「重慶爆撃」の特集

先月の22日の深夜の日本テレビで放送され、録画をしておいた、「NNNドキュメント’17」の「戦争のはじまり 重慶爆撃は何を招いたか」を見ました。約1時間の番組です。

今年は日中戦争が始まってから80年の年なのだそうです。

日中戦争(支那事変)の頃に「重慶爆撃」というものがあったということを私が知ったのは、ジーコ監督の頃の2004年のサッカーのアジアカップの時の、日本代表の乗ったバスが地元の青年たちに囲まれるという事件の報道からだったように思います。もしかしたら日本史の授業でも少しは習ったことがあるのかもしれませんが、その事件の報道の際、ニュース番組などでは、中国に根強く残る「反日」の感情と共に、重慶の街にはかつて日本陸軍による爆撃(空襲)があったということが伝えられていて、それで知ったというような記憶があります。

第二次世界大戦(太平洋戦争、大東亜戦争)の頃の日本軍が中国で行ったこととして一番有名なのは「南京大虐殺」という事件だと思います。今の政府は「南京大虐殺」はなかったとも主張していますが、それは中国が発表している日本軍が殺したとされる中国人の人数が多すぎるということのようで、南京という街で日本兵による虐殺事件があったこと自体を否定するというほどのものではないようにも思います。「NNNドキュメント」では、以前にはその「南京大虐殺」の真相を突き止めるための調査の様子が伝えられていました。私には、南京での虐殺があったのかなかったのかを直接知ることができないので、その実像を知るために丹念に取材をしていたその番組は、(近年は政府の広報機関のようにもなっている)日本テレビの良心であるようにも思いました。

今回の重慶爆撃の特集の冒頭には、1945年3月10日の夜に300機以上のアメリカ軍の巨大なB29が東京上空を覆って1700トンの焼夷弾を投下して約10万人の命を奪った、東京大空襲という国際法で禁じられていた「無差別絨毯爆撃」を体験した作家の早乙女勝元さんが出演していました。そして、東京大空襲以降、アメリカ軍による爆撃(空襲)は日本全国へ広まっていき、長崎と広島に原子爆弾が投下され、8月15日に戦争が終わり、多くの日本人にとっては先の大戦は「被害」として記憶されているかもしれないが、しかし、そもそも「太平洋戦争」はいつから始まったのかと(映像では時計の針が逆向きに動いていました)、太平洋戦争が始まったとされる1941年12月8日の真珠湾攻撃の前の時代に遡って、1937年7月からの、日中戦争の始まりの頃のことが語られていました。

番組によると、重慶という街は、中国西南部の都市で、揚子江とその支流が合流する半島が街の中心となっているのだそうです。この街に日の丸の描かれた飛行機による爆撃(空襲)が始まったのは、東京大空襲の6年前のことでした。アメリカの国立公文書館に残されている白黒の映像資料には、防空洞という穴に避難するために走るたくさんの女子生徒たちの姿や、川や地面から爆撃による黒い煙が空へ高く伸びている様子、炎と煙に包まれた燃える重慶の街の光景が残されていました。爆撃は、5年間に渡って200回も行われていたそうです。

軍事ジャーナリストの前田哲男さんによると、日本の海軍と陸軍の航空部隊が市街地を爆撃し、市民の約8千人から1万人死亡して約5千人が負傷したそうです。そして重慶爆撃は、世界の戦争史上初めて行われた「戦略的爆撃」であり、組織的、意識的、継続的な攻撃の方法だったそうです。

日中戦争が始まって戦火が拡大すると、日本軍の海軍航空部隊は長崎から海を越えて上海や南京などの街に「渡洋爆撃」を行ったそうです。当時、国民党を率いる蒋介石は、揚子江を遡って、南京から武漢へ向かい、そして重慶に入ったそうです。日本の大本営は陸海空軍を結集し、1940年7月5日の読売新聞などの記事には、重慶を爆撃して軍需工場などを破壊したことなどが書かれているのだそうです。

防衛省に保管されている一次資料である日本軍の公式な戦闘資料の戦闘詳報(報告書)には、軍の関係者や関係部署の判子がたくさん押されていたのですが、昭和14年の6月11日の図には、高度5300メートルから、嘉陵江と揚子江の間の重慶の市街地で、半島のような場所を爆撃したことが書かれていました(図には大火炎と書かれていました)。その図では、日本軍が爆撃したのは軍事施設や工場だということでした。800kgの爆弾を乗せることのできる高速距離5000kmの海軍の九六式陸上攻撃機という飛行機で爆撃を行ったのだそうです。ノートの昭和15年8月のところには、中国軍から攻撃を受けた日本軍の飛行機の傷などについても細かく書かれていました。爆撃を受けても蒋介石がなかなか降伏しないため、日本軍は、1940年以降「百一号」という作戦で攻撃方法を展開し、軍事施設ではなく、地域全体をいくつかに区分して攻撃し始めました。通常の爆弾の他に、落下中に油を撒き散らして被害を拡大させる焼夷弾(カ四弾と呼ばれるそうです)も使ったそうです。

