「一番電車が走った」

NHKの総合テレビで放送されていた広島放送局制作の特別ドラマ「戦後70年 一番電車が走った」を見ました。夜の7時半からの放送時間に見ることができました。

昭和20年の8月6日に投下された原子爆弾によって被爆した広島の街には、そのわずか3日後から、路面電車が走ったのだそうです。

私は知らなかったのですが、その電車のことを、街の人々が復興への願いを込めて、「一番電車」と呼んだということでした。車掌として運転をしていたのは、広島電鉄家政女学校の1期生の雨田豊子(黒島結菜さん)でした。男性たちが戦地へ行ってしまったので、家政学校に通う10代の少女たちが運転手を務めていたのだそうです。

広島の郊外の農村出身の16歳の豊子さんは、昭和19年の夏にも路面電車の運転手の仕事をしていて、2期生の小西幸子(清水くるみさん)や西八重子(秋月成美さん)と女学校の寮で暮らしていました。

近くの川で洗濯をしながら遊んだり、幸子さんの親が持ってきた桃を3人で食べたり、電車でよく会う陸軍軍曹の森永勘太郎(中村蒼さん)を好きになったり、車掌の仕事をしながら少女らしい日々を過ごしていたのですが、昭和20年8月6日、いつものように市民を乗せて電車を走らせていた午前8時15分、突然の閃光に驚いた次の瞬間、すさまじい轟音の爆風に電車ごと吹き飛ばされ、気がついた時には、広島の街は破壊され、焦土の地獄となっていたのでした。豊子さんが被爆したのは、爆心地から約2kmの場所でした。

八重子さんと幸子さんも一命を取り留めていたのですが、幸子さんの背中は突き刺さったガラスの破片で血まみれになっていました。豊子さんと八重子さんは、痛くて歩けないと訴える幸子さんを支えながら、線路に沿って歩いていました。

軍需省勤めから転職して広島電鉄電気課の課長になった松浦明孝(阿部寛さん)は、母親のいない3人の子供の父親だったので、被爆直後、爆心地から約5.2kmの自宅に戻り、子供たちの無事を確認すると、長男に妹たちのことを頼んで、市内には絶対に入るなと伝えて、急いで街に戻っていきました。

地図を広げ、一部の線路が使えることを確認した松浦さんは、生きている人のために、広島の街を復活させるために、そこに電車を走らせる決意をしていました。

千田変電所の安永正一(新井浩文さん)は、焼け野原となった街の惨状を目の当たりにして、松浦さんに頼まれた復旧作業に向き合うことができないでいたのですが、自分の生きている意味を考え、“原子病”のために謎の赤い斑点が出るようになった腕で、電気系統を直す作業を始めていました。自宅に戻った松浦さんは、子供たちからきゅうりをもらって、作業を頑張る安永さんたちに食べてもらっていました。

広島電鉄の社員たちは、原爆で曲がったレールや切れた架線を直していました。電車の復旧作業に協力することにした女学校の教師の高村光二郎(モロ師岡さん)は、被爆して負傷している少女たちの中の軽症な者に声をかけ、路面電車の運転を再開するよう指示していました。

迎えに来た父親を説得し、運転手の仕事に戻った豊子さんは、長崎にも新型爆弾が投下されたという知らせを聞いた8月9日、路面電車に乗り込みました。6日の夜、娘を探して豊子さんや松浦さんに声をかけていた父親(宇野祥平さん)は、娘が見つかったと、潰れたその子のお弁当箱の蓋を開け、黒い塊を見せていました。父親は、豊子さんに感謝していました。豊子さんは、それぞれの思いを抱えた町の人たちを乗せて、「一番電車」を走らせていました。

負傷していた幸子さんは母親が連れ帰ったようでした。幸子さんの母親が置いていった桃を豊子さんに渡し、いつか一緒に食べたいと話していた、被爆後幸子さんの隣で寝込んでいた八重子さんは、8月15日の終戦後に亡くなってしまいました。豊子さんたちが学校の裏山に八重子さんの遺体を運んでいたのですが、葬る時、八重子さんの顔が明るい空を向くように台の上から転がしていました。

