ラジオの「THE HANGOUT(ザ・ハングアウト)」の最終回

J-WAVEの深夜のラジオ番組「THE HANGOUT(ザ・ハングアウト)」が昨日の木曜日の放送でついに終わってしまいました。

月曜日は評論家の宇野常寛さん、火曜日は通りすがりの天才・AR三兄弟の川田十夢さん、水曜日は作家の大宮エリーさん、木曜日は音楽プロデューサーの蔦谷好位置さんがナビゲーターを務めていて、私も2年間、深夜の放送を楽しみにして聴いていました。

特に月曜日と火曜日の回を好きで聴いていたのですが、水曜日と木曜日の回も好きでした。ナビゲーターの方の話も面白くて、選曲も楽しみでした。日本語の歌詞の歌が多く流れていたのが嬉しく、初めて聴く歌もたくさんあって、例えば火曜日の川田十夢さんの放送でよく流れていたトリプルファイヤーというバンドの方の歌なども、このラジオの放送を聞いていなかったなら、きっと知らないままに過ぎていたのではないかと思います。

川田十夢さんの生放送は先週に終わってしまい、最終週の回は収録の放送だったのですが、最終回の最後はパリにいる川田十夢さんからの電話の声が流れていて、パリの街を走る車の音なども聴こえていて、過去と現在と未来が同時に感じられるような不思議な最後に、何だか少し泣きそうになりました。

ラジオで話すのが合っていると自覚していた宇野さんは「HANGOUT PLUS」という「ニコニコ生放送」の番組を始めるそうで、第1回のゲストは川田十夢さんだそうです。大宮エリーさんの最終回は、いつも通りの?ざっくりとしたポジティブな感じで終わっていました。昨夜の蔦谷さんの最終回は、蔦谷さんの関わった音楽が流れていて、日本語で話すユリ・ゲラーのものまねも面白かったですし、最後の春ねむりさんとの「さよなら ぼくの シンデレラ」というラップの曲も良かったです。

夜の11時半から深夜の1時という1時間半の放送の番組は、毎回あっという間に思えていました。2年間も、あっという間だったのかもしれません。話を聴きながら、そうだなとか、そうかなとか、どういう意味だろうとか、いろいろ考えることができました。放送の中で紹介されていたリスナーの方たちからのメッセージには、放送を聴いてから自分自身が変わったというものも多くて、私は2年の間に何か変わっただろうかと考えてみたのですが、変化は自分の意識できるところにだけ現れるものではないのかもしれないと思いました。

私は、ラジオは聴く専門で、放送時にインターネットの動画配信のある“見えるラジオ”の時代になっても、古風に?電波を受信する電池式の小さなラジオでこの深夜の番組の声と音楽を聴いていました。基本的には大学生の方向けの番組だったのかもしれないのですが、実際のリスナーの方は大学生ばかりではなく年齢も様々だったようですし、個性的なナビゲーターの方たちのトークと選曲は、最終週の最後まで、楽しかったです。ありがとうございました。私も救われていたのだと思います。自由で緩やかな雰囲気の、とても好きな深夜のラジオ番組でした。

ドラマスペシャル「望郷」

テレビ東京の「六本木3丁目移転プロジェクト」のドラマスペシャル「湊かなえサスペンス 望郷」を見ました。

原作は、私は未読なのですが、湊かなえさんのミステリー連作短編集『望郷』です。

白綱島という同じ島を舞台にした、「みかんの花」と「海の星」と「雲の糸」の3作のオムニバスドラマでした。

「みかんの花」は、都会からやって来た旅人の奥寺健一(田中圭さん)と一緒に東京へ行くことに憧れていた中学生時代から20年経ったある日、認知症の母の安江(倍賞美津子さん)の世話をしながらみかん農家を継いで暮らしていた主婦の富田美里(広末涼子さん)が、人気作家として「閉市式」の挨拶のために島に戻ってきた姉の笙子(水野美紀さん)が20年間島に帰ることができなかった本当の理由を知って、姉の人生と今の自分の生活を受け入れていく話でした。脚本は浅野妙子さん、監督は新城毅彦さんでした。

「海の星」は、東京で妻の友美(紺野まひるさん)と息子の太一(五十嵐陽向さん)と暮らす浜崎洋平(伊藤淳史さん)が、20年前のある秋の夜、煙草を買いに家を出たきり帰らない父親の秀夫(橋本じゅんさん)を母親の佳子(若村麻由美さん)と二人で、父親のポスターを町中に貼って待ち続けていた少年時代の洋平(加藤清史郎さん)に声をかけ、時々浜崎家に釣った魚や娘の焼いたクッキーなどを持ってきていた謎の漁師の真野幸作(椎名桔平さん)の当時の真意と幸作さんが隠していた父親の事実について、幸作さんの娘で高校時代の同級生の真野美咲(平山あやさん)から教えられ、本当のことを浜崎親子に言い出せずにいた幸作さんの長年の苦しみを思い、感謝する話でした。脚本は大島里美さん、監督は中前勇児さんでした。

