「沖縄 空白の1年 ~“基地の島”はこうして生まれた~」

先日の土曜日のNHKの「NHKスペシャル」の「沖縄 空白の1年 1945-1946 ~“基地の島”はこうして生まれた~」を見ました。録画をしておいたものです。

沖縄の空白の1年というのは、1945年の8月15日の太平洋戦争の「終戦」からの約1年間のことでした。アメリカ軍の占領下に置かれていた沖縄の畑や住宅地が、大多数の住民たちが沖縄の12の地域の施設に収容されている間に基地化していったということを伝えるドキュメンタリー番組でした。番組では、日本とアメリカの約2000点の資料を入手して、この時の出来事を検証したのだそうです。

1945年の6月には住民の9割の約30万人が収容所へ入れられ、マラリアや食糧不足で約6400人が亡くなったそうです。今79歳の仲村さんという方は、収容所を抜け出し、米軍が海に流した残飯を浜へ拾いに行って食べたこともあるそうです。

アメリカ軍は、住民たちを収容所へ入れている間に住居を壊し、日本の本土進攻の拠点のための滑走路を造っていたそうなのですが、玉音放送が流れて終戦になった後にも基地は作られ続けていて、それが今の沖縄の基地問題にもつながっていました。

アメリカ国内では、沖縄の占領を継続すべきとする統合参謀本部と、各国が領土を拡大しようとしたことが世界大戦につながったのだから占領はやめるべきとする国務省とが対立をしていたそうです。そして、沖縄を非武装化した上で日本へ返還したほうがいいと考えていた国務省は、琉球列島海軍軍政府という、メンバーは兵士ではなく歴史学者や政治学者だったという人たちを、沖縄に関する知識を身につけさせた状態で沖縄へ派遣し、「より充実した民主主義の実現」を目指していたのだそうです。

ボストンで暮らしているという91歳の元将校のワーナー・バースオフさんは、民主的な統治を進め、島全体を復興させることが任務であると考えていたそうです。

しかし、当時のラジオの音声によると、沖縄の人たちは自分たちを日本人だと思っているが本土からは差別されている。日本の軍国主義を教え込まれているが地位は低いのだと、その頃のアメリカの側からは考えられていたようでした。アメリカ軍の出した沖縄のハンドブック(意外と分厚い本でした)には、明治以降に日本の支配を受けてきた琉球の歴史が書かれていて、本土と沖縄との潜在的な溝に着目した海軍軍政府は、沖縄を解放することも考えていたそうです。

私たちのやり方は本土よりも進歩的でした、自治を後押しすることが重要と考えていましたと、バースオフさんは話していました。その第一歩として、海軍軍政府は「沖縄諮詢会」というものを作ったそうです。「沖縄諮詢会」には教育者や政治家などの15人が集められ、沖縄住民の約30万人の代表として、海軍軍政府に意見や要望などを伝えたそうです。この会が作られたことによって、沖縄の人たち自身が「沖縄の福祉」について考えるようになり、自治の可能性が芽生えたということでした。

新聞記者の又吉康和さんは、アメリカの憲法を調べて、沖縄に自主憲法を作りたいと考えていたそうです。元県議の仲宗根源和さんは、大統領のような制度を作りたいと考えていたそうです。仲宗根さんのインタビューのテープ(1995年?)が残されていたのですが、そこで仲宗根さんは、力を結集したら独立できるのではないか、日本に頼ったら日本に持っていかれてしまう、我々は我々で元の秩序を取り戻し、生活も豊かにしていきたいというようなことを話していました。

1945年の9月の沖縄には、本土よりも早く、女性にも参政権が与えられていたそうです。海軍軍政府は、10月、住民を元の居住地に戻そうという再定住計画を立てたそうで、それは翌年の、1946年の元日頃までに完了する予定でした。しかし、1月にはまだ12万5千人が収容所にいて、再定住計画は完了していなかったそうです。

