしれません。


ところで、これは今日の報道で知ったことなのですが、この映画「レッドタートル ある島の物語」ではアーティスティックプロデューサーを務めていた高畑勲監督が、昨日亡くなったのだそうです。82歳だったそうです。肺がんで、昨年の夏頃から入退院を繰り返していたのだそうです。高畑勲監督には、スタジオジブリのアニメ映画以外に、昔のフジテレビの「世界名作劇場」の「アルプスの少女ハイジ」(「世界名作劇場」ではないかもしれません)や「母をたずねて三千里」や「赤毛のアン」や、数年前にNHKで再放送されていた「未来少年コナン」の印象もあるのですが、最近、藤子・F・不二雄の漫画『ドラえもん』のアニメ化にも関わっていたと知り、そうだったのかのかと、驚きました。同じスタジオジブリの作品でも、もしも宮崎駿監督のものとはまた別のリアリティが追及されていたように思える作風の作品を作る高畑勲監督がいなかったなら、日本のアニメの世界はもっと全く違ったものになっていたのかもしれないと思います。高畑勲監督、ありがとうございました。

映画「相棒 -劇場版IV- 首都クライシス 人質は50万人! 特命係 最後の決断」

昨夜、テレビ朝日で地上波初放送された映画「相棒 -劇場版IV- 首都クライシス 人質は50万人! 特命係 最後の決断」を見ました。

2017年の2月に公開された、ドラマ「相棒」の第4作目の映画です。

イギリスのあるお屋敷でお手伝いさんや遊びに来ていた子供たちを含む日本領事館の関係者が全員毒殺され、唯一の被害を免れた駐英日本大使館の参事官の娘の10歳の鷺沢瑛里佳(内田未来さん)がその日の内に誘拐されるという事件が起きてから7年後、国際犯罪組織に要求された身代金を「高度な政治的判断」で一切支払わずに瑛里佳さんを見捨てた日本政府は、外務省のホームページをハッキングした国際犯罪組織「バーズ」から「7年前、日本政府は我々の要求を無視した。今回拒否すれば大勢の人々が見守る中で日本人の誇りが砕け散るだろう」という生存していた瑛里佳さんが無言で示したメッセージと共に、700万ユーロの身代金を要求されました。水面下で交渉して人質を返してもらうべきと考える内閣官房副長官の折口洋介(篠井英介さん)とは反対に、副総理大臣の佐橋健作(益岡徹さん)や警察庁警備局局長の山崎哲雄(菅原大吉さん)は、そのメッセージを日本国家へのテロ予告と断定し、身代金の支払いを拒否して「テロとの戦い」を打ち出し、「テロに屈しない日本」を国際社会にアピールしようとしていきました。

警視庁特命係の杉下右京(水谷豊さん)と冠城亘(反町隆史さん)は、社美彌子(仲間由紀恵さん)を通じて知り合った、バーズのリーダーのレイブンを追って来日した国連犯罪情報事務局の元理事のマーク・リュウ(鹿賀丈史さん)とバーズを追う中、リュウさんの元部下のモリス(ダンテ・カーヴァーさん)が首の後ろに刺青のある黒衣の男(北村一輝さん)に殺される直前にリュウさんに伝えた「天谷克則という男を調べてほしい」という言葉を頼りに、日本に見捨てられた瑛里佳さん(山口まゆさん)を7年間育てていたレイブンの正体に迫っていきました。同時に、警察学校の教官になった米沢守(六角精児さん)や2代目相棒の神戸尊(及川光博さん)の協力を得て、捜査一課の刑事の伊丹憲一(川原和久さん)と芹沢慶二(山中崇史さん)と共に、国際犯罪組織によるテロ事件が国際平和会議が開催される東京で世界的なスポーツ大会の日本代表選手団の凱旋パレードを狙って予告通りに実行されるのを阻止するべく奔走するのでした。