「雲の糸」は、自分が0歳の頃に母親の律子(麻生祐未さん)が暴力を振るう父親を殺したという運命を背負わされ、地元の人たちからの嫌がらせや同級生たちからのいじめに耐えながら育ち、大阪の工場で出会った先輩(山崎まさよしさん)から音楽の楽しさを教わってストリートで歌い始め、「雲の糸(蜘蛛の糸)」を掴むようにプロの人気ミュージシャンとなった黒崎ヒロタカ(磯貝宏高、濱田岳さん)が、地元で細々と生きる母親に頼まれて、地元の大きな工場の息子でいじめの加害者の中心人物だった的場裕也(大野拓朗さん)と再会し、応援しているからと恩着せがましく自分を利用しようとしてくる島の人々に吐くほど嫌気が差していた夜、母親がミュージシャンとなった自分のせいで自殺未遂をしようとしていたことを知って精神的に追い詰められ、誤って海に転落してしまう、という話でした。

病院で意識を取り戻した宏高さんは、姉の亜矢(内山理名さん)から、島のみんなが本当に宏高さんを応援していること、母親が父親を殺したのは自分を守るためではなく宏高さんを守るためだったことを初めて教えられて反省し、これからは母親を守るために生きると姉に誓い、宏高さんの言葉を廊下で聞いていた母親が泣き崩れていました。脚本は小寺和久さん、監督は藤井道人さんでした。

「みかんの花」は、みかんの花が特徴的に描かれるということではなかったような気もするのですが、姉と母親と姉の元恋人の役所の宮下邦和(水橋研二さん)が隠していた事実を知った美里さんがフェリーで再び島を離れて行く姉に手を振る最後の場面までの展開が良かったように思います。役所の宮下さんが笙子さんに協力して、その後も警察に通報しなかったのは、姉の元恋人だからというよりは、笙子さんの実家をその時以上に孤立させないようにするためだったのかなと思いました。

「海の星」は、「謎のおっさん」の幸作さんが浜崎親子の前から姿を消す前に洋平さんに見せたウミホタルの青い光のことでした。母親の佳子さんが途中で亡くなり、母親は遺骨を海に流してほしいと洋平さんに頼んでいたので、その遺骨を島の海に撒いて「海の星」を出す場面もあるのかなと、ドラマを見ながら勝手に思っていたのですが、そのような場面はありませんでした。

「雲の糸」は、夫殺しの殺人犯となってしまった母親のことでいじめられていた小学生の宏高さんが青空の白い飛行機雲を見て「ロープみたい」と姉に言った言葉でした。いじめの場面や同級生や島の人たちによる嫌がらせの場面は見ていて不快だったのですが、最後は、磯貝家の親子3人が救われる展開になっていたので、少しほっとしました。

エンディングで流れていたドラマの主題歌は、山崎まさよしさんの「光源」という曲でした。「雲の糸」のドラマの中で濱田岳さんの演じる黒田ヒロタカさんがギターを弾きながら歌っていた「空の果て」も、山崎まさよしさんの作詞・作曲の歌でした。歌われていたのは短い時間だったのですが、良い歌のような気がしました。

3作品とも、主人公の生活には父親がいませんでした。そして、主人公の長年疑問に感じていたある謎の真相が最後に明かされて納得するという展開の物語でした。島の風景そのものはきれいだったように思うのですが、島の人間関係の「閉塞感」のようなものも強調されて描かれていたような気がします。そのため、少し息苦しい雰囲気のドラマでもあったような気がするのですが、ドラマの終わり方にも余韻があって、ドラマを見る前に思っていたよりも、良かったと思います。


ところで、このドラマを見た後、何気なくTBSの「NEWS23」に変えると、青森の青森市の中学2年生の女子生徒がスマートフォンのメモに「もういじめないでください」という遺書を残して線路に飛び込んで亡くなったいじめ自殺事件のことが特集されていました。「望郷」のドラマでもいじめが描かれていたので、テレビ局は異なるのですが、何かつながっている感じがしました。被害者が加害者によるいじめの証拠をたくさん残していても、自殺の原因が「いじめ」であることがなかなか自治体の教育委員会に認められないという問題は、一体どうすれば解決するのだろうと気になりました。報道されていないだけで、もしかしたら、いじめが原因で自殺した方はたくさんいるのかもしれません。いじめの問題もテレビ番組ではあまり扱われませんが、扱われることがあっても被害者の側の思いを取り上げることのほうが多いので、それも大切なことですが、いじめの発生の原因は加害者となってしまう生徒のほうにあるのだろうと思いますし、いじめの加害者の側の思いについても同じくらいバランス良く取り上げてほしく思いました。

