「加藤周一 その青春と戦争」

昨夜、NHKの「ETV特集」の「加藤周一 その青春と戦争」を見ました。

加藤周一さんは、2008年の12月に89歳で亡くなった戦後日本を代表する評論家です。でも、私は加藤周一さんのことを、ほとんど知りませんでした。名前は知っていましたが、約200冊も出版されているというその著書を未読のままなのです。

番組では、銀色のお菓子の缶に収められているのが発見されたという、旧制第一高等学校時代から東京帝国大学医学部の頃の若き日の加藤周一さんが詩や評論など記した8冊の「青春ノート」の一部を紹介しながら、図書館に「加藤周一文庫」のある立命館大学の文学部の学生の方たちが、評論家の鷲巣力さんと共にそのノートの内容を読み解き、今の時代についての考えを伝えていました。そして、加藤周一さんの友人という詩人の山崎剛太郎さん、作家の池澤夏樹さんや大江健三郎さん、憲法学者の樋口陽一さんが、加藤周一さんの思想について話していました。

お菓子の四角い缶に入っていた「青春ノート」は、その色は褪せていたのですが、大学ノートのような普通のノートでした。日中戦争の始まった頃に書き始められ、「シンガポールの陥落」のあった1942年で終わっているそうです。

「孤独」という詩が紹介されていました。「世界がうるさくて 住んでいる世界がうるさくてたまらなくなった私は ひとりきりの所を求めて逃げた ところがもちろんそこにも世界はあった うるさくて私の逃げだしたような世界が そこで私はもとの世界へ戻って来た 疲れて棄ばちの気になりながら すると私は 私の求めていたのとはまるで違った孤独を 否応なしに見出した」というような詩でした。ノートの詩を読んだ山崎剛太郎さんは、とても良い詩だと感嘆していました。

当時の日本政府が「国民精神総動員運動」を始めた頃、医学部に進学した加藤さんは、社会の流れに違和感を感じていたそうです。その頃、加藤さんは、フランス文化に傾倒していたそうなのですが、ヨーロッパにはファシズムが台頭していることを知った加藤さんのノートには、「ヨーロッパには第二次世界大戦が勃発しかけている」、「戦争は理性をカイメツせしめるであろう」と書かれていて、フランスがドイツ軍に占領されたことを知った時のノートには、「1941年は巴里陥落の翌年として後代に記憶されるであろう」と書かれていました。

1940年の7月にパリが陥落し、その2か月後、日本政府は日独伊三国同盟を締結したそうです。『チボー家の人々』を翻訳していた加藤さんは、歴史は繰り返すの感を深くする、1940年はいかに1914年に似ていることか、と考えていたようでした。1914年は、サラエボ事件が起き、その後4年続いたという、第一次世界大戦の始まった年です。

戦争は嫌だということをはっきりと話していたという加藤さんは、戦争というのはその国の偉い人、大統領や首相などがお互いに憎み合って始めるけれど、その戦争に駆り出されるのは何も知らない人間で、憎み合わない者同士が戦争をさせられるのだということを話していたそうです。

95歳という加藤さんの妹の久子さんによると、加藤さんは、叔父の、ロンドン軍縮会議にも出席していた海軍の軍人の岩村清一さんという人と、戦争はダメだ、日本は負けるだろうというような、戦争反対の意見で話が合っていたそうです。加藤さんの反戦の思想には、その方の影響もあったのだろうということでした。

日本がハワイの真珠湾を攻撃した1941年の12月8日のノートには、ラジオの前に集まっている人々はそのニュースを落ち着いた静かさで聴いているということが書かれた後、「最も静かなものは空である。今日、冬の空は青く冷たく澄んでいる。水のように静かに」と書かれていました。

加藤さんの青春日記には、当時のジャーナリズムに対する批判も書かれていたそうです。同じことしか書かない、一つの方向に向かって流されていくジャーナリズムというものに、強い違和感を持っていたようでした。