再定住計画の責任者で、南部一帯に種まきをしようと考えていたというバースオフさんによると、陸軍が一向に動こうとしなかったからだということでした。統合参謀本部は、新しい基地建設の計画書を作り、沖縄の陸軍に、普天間基地をアスファルトで固めるよう命じ、嘉手納基地の二つの滑走路を連結するよう命じたそうです。止まっていた基地開発が再開したのは、ソ連や中国などの共産主義国が台頭してきたことを踏まえて、アメリカの統合参謀本部が、沖縄を対共産主義国の前線基地にしようと考えたためでした。

当時の日本政府が基地化されていく沖縄をどのように考えていたのかということについては、番組では多くは語られていませんでしたが、外務大臣の吉田茂など外務省の幹部たちの「平和条約研究幹事会」では、日本が国際社会に復帰する方法を考えていて、川上健三さんという方は、沖縄が日本から切り離されない策を考えていたそうです。アメリカ陸軍のGHQのマッカーサー元帥は、沖縄の基地としての価値を重視していました。そして、日本政府は、沖縄は単なる出先機関ではない、米軍のあらゆる任務の最重要拠点になる場所だと考えているアメリカとの交渉の中で、「落としどころ」を探るようになっていったということでした。討議資料によると、それは、沖縄が日本の領土であることをアメリカに認めさせた上で基地化には反対しない、という作戦だったようでした。

元外交官の大河原良雄さんは、日本の国際社会への復帰が何よりも最優先されていた、現実的な解決策を通じて事態を収めようとしていたということを話していました。

そうして、沖縄には、次第に基地中心の社会が作られていったそうです。住宅や田畑を破壊して、米軍基地は拡大していったそうです。

基地建設を計画したアメリカ陸軍は、家や畑を奪われて生活の糧を失った住民を基地の労働力として使うことを考えるようになり、人々を居住地に戻して、「軍作業に利用」することをできるようにしていったそうです。住民たちの食糧の配給は有料になり、新通貨も導入されて(「B円」と呼ばれるお金でした)、住民たちは「現金収入」がなければ生活をすることができないように追い込まれていったのだそうです。

1944年から1947年の白黒の航空写真には、家と畑があった場所に普天間基地が建設されていく様子が写っていました。住民は基地で働き、基地と隣り合わせで生きていくことを余儀なくされていったということでした。

一方、日本の本土は、農地改革が行われ、財閥も解体され、「民主化」の道を進んでいました。そのような中、マッカーサーは、1946年の1月、沖縄への介入を始め、本土に暮らす沖縄の人たち10万人の「引き揚げ」を実行することにしたそうです。その目的は、アメリカの日本への無償の援助を減らすためでした。マッカーサー記念館で見つかったという陸軍高官への電信の資料によると、女性や子供や老人しかいない極貧状態にある沖縄は食料や住居などで日本に依存している、沖縄人は本土復興の妨げになっていると、マッカーサーは考えていたようでした。

グスタフ大学の准教授によると、マッカーサーは本土復興を急いで自身の成果を上げるために、本土の負担となるもの、復興の妨げとなるものを、沖縄へ押し付けたということでした。マッカーサーにとっての「日本」には、沖縄は含まれていなかったのだそうです。

GHQは、反発する海軍軍政府を陸軍軍政府に交代し、そうして、アメリカの基地建設のために家や畑を潰された沖縄に、約10万人の人々が引き揚げてくることになったそうです。沖縄諮詢会は動揺し、自主憲法を考えようとしていた又吉さんも、アメリカとの関係を円滑にしたほうがいいと考えるようになっていったそうです。仲宗根さんは、沖縄は沖縄でやっていくべきだという自治への思いを捨てきれなかったそうなのですが、結局、諮詢会を基に、戦後初の行政機構の沖縄民政府というものができて、又吉さんは副知事に任命され、仲宗根さんは役職を外されたのだそうです。

バースオフさんも帰国命令を受けたそうです。結局、米軍がいる限り自治などありえなかった、沖縄からアメリカ軍は撤退するべきだと考え、沖縄の自治を実現したいと思っていたが、歴史は逆に向かったと、バースオフさんは話していました。

