「“核なき世界”と権力への挑戦~いま石橋湛山を見る~」

先週のNHKのBSプレミアムで放送されていた、「英雄たちの選択」の番外編の「昭和の選択」の「“核なき世界”と権力への挑戦~いま石橋湛山を見る~」を見ました。録画をしておいたものです。

司会は日本文化研究センター准教授の磯田道史さんとアナウンサーの渡邊佐和子さん、番組の語りは松重豊さんです。ゲストは、明治学院大学の教授で作家の高橋源一郎さん、京都産業大学の客員教授で評論家の宮崎哲弥さん、立正大学特任教授で石橋湛山研究の歴史家の増田弘さん、元朝日新聞主筆のジャーナリストの船橋洋一さんでした。

久しぶりの石橋湛山の特集ということで、私も見るのを楽しみにしていたのですが、今回の特集も良かったです。ゲストの方たちはご自身のことを「石橋湛山のファン」と話していたのですが、磯田さんやゲストの方たちが、石橋湛山の哲学や思想や生き方を好きだということがよく伝わってくるような内容でもあったような気がします。

1884年に生まれた石橋湛山は、1894年の日清戦争、1904年の日露戦争、1914年の第一次世界大戦、1941年の太平洋戦争(第二次世界大戦)などの時代を経て、1956年に第55代の内閣総理大臣となったということで、磯田さんによると、生きた日本近代史だったということでした。

自由主義や民主主義や個人主義を戦前からいち早く唱えて政治の根本の据えた人だったという湛山の生き方や思想を、現代の私たちの生き方や考え方の一番のヒントになるものとして紹介していました。

20世紀の初頭、日本では大正デモクラシーの時代に、欧米では第一次世界大戦が始められ、「国家総力戦」の時代の時代に突入し、列強の植民地も戦場に変わっていったそうです。その頃の日本はイギリスやフランスなどの連合国の一員としてドイツに宣戦布告し、ドイツが中国から租借していた青島を奪って占領したことについて、日本の国内では祝賀ムードが広がっていたそうです。

しかし、「東洋経済新報」の29歳のジャーナリストの石橋湛山は、「小日本主義」という植民地放棄論を訴え、武力によって奪った青島を領有すべきではない、経済的に見ても得策ではないと、日本の占領国政策を批判したそうです。実際に経済効果を金額で示して、欧米との関係を悪化させることは経済的にも大きな損害を被るということを記事に書いて、植民地を放棄してその門戸を開放し、国際協調と自由貿易を勧める方が得策であることを主張していたそうです。

東洋経済新報の元社長の浅野さんは、社会を良いものにするための会社の理念として、「自由主義」と「民主主義」と「国際協調主義」という3本の柱があって、その下に、お互いを尊重し認め合うという「個の確立」があったというようなことを話していました。軍部との対立を恐れずに批判記事を書き続けていた湛山は、40歳で東洋経済新報の主幹となったそうです。

ゲストの方たちは、湛山は、経済の安定と成長と発展は平和とは切り話すことができないと考える合理主義の人で、日蓮宗の僧侶を父親に持つことから仏教の影響が湛山の哲学のベースにはある、湛山のことを理解していくとこれが「リベラル」かということがよく分かると話していました。湛山の思想は現代的ですが、現代のリベラルの思想は、戦前では過激な思想ということになるのだそうです。

昭和6年に満州事変が勃発した頃、若槻首相は陸軍の独断的な行動を容認していたそうなのですが、暴力や権威主義を否定する自由主義者の湛山は、「内閣が軍部の方針に屈し、その引き回すままに従った」、「感情的に支那全国民を敵に回し、ひいて世界列強を敵に回し、なお我国はこの取引に利益があろうか」などと書いて批判を続けたそうです。

昭和7年に満州国が建国されると、国内の言論も日本政府と軍部によって制限され始めたそうです。5月15日には満州国の承認をためらっていた総理大臣の犬養毅が暗殺され(五・一五事件)、昭和12年には盧溝橋事件が起こり、日中戦争へ突入していきました。