重慶の街には、今でも防空洞が史跡として残されていました。飲食店として使われているところもありました。爆撃(空襲)は、1938年から1943年まで続いたそうです。78年前に日本軍の爆撃を受けたという王西福さんという方は、空襲警報が鳴ったので上海料理店を経営していた両親と逃げたものの、両親を亡くし、4歳で戦災孤児となったそうです。昭和14年5月3日の日本軍側の記録には、攻撃したのは軍事施設と書かれているそうです。揚子江の交通の要所だった重慶の人たちは、爆撃に耐えながらの生活を強いられていたということでした。日本軍の爆撃機が来ると、街に赤い提灯が上がり、空襲警報が鳴ったそうです。アメリカの国立公文書館の資料の中の音は、ブザーのようなサイレンのような、ビービーとした低めの音でした。女子生徒たちが防空洞に逃げていました。重慶の中心部では木造家屋が燃えていて、消火活動をする人の姿も映っていました。

重慶市の西にある磁器口という街は、中国の古い街並みの残る観光名所なのだそうです。その街の趙茂蓉さんという方は、13歳の時に繊維工場から防空洞に逃げようとしたものの、人が一杯で入ることができず、落ちてきた爆弾で頬を切ったと話していました。怪我をした趙さんは、顔が醜いとして工場を解雇され、結婚後には子供がいじめられたということでした。趙さんが被害を受けたその爆撃は、昭和16年8月23日の日本軍の攻撃記録と一致するそうです。日本軍が焼夷弾を投下した場所は、民間人が暮らしていた場所だったそうです。

当時の重慶には日本軍に追われた人々が集まっていて、アメリカやイギリスの大使館も置かれていたのだそうなのですが、1940年の6月、外国とのトラブルを恐れた日本政府は、重慶のある地域に「安全地帯」を定め(地図によると半島の対岸のようでした)、そこに大使館を移動させて、その後重慶への猛爆撃を始めたということでした。蒋介石とその妻も安全地帯に住み、妻は空襲のある時には防空洞へ逃げていたそうです。

1941年の6月5日のある防空洞では、逃げ込んだ大勢の人々が圧死したり窒息死したりするという事故も起きたそうです。一枚の写真には、防空洞のそばの階段に倒れたままになっている遺体が写っていました。粟さんという方は、当時8歳で、事故の生存者の一人なのだそうです。家族は離ればなれになり、粟さんは防空洞の階段で眠っていた翌日、死体を運ぶ人に肩を叩かれて目を覚まし、子供が生きていると驚いた人々によって助け出されたそうです。二人の姉たちは行方不明だということでした。

事故の写真は、歴史に疎い私でも以前にどこかで見たことのある写真だったので、きっと有名な写真なのだろうと思います。アメリカの「LIFE」という写真雑誌の1941年の7月28日号に掲載された写真だそうです。

事故のあった防空洞の上にはビルが建っていて、番組のスタッフの方たちは、取材が許可された、普段は非公開というビルの地下へ地下へと進んで行きました。今は壁がコンクリートで固められていて、ビルの基礎のための柱があるということでした。暗い地下の奥は行き止まりになっていました。

番組で紹介されていた、階段と遺体の写真を掲載していた「LIFE」の記事には、日本の爆撃は重慶市民を長さ1.5マイルの防空洞へ追いやった」、「4千万人の重慶市民が防空洞で窒息死する」、「階段の頂上で積み重ねられた死人はパニックの中で自分や他人の服を引きちぎっていた」などと書かれていました(字幕の日本語訳です)。その事故から2か月後の1941年8月6日の朝日新聞の記事には、1万3千600人死亡と書かれているそうです。

同じ場所をもう少し広範囲に写したもう一枚の写真があるということで、番組のスタッフの方たちは、その場所を確認しに向かったのですが、「十八梯」という場所まではたどり着いたものの、同じ階段を見つけることはできませんでした。1990年頃のその街の再開発によって取り壊された可能性もあるようでした。

日本軍による爆撃を調査している西南大学の潘教授という方は、爆撃が行われた街は、重慶の他には、成都、蘭州、昆明、貴陽ですと話していました。飛行機が何機来たのか、街中に爆弾や焼夷弾がいくつ落とされたのか、街ごとの死傷者数などの細かい被害の実態は、「重慶市档案館」の档案資料(中国政府側の重要資料)に明確に書かれていると教えてもらったスタッフの方たちは、その資料館へ向かい、資料を見せてもらっていました。重慶市政府に何度か交渉を重ねた結果取材許可が下りたもので、重慶爆撃の公式資料の取材を行ったのは海外メディアとしては今回が初めてのことなのだそうです。ベージュ色のファイルにまとまっていて、軍や消防や警察や役所の一次資料である当時の紙は新しい紙による補強がなされていました。

その中には、十八梯での防空洞窒息死事件の記述もあり、6月6日には827人の方が亡くなったことが書かれているということでした。爆撃による直接的な被害については、名簿がありました。被害者には女性や子供、お店などを経営している一般の人が多いということでした。船夫や防護人員は軍人ではないそうです。