1946年の8月に中城村の海岸に軍艦が到着し、10万人の人々が引き揚げて来たそうです。その人々のほとんどは、収容所へ入るしかなかったそうです。山口県から引き揚げたという方は、本土の民主化を見て沖縄へ戻ったため、その落差に驚いたそうです。沖縄には民主主義がなかった、ヤマト(本土)には民主主義の新しい憲法の草案が考えられていたが沖縄は除外されていた、日本は沖縄の人の福祉には興味がないのだろう、沖縄は軍事基地ですよ、という趣旨のことを話していました。

1947年のマッカーサーの電信には、アメリカ軍による沖縄の占領に日本人は反対しない、なぜなら沖縄人は日本人ではないのだから、とあったそうです。

米軍基地のある沖縄が、1950年から1953年の朝鮮戦争、1965年から1975年のベトナム戦争の出撃拠点になっていた頃、本土は「高度経済成長」し、そうして、1972年に沖縄は本土復帰をしたけれど、本土のような復興からは取り残されていき、それが今でも続いているということでした。

沖縄の米軍基地の県外移設のことが話題になる時、地元の人々は基地がなければ生活をすることができないなどと言われていることもありますが、大本営によって本土防衛のための捨て石にされたという戦時下の沖縄にアメリカ軍が上陸してから着々と基地の建設は進み、アメリカ軍によって土地を奪われた人々は、太平洋戦争の終結後も、アメリカ政府と共に本土の復興を優先した日本政府の方針によって基地無しでは生活ができないようにされていったのだということが、今回のドキュメンタリー番組では分かりやすく丁寧に伝えられていました。

報道によると、辺野古に基地を造ろうとしている政府は、先日、辺野古への基地移設が進まないからとして、普天間基地の大規模な改修を行うことにしたということを発表したそうですが、返還されるはずの普天間基地の補修がなぜかなされているということは、以前から時々報道されていたことでもあったように思います。

普天間基地は“世界一危険な基地”と言われていますが、それよりも、嘉手納基地のほうが本当は危険なのだそうです。でも、嘉手納基地の移設の話は出ていません。普天間の飛行場を無くしてほしければ辺野古の海を埋め立てて飛行場を造ることが条件だ、というのは、アメリカ政府よりも日本政府が推進していることだそうですし、それは結局は沖縄から基地やそれに関連する負担を無くすということにはつながっていかないのではないかと思います。

沖縄の住民の方たちの間でも辺野古移設(県内移設)の是非の意見は分かれているとも聞いたことはありますが、沖縄が1945年の戦時中から日本の本土の負担を押し付けられているということなら、在日米軍の基地や関連施設があることが当たり前のようになっていたり米軍基地がなくては平穏な生活が成り立たないという風に思ったりするということも、戦後の占領政策の一環というか、何か“洗脳”に近いものがあるのかもしれないなと思いました。

このNHKの「NHKスペシャル」の「沖縄 空白の1年」の内容と連動しているかのように、偶然かもしれないのですが、TBSの深夜の「報道の魂」では、「米軍が最も恐れた男 ~あなたはカメジローを知っていますか?~」というドキュメンタリー番組が放送されていました。

「カメジロー」というのは、瀬長亀次郎さんという方のことで、私は知らなかったのですが、沖縄県では有名な方のようでした。

元新聞記者の瀬長亀次郎さんは、「不屈」の精神で、時々殺傷事件を起こす米軍による占領政策や基地の建設に反対し、沖縄人民党という党を結成して活動したことで、ソ連や中国を警戒する米軍に共産主義者として逮捕されたこともあったそうなのですが、沖縄の本土復帰を目指していた方でもあったそうです。後に那覇市長になったという瀬長亀次郎さんの県民を一体化させる活動は、後の「オール沖縄」にも通じていて、亀次郎さんへの熱烈な支持は、現在の翁長沖縄県知事に対する県民の期待にも通じるものがあるそうです。