言論統制は過酷さを増していき、軍部の気に入らない出版社のインクや紙は減らされ、削除や発禁処分が下されるようになっていったそうです。

東洋経済新報社の社史を編纂したという山口さんによると、湛山は、当局に出された検閲項目を社内報として配って全社員に周知させたのだそうです。昭和12年の9月28日のものが最初だということなのですが、当時の検閲の紙には、「記事差止 警視庁検閲課」と書かれていました。外務省発表以外のことは書いてはいけないということになっていったそうです。

それでも湛山は、「いかに陸軍省と雖も政府機関の一部に過ぎない」と書いたそうなのですが、その論説には削除命令が出されてしまい、営業課の社員たちが書店を回ってそのページを破り取るということになったそうです。

昭和14年、言論の自由が奪われつつある中で、湛山は、言論の自由には屈しない、と決めたそうです。婉曲して表現し、その行間を読者に読み取ってもらうという工夫をして、自身の考えを読者に伝えることにしたということでした。

表面上は植民地政策を認めているようにも読むことのできる論説にしながら、「しっかりと国政を遂行して隙間を与えなければどうして軍人が政治に関与する余地があろう」、「一家の主人が、その地位にふさわしき器量の持ち主であるならば、番頭にごまかされたり細君の尻に敷かれるはずのないのと同じだ」などと、意外とはっきりと書いていたようでした。

昭和19年には東京への空襲も酷くなり、印刷所が無くなるかもしれないということになって、湛山は東洋経済新報の本社を秋田へ移すことにしたそうです。秋田県の横手市の郷土史家の川越さんは、源平という明治6年創業の旅館(和洋折衷の外観の旅館で、玄関の上の窓のステンドグラスがきれいでした)に残されていた宿泊人名簿から、昭和20年に宿泊した石橋湛山の直筆の署名のある名簿が見つかりました。職業の欄には会社員と書かれていて、年齢には63歳と書かれていました。川越さんも初めて見たのだそうで、新発見だと話していました。

経済倶楽部の縁を頼って、横手に本社を移転することにした湛山は、出羽印刷(出羽日報社?)を買い取ったそうです。その会社の中には木製の棚にたくさんの銀色の活字がずらりと並んでいました。そうして東洋経済新報は、8ページという薄い小冊子になりながらも、全国の読者に届けられたのだそうです。

あくまでも民衆に声を届けることにしたのではないか、政府や軍部に迎合したことしか書かない時代に自由主義や民主主義、国際協調主義の火を消してはならないという気持ちで出版していたのではないか、よほど読者との信頼関係が築かれていたのだろうと、歴史学者や評論家の方たちは話していました。1945年の6月には、現代の戦争に奇跡はない、神風は吹かないということを論説に書いていたそうです。

軍部の暴走を許していた日本は結局敗戦しました。リアリストとして最初から敗戦するだろうということを分かっていたという湛山は、その上で、負けた後の日本が何をするべきかを考えていて、敗戦後の最初の選挙に出馬したそうです。「五大政党代表立会演説会」で湛山が演説をしている時の映像が紹介されていました。湛山は、筆や口で論じているだけでは間に合わない、自ら政界に出ていずれかの政党に自分の主張を取り入れてもらう必要がある、と考えていたそうです。そして、第一次吉田茂内閣に大蔵大臣として入閣しました。

番組で紹介されていた、敗戦直後の東洋経済新報社の綴られている狭い部分には、スポンサーとなった銀行の名前がいくつか書かれていたのですが、その記事には「更生日本の門出 -前途は実に洋々たり-」という論説があり、「これからの日本は、竹槍をもっとも良き武器とする非科学的精神ではなく、単に物質的の意味ではない科学精神に徹していけば、前途洋々となるだろう」ということが書かれていました。

昭和31年、石橋湛山は、自民党の総裁となり、第55代内閣総理大臣となりました。首相になった湛山は、国民生活の向上と共産圏との関係改善を訴えたそうです。原子力兵器の開発を続けるアメリカとソビエト連邦の冷戦への危機感が、湛山にはあったそうです。「自営軍備しか持たない国の間に二度の世界大戦が起こった。今後原子力兵器の戦争は、人類滅亡を意味する」と、米ソの冷戦時代に立ち向かっていったそうです。

