諏訪大社の御柱祭と縄文文化

NHKの「NHKスペシャル」で先日放送され、録画をしておいた「古代史ミステリー 『御柱』~最後の“縄文王国”の謎~」を見ました。

御柱祭(式年造営御柱大祭)は、満6年に一度行われる長野の諏訪大社のお祭りです。諏訪大社は、諏訪湖の南側の上社本宮と上社前宮、北側の下社春宮と下社秋宮からなる神社だそうで、私は諏訪大社へお参りに行ったことも御柱祭を見たこともなく、今年のお祭りもテレビのニュースや中継で見たくらいなのですが、長さは約18メートルで重さは約1トンあるという樹齢200年近くのモミの大木を山から下ろして里の神様にして、社を取り囲んで聖域を作る(結界を張る)ための四つの巨木の柱を7年ごとに新しくするというこのお祭りは、縄文時代から氏子の方たちによって守り伝えられて続いているそうで、日本国内にも外国にも他に例のない、謎に満ちたお祭りなのだそうです。御柱を引くための綱も、昔から生活の中にあったという藤の木の丈夫な蔓を氏子の方たちが編んで作っていました。

番組では、現代の御柱祭とはどのようなものかを紹介しながら、縄文時代から諏訪地方に残る「御柱」の信仰とは何か、縄文文化とはどのような文化だったのか、諏訪地方はどのような土地だったのか、古くからの神様が諏訪地方でどのように守られ、新しい時代の外来の神様とどのように融合していったのか、ということが伝えられていたように思います。

縄文時代は、1万5千年ほど前から、1万年以上続いたと言われていて、詳しいことはまだよく分かっていないそうですが、人々は動物を狩ったり木の実を採ったりという狩猟採集の生活を送っていて、全ての恵みを与えてくれる森にはあらゆる神々が宿っていると考えていたそうです。そのため、御柱に使われるような巨木は、森の象徴であり、あらゆる神々の象徴なのだそうです。番組によると、八ヶ岳山麓の諏訪地方はとりわけ自然が豊かだったと考えられていて、諏訪湖の大きさは今の2倍近くあったそうで、900近くの集落の遺跡が密集するという地域は他に例がないのだそうです。

「森と水の楽園」だった諏訪地方では、黒曜石(黒色や灰色のガラス質の火山岩)もたくさん採れたそうです。下諏訪の星ヶ塔遺跡からは約1トンの黒曜石が採掘されたと考えられていて、諏訪はその黒曜石を各地に輸出し、各地の産物を得て豊かな暮らしを送っていたのではないかということでした。

それでも、「縄文文化」は守られていました。国立歴史民族博物館の調査によると、「水田稲作」は紀元前10世紀後半に九州の北部地方から約400年かけて東へ広がり、紀元前6世紀から5世紀に中部で一旦止まり、今の諏訪の手前から関東地方一帯の辺りを迂回して東北へ広がり、それから南下してきたのだそうで、紀元前6世紀や5世紀の諏訪地方や関東地方は、西から広まってきた水田稲作を、自分たちの文化を守るために自主的に判断して拒んでいたということが分かったのだそうです。

番組では、石川県の能登の真脇遺跡の環状木柱列も紹介されていたのですが、巨木の柱を立てるということは、一人で行うことではなくみんなで行うことで、昔のこの能登の地域の人々が富山湾のイルカを捕まえていた時のように、近隣の複数の集落の人々が集まってみんなで何かをするという、結束力を強めたり絆を深めたりするための「祭り」だったのではないかということでした。

諏訪の御柱祭に参加していた守矢早苗さんは守矢家の78代目の当主の方で、守矢家は、神長官という役目を明治の初め頃まで千年近く務めていた家なのだそうです。茅野市のお屋敷の敷地内にあるお社に、全ての人が安全に平和に暮らせるようにとお祈りをしているのだそうです。お社には鹿の頭骨や栗などの「山の幸」がお供えされていたのですが、祭られているのは「御左口神(ミシャグジ)」という巨木や石に宿る土地の精霊だそうです。

長野には御左口神を祭るお社が諏訪を中心に700ほどあるのだそうです。その土地の神様を祭る総本山が守矢家のお社の「御頭御左口神総社」でした。守矢家はその神様を人間の世界へ降ろすことのできる家なのだそうです。神社には、山からの風が吹いていました。番組では特に言われていなかったように思うのですが、諏訪湖の南にある守屋山は諏訪大社の御神体の山なのだそうです。

