「こうしてヒロシマは世界発信されていった」

NHKのBS1で放送されていた「BS1スペシャル」の「原爆救護~被爆した兵士の歳月~」と「こうしてヒロシマは世界発信されていった」を見ました。

「こうしてヒロシマは世界発信されていった」は、先週に放送されていたものです。「原爆救護~被爆した兵士の歳月~」は、8月6日に再放送されていたもので、録画をしておいたものをようやく見ることができました。

「原爆救護~被爆した兵士の歳月~」は、原爆投下直後、上官からの命令によって訓練をやめて広島市内に入り、大勢の負傷者の救護に当たったり、無数の遺体の火葬を行ったりして「入市被爆者」となった元少年兵の方たちの証言を伝える特集でした。

当時の資料によると、命令の第一号は原爆投下の35分後の8時50分だったそうです。爆心地から4.5kmの宇品の船舶司令部に連絡が入り、二千人の第十教育隊の江田島の少年特攻兵たちが広島市内へ向かうことになったそうです。午前10時過ぎに偵察隊が江田島から宇品へ出発したそうなのですが、川は流れてくる人々で真っ黒だったそうです。水上輸送を命じられ、40人が似島で受け入れに当たることになり、将校からは、これから怪我人が相当来る、来たら肉親と思いなさいと言われていたそうなのですが、助けに来た少年兵たちの姿を見て泣き出す被爆者たちを見て、気持ち悪くなって、陸に着きそうになっていた船を海へ戻して、逃げようとしてしまったこともあるそうです。少年兵たちは、それまで死体を見たこともなく、触ったこともなかったからでした。気絶して帰された少年兵もいたそうです。

そのような証言を聞いていて、当時の少年兵たちは今の少年たちとほとんど変わらないという感じがしました。宇品へ向かった少年兵たちは、午後、市の中心部へ向かい、破壊された町の炎と煙の中を被爆で負傷した人々が彷徨っていたり、倒れたり、埋もれたりしているのを見たそうです。助けて、と言いながら少年兵に抱きつく人々は、なかなか少年兵たちを離さなかったそうです。広島の町はまだ真っ赤に燃えていて、生きのいいやつから助けろ、と命じられた少年兵たちは、一人でも救出してあげなければと、戸惑いながら救助や遺体の火葬の仕事を始めたそうです。

翌日の8月7日には、県外からも広島市内に部隊が入って来たそうなのですが、それは、広島が本土決戦に備えて西日本全体の作戦を統括する拠点となっていたからだということでした。大本営の調査団も広島へ来て、6日に投下された爆弾による被害状況の調査を始めたそうです。調査団の中心にいたのは、日本の原爆開発にも関わっていた理化学研究所の仁科芳雄博士で、市内を視察して回り、広島第一陸軍病院宇品分院で遺体の解剖を行った仁科博士は、原爆によるものと断定し、政府に報告したそうです。そしてその頃から、「入市被爆者」となっていた少年兵たちの体調にも、下痢や発熱といった症状を起こす「急性放射線障害」の異変が起きてきたそうです。しかし、当時の少年兵たちは、知られたら隔離されると思って黙っていたということで、原子爆弾を知らない人々の間では、チフスやコレラなどの伝染病ではないかとも考えられていたそうです。

少年兵たちは、不調に耐えながらできる限り丁重に救護や遺体の火葬の仕事に当たり、ある少年兵は1日に40、50人の遺体を火葬場で焼いたそうです。6日から12日の7日の間に、少年兵たちは、最初は見るのも触るのも嫌だった死体に平気で触ることができるようになり、ある少年兵の方は、遺族が見たら起こるかもしれないと言いながら、鳶口を遺体の鎖骨に刺して遺体を引きずって移動したこともあると話していました。

8月9日には長崎に原爆が投下され、満州ではソ連軍による侵攻が始まり、3日後の12日、爆心地で救護活動をしていた少年特攻兵たちには江田島に戻るようにという命令が下されたそうです。ソ連軍や米軍との本土決戦に備えるためでした。少年兵たちは、陸軍の小型攻撃艇の「マルレ」や爆雷の整備を行って準備をしていたそうなのですが、その3日後の15日に終戦となりました。

2時間の番組は前編と後編で構成されていて、後編は、戦争が終わって故郷に帰ることになった少年兵たちが、「被爆者」として、周囲の人たちからの差別や偏見の視線や、身体の不調に耐えながら生きてきたことが、元少年兵の方たちの証言によって伝えられていました。