国民に直接訴えかけるために全国各地で遊説を行い、民衆の意見を直接聞いて回ったそうです。しかし、72歳の湛山は過労によって体調を悪化させてしまい、「政治的良心に従います」と首相を辞任したということでした。湛山が首相となったのは、わずか2か月間のことでした。石橋湛山の後には、岸信介が第56代の総理大臣として就任しました。

一年後、闘病生活を続けていた湛山は政界に復帰し、右半身の麻痺を残したまま、「病体を犠牲にしても平和を維持する努力をしたい」と、「日中米ソ平和同盟」の理念を掲げ、その締結へ向けて訪中を計画したそうなのですが、アメリカとの関係を重視する岸信介首相たち自民党の当時の主流派から態度を硬化され、右翼団体からも脅迫されるようになっていったそうです。

石橋湛山記念財団の理事を務めているという孫の石橋省三さんが、自宅の応接間や、暴漢に襲撃されるのを防ぐための分厚い鉄製のドアの書斎を紹介していました。湛山は強靭な精神力で、左手でものを書くことができるように訓練していたそうです。

反対派や暴漢による脅しに怯まなかった湛山は、昭和34年(1959年)の9月7日、訪中をすることになったそうです。「今回の訪中の目的は、日中両国の堅い提携を図り、東洋ないし世界の平和と人類の福祉の増進のために周恩来氏はじめ中国の諸君と隔意なく話し合おうとするものでございます。どうかこれを機会として一層超党派の政策が実行されるようにお祈りします」と、旅立つ前の映像の中で湛山は話していました。社会党の浅沼書記長という方が、湛山を見送りに羽田空港へ来ていたそうなのですが、外では、右翼団体による湛山を中傷するビラがまかれていたそうです(ビラには「赤の魔手に踊る石橋氏の訪中反対」などと書かれていたようでした)。そのような中、湛山は、たくさんの人たちに見送られて、羽田空港を発ちました。

湛山は周恩来と会談をし、周恩来は「日中米ソ平和同盟」に深い理解を示したそうです。同じ頃、ソ連のニキータ・フルシチョフも、軍備の廃止や、冷戦を終結させる意思を表明したそうです。立正大学には、学長を務めていた湛山の、訪中した翌年の昭和35年の元旦に左手で書いた書が飾ってあるそうです。「東西一家和楽春」と書かれていました。

雪解けが始まったかに見えた、というナレーションにも、何か寂しいものがあったような気がするのですが、昭和35年の1月19日、今の安倍晋三首相の祖父の岸信介首相は、訪米して日米新安保条約に調印し、日本では大規模な学生運動が起きたそうです。

石橋湛山は、岸首相の手法は非民主主義的であり混乱を招いたとして、自民党議員でありながら強行採決を欠席したそうです。昭和35年の6月19日、日米新安保条約は成立し、日米関係はより強固なものとなりました。

それから13年後の昭和47年(1972年)、当時の総理大臣の田中角栄は、訪中前に病床の湛山を見舞い、「石橋先生、中国に行ってきます」と伝えたそうです。9月、訪中した田中角栄は周恩来と握手をして、日中国交正常化が成立しました。日中両国の握手を見届けた翌年、湛山は88歳で亡くなったそうです。

「以来40年以上の時を経て尚、湛山が夢見た世界平和は実現していない」というナレーションの言葉にも、何か寂しいものがありました。

「日中米ソ平和同盟」の構想について、高橋さんは、湛山はロシア革命や辛亥革命などに共感していたと話していました。それは社会主義者というようなことではなく、この革命は民衆のためにやろうとしているというものだとして、民衆の利益のためには必要なものだとして、ネガティブな面も知りながら、民衆のためという点で共感していたということでした。

そして、現実主義者が誰よりも理想的なことを考えて実行していたのが面白い、「日中米ソ平和同盟」などを最初から無理だと考えるのは低級なリアリストで、高級なリアリストは理想主義も持っていなくてはいけないと話していました。

宮崎さんは、湛山は、国連を中心とした集団安全保障(集団的自衛権ではありませんとわざわざ言っていたのも面白かったです)の中で、日本はある程度の経済力や実力を持った“ミドルパワー”の中位国として国際平和を実現するためにどのように行動できるかということを考えていたのではないか、それは戦前の「小日本主義」から引き継いだものではないかと話していました。