「人民党」という党の名前や、党首ではなく書記長というような呼び方になるようなところからは、確かに「共産党」を思い出しますが、当時の占領下の沖縄県内に自由な民主主義がほとんど確立されてなかったということなら、アメリカ政府と闘うために平等を理想とするという意味において共産主義や社会主義の側に傾いていったということなら、それほど奇抜なことではないような気がしました。

瀬長亀次郎さんは2001年に94歳で亡くなったそうなのですが、2013年に「不屈館」という亀次郎さんの資料館が那覇に開館したのだそうです。私は、瀬長亀次郎さんの不屈の闘いのことをこの番組で知って、すごい人がいたのだなと思いました。

例えば普天間基地のことなら、普天間基地が無くならないというのは、辺野古移設への県内での反対運動が続いているからなどではなく、日本政府が米軍基地を尖閣諸島に近い沖縄県内に残しておく方針にしているからなのだろうなと思うのですが、日々の生活のために基地があった方がいいのかどうかを迷っている住民がいるとして、その人々を経済の問題で追い詰めて、基地やその関連の施設が地元にあった方が暮しが楽になるはずだと迫っていくというのは、やはり、1945年のアメリカの、住民を収容所へ入れている間に残っていた家や畑を潰して基地に変え、基地で働いて現金収入を得るようにしなければ生きていけないようにしたという政策と似ているものであるように思います。

昭和天皇陛下のことを「最高の紳士」と評したというGHQのマッカーサーが、沖縄の人のことを「沖縄人」と呼んで、アメリカが沖縄を占領することについて、沖縄人は日本人ではないから日本の本土の人々は反対しないだろうと考えていたということも少し残念に思えたのですが、でも、本土の人たちに人気があったというマッカーサーが当時そのように考えていたのだとするなら、それはその頃の日本政府がそのように考えていて、それを知ったからなのではないかなとも思います。

また、昨日の22日は、太平洋戦争中に学童疎開船の対馬丸がアメリカ潜水艦の魚雷によって撃沈され、乗員と乗客を合わせて約1500人が亡くなったという日から72年目の日でした。私はNHKのニュースの映像で昨日の慰霊の様子を見たように思うのですが、この報道を見て、ああそうだったと思い出しました。私は知らないことが多いですし、その時知ることができてもまた忘れてしまうこともあるので、このようにメディアなどで報道されて改めて知ることができると助かります。

今年の夏にはリオデジャネイロオリンピックがあったこともあって、特に地上波のテレビ番組では「戦争」や「戦後71年」を伝えるものが昨年よりも少なかったように思います。

NHKでは「百合子さんの絵本~陸軍武官・小野寺夫婦の戦争~」や「戦艦武蔵」や「ラスト・アタック~引き裂かれた島の記憶~」といったドラマが放送されていましたが(特に「百合子さんの絵本」と「ラスト・アタック」は良かったです)、民放では昔の戦争にまつわるドラマは一作品も放送されませんでした。

14日の夜に2015年公開の映画「日本のいちばん長い日」がテレビ朝日で放送されていて、私は岡本喜八監督の1967年の映画「日本のいちばん長い日」は見たことがあったので、その新作のほうも見てみたく思ったのですが、録画に失敗したために今回は見ることができませんでした。

同じ日のBS-TBSでは、「8.15玉音放送を死守せよ~異なる目的のために 命をかけた2人~」というドキュメンタリー番組が放送されていて、こちらは何となく気になって録画をしておいたものを、私も見ることができました。2006年の8月に放送されたものの再放送だったのですが、私は見たことがなかったのだと思います。

日本放送協会(NHK)に持ち込まれた昭和天皇の「玉音」を死守した元NHKの報道副部長の柳澤恭雄さんと、柳澤さんに銃を突き付けて玉音放送の中止を命じようとした陸軍の畑中健二少佐と、玉音放送を奪いにNHKへ行った元近衛連隊歩兵師団中隊長の小田敏生さんの戦中・戦後を伝える番組でした。(映画の中で畑中少佐に銃を突き付けられているNHKの放送職員は、柳澤さんではないようでした。)