1942年の2月18日の日記には、「シンガポールの陥落の祝賀会」を「全国一斉に」行うようにというお上からの命令があったということが書かれていました。その命令のために大学は授業を休みにしたそうです。銀座には旗(国旗)を持った、普段銀座にいないような人々で溢れていたそうです。加藤さんは、そこにいた「産業戦士」たちの間をぬってやっとの思いで本屋へ向かい、ラテン語の辞書を買ったそうです。「未来は頼もしき産業戦士に任して、私は心を安んじ、文化を古代史のなかに探そうとする」というようなことがノートに書かれていました。

学生の方は、加藤さんは古典の中へ逃避し、古典の中で何かを考えようとしてたのではないかと話していました。

私も、「歴史は繰り返す」ということなら、これから起こる未来のことも過去の書物に書かれているのかもしれないなと思います。

加藤さんは、当時若者たちに絶大な人気のあった、新感覚派の作家の横光利一にも注目していたそうです。この頃、多くの知識人は戦争を支持する言論を発信するようになっていたそうで、アジアの作家たちに日本の戦争理念を訴えるという「大東亜文学者大会」という会も開かれていたそうなのですが、そこに参加していた横光利一のような作家に、加藤さんは不信感を持つようになったということでした。

戦争に雪崩を打っていく知識人たちに向けられた加藤さんの批判的なまなざしは、「時局下に於ける学生」という懸賞論文に投稿する学生たちにも向けられていったそうです。「学生と時局」という与えられた課題に対して答えを出す練習ばかりしていて課題を自ら見つける力がない、マルキシズムの次にはヒューマニズム、ヒューマニズムの次にはファシズム、といった風に何でも構わずに受け入れて、自分自身で考えることなく納得していると批判していたそうです。

加藤さんのノートには、「東京を我々は失うかもしれない」と書かれていました。そして実際に、日本各地の都市も、東京も空襲によって灰燼に帰したのでした。「ほろびしものは美しきかな」という言葉も、書かれていました。

ノートは1942年で終わり、1943年に「学徒出陣」が始められた頃、加藤さんは、長野県の上田市に疎開していたそうです。加藤さんには、中西哲吉さんという、加藤さん以上に戦争反対の考えをはっきりと主張していた高校時代からの親友がいたそうです。古典文学に興味があって、自身でも小説や戯曲や詩や評論を書く人で、加藤さんは、自分よりも中西さんのほうが才能があると思っていたそうなのですが、中西さんはフィリピンで戦死してしまったそうです。晩年のインタビューの中で加藤さんは、どうして私じゃなくて彼なのか、と話していました。それを加藤さんはサバイバルコンプレックス、生き残りコンプレックスという後ろめたさだとも話していました。もしも中西さんが生きていたらしていたかもしれないことを、自分はできていないという風に思っていたようでした。ほとんど怒りに近い反戦的感情が煽られたそうです。

玉音放送の流れた2か月後、加藤さんは、原子爆弾の影響を調べる日米合同調査団に東大医学部の一員として参加したそうです。そのことは、加藤さんの著書『続・羊の歌』にも書かれているそうなのですが、広島で戦争の惨禍を目の当たりにして衝撃を受けたそうです。

そうして、加藤周一さんは、医師の仕事をしながら、評論を次々と発表していったそうなのですが、敗戦の直後に加藤さんが発表した最初の論文は、「天皇制を論ず」というものでした。その論文のタイトルには、「問題は天皇制であって天皇ではない」という副題が付けられていました。その論文を、立命館大学図書館の加藤周一文庫を開設した記念の講演で取り上げたという作家の大江健三郎さんは、天皇制は戦争の原理とされたものであったから一番根本的な問題だったのではないかという風に話していました。

加藤さんは、2008年に亡くなるまで、カナダや西ドイツやアメリカや中国の大学で教鞭をとり、『日本文学史序説』で日本人の思想・精神を明らかにし、政治や社会問題に対して積極的に発言を行ってきたそうです。

加藤さんの死の直前に書かれたメモには、私は戦争で二人の親友を失った、もし彼らが生きていたら決して日本が再び戦争への道を歩み出すのを黙って見てはいないだろう、南の海で死んだ私の親友は日本が再び戦争をしないことを願ったに違いない、「憲法九条」にはその願いが込められている、私は親友を裏切りたくない、と書かれていたそうです。