脚本は太田愛さん、音楽は池頼広さん、監督は橋本一さんでした。

映画が公開されたのは2017年ですが、物語の時期は2016年だったようでした。国際犯罪組織のリーダーの名前のレイブンは、ワタリガラスを意味する英語だそうです。

映画のタイトルから、東京でテロ事件が起きる話かと思っていたのですが、そうではなく、約73年前(映画の時期では約71年前でしょうか)の1945年に日本が敗戦した太平洋戦争時代のトラック諸島(チューク諸島)で連合国軍の空襲にさらされ、優先的に逃げる日本軍に母親を見殺しにされ、ようやく日本に帰還したものの1959年の特別措置法で死亡したことにされている(国籍を抹消されている)ことを知った天谷さんと、7年前のイギリスで人種差別的ないじめに耐えながら暮らしていたある日テロリストの人質となり当時の駐英大使の岩井孝信(江守徹さん)の判断で日本政府に見捨てられた瑛里佳さんと、両親を殺された少女を見捨てる決断をした岩井大使を警護する仕事に嫌気が差して退職した元警察官の土橋紘一さんが、東京の銀座で“テロ未遂事件”を計画して、国家は国民を助けないということを日本国民に知らせようとする話でした。

大正8年に日本の委任統治領となり、太平洋戦争中の日本軍の拠点となっていたトラック島へのアメリカ軍による大空襲は、1944年2月17日と18日にあったそうです。約2000人が死亡し、終戦までに兵士や民間人の約5000人が飢餓や病気で亡くなったのだそうです。

2015年の1月に、過激派組織ISIL(ISIS)にシリアで拘束されて人質となっていたフリージャーナリストの後藤健二さんと実業家の湯川遥菜さんが、「日本はテロに屈しない」として身代金を支払わないことを日本政府(安倍首相)が発表した後にISILに殺害された事件や、2016年の7月にバングラディシュのレストランで人質となっていた日本人がISILを名乗る組織?に日本人として殺害された事件を思い出しました。

「相棒」の映画では、「テロとの戦い」を宣言していたのは「総理大臣」ではなく「副総理大臣」でした。「総理大臣」はなぜか登場しませんでした(配慮でしょうか)。そして、「テロとの戦い」を国際社会にアピールして強さを誇示することを選ぶ国とそれを支持する多数の国民に、非力な個人が見捨てられる話でした。

映画の中の日本政府と警察組織が「テロとの戦い」を宣言したのも、国際犯罪組織が日本で「テロ未遂事件」を計画したのも、「日本でテロが起きるかもしれない」ということを日本の国民に意識させるだけで十分ということだったのかもしれません。天谷さんの使用しようとしていた毒物は、海外(映画ではタイでした)で起きたテロ事件の日本人被害者の遺体の中に隠して日本国内に運び込まれていました。

でも、南洋宝貝とトラック島へ移り住んだ親の形見の戦時中の式典の写真とを大切に持ち続けていた天谷さんのテロ未遂事件の計画によって、太平洋戦争中のトラック島の空襲のことや特別措置法で死者にされたことが国民に知れ渡るようになったのでしょうか。毒殺事件と人質事件の生存者だった17歳の瑛里佳さんは、これからどこでどのように生きていくことになるでしょうか。

多くの日本人がテロ事件が起きてもすぐに忘れるのだとするなら、テロ未遂事件のことはもっと早く忘れるかもしれません。

「相棒」は刑事ドラマ(映画)なので、テロ事件が起きて大量の東京都民(国民)が死ぬような展開にはなりません。佐橋副首相や岩井元駐英大使は、そもそも何ともありませんでした。国家を憎む犯罪組織が現実にあるとして、その組織が例えば政治を変えたいという目的で一般市民を無差別に大量に殺害したとしても、政治は良い方向へは変わらないと思います。映画の中の副総理大臣は、自分たちを頭脳として、身体を守るために手足が多少かすり傷を負ったとしても頭脳が傷つくわけにはいかない、というようなことを言っていました。

国家の政策の中で見捨てられたり死に追いやられたりした国民の苦しみや憎しみや恨みといった負の感情は、「国のために戦った」、「尊い犠牲となった」、「今日の発展の礎となった」というような言葉の強さに、抑え込まれてしまうのかもしれないと思います。

