「“書きかえられた”沖縄戦」(または昨夜の「情熱大陸」)

70年目の「終戦」の日、日本テレビの土曜ドラマ「ど根性ガエル」を見た後(フジテレビの「私たちに戦争を教えてください」という約4時間のドキュメンタリー番組などは録画をしておくことにしました)の夜11時から、私はNHKのEテレのETV特集の「“書きかえられた”沖縄戦~国家と戦死者・知られざる記録~」を見ることにしました。

一体何が書きかえられたのだろうと思って見始めたのですが、“書きかえられた”のは、70年前の沖縄戦で亡くなった沖縄の一般の住民の死に関する事実でした。

戦後、日本政府は軍人や軍属やその遺族を支援する「戦傷病者戦没者遺族等援護法」という法律を作ったのですが、そこには戦争で被害に遭った一般住民への補償は含まれていませんでした。

大本営の陸軍参謀の馬渕新治さんという方が、沖縄戦での日本軍の沖縄県民への加害行為の実態を知り、「これが『皇軍』の成れの果てか」と残念に思っていたというのも印象的だったのですが、そうして馬渕さんは、一般住民の戦争被害者も補償されるように働きかけたようでした。

そして作られた新しい法律では、日本軍に協力して亡くなった一般の人を、軍人や軍属に準ずる「戦斗参加者(戦闘参加者)」として、援護法の対象とすることになったそうです。しかし、一般住民がその援護の対象者となるためには、決められた20の項目のどれかに適合している必要がありました。

戦後に琉球政府がまとめた、援護法を申請する際の住民たちの死の情報が書かれた古い書類には、その死の理由の枠のほとんどに「壕の提供」と記されていたのですが、実際には、日本軍に壕を提供して亡くなったのではなかったのでした。

番組によると、「壕提供」と記されていた人たちは、壕や洞窟(ガマ)を日本軍に奪われて追い出されたり、日本軍に斬り殺されたり、食べ物を奪われたり、家族を殺させられたり、つまり、日本軍の「加害」によって亡くなったということでした。

日本軍による加害行為によって命を失った人たちの死の事実の記録が“書きかえられた”のは、援護法の支援によって、一般の戦争被害者や遺族が救われるためでした。琉球政府の役所の方は、日本軍の部隊名が不詳でも申請することのできた「壕提供」で、沖縄の被災者を救おうとしていました。当時の厚生労働省も、本当は「壕提供」ではないかもしれないと思いながらも、暗黙の了解で申請を通し、補償の対象としたということでした。

それによって(番組では沖縄の戦死者の補償対象者の表が出ていたのですが)、「軍人・軍属」と「一般住民」に分けられていたのは、「軍人・軍属」と「戦闘被害者(軍の協力者)」と「一般住民」と分けられていました。一般住民の中から「戦闘参加者」が補償されるようになったとしても、それでもなお、その他の被害に遭った一般住民は、70年経った今も政府に補償されないままだということでした。

住民の中には、日本軍を嫌って、あえて援護されることを拒否した方々もいるそうです。援護金をもらったことで、戦争の真実を言い出せなくなってしまったという方々もいるそうです。番組に出演して証言をしてくださっていた、当時の琉球政府の役人だった方や、家族を殺されて孤児として育ち、「日本軍の協力者」という嘘の記録を後世に残されることを拒否して、今も裁判を続けている一般の被害者の団体に名を連ねているという方たちの気持ちは、とても複雑のようでした。

TBSの「報道特集」の「千の証言 終戦の日スペシャル」では、日本軍の空襲に遭った中国の重慶の被害者の方々と、東京大空襲の被害者の方々との交流が伝えられていたのですが、その一般の方たちも、何の補償もされていないということでした。酷いです。

立命館大学の教授の方は、先の戦争に対する日本政府の向き合い方に問題があるのではないか、日本政府が先の大戦を「正しい戦争」ではなく「誤った戦争」だと考えるなら、軍人や軍属を優先せず、一人一人の保証金の額が少なくなったとしても、平等に補償すべきだったと話していて、それは今現在の問題でもあるのかもしれないのですが、それを聞いて、本当にそうだなと思いました。