「こうしてヒロシマは世界発信されていった」

NHKのBS1で放送されていた「BS1スペシャル」の「原爆救護~被爆した兵士の歳月~」と「こうしてヒロシマは世界発信されていった」を見ました。

「こうしてヒロシマは世界発信されていった」は、先週に放送されていたものです。「原爆救護~被爆した兵士の歳月~」は、8月6日に再放送されていたもので、録画をしておいたものをようやく見ることができました。

「原爆救護~被爆した兵士の歳月~」は、原爆投下直後、上官からの命令によって訓練をやめて広島市内に入り、大勢の負傷者の救護に当たったり、無数の遺体の火葬を行ったりして「入市被爆者」となった元少年兵の方たちの証言を伝える特集でした。

当時の資料によると、命令の第一号は原爆投下の35分後の8時50分だったそうです。爆心地から4.5kmの宇品の船舶司令部に連絡が入り、二千人の第十教育隊の江田島の少年特攻兵たちが広島市内へ向かうことになったそうです。午前10時過ぎに偵察隊が江田島から宇品へ出発したそうなのですが、川は流れてくる人々で真っ黒だったそうです。水上輸送を命じられ、40人が似島で受け入れに当たることになり、将校からは、これから怪我人が相当来る、来たら肉親と思いなさいと言われていたそうなのですが、助けに来た少年兵たちの姿を見て泣き出す被爆者たちを見て、気持ち悪くなって、陸に着きそうになっていた船を海へ戻して、逃げようとしてしまったこともあるそうです。少年兵たちは、それまで死体を見たこともなく、触ったこともなかったからでした。気絶して帰された少年兵もいたそうです。

そのような証言を聞いていて、当時の少年兵たちは今の少年たちとほとんど変わらないという感じがしました。宇品へ向かった少年兵たちは、午後、市の中心部へ向かい、破壊された町の炎と煙の中を被爆で負傷した人々が彷徨っていたり、倒れたり、埋もれたりしているのを見たそうです。助けて、と言いながら少年兵に抱きつく人々は、なかなか少年兵たちを離さなかったそうです。広島の町はまだ真っ赤に燃えていて、生きのいいやつから助けろ、と命じられた少年兵たちは、一人でも救出してあげなければと、戸惑いながら救助や遺体の火葬の仕事を始めたそうです。

翌日の8月7日には、県外からも広島市内に部隊が入って来たそうなのですが、それは、広島が本土決戦に備えて西日本全体の作戦を統括する拠点となっていたからだということでした。大本営の調査団も広島へ来て、6日に投下された爆弾による被害状況の調査を始めたそうです。調査団の中心にいたのは、日本の原爆開発にも関わっていた理化学研究所の仁科芳雄博士で、市内を視察して回り、広島第一陸軍病院宇品分院で遺体の解剖を行った仁科博士は、原爆によるものと断定し、政府に報告したそうです。そしてその頃から、「入市被爆者」となっていた少年兵たちの体調にも、下痢や発熱といった症状を起こす「急性放射線障害」の異変が起きてきたそうです。しかし、当時の少年兵たちは、知られたら隔離されると思って黙っていたということで、原子爆弾を知らない人々の間では、チフスやコレラなどの伝染病ではないかとも考えられていたそうです。

少年兵たちは、不調に耐えながらできる限り丁重に救護や遺体の火葬の仕事に当たり、ある少年兵は1日に40、50人の遺体を火葬場で焼いたそうです。6日から12日の7日の間に、少年兵たちは、最初は見るのも触るのも嫌だった死体に平気で触ることができるようになり、ある少年兵の方は、遺族が見たら起こるかもしれないと言いながら、鳶口を遺体の鎖骨に刺して遺体を引きずって移動したこともあると話していました。

8月9日には長崎に原爆が投下され、満州ではソ連軍による侵攻が始まり、3日後の12日、爆心地で救護活動をしていた少年特攻兵たちには江田島に戻るようにという命令が下されたそうです。ソ連軍や米軍との本土決戦に備えるためでした。少年兵たちは、陸軍の小型攻撃艇の「マルレ」や爆雷の整備を行って準備をしていたそうなのですが、その3日後の15日に終戦となりました。

2時間の番組は前編と後編で構成されていて、後編は、戦争が終わって故郷に帰ることになった少年兵たちが、「被爆者」として、周囲の人たちからの差別や偏見の視線や、身体の不調に耐えながら生きてきたことが、元少年兵の方たちの証言によって伝えられていました。

メディアによって、広島の町や被爆者への「風評被害」は広まっていったそうです。被曝についての正確な知識のない一般の人々は、「伝染」するのではないかと恐れていたそうです。このような考え方は、2011年の東日本大震災の時にも一部の人々の間にはあったようで、悪口を言われたり嫌がらせをされたりした被災者がいたことは、当時にも報道されていました。