今回の映画「相棒 -劇場版IV-」の地上波での放送が「相棒16」の初回スペシャルの前や途中ではなく、最終回スペシャルの放送から一週間後の昨日になったのは、韓国の平昌オリンピック・パラリンピックの日本代表選手団の帰国の日を避けたということなのでしょうか。特に関係ないのかもしれませんが、日本選手団の凱旋パレードが狙われるという作品の内容から、何となくそのように思いました。

天谷さんの自殺を阻止しようと飛び出した右京さんが右肩を撃たれるという展開は、映画を見ている人に一瞬の衝撃を与えるためという感じもしたので、それが必要だったのかどうかはよく分からないのですが、それでも、社会的に弱い立場に置かれている人のこと、戦争に巻き込まれた子供の悲しみや人質殺害事件の被害者のことを忘れてはいけないと思えるような見応えのある「相棒」の映画になっていたように思います。

映画「PAN ~ネバーランド、夢のはじまり~」

昨夜、日本テレビの「金曜ロードショー」で放送されていた映画「PAN ~ネバーランド、夢のはじまり~」(原題「PAN」)を見ました。吹き替え版です。

2015年に公開されたイギリスとアメリカの合作映画だそうです。地上波初放送ということでしたが、本編ノーカット放送とは書かれていませんでした。

主人公のピーター(リーヴァイ・ミラーさん)は、生まれて間もなく母のメアリー(アマンダ・サイフリッドさん)に手紙と笛のペンダントと一緒にイギリスのロンドンのケンジントン公園に置き去りにされた少年でした。孤児院で12歳になったピーターは、第二次世界大戦中のある夜、院長のシスターが呼んだ空飛ぶ海賊船に他の孤児たちと共にさらわれ、海賊の黒ひげ(ヒュー・ジャックマンさん)が支配するネバーランドの炭鉱で妖精の粉の結晶の鉱石「ピクサム」を掘り出すという強制労働に従事させられることになったのですが、仕事を始めてすぐに発見した妖精の粉の結晶を別の作業員に奪われ、盗まれたと騒いだ結果泥棒の当事者とされ、黒ひげに罰せられることになりました。

しかし、高いところから観客の上に突き落とされたピーターは、落ちる前にしばらく宙に浮きました。ピーターをメアリ―と妖精の子供だと考えた黒ひげは、フック(ギャレット・ヘドランドさん)やサム・スミーゲル(アディール・アクタルさん)と共に空飛ぶ船を奪って逃げたピーターを追跡し、「妖精の巣」を守るために海賊たちと戦い続けている先住民族のタイガー・リリー(ルーニー・マーラさん)たちが暮らす森へ侵攻するのでした。

脚本はジェイソン・フュークスさん、音楽はジョン・パウエルさん、監督はジョー・ライトさんという作品でした。

「金曜ロードショー」の解説には、「『ハリー・ポッター』シリーズのスタジオが贈る、ピーター・パンの誕生秘話を描く物語」とあったのですが、それはワーナー・ブラザーズ・スタジオのことのようです。

主に、第二次世界大戦中のイギリスの孤児院から連れて来られたピーターと、そことは違う時間と場所?からずっと前に連れて来られたらしいフックと、ネバーランドの先住民族のタイガー・リリーが、若返りにも必要な妖精の粉を全て手に入れようとする海賊の黒ひげと対決をする物語でした(途中でフックを裏切ってしまったスミーは、結局死亡したのでしょうか。最後の空飛ぶ海賊船「ジョリー・ロジャー号」の上にはいなかったような気がします)。

不幸な境遇で?暮らしている普通の少年が、実は別の世界の“特別な子供”で、別の世界に行って“悪”の大人たちと戦い、ヒーローになっていくという成長物語は、確かに「ハリー・ポッター」的だったように思います。映画「ハリー・ポッター」シリーズの物語をあまり楽しめないでいる私には、昔に初めて第1作の映画「ハリー・ポッターと賢者の石」を見終わった時の印象と似ているというか、この映画「PAN」を見る前に思っていたよりも、物語が浅いというか薄いというか、本当にこれで良いのだろうかと思えるような「ピーター・パンの誕生の物語」でした。