メディアによって、広島の町や被爆者への「風評被害」は広まっていったそうです。被曝についての正確な知識のない一般の人々は、「伝染」するのではないかと恐れていたそうです。このような考え方は、2011年の東日本大震災の時にも一部の人々の間にはあったようで、悪口を言われたり嫌がらせをされたりした被災者がいたことは、当時にも報道されていました。

原爆の放射線を浴びた人は人間そのものがダメになっているという噂が広まっていたため、被爆した人はそのことを隠していたそうです。倦怠感などで自分の身体を思うように動かすことができなくなって仕事をすることができなくなった人は、「ぶらぶら病」と呼ばれて、周囲の人から蔑まれていたそうです。

広島では白血病で亡くなる人が増え、放射性物質が原因の「原爆症」と呼ばれていたそうなのですが、被爆者となった元少年兵の中には、故郷に居場所を見つけることができなくなった人も少なくなかったということでした。「ぶらぶら病」になったことで両親や兄弟たちを支えることができないと、一家心中を考えた方もいたそうです。元少年兵の被爆者の廣田さんは、父親が満蒙開拓団の団長で満州に渡った村の人600人と共に戦後消息を絶っていたことから、家族を心配する村の人たちから責任を負わさせるようになり、精神的に耐えられなくなって、故郷の村を離れたそうです。闇屋のような仕事をしながら生きていたそうなのですが、そのような廣田さんの生活状況は、昭和25年に朝鮮戦争が始まって警察予備隊ができたことによって、変わったそうです。1日150円が支給されるということを聞いて、廣田さんは警察予備隊に志願し、それから自衛隊員として生きてきたのだそうです。

昭和29年、アメリカの核実験によって第五福竜丸が被曝する事件が起き、原水爆反対の機運が高まり、広島と長崎の被爆者が声を上げ始め、昭和32年、国はようやく被爆者の救済に乗り出したそうです。日本政府とアメリカ政府は、残留放射線による被曝はほとんどないと考えていたそうなのですが、原爆傷害調査委員会(ABCC)で調査をしていた玉垣さんは、放射線が短時間で消失したというのは嘘で、残留放射線はあったと考えていたそうです。

差別を恐れて申請をためらう被爆者の方もいる一方、広島で救護活動を行った歩兵第321連隊の三千人の一人として、入市被爆者たちの原爆症認定を勝ち取ろうとした鎌形さんは、入市被爆者の会を結成したそうです。宮本医師は、食物や空気によって被曝した「内部被曝」の証拠を探し、セシウム137やストロンチウム90を検出するために、遺族の協力を得て、埋葬された兵士の骨を分析し、微量のストロンチウム90を検出して意見書をまとめ、10か月後、厚生労働省から、確定はできないけれど否定もできない、として認定通知が届いたそうです。

平成15年に、被爆者の一人一人に目を向けるべきだと国を相手に集団訴訟を起こした元兵士の方は、自分一人の問題ではなく被爆者全体の問題だと考えて裁判を起こしたのだそうです。その結果、306人中、279人がその時新たに認められたということでした。平成20年に国は入市被爆者の認定基準を見直し、それによって2万5千人が被爆者と認められたそうなのですが、高齢となった方々は次々と亡くなっていったそうです。89歳の河原さんは、今も認定を待っていて、お金よりも認められるかどうかだと話していました。

救援に行った被爆者はみんな言いたくない、自分の良心として自分の口から公にするのは直接被爆者や遺族に対して気が引ける
、と話す元少年兵の方もいました。左官職人として懸命に生きてきたという方は、何かに打ち込んでいなければ生きてこれなかったということだと話していました。古い時計を集めては時刻を8時15分に合わせて忘れないようにしているという91歳の斎藤政一さんさんは、ニューヨークの教会で被爆体験を語ったそうです。斎藤さんは、国連の軍縮会議で「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」と叫んで核廃絶を訴えた山口仙二さんの言葉を言って、日本政府は核禁止条約を見送りにした、これが唯一の戦争被爆国のすることだろうかということを話していました。

戦後自衛官として生きてきた廣田さんは、我を張り合う国と国が戦争をしないということは難しいと言い、「核の無い時代、どうでしょうね。私は死にます。あとは若い人たちが頑張ってください」と取材スタッフの方に話していました。

私は、原爆投下直後の広島で少年兵たちが救護活動をしていたということも、知りませんでした。驚きましたし、本当に大変だっただろうと思うのですが、真っ赤に燃える町の中で救護や火葬の仕事をしていた人たちが、自身も被曝をしていることを知って、葛藤を抱えながら日々を生きて、その時のことを今でもあまり他人に話したくないと思うのは、仕方のないことであるようにも思いました。