原爆の放射線を浴びた人は人間そのものがダメになっているという噂が広まっていたため、被爆した人はそのことを隠していたそうです。倦怠感などで自分の身体を思うように動かすことができなくなって仕事をすることができなくなった人は、「ぶらぶら病」と呼ばれて、周囲の人から蔑まれていたそうです。

広島では白血病で亡くなる人が増え、放射性物質が原因の「原爆症」と呼ばれていたそうなのですが、被爆者となった元少年兵の中には、故郷に居場所を見つけることができなくなった人も少なくなかったということでした。「ぶらぶら病」になったことで両親や兄弟たちを支えることができないと、一家心中を考えた方もいたそうです。元少年兵の被爆者の廣田さんは、父親が満蒙開拓団の団長で満州に渡った村の人600人と共に戦後消息を絶っていたことから、家族を心配する村の人たちから責任を負わさせるようになり、精神的に耐えられなくなって、故郷の村を離れたそうです。闇屋のような仕事をしながら生きていたそうなのですが、そのような廣田さんの生活状況は、昭和25年に朝鮮戦争が始まって警察予備隊ができたことによって、変わったそうです。1日150円が支給されるということを聞いて、廣田さんは警察予備隊に志願し、それから自衛隊員として生きてきたのだそうです。

昭和29年、アメリカの核実験によって第五福竜丸が被曝する事件が起き、原水爆反対の機運が高まり、広島と長崎の被爆者が声を上げ始め、昭和32年、国はようやく被爆者の救済に乗り出したそうです。日本政府とアメリカ政府は、残留放射線による被曝はほとんどないと考えていたそうなのですが、原爆傷害調査委員会(ABCC)で調査をしていた玉垣さんは、放射線が短時間で消失したというのは嘘で、残留放射線はあったと考えていたそうです。

差別を恐れて申請をためらう被爆者の方もいる一方、広島で救護活動を行った歩兵第321連隊の三千人の一人として、入市被爆者たちの原爆症認定を勝ち取ろうとした鎌形さんは、入市被爆者の会を結成したそうです。宮本医師は、食物や空気によって被曝した「内部被曝」の証拠を探し、セシウム137やストロンチウム90を検出するために、遺族の協力を得て、埋葬された兵士の骨を分析し、微量のストロンチウム90を検出して意見書をまとめ、10か月後、厚生労働省から、確定はできないけれど否定もできない、として認定通知が届いたそうです。

平成15年に、被爆者の一人一人に目を向けるべきだと国を相手に集団訴訟を起こした元兵士の方は、自分一人の問題ではなく被爆者全体の問題だと考えて裁判を起こしたのだそうです。その結果、306人中、279人がその時新たに認められたということでした。平成20年に国は入市被爆者の認定基準を見直し、それによって2万5千人が被爆者と認められたそうなのですが、高齢となった方々は次々と亡くなっていったそうです。89歳の河原さんは、今も認定を待っていて、お金よりも認められるかどうかだと話していました。

救援に行った被爆者はみんな言いたくない、自分の良心として自分の口から公にするのは直接被爆者や遺族に対して気が引ける
、と話す元少年兵の方もいました。左官職人として懸命に生きてきたという方は、何かに打ち込んでいなければ生きてこれなかったということだと話していました。古い時計を集めては時刻を8時15分に合わせて忘れないようにしているという91歳の斎藤政一さんさんは、ニューヨークの教会で被爆体験を語ったそうです。斎藤さんは、国連の軍縮会議で「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」と叫んで核廃絶を訴えた山口仙二さんの言葉を言って、日本政府は核禁止条約を見送りにした、これが唯一の戦争被爆国のすることだろうかということを話していました。

戦後自衛官として生きてきた廣田さんは、我を張り合う国と国が戦争をしないということは難しいと言い、「核の無い時代、どうでしょうね。私は死にます。あとは若い人たちが頑張ってください」と取材スタッフの方に話していました。

私は、原爆投下直後の広島で少年兵たちが救護活動をしていたということも、知りませんでした。驚きましたし、本当に大変だっただろうと思うのですが、真っ赤に燃える町の中で救護や火葬の仕事をしていた人たちが、自身も被曝をしていることを知って、葛藤を抱えながら日々を生きて、その時のことを今でもあまり他人に話したくないと思うのは、仕方のないことであるようにも思いました。

もう一つのドキュメンタリー番組の、「こうしてヒロシマは世界発信されていった」は、日系2世としてアメリカで生まれ、戦後広島市の職員となり、後に平和記念資料館(原爆資料館)の館長を務めた小倉馨さんの話でした。ドキュメンタリーと再現ドラマで構成されていました。

1957年、36歳の小倉さんは43歳のドイツ人のロベルト・ユンクさんに出会い、戦争犠牲者の代わりに声を上げなければと聴き取り調査を始め、1959年にユンクはその内容を『廃墟の光』にまとめ、その本は10か国でベストセラーになったそうです。

