映画「月光の夏」

先日のBS11で放送されていた「月光の夏」という映画を見ました。

私はこの映画のことを知らなかったのですが、番組表で見て何となく気になり、録画をしておくことにしたのです。

1992年の映画(公開は1993年だそうです)で、原作は毛利恒之さんの小説『月光の夏』だそうです。

映画は、主に佐賀県の鳥栖小学校を舞台にしていました。その小学校の体育館(講堂でしょうか)の隅には埃まみれになった古いグランドピアノが置かれていたのですが、小学校の音楽会に来ていた、その学校の元音楽教師の吉岡公子(渡辺美佐子さん)は、捨てるならこのピアノをくれませんかと校長先生たちに話し、グランドピアノに戦時中の思い出のあることを知った校長先生たちは、その話をぜひ全校生徒たちに話してほしいと吉岡さんに頼み、引き受けた吉岡さんは体育館での朝会で、正座をして聞く生徒たちに、ピアノの思い出を語り始めるのでした。

そのグランドピアノは、戦前に地域の保護者の人たちが子供たちのために少しずつお金を出し合って購入した大切なピアノで、鳥栖国民学校の音楽教師だった当時の吉岡公子(若村真由美さん)は、昭和20年の5月の頃には、アメリカの飛行機による銃撃の中、ピアノに鍵をかけたり布団を掛けたりして守っていました。

そのような6月のある日、小学校にピアノがあるという噂を聞いて二人の特攻隊員が訪ねてきました。鳥栖の目達原(めたばる)という基地から線路を歩いて来たと話していました。上野の音楽学校の学生だったという一人の隊員が、吉岡さんの渡した今学校にある唯一の楽譜をピアノに置き、今生の思い出にと、ベートーヴェンのピアノソナタ「月光」を弾き始めるのでした。もう一人の隊員は、その人のために楽譜のページをめくっていました。

講堂の外では、児童たちが行進の練習をしていたのですが、ピアノの音を聞いた校長先生は行進を止め、児童たちを集めて、特攻隊員の演奏するピアノの音楽を聴かせていました。

演奏が終わると、感動した校長先生と児童たちは特攻隊員たちに拍手を送り、「海行かば(うみゆかば)」を歌うことにしていました。特攻隊員たちはまだピアノを弾いていたかったようなのですが、時間がない様子でした。演奏に涙を流していた吉岡先生は校長先生に頼まれた伴奏を少しためらっていて、すると楽譜のページをめくっていた隊員が特攻隊の鎮魂歌だから自分が伴奏しますと言い、その人の伴奏に合わせて、先生や児童たちは「海行かば」という歌を歌っていました。

涙を拭きながら特攻隊員たちのそばを離れていた吉岡先生は、職員室の机の上に飾られていたユリの花を包み、すばらしい演奏をありがとうございます、父が庭で育てたユリですと、二人に手渡していました。吉岡先生は、兄をフィリピンの戦闘で亡くしたようでした。伴奏をした隊員は、音楽の先生になりたかったのだと言いながら吉岡さんの花束を受け取り、二人で敬礼をして、そして子供たちには、良か子になれよ、と声をかけて、さようなら、と小学校のみんなに元気に何度も手を振って帰っていきました。

そして昭和20年の8月15日、日本は降伏しました。吉岡先生は二人のことを待っていたものの、小学校には戻って来なかったということでした。

現代の吉岡さんは、これで古いグランドピアノの話は終わりです、と朝会を終え、正座をして聞いていた生徒たちが挨拶をしていました。

会場の講堂には地元の放送局の記者たちも集まっていて、記者の一人の石田りえ(石野真子さん)は、戦争時代のことを調べている作家の三池安文(山本圭さん)に相談し、吉岡さんが名前を聞いていないと言うそのピアノを弾きに来た二人の特攻隊員が誰なのかを、調べることにしていました。

吉岡さんのグランドピアノの話は、地元のテレビのニュースや新聞でも取り上げられ、ある日、宮崎の都城にいたという元特攻隊員の結城忠男(内藤武敏さん)や九州日報の記者も小学校の吉岡さんのところへやって来て、特攻隊員の生存者名簿から、風間森介(仲代達矢さん)という福岡の元特攻隊員の人にたどり着くのですが、風間さんは記憶にないと言って、取材を拒否し続けていました。