8月18日、変電所は復旧していました。それによって、主要路線の復旧も可能になったようでした。9月30日、高村先生は、廃校が決まった広島電鉄家政女学校の解散を生徒たちに告げていました。路面電車の運転手には、これまでの少女運転手に代わって、復員した男性社員が就くことになったということでした。

森永さんの戦死の知らせの貼り紙のあった場所に、豊子さんは、八重子さんを裏山で葬った旨の貼り紙をしていました。廃校を知ってやって来た松浦さんは、いつか広島のお祭りを見に来てほしいと、実家へ帰ることになった豊子さんに話していました。ありがとうございまいました、と松浦さんに言って別れた豊子さんは、友人たちとよく来ていた川に入り、冷たい水で髪や身体の汚れを洗い流していました。

脚本は岸善幸さんと岡下慶仁さん、演出は岸善幸さんでした。岸義幸さんは、NHKのBSプレミアムで放送されていた「開拓者たち」(満蒙開拓移民として満州へ渡った人々の物語)や、NHKの総合テレビで放送されていた「ラジオ」(宮城の女川さいがいFMに参加することになった女子高校生の物語)の方でもありました。

「開拓者たち」も良かったですし、「ラジオ」もとても良かったのですが、今回の特別ドラマ「一番電車が走った」も、とても良かったです。

ドラマの本編の後、「被爆70年」となった今年の、現在の87歳の豊子さんと85歳の幸子さんの姿が映されていました。広島電鉄家政女学校のOGの会に招待されたというお二人は、原爆の時のことなどをもっと話したかったようなのですが、なかなか話すことはできなかったようでした。番組によると、今はお二人とも孫やひ孫に囲まれて幸せに暮らしているのだそうです。良かったです。

「一番電車が走った」というテーマを少しも離れることなく、運転手を務めていた広島電鉄家政女学校の少女たちのささやかな日常の感覚が丁寧に描かれていて、アメリカの原爆によって破壊され尽くした広島の街と人々の日常を取り戻すための原爆投下の翌日からの「復興」への道のりも、そこに生きる人々の日常の延長であるという感じが、熱心でありながら静かに淡々と伝わってくるような作品だったように思います。

最後の、豊子さんが川に入る場面も、その清冽な水の感じがさわやかで、戦争が終わった、ということの何かすっきりとしたような、自由そうな感じが、とても美しく思えました。茨木のり子さんの「わたしが一番きれいだったとき」という詩を思い出す作品でもあったように思います。

広島の街も、長崎の街も、そこに暮らす人たちが被爆の影響の中で自らの手で街を復興させたということは、本当にすごいことだなと改めて思います。今、もしそのような事態になったなら、東日本大震災後の福島第一原子力発電所の近くの町がそうであるように、きっと街ごと封鎖されることになるのではないかと思います。

今日、九州電力の鹿児島の川内原子力発電所の1号機が再稼動させられてしまったということなのですが、報道によると、政府は九州電力の判断で再稼動すると決めたことを「見守る」という立場を取っているらしく、何か問題が起きた際に国は責任を取らないということにしているようで、本当に卑怯というか、嫌なことだなと思いますし、そのような政府の下での原発の再稼動をますます心配に思えます。

原発の再稼動は不安ですが、ともかく、昨夜の特別ドラマ「一番電車が走った」は、とても良かったです。「私の声を見つけられたら」という風に歌う歌も、ドラマに合っていて良かったと思うのですが、ドラマの中の音楽の使われ方も、静かで良かったです。6日の朝の原爆の投下の場面も静かで、それが返って、激しかった感じを伝えていたように思います。あっという間だったと言われている感じがよく出ていたように思えましたし、その原爆の場面がいわゆる「劇的」な感じに描かれていなかったところも、良かったのだと思います。原爆の被害そのものよりも、被爆した街の人々がどのように生き抜いたか、街の復興に尽力したか、というところが描かれていたのだと思います。良いドラマでした。
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Author:カンナ
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