湛山は、「核の脅威」を真剣に考えていたそうです。イデオロギーは国民に奉仕するものであるはずなのに国民がイデオロギーに奉仕させられるのは間違っている、冷戦は世界文明の進歩に逆行していると考えていたそうです。

日米安全保障以上の安全保障を考えるヒントが湛山の思想の中にはたくさんある、ということが今回の特集の中では伝えられていました。磯田さんは、思想家の政治家の湛山は「導火線」のようなものなのではないかと言い、植民地無き産業立国も、日中国交正常化も実現したように、米ソ中の核の脅威を真剣に考えるなら、「核の先制不使用」の交渉の導火線を引くことは、国民の命に責任を持つ政治家だったら一番現実的な政策になるのではないかと話していました。

しかし、石橋湛山のような政治家が今はいない、湛山のような政治家に今いてほしいということも、スタジオでは言われていました。湛山にはジャーナリストであってほしかった、湛山のような理想と現実を結びつける自由主義の思想の拠点をジャーナリストとして作ってほしかった、今湛山のようなジャーナリストが必要なのだと話していました。

高橋さんは、ジャーナリストとして湛山は理想系を示してくれた、でも政治家としては未完成だった、政治家をやりきることができていたらそこに新しい政治家像があったのではないか、とも話していました。

増田さんの話によると、湛山は思想家として50年以上世界の平和のためには世界連邦的なものを作るしかないと言っていて、その際最大の障害となり得るものはナショナリズムだと言っていたそうです。

イデオロギーは理論体系だから論破することもできるけれど、ナショナリズムは感情や感覚的なものだから理屈で淘汰できない、ということでした。

21世紀に入って、特にアメリカの「9.11」以降、ナショナリズムと宗教が結びついて大混沌の時代になってきた今、湛山の先見性をここに見ることができる、という解説を聞いて、本当にそうだなと思いました。

石橋湛山が総理大臣をあと2年続けていてくれたら、平成の世に財政家、セントラルバンカーとしていてくれたら良かったのにと宮崎さんは言っていて、石橋湛山が「今必要な人」であるということに、磯田さんやゲストの方たちの意見は一致していました。

磯田さんは、今我々が処方箋としてほしがっているものを湛山はたくさん提供してくれている、世界は湛山的ではないほうの流れになっている、どうすればいいかと思うが、リアルなものを見ながら世の中をハッピーにする現実的な行いは何なのかを忘れずに、言うべき時には言い、投票するべき時には投票し、湛山のような処方箋を書く人を見つけた時にはその人を応援したい、というようなことを話していました。

この番組を作ることができて良かった、と最後に司会の磯田さんが言っていたのですが、私もこの番組を見ることができて良かったです。

言論の自由が脅かされている世の中で帝国主義や軍国主義を一貫して否定し続けた石橋湛山のような言論人は、本当にすごいと思いますし、かっこいいと思います。

歴史や現代の政治に詳しい歴史家や評論家やジャーナリストの方が、現代には石橋湛山のような人はいない、と言っているということは、歴史にも政治にも詳しくないぼんやりとした一般市民の一人の私が知らないというだけではなく、本当に石橋湛山のような反骨の精神のジャーナリストや政治家はいないということなのだろうと思います。

先日には、戦前や戦中をよく知る101歳のジャーナリストだったむのたけじさん(武野武治さん)が老衰で亡くなったという報道がありましたが、戦争の絶滅や、軍備拡大や核保有の危険性などを強く訴えるむのさんのようなジャーナリストの方が、人数的にはたくさんいると思われるジャーナリストの方たちの中から現れないのだとしたら、それはどうしてなのでしょうか。

私は石橋湛山さんの進めようとしていた「日中米ソ平和同盟」という構想のこともよく知らなかったのですが、いわゆる「素人」の私には、特別に無理そうな構想だと思うことはできませんでした。どうして無理だと思うのでしょうか。日中国交正常化の時の田中角栄さんや周恩来さんの時のように、政治のトップの方々ができると思えばできるのではないでしょうか。国際協調と国益というものとのバランスを取りながら世界の平和を望むことができる人が政治家にはいないか、いたとしてもそのような政治家が政治のトップになるのは難しいということなのでしょうか(ある国がどこかの国と友好関係になると他の国との関係が悪くなるとか、何となく小中学生の?人間関係のようであるようにも思えてきます)。