太平洋戦争で亡くなった日本人は約310万人と言われています。加藤さんと同じ世代の、当時のたくさんの若い人たちが命を落としました。再びこのような歴史を繰り返したくないという願いから、晩年の加藤さんは、「九条の会」を呼び掛けたのだそうです。

自国のことであればあるほど冷静に批判的に見なければならないというのが、加藤周一さんの時代批評の基本になっていたそうです。

加藤さんは、西洋にはまだなくて日本がこれから作り出すことのできるものとして、例えば戦後の「日本国憲法第九条」の思想を重要なものと考えていたようでした。

最後には、大事件はいつも前触れなしに突然平和な何事も予期していない社会を混乱の中に投げ込む、それまでは時は何時もながら静かに、戦争の前の日も空は美しく晴れ、子供たちのたわむれている上を流れ去る、というような、加藤周一さんの「青春ノート」の詩が引用されていました。ノートの文章の朗読は、西島秀俊さんでした。

高校生から大学生の頃に書かれたという加藤周一さんのノートの言葉が(番組で紹介されていたのはその一部ですが)、現代にもよく当てはまるということに驚きました。当時の加藤周一さんの分析が的確だったということもあると思うのですが、まさに「歴史は繰り返す」になってしまいそうな今の時代が、一種の「戦前」であるのかもしれないということを、改めて思いました。

昨夜の9時からの「NHKスペシャル」では「ある文民警察官の死 ~カンボジアPKO 23年目の告白~」という番組が放送されていて、それは、PKO(国際連合平和維持活動)への協力法が制定され、文民と自衛官がカンボジアへ海外派遣されることになった翌年の、1993年の5月4日に、タイの国境に近いカンボジア北西部のアンピルという場所で、「UNTAC(国際連合カンボジア暫定統治機構)」に文民警察隊として初めて参加していた日本人警察官の5人が、ポル・ポト派と思われる武装ゲリラ(ポル・ポト派側は認めていないようでした)に襲撃されて、岡山県警の警部補だった33歳の高田晴行さん(高の文字ははしご高です)が殺害され、4人が重軽傷を負ったという事件を伝えるものでした。

事件のあった場所の近くには、今は高田さんの遺族が建てたという学校があり、地元の子供たちが通っていて、黒板の脇には高田さんの写真が飾られていました。児童たちは、学校を建てた高田さんについて知っていると答え、カンボジアのために戦って死んだのだと話していました。

襲撃事件の現場は、2時間後にスウェーデンの部隊によって発見されたそうです。日本政府は、日本の警察官が襲撃された事件が起きた後も、事件の起きた場所が、PKO協力法の規定の通りの「停戦合意」された地域であるという主張を繰り返していたそうです。「ポル・ポト派」に自分たちを妨害しているのは日本政府だとして日本を名指しして攻撃対象とする通知があったことなども、危険な地域があると公表するとボランティアの人が来なくなるからというような考えもあって、政府は隠していたそうです。

自ら挙手したものの「断る」ことができなくなって派遣された警察官たちは、法律上は武器を携帯しない「丸腰」の状態だったそうです。35ドルで自動小銃を買って持っていたそうなのですが、それを使うことはなかったようでした。使っていたらもっと怖い事態になっていたようにも思うのですが、丸腰の警察官をポル・ポト派の人たちの活動する危険な地域に派遣することにした政府は、一体どのようなつもりでいたのだろうと、不思議に思いました。外国政府に急かされ、「世界」から非難されないようにするために、日本もとにかく「人的資源」を海外へ派遣した、というようなことだけだったのでしょうか。

今から23年前のこのカンボジアPKOの事件のことを、多くの日本人が忘れていると、番組では言われていました。私も、この事件のことを知らない一人でした。

太平洋戦争時の大本営の参謀本部の軍人たちもそうだったようなのですが、政治家や役人の方たちが実際の激戦地を見に行かないままにその地域での活動の計画を立てるということは、本当に危険なことだと思います。政府が紛争のある地域へ隊員を派遣するのに、武器の携帯を許可しなかったとか丸腰だったとか、そのようなことが良くないというよりも、そもそも派遣する文民の人の命を守ることを重視していなかったのだろうなと思えて、そのようなところを怖く思いました。