1960年代、核兵器が世界に拡散し始め、市役所の職員になった小倉さんは、ユンクさんへの手紙の中で、宇宙人から見たら自殺行為だろうと書いているそうです。

小倉さんは、ABCCで調査を行っていたバーバラ・レイノルズさんや、イギリスのフィリップ・ノエル=ベーカーさんや、旧西ドイツのハイネマン大統領などと会い、原爆を落とされた広島の惨禍を伝えたそうです。

小倉さんは、1949年に広島を訪れて惨状に衝撃を受けたという、アメリカのジャーナリストのノーマン・カズンズさんを敬愛していたそうです。カズンズさんの娘のアンドレアさんは、父はいつも世界平和について考え、世界中で核軍縮を訴えていたと話していました。

アメリカの精神科医のロバート・リフトンさんは、原爆の心理的な影響を調査するために1962年に広島を訪れ、41歳の小倉さんに協力を依頼したそうです。ABCCへの人々の反発の中、70人以上が説得に応じ、聞き取り調査に協力したそうです。被爆者から話を聞いたリフトンさんは、たった今原爆が落ちてきたかのようだ、と驚き、ヒロシマを真に理解することはできないような気がするとも思ったようでした。リフトンさんの『デス・イン・ライフ』という本にアメリカは衝撃を受け、リフトンさんはその後反核運動に身を投じ、90歳の今も、警鐘を鳴らし続けているそうです。

トルーマン元大統領の孫のダニエルさんは、小倉さんとユンクさんが初めて世界に紹介した、広島で被爆し白血病で入院した病床で亡くなるまで鶴を折り続けて佐々木禎子さんの本を読み、気持ちが揺れたそうです。2012年に広島を訪れ、折り鶴を伝える活動を始めたそうです。ハワイのパールハーバーでは、地元の学校の子供たちが、禎子さんの話をミュージカルで伝えている活動をしていました。

原爆資料館の館長を務めた小倉さんは、被爆者の声をアメリカに伝える活動を続け、1979年の7月、広島の平和宣言の検討中に倒れ、58歳で急逝したそうです。「平和は一人のため、一国のため、一国民のためのものではない。この世の全ての人の者である」と小倉さんは考えていて、「ヒロシマは訴え続けなければならない」、「平和とは、単に戦争の防止のみにとどまらず、憎しみを超えた愛と理性に基づき、人類の全てが共存共栄することである」という、1979年の宣言の言葉が最後に紹介されていました。

今は被爆者の声を語り継ごうという意志を、妻の小倉桂子さんが受け継いでいるそうです。被爆者の声を世界に伝えなければいけない責任がある、まだ世界にはたくさんの核兵器がある、イマジネーションの力を養って、何があったのかを思い起こしてほしいと話していました。

リフトンさんは、被爆者の声が世界に伝わったことが核戦争の抑止につながっている可能性があるというようなことを話していたのですが、それを聞いて、そうかもしれないと思いました。

日本政府の中にも「抑止力」として日本の核武装を支持する方がいるそうですが、本当の「抑止力」は、各国が率先して核兵器を開発したり多く持ったりすることではなく、核兵器を使用された被害者(被爆者)の苦しみをできる限り正確に伝え、各国の人々が被害者の苦しみを、想像力を活用して理解していくことのほうにあるのだと思います。一般の人もそうですが、政治家や役人の方の多くがそのことを理解することができるなら、自国(あるいは安全保障の契約をしている外国)が核兵器を持つことが敵対する周辺国による核兵器使用の抑止力になるというような考えにはならないのではないかと思います。

でも、対話の外交を軽視して戦争や紛争を始めようとする人たちは、その先に必ず出ることになる戦地の被害者のことは考えていないようですし、自国民が被害者にも加害者にもなるかもしれないということも特に考慮しないのかもしれません。

抑止力として、あるいは先制攻撃を示唆するための威嚇用の武器として、核兵器を持とうと考える人たちは、どこかの国民の中に核兵器による被害者、新たな被爆者を出してもいいと考えている人たちということになるのではないでしょうか。

もしかしたら日本政府が原子力発電所や「もんじゅ」を残そうとしているのは、いつか核兵器を開発するため(あるいはもうどこかで密かに作っているのでしょうか)なのかもしれないとも思えてしまいます。無傷の平和を願う戦争被害者の声が軍拡を考えている人たちには響かないというのが、本当に不思議に思えます。

20日にはアメリカのオバマ大統領が国連総会で任期中最後となる一般討論演説を行ったそうですが、北朝鮮の核実験と、小池百合子東京都知事と築地市場の豊洲移転の話題で持ち切りの日本では、ほとんど報道されていませんでした。一昨日からは国会が始まりました。NHKでは中継されていますが、報道番組では、国会の会議のことよりも、豊洲移転とオリンピック関連の問題のほうが大きく扱われています。

東京の築地と豊洲の問題も重要だと思いますが、それは東京都のことなので、全国放送の報道番組や情報番組では、国の政策のことも、バランス良く報道した方がいいように思えます。