石橋湛山は、民間レベルでの交流による平和の実現も考えていたそうで、それは多少は実現しているようにも思えるのですが、「民間レベル」と「政治レベル」はいつも切り離されているような気もします。

今の政府(自民党政権、安倍政権)を支持すると「右翼(右派)」ということになって、批判すると「左翼(左派)」ということになるというような雰囲気もいまいち謎に思えるのですが、今の政府の政策を鋭く批判するジャーナリストの方は、仮にいたとしても、例えば、「自主規制」や「自粛」をして政府の思惑に沿うような大手のテレビ局などのメディアには、出演することができないのかもしれません。

先日閉幕したリオデジャネイロオリンピックの閉会式の2020年の東京オリンピックを紹介する舞台上で「スーパーマリオ」のマリオに扮した安倍首相が土管から登場したことを、NHKも民放も、その情報番組や報道番組の中で、面白い出来事であるかのように伝えていました。私が聞いた限りではなのですが、TBSの「時事放談」に出演していた、「小さくともキラリと光る国」というキャッチコピーのあった、元新党さきがけの代表の武村正義さんだけが、政府専用機を使ってまですることだろうかと冷静に評していたような気がします(「小さくともキラリと光る国」も、石橋湛山の「小日本主義」から来ているものなのかもしれません。私は良いなと思うのですが、「大日本主義」?のような考え方のほうが人気があるというか、支持を得やすいものなのでしょうか)。

現代の日本社会の空気は戦前(太平洋戦争前)に似ているということが10年ほど前から少しずつ言われるようになっていて、今は昭和初期の戦前とは時代が違うと否定する方もいると思いますが、「歴史は繰り返す」ということが本当なら、「戦争前夜」の形が当時とは変わった形で少しずつ社会の中に浸み込んでいるということなのかもしれないなと思います。社会が変革される時、一般市民は浸み出してきたものを見てからそのことに気付くのかもしれませんが、為政者はそのずっと前から少しずつそのための計画を推し進めているものなのではないでしょうか。

最近には「保守」と「リベラル」が対立するものであるかのように言われていることもありますが、リベラリズムは「自由主義」という意味なので、既成の慣習や制度などを社会の伝統として守る「保守主義」とは、もともと対立するものではないそうです。「保守主義」の対義語は社会を変革していこうとする「革新主義」や「進歩主義」で、本来の保守主義は、民主主義(デモクラシー)を否定するものではなく、守るべきもののために変えることも必要だけれど一からは変えないというもので、今の「戦後レジーム(戦後の体制)からの脱却」のような、戦後の社会の歴史を全否定するような「復古主義」は、保守主義の考え方とは別のものであり、むしろかつての保守派の敵だったものの考え方に近いのだそうです。そもそも「保守」とは何かという定義をして議論をするのが生産的だと、先日、政治思想史家の宇野重規さんがラジオで話しているのを少しだけ聴くことができました。

今の時代に石橋湛山がいたならどのようなことを行うのだろうと気になりますが、今よりももっと社会や政治の「闇」が深かった頃に、言論と行動で時代の障害に立ち向かっていた石橋湛山の思想や生き方は、本当に立派だと思います。私にはできないことですが、番組の中で司会の磯田さんが話していたように、良い意見を言う人がいたらその人を応援するということはできるかもしれないなと思いました。

石橋湛山は東京で生まれて山梨で育った方ということで、石橋湛山記念館は、私はまだ行ったことがないのですが、山梨県の甲府にある山梨平和ミュージアムという小さな施設の中にあるそうです。

「昭和の選択」の浜口雄幸さんの特集も良かったですが、今回の石橋湛山の特集も良かったです。私は本当に知らないことが多いですし、忘れてしまうことも多いので、時々このような近代の偉大な人物や出来事の特集番組が作られて放送されることを有り難く思います。
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Author:カンナ
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