連合国軍による加害の事実を伝えることも重要だと思いますが、日本軍による加害の事実を伝えることも、日本の未来にとって重要なことだと思います。当時の加害行為の実態を冷静に客観的に分析して公に伝えることは、決して「自虐史観」?と呼ばれるようなものではないと思います。

それに、アメリカの人の一部が広島や長崎に原爆を落としたのは正しかったと答えているのを聞くと、当時の戦争を直接体験していない私も不快な気持ちになってしまうのですが、日本軍によって「加害行為」をされた人も、日本人の中に当時の加害行為を認めない感じの答えを聞くと、不快な気持ちになってしまうのではないかなと思います。

戦争の残酷な事実や、戦争は人間にとってとても悲惨なことだという良心が伝わらないと、戦争を美化する方向へ、というか、武器の性能を賛美したり、戦争を始めた人たちを国を護るために頑張った人物のようにだけ考えたり、軍需産業によって経済が良くなるという風に考えたりする人が増えてしまう、ということになってしまうのではないかと、怖く思います。

先日の14日の「みんなのニュース」の特別版の戦争の話の中で、脳科学者の方が「人間は戦争をする生き物です」と話していました。「いじめ」や「ヘイトスピーチ」も「戦争」も、私にはとても嫌なものに思えるのですが、人間の社会ではこれからもずっと無くならないものなのでしょうか。

今の与党の政治家の方の言う「未来志向」の「積極的平和主義」のキャッチフレーズの雰囲気が、私には何か不穏なものであるように感じられてしまうのですが、政治家の方には、やはり「国」ではなく、自衛隊の方も含めた一人一人の「国民」の命を守るようにしてもらいたいなと思います。国というのは、政治家のものではなく、国民の存在があってのものだと思いますし、日本の国民の命を守るためには、為政者の方たちが、他国民の命を奪わないことも、他国民の命を奪う組織に加担しないことも、大切なことなのではないかと思うのです。

もちろん、今の政府が「戦争」を始めるとは言っていないと思いますし、「グレーゾーン」と呼ばれている地域を通る不審な戦闘機や怪しい船から日本を守ることは重要だと思うのですが、仮にもしも今の「安全保障関連法案」が通り、法律上では外国の戦闘に参加できるということにされてしまうということは、為政者の決めた政治の方針に常に巻き込まれているとも言える、ごく小さな存在の一民間人の私には、単純に、とても怖くて、不気味で、嫌なことに思えるのです。

昨夜のTBSの「情熱大陸」は、83歳の詩人の谷川俊太郎さんの特集でした。谷川さんも、今の時代を生きていて、戦争はなくならないのかもしれない、戦争はなくならないという方向で考えていかなければいけないのかもしれない、と思うようになったという趣旨のことを話していました。番組で谷川さんが朗読していた「日本と私」という新しい詩では、日本を好きかと聞かれると少し返答に困る、日本語を母国語とする日本人として日本の中に好きなところはたくさんあるけれど、霞ヶ関に漂う政治的な意味での日本の今の空気はあまり好きになれない、これからの日本がどうなるかと考えることはあるが、自分にどうすることができるかと考えると力不足を痛感する、というようなことが言われていたように思います。詩を聞いていて、私もそうだなと思いました。

70年前の戦争の話を聞く時、一民間人の私は、民間人の立場で考えることが多いです。そのため、当時は、「エリート」などという言葉で呼ばれる軍の上層部、陸軍の暴走を止めることができなかった海軍や内閣といった為政者が最初に戦争を始めていましたが、もしも万が一これからまた「戦前」が始まることになったとしても、同じように為政者が「戦争」に近づき始め、次第にその他の国民を巻き込んでいき、そして国民の中にも戦に賛成する者と反対する者が現れて、反対する国民の中の弱い者が真っ先に不幸になるのではないかと思えてしまいます。

「安全保障関連法案」の国会での審議はまだ続いていますが、まとめられた10本の法案を別々にして最初から丁寧に審議をし直すということを、与党はもうしないのかもしれません。無力の私には何もできないかもしれないけれど、それでも、「戦後70年」以降のこれからの世界が、70年以前の全体主義、軍国主義のような世界にはならないといいなと思います。
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