なぜ諏訪地域にだけ御柱祭(巨木のお祭り)が守り継がれたのか、ということについて、『古事記』の物語の一部が紹介が紹介されていました。紀元前3世紀頃、「弥生」の波は「縄文」の文化を守っていた関東地方にも押し寄せ、ついに諏訪でもお米作りが始まったそうなのですが、その農耕文化の到達は、ある外来の神様の到来に重ねることができるのだそうです。

その神様は、建御名方命(タケミナカタノミコト)でした。建御名方命は、鷹や鹿を殺して農地を広げたそうなのですが、「古事記」によると、建御名方命は大国主を父に持つ出雲出身の神様で、天照大御神の使者の建御雷神(タケミカヅチ)が国を譲るよう迫った時、建御名方命はそれを拒んだそうです。それで建御名方命と建御雷神は力比べをすることになったそうなのですが、建御雷神の腕が氷や剣の刃に変わり、恐れをなした建御名方命は出雲を逃げ去ったのだそうです。そして、遠い諏訪の地へたどり着き、農耕を広め、諏訪明神となったのだそうです。

考古学者の岡村道雄さんは、『古事記』の神話について、縄文から弥生への権力者交代の歴史を語るものだということを話していました。一万年の縄文の安定した暮らしがあり、その上に米作りを持ってきた人は、新しい権力者だということでした。

諏訪の地域に巨木を祭る縄文の文化が生き残ったのは、建御名方命に立ち向かった洩矢神(モレヤ、モリヤ)がいたからでした。洩矢神は、当時の諏訪地方を治めていた神様で、狩猟に長け大地の精霊の声を聞くことができるという縄文人を思わせる神様なのだそうです。その洩矢神を祖先に持つとされているのが、78代当主の守矢早苗さんが守っている守矢家でした。

洩矢神は建御名方命との戦いに敗れたそうなのですが、建御名方命は、洩矢神を滅ぼさず、自身の家来としたそうです。そうして守矢家が諏訪大社の神事を司ることになったということでした。

室町時代の「年内神事次第旧記」という書物が番組で紹介されていたのですが、それによると、守矢家が祭り続けてきた神様は諏訪の守り神の御左口神(ミシャグジは、蛇の姿をした神様でもあるそうです)で、その書物には、12月の晦日にミシャグジの前で世の中の平和を祈ったとか、元旦にミシャグジの前で春祭りの当番を決めたとか、そのようなことが記されているそうです。世の太平を願う諏訪の大地の精霊と、縄文文化と弥生文化を融和させた神々が、諏訪の巨木のお祭りに受け継がれ、縄文の祭りや生活文化をしっかり残しながら新しい水田の神と共存しながら今に至るのだということでした。

タケミナカタをモレヤの神が祭っているのは、縄文文化と弥生文化の融和の象徴ということなのだそうです。御柱祭の終盤には、上社本宮の舟の形の御神輿の諏訪明神が御柱(山の神)を迎えるのだそうで、それは諏訪地方の歴史を伝えているのかもしれないということでした。番組では、御柱祭の御幣持ちを務めた北澤さんという方を取材していたのですが、務めを終えて御柱を降りた北澤さんの晴れ晴れとした嬉しそうな様子も印象的でした。諏訪の御柱祭が、諏訪地域の方にとってとても大切なものなのだということが、お祭りのことをほとんど知らない私にもよく伝わってきたように思いました。

山の神の象徴である巨木の御柱は、御柱祭を通して、里の神となるのだそうです。長野の諏訪地域の各地の神社でも、それぞれ古い御柱を新しい御柱に替えるのだそうです。下社にあるという森には、小さいモミの木が育てられていたのですが、巨木になるにはまた200年近くの長い時間が必要なのだそうです。

御柱は日本という国が生まれる以前の祈りの世界を今に伝えている、と番組の最後のナレーションで言われていたのですが、本当にそうだなと思いました。

時間のことだけを考えると、ミシャグジやモレヤという神様は、気の遠くなるような大昔の、古代の世界の神様のようにも思えるのですが、実際には人々の感じる時間を超越して、今の世界にもちゃんと存在しているのだろうと思いました。神様がいるから人がその存在を知ることができるのか、人が記憶しているから神様が存在し続けているのか、そのような部分は私には分からないことですが、少なくとも、御柱のお祭りに参加をしているその地域の方々は、ミシャグジやモレヤという土着の神様や新しくやって来て土地に馴染んでいったタケミナカタという神様の存在をいつも身近に感じることができているのかもしれないなと思いました。