もう一つのドキュメンタリー番組の、「こうしてヒロシマは世界発信されていった」は、日系2世としてアメリカで生まれ、戦後広島市の職員となり、後に平和記念資料館(原爆資料館)の館長を務めた小倉馨さんの話でした。ドキュメンタリーと再現ドラマで構成されていました。

1957年、36歳の小倉さんは43歳のドイツ人のロベルト・ユンクさんに出会い、戦争犠牲者の代わりに声を上げなければと聴き取り調査を始め、1959年にユンクはその内容を『廃墟の光』にまとめ、その本は10か国でベストセラーになったそうです。

1960年代、核兵器が世界に拡散し始め、市役所の職員になった小倉さんは、ユンクさんへの手紙の中で、宇宙人から見たら自殺行為だろうと書いているそうです。

小倉さんは、ABCCで調査を行っていたバーバラ・レイノルズさんや、イギリスのフィリップ・ノエル=ベーカーさんや、旧西ドイツのハイネマン大統領などと会い、原爆を落とされた広島の惨禍を伝えたそうです。

小倉さんは、1949年に広島を訪れて惨状に衝撃を受けたという、アメリカのジャーナリストのノーマン・カズンズさんを敬愛していたそうです。カズンズさんの娘のアンドレアさんは、父はいつも世界平和について考え、世界中で核軍縮を訴えていたと話していました。

アメリカの精神科医のロバート・リフトンさんは、原爆の心理的な影響を調査するために1962年に広島を訪れ、41歳の小倉さんに協力を依頼したそうです。ABCCへの人々の反発の中、70人以上が説得に応じ、聞き取り調査に協力したそうです。被爆者から話を聞いたリフトンさんは、たった今原爆が落ちてきたかのようだ、と驚き、ヒロシマを真に理解することはできないような気がするとも思ったようでした。リフトンさんの『デス・イン・ライフ』という本にアメリカは衝撃を受け、リフトンさんはその後反核運動に身を投じ、90歳の今も、警鐘を鳴らし続けているそうです。

トルーマン元大統領の孫のダニエルさんは、小倉さんとユンクさんが初めて世界に紹介した、広島で被爆し白血病で入院した病床で亡くなるまで鶴を折り続けて佐々木禎子さんの本を読み、気持ちが揺れたそうです。2012年に広島を訪れ、折り鶴を伝える活動を始めたそうです。ハワイのパールハーバーでは、地元の学校の子供たちが、禎子さんの話をミュージカルで伝えている活動をしていました。

原爆資料館の館長を務めた小倉さんは、被爆者の声をアメリカに伝える活動を続け、1979年の7月、広島の平和宣言の検討中に倒れ、58歳で急逝したそうです。「平和は一人のため、一国のため、一国民のためのものではない。この世の全ての人の者である」と小倉さんは考えていて、「ヒロシマは訴え続けなければならない」、「平和とは、単に戦争の防止のみにとどまらず、憎しみを超えた愛と理性に基づき、人類の全てが共存共栄することである」という、1979年の宣言の言葉が最後に紹介されていました。

今は被爆者の声を語り継ごうという意志を、妻の小倉桂子さんが受け継いでいるそうです。被爆者の声を世界に伝えなければいけない責任がある、まだ世界にはたくさんの核兵器がある、イマジネーションの力を養って、何があったのかを思い起こしてほしいと話していました。

リフトンさんは、被爆者の声が世界に伝わったことが核戦争の抑止につながっている可能性があるというようなことを話していたのですが、それを聞いて、そうかもしれないと思いました。

日本政府の中にも「抑止力」として日本の核武装を支持する方がいるそうですが、本当の「抑止力」は、各国が率先して核兵器を開発したり多く持ったりすることではなく、核兵器を使用された被害者(被爆者)の苦しみをできる限り正確に伝え、各国の人々が被害者の苦しみを、想像力を活用して理解していくことのほうにあるのだと思います。一般の人もそうですが、政治家や役人の方の多くがそのことを理解することができるなら、自国(あるいは安全保障の契約をしている外国)が核兵器を持つことが敵対する周辺国による核兵器使用の抑止力になるというような考えにはならないのではないかと思います。

でも、対話の外交を軽視して戦争や紛争を始めようとする人たちは、その先に必ず出ることになる戦地の被害者のことは考えていないようですし、自国民が被害者にも加害者にもなるかもしれないということも特に考慮しないのかもしれません。

抑止力として、あるいは先制攻撃を示唆するための威嚇用の武器として、核兵器を持とうと考える人たちは、どこかの国民の中に核兵器による被害者、新たな被爆者を出してもいいと考えている人たちということになるのではないでしょうか。