吉岡さんは、三池さんと石田さんと一緒に、ユリの花束を持って鹿児島の知覧町の特攻平和会館を訪れていました。もしかしたらそこにあるかもしれない遺影を確認するためです。石灯籠の並ぶ道を進み、会館の中へ入ると、そこにはまだら模様の戦闘機が展示されていたのですが、吉岡さんが気にしていたのは、特攻隊員たちの遺品や、飛び立つ前に書き残していた母親への手紙でした。

そして、吉岡さんは、遺影の中に海野光彦(永野典勝さん)という特攻隊員を見つけるのでした。

憧れだった元特攻隊員のいとこを戦後に亡くした三池さんは、風間さんの特攻隊としての過去を探るため、大牟田に暮らす元特攻隊員の石倉金吾(田村高廣さん)に会いに行きました。石倉さんは、突撃のために知覧の基地から飛び立ったものの、エンジンの不調で引き返し、不時着をしたそうなのですが、そこにはそのような人が何人もいたということでした。

石倉さんたちは、軍の上層部の命令で福岡の振武寮というところに軟禁状態にされていたそうです。飛行機の燃料不足や故障などのために引き返して生き残った50人ほどの特攻隊員たちが表向きには戦死したことにされて、そこに隠されていたというのでした。そこに風間さんもいたと言う石倉さんは、特攻の生き残りは少なからず死んだ仲間に負い目を感じている、と三池さんに話していました。

風間さんは、振武寮のことを知りたいと率直に切り出した三池さんの取材を、それでも拒否していたのですが、海野さんのことを知った吉岡さんからのお詫びの手紙を読むと、しばらくして自ら三池さんに連絡を取り、取材を受けることにしていました。

当時のことは思い出したくないことばかりなので、ピアノのことを聞かれた時につい憶えていないと言ってしまったという風間さんによると、もともと無口なのがますます口数を減らしていたという海野さんには、ピアニストになりたいという夢がありました。思い切りピアノを弾いてから死にたいと言っていたそうです。風間さんの家には、生前の海野さんが愛用していたピアノもありました。風間さんの奥さんは、海野さんの妹さんだったのです。

昭和20年の6月の夜、知覧の三角兵舎にいた当時の風間森介(田中実さん)と海野さんたちは、出撃前にお酒を振る舞われていました。兵舎の外へ出た海野さんに、風間さんは、死ぬときは一緒だと声をかけていました。そして、海野さんと風間さんは「さらば故郷、さらば故郷、故郷さらば」と歌い、兵舎から出てきた「空の学徒動員」の仲間たちも一緒に合唱していました。

そして夜明け前、飛行場にはプロペラを回す音が響いていました。22歳の久本啓之中尉、22歳の海野光彦少尉、17歳の木場周一伍長、22歳の風間森介少尉、18歳の進藤武志伍長、17歳の中島秋雄伍長の6機が次々と離陸し、薩摩富士と呼ばれる美しい三角形の開聞岳の前を飛んで行きました。

250キロ爆弾を積み、海面を這うように沖縄の西方へ飛んでいる時、東シナ海の半ばの辺りで風間さんは、自分の飛行機のエンジンがおかしくなり、黒煙を上げていることに気付いたそうです。海野さんが飛行機で近寄ってきて、風間さんに何かを大声で言いながら、帰れという合図を手で送っていました。久本中尉などの仲間たちも風間さんにそのような合図を送っていました。

風間さんは、出直すことにして、そのまま突撃に向かうみんなに敬礼をして、済まない、さようなら、と別れを告げて、開聞岳の方へ引き返していきました。知覧の基地へ戻った時に、仲間たちの突入の知らせが入ってきていたということでした。