空飛ぶ海賊船で様々な時代や世界から人々を集めては妖精の粉の鉱石を掘らせるという海賊の黒ひげの背景も、支配しているネバーランドがどのような世界なのかという描写もほとんどなく、海賊たちと先住民族との戦いの歴史?もタイガー・リリーが(木の年輪を使ったクレイアニメのようなCGで)ピーターやフックにざっくりと話しただけでした。

ピーターの笛を奪って「妖精の巣」に入った黒ひげたちと戦うピーターが飛んでいる場面にも、私には、“浮遊感”を感じることはできませんでした。ピーターが飛んでいるというよりも、ピーター少年の顔の前方から風が強く吹いてきているという風にしか見えませんでした。浮遊感を伝えるというのはなかなか難しいことなのだなと思いました。また、このピーターと妖精たち(小さな妖精の集団の一人だったティンカー・ベルの描写も僅かでした)と黒ひげの戦いの場面を見ながら、私は何となく、昔の神木隆之介さん主演の映画「妖怪大戦争」を少し思い出しました。

海賊・黒ひげは、“悪”のまま、ピーターたちに滅ぼされたようでした。孤児院のシスターも、分かりやすい“悪”の大人のままでした。

ネバーランドの森の先住民族たちも、先住民族的ではあったのですが、先住民族というよりは、多民族のようでした。1964年(昭和39年)公開の東宝の映画「モスラ対ゴジラ」の島の先住民族の描写に少し違和感があったように、この映画「PAN」の先住民族の描写にも少し違和感がありました。でも、架空の先住民族ということなら、実際の先住民族やそのイメージとは重ねて考えないほうが良いのかもしれません。

黒ひげを演じていた俳優のヒュー・ジャックマンさんがヒュー・ジャックマンさんに見えないというところも、私には少し残念に思えたところでした。

私はNHKのBSプレミアムで放送されていたアメリカのABC系列のドラマ「ワンス・アポン・ア・タイム」のシリーズをとても好きで見ていたので(2016年に「シーズン4」の放送が終わった後、続きが止まっているのですが、BSプレミアムでは「シーズン5」以降の放送予定はないのでしょうか)、フックが良い人で主人公のピーターの「仲間」になって、「敵」は黒ひげであるという部分は一応分かったのですが、ディズニーの「ピーター・パン」を知っていたほうが見やすい映画なのかなとも思いました。

それでも、この映画の物語を「ピーター・パンの始まりの物語」と考えるのは、少し無理があるようにも思えました。

黒ひげかフックが主人公の物語だったらまた違ったのかなとも思うのですが、もしも私が小学生の時にこの映画「PAN」を見たなら、もっと普通に、ピーターたちの「冒険物語」として楽しむことができたのかもしれません。

あと、私としては、12歳のピーター少年の物語が、第二次世界大戦中のロンドンの孤児院の物語として始まったというところも、少し気になりました。「第二次世界大戦中」であるということが、この映画の物語にはほとんど無関係に思えたからです。冒頭の戦争の描写(ロンドンの街は上空に現れた国籍不明の戦闘機から投下された爆弾により、空襲の被害を受けて黒煙を上げていました)も中途半端でしたし、最後、ジョリー・ロジャー号でピーターが友人の孤児のニブス(ルイス・マクドゥーガルさん)たちを孤児院から連れ出した時のロンドンの街からは、なぜかすっかり「戦争」が消えていました。ネバーランドを出たピーターたちが戻ったのは、元のロンドンではなく、「パラレルワールド」のロンドンだったのでしょうか。“子供向け”のファンタジー作品として「戦争」を描かないのであるなら、「第二次世界大戦中」というリアルな設定にする必要はなかったのではないかと思います。

森を守っていた先住民族の族長が黒ひげに殺される場面に赤い血が流れず、銃の煙が綿菓子のようにカラフルだったのも、子供が見る作品ということへの配慮だったのでしょうか。そのようなところも、物語を浅くする要素になっていたような気がします。

真実の愛や友情と自分を信じて前向きに生きることの大切さ、というようなところは(ディズニーの作品にも共通しているのかもしれませんが)、よく伝わってきたように思います。決してすごく悪い作品というわけではないと思うのですが、昨夜に「金曜ロードショー」の枠で見ただけの私には、「ピーター・パン」の一作品としては、何というか、少し物足りない印象の映画作品でした。
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