憲法違反とされる中、安全保障関連法を成立させ、集団的自衛権を行使して自衛隊の海外派遣を行うことをできるようにした安倍政権は、「積極的平和主義」を謳いながら、武装することを周辺国に対する「抑止力」だと主張しています。

でも、常に周辺国に不信感を持ち、周辺国の悪口を言い触らし、国民に周辺国への敵対心を植えつけたり煽ったりすることは、本当の「平和」には結びつかないような気がします。元総理大臣の浜口雄幸さんのように、自国が他国から脅かされないようにするために自国も他国を脅かさないようにするという平和外交の考え方が大切であるように思います。世界各国の人々、特に大統領や首相や書記長が、一度にそのように考えることができるようになるといいのかもしれません。

安倍政権の作った特定秘密保護法や安全保障関連法に反対し、平和を願って反戦を訴える人々に対して、最近よく「平和ボケ」とか「お花畑」というような言葉を、バカにするように使っているのを聞くことが多いように思うのですが、武器を使わないで済む本当に平和な世の中を望むことは、愚かなことではなく、バカにするようなことではないように思います。今すぐに非武装を実現することはできないのだとしても、戦争や紛争が起きることを望んでいないと言いながらその一方で武器の製造や輸出を奨励する人たちよりは、ずっとまともであるように思います。

「ある文民警察官の死」も、集団的自衛権の行使が容認された今の日本社会に再び訪れることになるのかもしれません。今の社会の空気が第二次世界大戦や太平洋戦争の前という意味の「戦前」の空気に似てきている、窮屈になってきているということは、2006年や2007年、2008年の辺りからも言われていたのですし、そうだとすると、2016年の今はすでに「戦前」の中にいるということなのかもしれません。

大手のテレビ局は、自粛しているのか、あるいは安倍政権の方針に賛同しているのか、戦後71年の戦争の特集番組をほとんど組んでいないように思います。NHKではドラマもドキュメンタリーもありますが、TBSやテレビ朝日やテレビ東京などではドキュメンタリーは少し放送されていても、ドラマはありません。地上波よりBSで放送されていることも多いです。日本テレビやフジテレビは、ほとんどリオデジャネイロオリンピックの報道です。オリンピック情報も大切ですが、戦後70年を「節目」とせず、戦後71年以降にも、特に若い人たちへ向けて戦争の惨禍を伝えていくことは、とても大切なことだと思います。昨年までに戦争の特集を見ていなくても、今年からは見ようと思ったという若い人たちもいると思うのです。

知りたいことは自分で調べるということが一番良いのかもしれませんが、テレビはやはりまだ一般的には今でもメディアの中で大きな位置を占めていると思うので、反戦の考えを持っているのなら、ジャーナリズム精神を忘れずに、政府の起こす戦争(「戦争」という言葉は使われなくなるかもしれませんが)へ向けた空気に加担するようになってはいけないということをちゃんと伝えてほしいように思います。

加藤周一さんが当時に批判していたように、政治家や役人や経済人だけではなく、知識人や文化人や一般の人たちの中に政府の始めた戦争を支持する人々がいるということも、怖いことに思えます。軍人や戦争好きの人たちは声が大きいので、戦争に反対する知識人や一般の人は、少しずつ居場所を失い、声を上げることができなくなってしまいます。今の世論調査の結果では、今の内閣を支持する人が国民の約半分ほどいるというようなことになっていますが、本当に「2人に1人」が今の政権を支持しているのでしょうか。私は、それは違うのではないかとも思っているのですが、戦争が始められた頃には、大本営の発表した日本軍の「勝利」のニュースに喜び、その戦争を支持する人が多かったとも聞くので(安倍内閣が今すぐ戦争のような事態を引き起こすということではないのだとしても)、何だか憂鬱な気持ちになります。

今の若手の評論家の方の中にも、加藤周一さんのような方はいるのでしょうか。加藤周一さんの著書を、私も読んでみたく思いました。
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