71年目の終戦の日

今日は、太平洋戦争が終わってから71年目の「終戦の日」です。

1945年の8月15日に天皇陛下の玉音放送が流れ、国民が4年続いた戦争の終わりと日本の敗戦を意識した日、ということのようです。

昨日のお昼の頃にテレビ朝日で放送され、録画をしておいた「ザ・スクープスペシャル 太平洋戦争最後のミッション 緑十字機 決死の飛行~誰も知らない“空白の7日間”~」を後で見たのですが、それは、玉音放送が流れた直後から、マッカーサー元帥率いるアメリカの進駐軍が厚木飛行場へ無事に降り立つまでの、降伏軍使と呼ばれる天皇陛下の勅使たちのミッションの遂行を伝える番組でした。

最後まで戦い抜くために本土決戦まで覚悟をしていた一部の軍人たちは、天皇陛下のお言葉を無視して、アメリカの指示で“平和の白い鳩”として機体全体を白色に塗られ、緑十字の印の描かれた一式陸上輸送機がマニラの経由地の伊江島の飛行場へ向けて飛び立つのを妨害しようとし、さらに、もしかしたら帰りの分の燃料を積まないように細工していたかもしれないということでした。お土産に日本の子供たちのためのお菓子を手渡されていた降伏軍使は、月夜を飛んでいたため、燃料の足りなくなった飛行機を静岡の鮫島海岸に不時着することができ、鮫島の集落の人たちの助けを借りながら、文書を持って無事に東京へ戻ることができ、日本は厚木飛行場へのGHQの「無血進駐」を行うことができたということでした。

その頃、ヤルタ会談で日本の降伏後に進駐することを表明していたというソ連軍が、満州や、北方四島に侵攻してきていたのですが、本土決戦を行うために厚木飛行場などで反乱を起こそうとしていた軍人たちは、日本の勅使たちを攻撃する前に、住民たちをソ連軍から守るために北海道へ向けて飛び立とうというような発想はなかったのでしょうか。

緑十字機に乗った勅使たちが無事に戻ったおかげで、アメリカのマッカーサーは安全な統治を進めるために天皇陛下のお立場を守ることを決め、ソ連の提案していた北海道の分断統治も退けたということでした。アメリカの進駐は予定より二日遅れたということでしたが、アメリカが先に日本に進駐をしていなかったなら、ソ連の侵攻を止めることはできなかったかもしれないのだそうです。

先日の池上彰さんの昭和天皇とマッカーサーについての特集番組では、厚木飛行場へ降り立つマッカーサーの映像の中に、アメリカ兵たちを笑顔で出迎える日本兵たちの姿が見える場面を紹介していましたが、日本側がそのようにアメリカ側を出迎えることができるようになるまでの約7日間か約10日間に、内戦にもなってしまいそうだった、そのような苦労があったのだなと思いました。

夜の9時からの「NHKスペシャル」では、「村人は満州へ送られた ~“国策”71年目の真実~」が放送されていました。

満蒙開拓移民や満蒙開拓団と呼ばれる満州への移民は、当時の日本政府が日本から「百万戸移住計画」という「国策」を打ち立てたことによって、満州を支配していた関東軍と、拓務省とが「王道楽土」や「五族協和」などをスローガンにしたキャンペーンを行って満州移民計画を推し進め、日本が敗戦に傾きかけた後半には、そこへさらに農林省が加わって、満州の地を農地として開拓する農村の人々を満州へ絶え間なく送るために「分村移民」という政策を編み出した、ということでした。

満州へ渡った約8万人の方が戦時中や戦後に亡くなったそうなのですが、番組によると、外国人が外国で8万人も亡くなるというのは歴史上例のないことなのだそうです。

長野県の河野村(飯田市)で当時村長を務めていたという胡桃澤健さんという方の家を訪れていたのですが、そのお父さまの、当時分村移民を受け入れることにし、各家に頼み込んで27戸95人の村人を満州へ送ったという胡桃澤盛村長は、終戦の翌年、帰ってこない村の人たちの行方を探すために東京へ行き、拓務省を引き継いだ外務省や、農林省を回って満州移民となった村人のことを尋ねたそうなのですが、分からないと言われてしまって見つけることができず、失意の中村へ戻り、満州から戻ってきた隣の村の人から満州の悲劇を聞き、村の人たちに移民になってもらうことを頼んだことに責任を感じて、昭和21年の7月に自宅で首を吊って亡くなったのだそうです。41歳だったそうです。欄間が壊れたまま残されていました。

久保田諫(いさむ)さんは、分村移民で満州の吉林省の長春という地へ渡り、戦後唯一人戻って来ることができたそうです。吉林省は中国の内陸にあり、ソ連に近い黒竜江省よりも肥沃な土地だったそうです。しかし、戦況があったすると、分村移民からも徴兵されて、村には老人と女性と子供ばかりが残されるようになってしまったそうです。

昭和20年の8月15日以降、ソ連の侵攻や、日本軍に土地を半強制的に奪われていた地元の人の襲撃によって多くの日本人が殺されたり傷つけられたりして、集団自決を選ばなくてはいけなくなった人たちもたくさんいて、久保田さんは母親たちに頼まれて、子供の首を絞めるのを手伝ったそうです。忘れようとしたけれど忘れることができなかったと話していました。