小さな新聞記事の報道によると、26日には、日本政府が、安全保障関連法の成立を受けた自衛隊の、米軍への平時の弾薬提供や戦闘機への給油などの後方支援を行うための規定を盛り込んだ「日米物品役務相互提供協定改正協定(ACSA)」に署名したそうです。“経済大国”を目指す今の日本政府(安倍政権)は、これからは軍事産業にも積極的に関わっていくそうですし、企業や大学にも、軍事目的の研究・開発を進めようとしているそうです。

防衛装備庁を創った防衛省と大学が提携して軍事目的の研究を行うかどうかの問題は、昨日の「クローズアップ現代+」でも特集されていました。防衛のための研究ならいいのではないかとか、研究費をもらえるならいいのではないかと答えるどこかの大学の学生たちと話していたノーベル物理学賞を受賞した益川敏英博士は、無警戒になっていたら取り込まれてしまうと危惧し、科学者が社会問題に対して敏感にならなければいけないと話していました。

戦後71年の今、「平和」を訴える方たちの言葉が日本の世の中にも虚しく響いているのだとするなら、希求し続けなければ失われてしまうと言われている「平和」は、数年後の未来には失われてしまっているのかもしれません。

与党は『日本国憲法』を変えることを前提としているようですが、安倍首相が撤回しない自民党の改憲草案に現れているのが安倍総裁の率いる自民党の精神であるなら、今の自民党はやはり不気味に思えます。天皇陛下の生前退位(譲位)の件も、「官邸主導」で行いたいようですし、何となく、今の自民党には、「自由民主党」ではなく、むしろ「共産党」や「社会党」という党名のほうが合っているような気さえしてきます。

安倍首相は所信表明演説で、私たちに求められていることは悲観することでも、評論することでも、批判することでもなく、建設的に議論を行って結果を出すことだと話していました。政治において結果を出すことは大切なことかもしれませんが、評論や批判を否定するような考え方を持っていることに、驚きました。演説では自画自賛しながら、野党の批評には「当たらない」、「的外れだ」と繰り返す今の首相の「思考停止に陥ってはなりません」という言葉が本当なら、その「建設的な議論」を行うためには、評論や批判は、ごく普通に、多く行われるほうがいいものであるように思います。

選挙権を持つ多くの人が情報源としてまだ頼りにしているテレビや新聞などの大手メディアは、この前の参議院議員選挙の時のように、選挙の直後に『日本国憲法』の内容や安倍内閣の裏側の特集を放送するのではなく、普段からそれらの情報を分かりやすく一般国民に発信してほしいと思います。

また、先日の「NHKスペシャル」の「縮小ニッポンの衝撃」では、10年前に財政破綻した北海道夕張市の現状が紹介されていたのですが、保育園に子供たちがいるのに建物の老朽化が進んで耐震化もなされていないとか、北海道や国はどうしてそこにお金を出さないのだろうと、奇妙に思いました。「少子化」や「高齢化」が進んでいると困ったように言いながら、一方で児童福祉や教育などにお金を出さないというのは、なぜなのでしょうか。国(政府)が何十兆円も何千億円もお金を出すことのできている分野があるのなら、そのお金の一部で地方の老朽化している保育園の建物を直すくらい、簡単なことなのではないでしょうか。どうして国がすぐに助けないのか、番組を見ていて不思議に思いました。

今いる子供たちや未来の子供たちのことを、将来の「労働者」あるいは「税金」として考えているような感じも、気になりました。日本の少子化が進んでいくのは、子供を持ちたいと考える世代の方の生活が不安定だからというような、経済の問題だけが原因ではないような気がします。

「今を生きる君たちへ~92歳の作曲家 大中恩のメッセージ~」

先週のNHKの「特報首都圏」の「今を生きる君たちへ~92歳の作曲家 大中恩のメッセージ~」を見ました。

私は、「サッちゃん」や「犬のおまわりさん」や「ドロップスのうた」などの歌を知っていたのに、その作曲者の大中恩(おおなかめぐみ)さんのことを、この番組を見るまで知りませんでした。

大正13年に東京に生まれた大中さんは、歌を好きで、昭和17年に東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入学したそうなのですが、戦争が激化し、勤労動員で音楽の勉強はほとんどできなくなり、昭和18年の学徒出陣での壮行会では東京音楽学校の学生としてマーチを演奏し(トランペットを吹いたそうです)、翌年の昭和19年に海軍に召集されると、学生たちの異様な熱気の中、自身も特攻隊に志願したそうです。

特攻隊として出陣する仲間たちを見送る時には、大中さんも羨ましい感じで見送っていたそうなのですが、そこから帰ると、ふと我に返って、助かった、と思っていたのだそうです。