「御左口神」のミシャグジやミシャグチ、「洩矢神」のモレヤやモリヤという名前も、東北の蝦夷(エミシ)のアテルイのように、古代の歴史の世界を思わせる名前であるように思いました。1万5千年以上前に1万年ほど続いていたという縄文時代のことは、いつかもっと詳しいことが分かったなら、その中の区分もまた細分化されていくのだろうと思いますが、詳しいことが分からないままでありながら、もしかしたら何かとても豊かな時代だったのかもしれないという風に、勝手に思えています。昔の日本史の授業で習った時には、縄文時代から現代の時代の中では、縄文時代が一番平和な時代であるように思えていました。狩猟採集の縄文文化の時代には人々は分け与えて生活をしていたけれど、農耕文化の弥生時代になると、食料を蓄えるということができるようになったために、貧富の差や階級が生まれていったのだというようなことを聞いていたからです。

でも、縄文時代に生きていた人のことを縄文人と呼ぶような場合、縄文人とは一体誰のことなのでしょうか。北海道地方のアイヌの人々や沖縄地方の琉球の人々は外来の人々によって本土を追われた元々の縄文人だったとも言われていますが、その後に本土に残っていた元外来の人々も縄文時代を生きていたなら縄文人に含まれるのでしょうか。今では縄文人系も弥生人系も関係なく、日本で生まれた人はごく普通に等しく「日本人系」になると思うのですが、諏訪地方(番組で使われていた地図では諏訪を含む関東地方)で縄文文化を最後まで守りながら暮らしていた人々は、アイヌや琉球の人々と同じ縄文人なのでしょうか。それとも、別の縄文人なのでしょうか。あるいは、そもそも、「縄文人」とか「弥生人」という人種のような言い方が正しくないのかもしれません。

縄文時代はとても長いのですし、初期の頃にはその前の旧石器時代を生きていた人もいたはずです。旧石器時代を含めると、約12万年前も「日本人(この島に暮らしていた人々)」の歴史を遡ることができるようですし(映画「ドラえもん のび太の日本誕生」の舞台は7万年前です。実際の島根の出雲の砂原遺跡の石器は約11万年から約12万年のもので、国内最古なのだそうです)、そこまで考えていくと、あまりの遠さに何が何だかよく分からなくなってきます。歴史や理科の授業でも習うことですが、今の人類はヒト属のホモ・サピエンスと呼ばれていて、その大元はアフリカの地域から世界各地に広がっていったと言われています。人類全体が親子や兄弟や親戚なのかもしれないということは、普段の日常の中ではあまり思わないことなのですが、元の人々がアフリカ大陸の一地域から出発したという長い時間のことを思うと、確かにそのように考えることもできるような気がしてきます。崩壊して人々を分裂させた「バベルの塔」はキリスト教やユダヤ教の旧約聖書に書かれているものですが、旧約聖書の物語が成立する以前、「紀元前」などという言葉さえ生まれないような大昔の人々の暮らしの中に神様がいたとしたなら、それは権力者やその化身ではなく、やはりその土地の精霊、石や木や大地や風や水や火などのあらゆる自然に宿る精霊のような、はっきりとした姿形のない神様だったのだろうと思います。

建御名方命と洩矢神の話とは違うかもしれませんが、戦国時代の武田信玄が諏訪を攻めた後に諏訪氏を完全には滅ぼさなかったということを少し思い出しました。日本に入ってきたキリスト教のマリア像が一部では仏教の観音像と同一にされていたということも、もしかしたら融和の策なのかもしれないのですが、どちらかを滅ぼすのではなく、融和や融合をしていくということは、何か変化をしなければいけないという中では、大切なことなのかもしれないと思いました。

番組の中で、『古事記』の建御名方命と諏訪の洩矢神の物語を伝える場面は、絵巻物風の白い背景の静かな絵の短いアニメーションで描かれていたのです、何か少し感動的でした。縄文時代には階級がなく“王様”はいないということなので「縄文王国」というタイトルは少し違うような気もしたのですが、現代までつながる縄文時代(弥生時代以前)の古い信仰の形を風土記のように伝える良いドキュメンタリー番組だったように思います。諏訪は、4月の熊本地震にも関わっていた中央構造線と糸魚川・静岡構造線が交差する場所でもあるそうですし、地図で見ると日本列島のほぼ中心にあるように見えますし、そのことを考えても、「縄文」が最後まで残っていた(今でも残っているのかもしれませんが)というのが何となく分かるような気がしました。日本の古代の歴史において重要な土地の一つなのだろうと思いました。

古代史は、あまりにも大昔のことなので、古代の時代を生きていた人々はすでに亡くなっていますし、資料も少なく、何が本当のことなのか分からないように思えることも多いですが、話を聞いたり本を読んだりし始めると、そうかもしれないなとか、それは違うのではないかなとか、歴史に詳しくない私もいろいろ考えることができて楽しく思います。
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