もしかしたら日本政府が原子力発電所や「もんじゅ」を残そうとしているのは、いつか核兵器を開発するため(あるいはもうどこかで密かに作っているのでしょうか)なのかもしれないとも思えてしまいます。無傷の平和を願う戦争被害者の声が軍拡を考えている人たちには響かないというのが、本当に不思議に思えます。

20日にはアメリカのオバマ大統領が国連総会で任期中最後となる一般討論演説を行ったそうですが、北朝鮮の核実験と、小池百合子東京都知事と築地市場の豊洲移転の話題で持ち切りの日本では、ほとんど報道されていませんでした。一昨日からは国会が始まりました。NHKでは中継されていますが、報道番組では、国会の会議のことよりも、豊洲移転とオリンピック関連の問題のほうが大きく扱われています。

東京の築地と豊洲の問題も重要だと思いますが、それは東京都のことなので、全国放送の報道番組や情報番組では、国の政策のことも、バランス良く報道した方がいいように思えます。

小さな新聞記事の報道によると、26日には、日本政府が、安全保障関連法の成立を受けた自衛隊の、米軍への平時の弾薬提供や戦闘機への給油などの後方支援を行うための規定を盛り込んだ「日米物品役務相互提供協定改正協定(ACSA)」に署名したそうです。“経済大国”を目指す今の日本政府(安倍政権)は、これからは軍事産業にも積極的に関わっていくそうですし、企業や大学にも、軍事目的の研究・開発を進めようとしているそうです。

防衛装備庁を創った防衛省と大学が提携して軍事目的の研究を行うかどうかの問題は、昨日の「クローズアップ現代+」でも特集されていました。防衛のための研究ならいいのではないかとか、研究費をもらえるならいいのではないかと答えるどこかの大学の学生たちと話していたノーベル物理学賞を受賞した益川敏英博士は、無警戒になっていたら取り込まれてしまうと危惧し、科学者が社会問題に対して敏感にならなければいけないと話していました。

戦後71年の今、「平和」を訴える方たちの言葉が日本の世の中にも虚しく響いているのだとするなら、希求し続けなければ失われてしまうと言われている「平和」は、数年後の未来には失われてしまっているのかもしれません。

与党は『日本国憲法』を変えることを前提としているようですが、安倍首相が撤回しない自民党の改憲草案に現れているのが安倍総裁の率いる自民党の精神であるなら、今の自民党はやはり不気味に思えます。天皇陛下の生前退位(譲位)の件も、「官邸主導」で行いたいようですし、何となく、今の自民党には、「自由民主党」ではなく、むしろ「共産党」や「社会党」という党名のほうが合っているような気さえしてきます。

安倍首相は所信表明演説で、私たちに求められていることは悲観することでも、評論することでも、批判することでもなく、建設的に議論を行って結果を出すことだと話していました。政治において結果を出すことは大切なことかもしれませんが、評論や批判を否定するような考え方を持っていることに、驚きました。演説では自画自賛しながら、野党の批評には「当たらない」、「的外れだ」と繰り返す今の首相の「思考停止に陥ってはなりません」という言葉が本当なら、その「建設的な議論」を行うためには、評論や批判は、ごく普通に、多く行われるほうがいいものであるように思います。

選挙権を持つ多くの人が情報源としてまだ頼りにしているテレビや新聞などの大手メディアは、この前の参議院議員選挙の時のように、選挙の直後に『日本国憲法』の内容や安倍内閣の裏側の特集を放送するのではなく、普段からそれらの情報を分かりやすく一般国民に発信してほしいと思います。

また、先日の「NHKスペシャル」の「縮小ニッポンの衝撃」では、10年前に財政破綻した北海道夕張市の現状が紹介されていたのですが、保育園に子供たちがいるのに建物の老朽化が進んで耐震化もなされていないとか、北海道や国はどうしてそこにお金を出さないのだろうと、奇妙に思いました。「少子化」や「高齢化」が進んでいると困ったように言いながら、一方で児童福祉や教育などにお金を出さないというのは、なぜなのでしょうか。国(政府)が何十兆円も何千億円もお金を出すことのできている分野があるのなら、そのお金の一部で地方の老朽化している保育園の建物を直すくらい、簡単なことなのではないでしょうか。どうして国がすぐに助けないのか、番組を見ていて不思議に思いました。

今いる子供たちや未来の子供たちのことを、将来の「労働者」あるいは「税金」として考えているような感じも、気になりました。日本の少子化が進んでいくのは、子供を持ちたいと考える世代の方の生活が不安定だからというような、経済の問題だけが原因ではないような気がします。
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Author:カンナ
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