「つつましき母の願いは つねに良き心を持ちつつ つつがなく生い立ちませと」という歌詞の歌を大中さんはその頃に作ったそうで、その歌を聴いた特攻隊の仲間たちの表情には生きたいという思いが溢れ、涙を流していたということでした。大中さんは、泣いたら弱い人間と思われるかもしれないのに思わずみんな泣いてしまった、あの時代に歌の力、音楽の力は大きいと思ったと話していました。

戦後、大中さんは、死んでいった仲間たちを思い、曲作りを始めたそうです。中でも、子供たちのための歌に力を入れて、戦時中に口にすることができなかった言葉を、これからの子供たちには大きな声で歌ってほしいと思って、「サッちゃん」や「おなかのへるうた」や「犬のおまわりさん」などの曲作りに協力したのだそうです。

「寂しい」とか「お腹が空いた」という言葉も言うことができなかった時代というのは、本当に凄まじいようにも思えますし、僕らの時代には「お巡りさん」は敵だった、という大中さんの言葉にも、はっとしました。「犬のおまわりさん」は、ただかわいい歌というわけではなく、厳格なイメージの警察官をユーモラスに表現した歌だということでした。そう言われると確かにそうなのかもしれないのですが、そのような社会背景があったことには、私は全く気づきませんでした。

スタジオには、元歌のお姉さんのつのだりょうこさんと、ピアニストで奈良教育大学教授の宮下俊也さんが来ていました。キャスターの寺澤敏行さんは、パネルで日本の子供の歌の歴史を紹介していたのですが、それによると、江戸時代までは「わらべうた」で、明治から大正、昭和初期時代は「唱歌」で、戦後の昭和20年代から30年代は「童謡」、昭和30年代以降は「テレビ主題歌」ということでした。宮下さんは、大中さんの「サッちゃん」を弾いて、大中さんの曲には芸術性の高さがあると話していました。童謡だけではなく、歌曲や合唱曲なども含めて、大中さんは今までに2400曲以上作っているそうです。

大中さんは、2011年の3月11日の東日本大震災の半年後、被災した福島県の鏡石町の第一小学校に「鏡石のこどもたち」という曲(作詞は山岸千代栄さん)を贈ったそうです。前向きな言葉の並ぶ歌詞に、先生たちは子供たちの負担になるのではないかと少し心配していたそうなのですが、子供たちは歌を気に入って、今でも大切に歌っているそうです。今月の10日には、大中さんを招待して、歌を披露したのだそうです。

『からすのパンやさん』や『にんじんばたけのパピプペポ』や『おたまじゃくしの101ちゃん』を作った、90歳の絵本作家の加古里子(かこさとし)さんと大中さんは古い友人だそうです。

加古さんは、昭和20年までの私は本当は死んでいるはずなんです、その当時の大人の人は信用無い、だから子供に未来を担ってもらうために応援しようと作品を作っているという話をしていました。

私は未読なのですが、『パピプペポーおんがくかい』というかこさとしさんの絵本が2年前に出版されて、その絵本では、最後に地球の生き物たちが大合唱をするのだそうです。大中さんは、その歌の言葉に曲を付けたいと考えていました。

大中さんを自宅に迎えていた加古さんは、今の時代だからこそ子供たちに歌ってほしい、「社会的生物」と言われている人間なのに戦争だとか紛争だとか至るところで起きている、こんなことでは社会性もへったくれもない、僕の時代ではとてもダメだけれどあとは頑張ってほしいというのが願いです、と話していました。

加古さんを訪ねた3日後、大中さんは、ピアノで作曲を始めていました。子供たちの平和を大切にする気持ちを育みたいと、作曲された曲は、番組の収録の日の朝?に完成したということでした。

宮下さんのピアノの伴奏に合わせて、つのださんが歌っていました。「うみにうまれ いのちをつなぎ だいちにすんで いのちをわけた このほしにすむきょうだいたちよ ともよ なかまよ こころをむすぼ うみとだいちのこのほしとともに」というような歌詞の歌でした。

歌うことによって感性や感受性が豊かな子が育っていくのではないかと、宮下さんが最後に話していました。平和な時代だからこそを歌を自由に歌うことができるということが、私にもよく伝わってくる特集でした。

私も、特に小学生の頃は、好きな歌を大きな声で歌うのが好きでしたし、好きな絵本を読むのも好きだったので、今回の番組で紹介されていたような、90歳代の大中恩さんやかこさとしさんによる子供たちへ平和のメッセージを伝える取り組みを、とても有り難いものであるように思いました。戦争時代を知っている方が、「今の時代」だからこそという思いで子供たちへ向けて平和を大切にしてほしいというメッセージを伝えている感じが、感動的でもあり、もう少ししたら今より平和ではなくなっていくかもしれない、時代が逆戻りしたようになってしまうかもしれないという不安感が伝わってくるようでもありました。

