「『障害者×感動』の方程式」という特集

日本テレビの「24時間テレビ39 愛は地球を救う」との放送時間が重なる夜の7時からNHKのEテレで生放送されていた「バリバラ(バリアフリー・バラエティー)」という番組の「検証!『障害者×感動』の方程式」を見ました。

2014年に亡くなったステラ・ヤングさんというオーストラリアのコメディアンで障害者の人権活動家という方が「TED」で演説した「感動ポルノ」という考え方が紹介されていたのですが、それは、清く正しい善き人物として描かれた「障害者」がある目的に向かって健気に頑張る姿が、「健常者」に感動や勇気を与えるための道具として消費されている、というような考え方を表した言葉で、私はその言葉を今まで聞いたことがなかったということもあり、何というか、とても革新的であるように思えました。

メディアでの「障害者」の取り上げ方が問題にされていたのだと思うのですが、イギリスのBBCで1992年に、障害を持った方たち自身が日本の「24時間テレビ」のような?チャリティー番組の在り方に対して反対運動を起こしたことから、障害者をかわいそうな人とか不幸な人のように描かないというようなガイドラインが作られた、ということにも驚きました。障害者を勇敢なヒーローや憐れむべき犠牲者として描くことは障害者への侮辱につながるから良くない、というガイドラインだそうです。日本にもそのようなガイドラインや基準などは一応作られているのでしょうか。

障害者の方を紹介する番組の作り方としてこの番組で解説されていた、まずその障害のある方の「大変な日常」を描き、「過去の栄光」(健康な時の生活)とそこからの事故や発病による「悲劇」を伝え、「家族や仲間の支え」の中でその人が「ポジティブ」に生きていく様子を伝えるというのも、確かによくある作り方であるように思えて、何だか面白く思いました。

私は、昔は日本テレビの「24時間テレビ」をほとんど見ていなかったのですが、近年は、(テレビの前にいることができる場合は)少し見るようになりました。

“感動の押し売り”という印象も確かにありますが、感動の押し売りをするような番組は他にもありますし、日本テレビの「24時間テレビ」に違和感があるとすれば、私としては、それは「障害者」と「健常者」(障害者とされている方以外の方)を分けているように見えるというところや、一年に一度しか放送しないというようなところなのではないかなと思います(あるいは、深夜のバラエティーのコーナーには障害者の方が登場しないというところもそうでしょうか)。

神奈川県の相模原市の障害者施設での殺傷事件の報道の時にも気になったことなのですが、障害者の世の中の一員なのだというようなことをあえて言われなくてはいけない状況というのがおかしいような気がします。

私の小学校の時の同じクラスに少し知的障害の子がいて、昔のことなので「知的障害」は「知恵遅れ」と言われていたのですが、私も含め同級生たちはその子のことを普通に名前で呼び、みんなと対等に暮らしていました。その子はよく笑ったりよく怒ったりしていて、急に泣いたりすることもありましたし、授業中や休み時間に時々よく分からないことをしてみんなが困惑するということはあったのですが、何か机を汚したらすぐに雑巾で拭くとか、床に散らかしたらそれもすぐに片付けるとかしていたので、あまり気になりませんでした。当時の担任の先生もその子に注意する時には他の児童に言うのと同じように言っていたように思いますし、その子の性格が悪くなかったということもあるとは思いますが、私たちはおそらくみんな、そういうものだと思っていました。

その子は中学校へ行く前に引っ越してしまったので、その後のことは分からないのですが、今思うと、やはり同じクラスにその子のような人がいたということは、決して悪いことではなかったのだと思います。何かの病気や怪我があるというだけでその人が普通の人だというのなら、やはり、特に分けられずに、同じ教室や地域で、ごく普通にぱらぱらと混ざって、自由に暮らすようになった方がいいような気がします。

「障害者」とか「健常者」という言葉を使うことにも少し違和感があるのですが、それは自分のことを考える時に、自分は本当に健常者(常に健康な人間)なのだろうかと思うからなのかもしれません。確かに「障害者」ということではないかもしれませんが、「健常者」としてくくられるのも何か違うような気がしてしまいます。「障害者」とか「健常者」という言葉自体に、あまり慣れていないということなのかもしれないと思うのですが、あるいは、そもそも「障害者」の「障害」は、バリアフリーになっていない、という社会の側にあるものなのかもしれないなとも思います。

人によって「障害」の内容や事情は様々なのだろうと思いますし、ある番組に出演する障害のある方は、全国の障害を持つ人々の中から番組スタッフが厳選したあるタイプの人々なのだろうと思うので、それは「障害者」の場合に限ったことではなく、例えば、東京大学の学生や同性愛の方や引きこもりの方などをひとくくりにして演出する場合もそうかもしれないのですが、何かをひとくくりにすることで余計に何か奇妙な、自分たちとは少し違うというような印象を視聴者が持つということになるのではないかなと、少し心配に思います。

「『障害者×感動』の方程式」に違和感を持つ方は、もしかするとなのですが、何を「感動」とかけても、「感動」が無理矢理作られているような気がして、いずれ多少の違和感を持つようになるのではないでしょうか。

アスリートの方や俳優さんたちの、「見た人に感動や勇気を与えたい」というようなコメントも、私としては、あまり良くないような気がしてしまうのですが、それでも、その人の姿を見た誰かが「感動をもらいました」とか「勇気をもらいました」などと本気で思って言うのなら、それはそれで良いのかもしれないなと思います。何かを頑張っている「健常者」の方をドラマやドキュメンタリーなどで伝える際にも、「感動ポルノ」の方式は使われているのかもしれません。

ある番組出演者の方が積極的に出演しているのなら、その出演者の方が何かを頑張っている姿をテレビの番組などの映像で伝えること自体は良いことなのだと思いますし、そのような番組を見た時に、感動してもいいし感動しなくてもいいし、何かを考えてもいいし特に考えなくてもいいというような自由さが、番組の側にも視聴者の側にもあるといいのかなと思います。

「バリバラ」の「検証!『障害者×感動』の方程式」は面白い特集だったので、30分の放送があっという間でした。Eテレのこの番組だけで放送されるのではなく、総合テレビの「NHKスペシャル」のような番組での特集があっても良いのではないかなと思いました。

差別やいじめは絶対に無くならないという人もいますが、世の中全体からは無くならないように見えても、ある学校の教室の中でそれが実現されるなら、次第に世の中全体で実現していくようになるのではないでしょうか。今日は8月の31日ということもあり、夏の終わり、という感じもします。報道によると、夏休み明けには、嫌な同級生がいる息が詰まるような学校へ行きたくないために、自殺をする児童や生徒が増えるのだそうです。好きな人とも嫌いな人(苦手な人)とも、好きでも嫌いでもない人とも、ある程度の距離感を保ったまま、それぞれが安全に穏やかに生きていくことができるような世の中になるといいなと思います。
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