それから風間さんは再出撃の命令を待っていたのですが、風間さんに下ったのは、福岡の第六航空軍司令部への出頭命令でした。

出頭すると、風間さんを待っていた矢ヶ島謹司少佐(高橋長英さん)は、引き返して生き残った理由を尋ね、命が惜しくなって戻ってきたのだろうとか、恥晒しだとか、貴様のような奴がいることは特攻隊全体の士気に関わるなどと風間さんに言い、目達原基地から発つ前日に遅れた理由がピアノだと知ると、それでも帝国軍人かと怒鳴って風間さんを殴っていました。そして、出撃させてくださいという風間さんの願いを一蹴し、本土決戦になれば全員が特攻になるのだからその日に備えて振武寮でしっかりと精神鍛錬をしてもらいたい、軍人直喩を毎日暗唱して身体に叩き込むのだと命じていました。

その振武寮の同室の一人が、結城さんでした。部屋の中には、特攻隊の仲間を供養する小さな仏壇のようなものがありました。そこには、指示をするだけの上層部で何も知らないくせに特攻隊の精神を侮辱している矢ヶ島少佐の自宅に飛行機で突っ込んでもらいたいと、無理とは知りながら再出撃の命が下った後輩に頼んでいる人もいたようでした。

作家の三池さんの取材に応じていた現代の風間さんは、戦場で人はあっけなく死んでいくが、いざ死のうと思ってもなかなか死ねないものです、と話していました。

そして、鳥栖へ行こうと思いますと三池さんに行っていた風間さんは、海野さんの妹である妻と一緒に、三池さんやラジオ局の人たちのの案内でピアノのある鳥栖小学校を訪れていました。途中、線路を見て、海野さんと目達原から歩いてきた時のことを思い出していました。

鳥栖小学校を訪れた風間さんが、ようこそ、と迎える吉岡さんに、海野は戦死しました、私は生き残りです、言うと、吉岡さんは、よう生きとってくださいました、と笑顔で再会の挨拶をしていました。そして、修復が終わった黒色のグランドピアノの前へ風間夫妻を案内した吉岡さんは、当時の楽譜を手渡していました。

風間さんの妻は兄の海野さんの写真をピアノの上に飾り、風間さんは第一楽章を弾きます、と会場の人たちに言って、ベートーヴェンの「月光」を弾き始めました。

その音楽の中で、映画はエンディングになりました。白い雲のある青空の背景だったのですが、その空の下を、飛行機に乗って飛び立っていた海野さんたち特攻隊員が撃たれて血塗れになりながら「突撃」していく様子が、とても悲しい終わり方でした。

映画の脚本も原作者の毛利恒之さんが担当していました。監督は神山征二郎さんでした。

実話を元にした創作作品ということが映画の初めに字幕で出ていたのですが、とても良い映画作品でした。

帰還した特攻隊員が「振武寮」という収容施設に送られていたことなども私は知らなかったのですが、1992年に作られた映画ということなので、私が知らなかっただけで、本当は有名な作品なのかもしれません。

演じていた俳優の方も良かったですし、映像も音楽も良かったです。

夏の季節の物語として、鳥栖の山笠というお祭りや、大牟田の大蛇山というお祭りなどの場面が自然な雰囲気で入っていたのも、良かったように思います。もしもこの作品がドラマだったなら、「ご当地ドラマ」とか「地域ドラマ」とか、そのように呼ばれる良質な作品ということだったのだろうと思います。

特攻隊員たちの話であるにも関わらず、戦闘機の描写が最後の飛び立つ場面に集約されていたというところも、私としては、とても良かったように思えたところでした。

近年の特攻隊の物語や特集では当時の日本軍の飛行機(零戦や紫電改などの戦闘機)の性能の良さやすごさが伝えられていることも多いように思うのですが、そのような特集を見ると、私は、この番組の制作者は本当に戦争を嫌なものだと思っているのだろうか、と思うことがあります。そのような特集を悪いと言うのではないのですが、何となく、違和感を感じることがあるのです。

でも、この「月光の夏」の映画には、そのような要素は全くありませんでした。敵に体当たりをする特攻隊として飛び立たなくてはいけなかった若い人の悲しさと、事情があって帰還し自分が生き残ったことに負い目を感じている元特攻隊員の人の苦しみと、無事に生きて再会することができたことの喜びが、静かに、丁寧に、誠実に描かれていました。

番組表を見ていて偶然知った映画だったのですが、私も今回見ることができて良かったです。とても良い映画でした。
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