でも、ともかく、とても良い特集でした。平和を大切に、という以前にはよく言われていた短い言葉が最近は少し軽んじられているように思えるというか、その言葉の中に込められているメッセージが最近は重要な理想としては考えられなくなってきているのかもしれませんが、平和がなくなった時に初めて真に迫って感じられるのだとしたならその時にはもう遅いのだと思うので、これからも、単純にでも、平和の大切さや、平和の大切さを訴える人の活動が、このような主要なメディアで紹介されていくといいなと思いました。

「真田丸」第38回

NHKの大河ドラマ「真田丸」の第38回「昌幸」を見ました。

第38回は、慶長6年(1601年)の正月から慶長16年(1611年)6月の物語でした。真田昌幸(草刈正雄さん)や真田信繁(堺雅人さん)たちは、紀州の藩主の浅野家の援助のもと、九度山の村での生活を始めていました。上田城の真田信之(大泉洋さん)は、昌幸や信繁の幽閉を解こうと、本多正信(近藤正臣さん)の協力を得て徳川家康(内野聖陽さん)に何度も手紙を送るのですが、家康は昌幸を解放しようとはしませんでした。

慶長8年(1603年)、家康は征夷大将軍に任命されたのですが、慶長10年(1605年)にはその地位を嫡男の徳川秀忠(星野源さん)に譲り、みんなからは「大御所様」と呼ばれて実権を握り続けていました。

その間、九度山村の信繁には、妻の春(松岡茉優さん)との間に娘と息子が生まれていました。上田の信之は、妻の稲(吉田羊さん)から、真田家のためにも、昌幸と信繁の赦免の申し出を家康に続けるのを辞めるようにと言われていました。稲の父親の本多忠勝(藤岡弘、さん)は、庭で百助と仙太郎に竹とんぼを作っていたのですが、その時に指を切ってしまった自分に老いを感じていて、次の戦に参加することなく、慶長15年(1610年)の秋に亡くなったようでした。

そして、慶長16年(1611年)、伏見城の家康は、大坂城の豊臣秀頼(中川大志さん)を上洛させ、自分の権力を民に示すために二条城で会見しました。秀頼の御供として、加藤清正(新井浩文さん)が一緒に来ていたのですが、成長した秀頼と会い、秀頼に豊臣家の威光を感じた家康と本多正信は、秀頼の力を弱めるための策を考え、伊賀の忍びの二代目服部半蔵(浜谷健司さん)を使うことにしました。お城の廊下で半蔵とすれ違った加藤清正は、首の辺りに違和感を感じていて、帰国する船内で発病してから2か月後に亡くなったということでした。半蔵が毒の針を刺したようでした。

九度山村の昌幸は、10年間の幽閉生活に疲れ切っていました。気力を失くし、それでも孫に、卑怯な手法でも勝つための敵との戦い方を伝えようとしていたある日、庭で倒れてしまいました。病床で昌幸は、自身の兵法をまとめた書類を信繁に託し、軍勢を一つの塊と思うな、一人一人が生きている、一人一人に思いがある、そのことをゆめゆめ忘れるでないぞ、と信繁に遺言を残し、信濃に帰りたかったと呟いていました。すると、昌幸に馬の蹄の音が聴こえ始め、はっとした昌幸は、御屋形様!と仰いで、息を引き取っていました。

作(脚本)は三谷幸喜さん、演出は木村隆文さんでした。

武田信玄や勝頼の家臣だった、草刈正雄さんの演じる昌幸が、最期まで武田家の家臣であることを貫いていた終わり方もとても良かったです。「一人の戦国武将が、死んだ」という最後の有働由美子アナウンサーの語りも良かったです。

今回は、一気に10年の月日が流れていたので、主な登場人物の多くが見た目にも年を取っていました。ドラマでは、元北条の家臣でその後は徳川の家臣にもなっていた板部岡江雪斎(山西惇さん)が信繁に会いに来て、信繁が何かを起こす時には協力をすると申し出ていたのですが、史実によると、慶長14年(1609年)に亡くなったということでした。

信繁と親しくするきり(長澤まさみさん)と信繁の正室の嫉妬深い?春さんのやり取りも面白かったですし、きりさんを好きな佐助(藤井隆さん)がすぐに家を作ったり、きりさんに突然渡したきりさんと自分の絵が上手く描けていたりするのを、「透破(すっぱ)ですから」とまとめている感じも面白かったです。

「真田丸紀行」では、九度山村に蟄居となった真田昌幸と信繁の親子が頼っていたという、高野山の蓮華定院というお寺が紹介されていました。六文銭の提灯が下がっていました。そして、その奥に続く、高野山の金剛峰寺の奥之院には、武田信玄と勝頼の親子の供養塔が紹介されていました。いつ建立されたものであるのかは私には分からないのですが、昌幸と信繁の供養の思いもそこには入っているのかもしれません。有名な場所ですが、私はまだ訪れたことがないので、いつか機会があったなら、私も参拝をしに行ってみたく思いました。
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