畑中少佐は、玉音放送を聞かずに宮城(皇居)の庭で自決したということなのですが、遺族の方によると、文学を好きな優しい性格の人で、陸軍兵士になることを始めは渋っていたそうなのですが、陸士になると、元々の素直な性格にそのまま「市ヶ谷精神」を吸収してしまったのではないかということでした。畑中少佐の遺骨はなぜか京都の実家に戻って来ることがなく、昭和44年になって畑中少佐のお墓を建てることができたのだそうです。

柳澤恭雄さんは日本電波ニュース社という会社を創ったジャーナリストの方で、酸素の機械を着けながら取材に応じていました。取材時には97歳だったのですが、翌年に98歳で亡くなったということでした。当時のことを研究していて、一人暮らしをしているという部屋にはその関連の資料がたくさん積まれていました。窓辺の鉢植えには月下美人の花が咲いていました。

柳澤さんは、中学生の頃にマルクスの本を読んでいたような少年だったそうです。NHKに入ると、1941年の夏に軍の要請で何があるのか知らされないまま指示通りに夏服を用意して南方へ連れて行かれ、その冬の真珠湾攻撃を従軍記者として取材したのだそうです。その時の柳澤さんの上司は、軍に加担するのが苦にならない人だったそうです。

番組は、メディアと戦争の問題をテーマにしていました。昔のメディアは新聞や雑誌やラジオでしたが、今はそこにテレビやインターネットも含まれるのだろうと思います。

柳澤さんは、東京大空襲の直前に、空襲がくるかもしれないことをラジオで国民に呼びかけることができなかったことについても、後悔していました。大本営は、天皇陛下が防空壕を出入りすることになる負担だけを気にして、空襲警報を鳴らさないようにし、放送もしないようにしたのだそうです。NHKは、戦況が悪化していく日本の現状を大本営からの情報で知っていたそうなのですが、大本営に都合の悪いことは放送しないように「自粛」していたそうです。

柳澤さんの友人の新聞記者の新名丈夫さんという方は、竹槍は意味がないという趣旨の記事を書くと、陸軍批判だとして陸軍大臣から首相になった東条英機の怒りを買い、37歳なのにも関わらず突然兵士に招集され、それが「懲罰」ではないとごまかすために、他の30代後半くらいの男性たちも招集されて、最前線の硫黄島へ送られて戦死したのだそうです。

元近衛連隊の中隊長の小田敏生さんは、取材時には86歳で、自転車屋さんを経営している方でした。26歳の当時、玉音放送の阻止だということは知らずに、命令を受けてNHKの放送会館へ向かったそうです。小田さんによると、兵士は直属の上司の命令で動き、直属の上司の命令は天皇陛下からの命令と思えと教えられていたのだそうです。命令の内容が正しいか間違っているかということについては、その場では考えることがなかったようでした。大本営の参謀本部は「国体護持」だけを目指していて、軍人には国民を守るという発想が無かったのだそうです。

玉音放送を最初は戦争を継続させるためのお言葉と思っていたという小田さんは、番組の中で、取材スタッフの方に「終戦」について訊かれると、「敗戦」とは思っていない、自分としては「停戦」と思っている、と答えていました。この言葉を聞いて、最近の日本政府の「歴史修正主義」と海外から言われることもある安倍首相やその周辺の方たちの言動を思い出す時、やはり小田さんのように日本は「敗戦」はしていないと思っているような方は他にもいるのだろうなと、少し理解することができるような気がしました。当時のNHKや読売新聞は、戦争へ加担したことを結局謝罪しなかったのだそうです。

戦後、柳澤さんは、NHKでストライキを実行して、約200人くらいの職員と一緒にクビにされ、日本電波ニュース社というニュース会社を創立し、ジャーナリストとしての活動を始めたのだそうです。政府や軍の始めた戦争に加担していった当時のメディアを、柳澤さんは良くなかったと反省し、これからのメディアは大本営の発表をそのまま国民に伝えるようなものになってはいけないということを話していました。