久保田さんは、しかし、親しくしていた中国人の方に助けられて、帰国することができたのだそうです。

飯田市の歴史を研究している方が、胡桃澤村長の死について、自殺をしたというよりは、生きていられなくなったのだろうと話していました。戦後村人と顔を合わせることもできなくなり、生きていることができなくなったという胡桃澤村長は、誠実で真面目な方だったのだろうと思います。移住した日本人がブロックで生活するようなことで地元の中国人と協和して暮らしていくことができるのだろうかと、もともと国策の満州への移民計画には懐疑的だったということなので、満州の移民政策の失敗と信じられないほどの不幸な悲惨な結末に、本当に後悔したのではないかと思います。

移民したいという人が増えないため、農家と直接的なつながりのある農林省は、各村に移民の数を割り当て半ば強制的に移民をさせるという「分村移民」というシステムを考え出したそうなのですが、その「国策」を進めるために、優秀な農村にお金を配ったりインフラ整備したりということを行ったのだそうです。農林省の役人たちの話を聞いた胡桃澤村長も、貧しい村を変えるために、「分村移民」の政策を受け入れることにし、各家を頼んで歩いて、27戸95人の村人に移民をしてもらったということでした。

国文学研究資料館の加藤聖文さんという方は、一度動き出した政策は止められず、見直されることがなかったと話していました。

今の原子力発電所なども、貧しい村にお金を配って、お金やインフラ整備と引き換えにその村に設置してもらっているようなところがあるようなので、当時も今も、政府は貧しい人々の足元を見ているというか、政治家や役人たちのすることは変わっていないのだなと残念に思いました。

中国残留孤児となった日本人が帰国するようになった1970年代の頃に、満州移民計画を進めていた役人たちが集まって当時の「思い出」を語った文書やインタビューの音声などが、最近になって見つかったのだそうですが、テープの中の元農林省の経済課の課長という人が、満州への移民計画について、農家にとってはいいことだったと思うし、今でもいいと思っている、と話していて、そのような人たちから反省や後悔の言葉は一つも聞かれなかったのだそうです。

そのインタビューの音声に本当に不快な気持ちになり、今からでもいいから(呪われてほしいと思ってはいけないかもしれませんが)、その人たちに責任を取ってほしく思えました。

今も政治家や役人の方たちの戦争の責任は問われていないように思いますし(“A級戦犯”を逃れたような人の中に本当の戦犯が隠されているような気もします)、当時の戦争の検証もなされていないように思えます(東日本大震災の時の福島第一原子力発電所の爆発事故の場合もそうですが、本当に政府は変わっていないのだなと思います)。

満州開拓移民で中国残留孤児となった方の問題も続いていますし、見つかっていなくて帰国できない遺骨もたくさんあるそうですし、戦後71年といっても戦争時代はまだ終わっていないのだということを改めて思いました。

久保田さんは、学校の生徒からどうして満州へ渡ったのかということを訊かれて、国のためだと答えていました。でも、満州移民の「国策」を半強制的に各農村へ押し付けた政府や各省庁の役人が、農民を利用して一方的に切り捨てたという事実は、変わらないような気がします。

満州の過酷な話を聞いていると、ソ連軍のことも本当に嫌に思うのですが、日本政府の行ったこともやはり「侵略」であるように思えます。例えばもしも中国が謎の「国策」によって日本人の土地を強制的か半強制的に奪い、百万戸の人々が中国大陸から日本各地へ移住させられるというようなことになった場合、日本人はそれを「侵略」と思うのではないでしょうか。実際に土地などを奪われたりして嫌な思いをしていた当時の人がいた以上、先の戦争はアジアを欧米列強から救うための戦争だった、日本の自衛のための戦争だった、と正しく言い切ることはできないような気がします。一面にはその部分があったとしても、外国の土地へ侵攻してある都市を支配下に置いたことを「陥落」と呼ぶような一面には、侵略戦争の要素が多分にあるのだろうと思います。そして、もしも関東軍(一部か全部かは分かりませんが)が満州に渡って来た日本人の命を大切にしていなかったのだとするなら、なおさら、その軍人たちがその外国の土地のもともとの住民たちの命を大切にしなかったことは想像に難くないというか、どうしてもそうなのではないかな、と思えてしまいます。

欧米列強の植民地支配の脅威から守るために日本がアジア地域の外国の土地を支配しなければならないような事態になったのだとしても、例えば戦国時代の武田信玄のように、支配した土地のもともとの有力者や住民たちの暮らしや文化を大事にしていたのなら、太平洋戦争時代の日本のことを、中国や朝鮮半島で今に引きずられるように悪く思われ続けるということはなかったのではないかなと思うのです。

全国戦没者追悼式に御臨席された天皇陛下は、「かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。終戦以来既に七十一年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることがありません。ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民と共に、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。」とお言葉を述べられていました。戦時下に少年時代をお過ごしになっていた天皇皇后両陛下のお言葉には、真に平和を願う、行動を伴う祈りであるということの重みがあるのだと思います。

戦没者となった方の霊は、安らかに眠ることができているのでしょうか。日本の報道番組では主に中国や韓国や北朝鮮による「脅威」の話が繰り返されていますが、日本だけではなく各国の政府には、話し合いの外交に失敗することなく、国よりも国民のための政治をしてほしく思いますし、私は71年前の戦争時代を直接には知らないのですが、たくさんの人が傷ついたり傷つけられたり殺したり殺されたりする戦争の惨禍を、未来の世界に再び繰り返さないようにしてほしく思います。
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