この「8.15玉音放送を死守せよ~異なる目的のために 命をかけた2人~」の番組は、今年の戦後71年から10年前の、戦後61年の放送だったので、柳澤さんが見ていた部屋のテレビには、イラクに派遣されている自衛隊の映像や、当時の小泉首相が映っていました。

メディアやマスコミの自粛を2006年に考えていた柳澤さんは、2007年に亡くなったということなのですが、2006年の秋に小泉内閣に代わって発足した自民党の第1次安倍内閣後の日本をどのように見ていたのでしょうか。10年後の今は、民主党時代を挟み、第3次安倍第2次改造内閣となっています。テレビ局が政府に配慮して政府批判をしないような「自粛(自主規制)」は、はっきりとは分からないけれど、10年前の2006年の頃よりも進んでいるように思います。番組の中では、柳澤さんが、日本政府は何でも秘密にすると話していましたが、その翌年の2007年に亡くなった柳澤さんは、2013年に特定秘密保護法が制定されたことも、2015年に安全保障関連法が制定されたことも知らないのです。

21日には、ジャーナリストのむのたけじ(武野武治)さんが101歳で亡くなったそうです。昨日の報道で知りました。むのたけじさんのことを私は最近まで知らなかったのですが、むのさんのことを知ってからは、戦時中に戦争に加担するような記事を書いてしまったことを後悔して8月15日に朝日新聞社を退社してから独自の新聞の取材や言論で、不屈の精神で戦争に反対し続け平和を訴えていたジャーナリストのむのさんのことを、本当に立派な方だなと思っていました。

昨年の安全保障関連法案に反対する運動が起きていた時にも、100歳のむのさんは若い人たちの前で演説を行っていました。でも、その様子はニュース番組では少ししか取り上げられませんでした。安全保障関連法の成立後の今年にはもっと少なくなり、先の参議院議員選挙で自民党が多数の議席を獲得して以降は、安全保障関連法は憲法違反だとするような話題は、ほとんど扱われなくなりました。

今年の日本の夏の17日間はブラジルのリオデジャネイロオリンピックの報道一色で(オリンピックの報道も大切ですが)、むのたけじさんが亡くなったということも、私は新聞やインターネットの報道で知りました。テレビの報道番組では伝えられていなかったように思いますが、でも、私がその番組を見逃してしまっただけかもしれません。昨夜の報道ステーションでは報道されていました。

7月に永六輔さんが亡くなった時も、大橋巨泉さんが亡くなった時も、NHKや地上波の民放では、バラエティー番組ことや闘病生活のことは伝えても、反戦の活動をしていたということはほとんど伝えていませんでした。「戦争」、あるいは「反戦」の話題を避けているのではないかと思えるほどでもあるのですが、もしもそうだとすると、「自粛」をするメディアが気にする今の政府(安倍政権)の方針は、「反戦」や「非戦」に向かうものではないということにもなるような気がします。

また長くなってしまったのですが、ともかく、NHKの「沖縄 空白の1年」も、TBSの「米軍が最も恐れた男 ~あなたはカメジローを知っていますか?~」も、BS-TBSの「8.15玉音放送を死守せよ~異なる目的のために 命をかけた2人~」(私が見たのは再放送です)も、とても良いドキュメンタリー番組だったように思います。私も、少しだけでも知ることができて良かったです。

戦争関連のドキュメンタリー番組(例えば「映像の世紀」の第2集「戦争 科学者たちの罪と勇気」など)に関わらず、何となく気になって録画をしておいたまま見ることができていない番組がまだいくつかあるのですが、中には良いものもあるかもしれないのですし、それもまた少しずつ、見ていくことができるといいなと思います。拙い文章をここまで読んでくださった方(いらっしゃるでしょうか?)、ありがとうございます。
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Author:カンナ
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