当時の日本と中国の一次資料を比べると、日本軍が空から爆撃を行った下で何が起きていたのかということがよく分かるそうです。資料を比較して明らかになったのは、日本軍が行った爆撃は「無差別爆撃」だったということでした。戦後、日本政府は(重慶の)市街地の高角砲という砲台を破壊するためだったとしていたそうなのですが、戦時中の日本の資料の地図には高角砲の置かれている位置がちゃんと書かれていました。日本陸軍は高角砲を狙って爆撃したわけではありませんでした。

番組で紹介されていた、重慶爆撃の一年前に作られたという、日本陸軍の昭和12年の「航空部隊用法」には、「直接の住民を空襲し、敵国民に恐怖を与えて、その戦争意志を挫折すること」と書かれていました。住民への直接攻撃は、軍の方針として最初から決まっていたことだったのでした。

そして、この重慶爆撃が新たな戦争の始まり(第二次世界大戦の開戦)へとつながっていきました。日本軍による無差別爆撃がアメリカで報じられると、日本とアメリカとの間には深い溝ができていったそうです。1941年の7月30日、アメリカのツツイラ号という船から8ヤード(7.3メートル)の場所に、日本軍の爆弾が落ちて被害が出たそうで、翌日の新聞には、「アメリカの砲艦への爆撃 日本へ抗議」、「米軍艦ツツイラの船尾が重慶爆撃で損傷した」、「インドシナへの進出などすでに高まっている両国間の緊張関係を助長させた」などとの見出しがありました。インドシナ半島に進出した日本軍は、アメリカやイギリス、オランダと対立を強めていきました。

当時の駐在大使のジョセフ・クラーク・グルーさんという方の日記には、「日米両国、戦争の8ヤード前まで来る」と書かれているそうです。アメリカは日本への航空燃料の輸出を禁じ(当時の新聞には「動力燃料は枢軸国の被害国と西洋諸国に限定」と書かれていました)、イギリスも経済制裁を行い、日本は孤立していったそうです。

駐米大使の野村吉三郎は、国務長官のコーデル・ハルとの会談し、「ハルノート」を示されました。「日本国政府は中国及びインドシナから一切の陸・海・空の軍兵力及び警察力を撤収せよ」と書かれていたそうです。「ハルノート」は、日本政府への事実上の最後通告だったそうです。しかし、東条英機内閣は、1941年12月8日にハワイの真珠湾を攻撃し、太平洋戦争を始めました。1938年に長崎から飛び立った日本軍の飛行機は中国の重慶を爆撃し、その3年後、アメリカの空母から飛び立ったアメリカ軍の飛行機は日本の全土を爆撃しました。番組では、日本軍やアメリカ軍の飛行機が飛んだ跡が、1938年の12月から1945年の8月までの月日を追って図で示されていたのですが、この図がとても分かりやすかったです。中国に対して繰り返し爆撃を行った日本がアメリカの爆撃(空襲)によって焦土と化したのでした。

前田哲夫さんは、日本が中国に対して行った戦法が逆に日本に対して、アメリカの空襲として行われた、日本の空襲はそういう歴史の因果のようだと話していました。日本の先攻行為としてあった無差別爆撃が、アメリカが東京や長崎や広島への爆撃へのためらいを和らげた可能性があるということでした。

東京大空襲を生き延びた早乙女勝元さんは、戦後、重慶へ行き、日本が行った爆撃について調べたそうです。太平洋戦争の始まりの原因を調べるために日中戦争に遡り、都市への無差別爆撃はアメリカよりも日本が先に始めたことだと分かったそうです。早乙女さんは、それ(無差別爆撃の戦法)がブーメランのように日本に返ってきた、戦争とはそういうものですねと話していました。

最後の映像は、裁判所でした。東京大空襲や重慶爆撃の被害者の方々は、日本政府に謝罪と賠償を求めて訴えを起こしているそうなのですが、現在までどちらも認められていないそうです。

戦争の終焉よりもその始まりを知ることが大切なことなのかもしれない、という言葉で番組は終わっていました。ナレーションは湯浅真由美さんでした。

日本では、特に安倍政権になった後の近年は、あまり戦争時代の日本の加害の歴史がテレビ番組で紹介されることは少ないので、このような番組が放送されることはある意味では貴重なことであるように思います。

「東京大空襲」が「東京大爆撃」と呼ばれていないように、「重慶爆撃」は中国でも「重慶空襲」とは呼ばれていないのでしょうか。私は重慶爆撃のことを少ししか知らないので、この番組を見て、もう少しだけでも知ることができて、良かったと思います。

この番組では、戦争時代の日本の中国への加害の事実が、日本と中国の保存している一次資料の一部と共に紹介され、日中戦争の時に日本政府や日本軍によって中国の人や土地に対して行ったことが、太平洋戦争の時にはアメリカ政府やアメリカ軍によって日本の人や土地に対して行われたということが伝えられていました。

日本軍が中国の市街地に行った無差別爆撃という戦略的爆撃の戦法が、アメリカ軍によって日本の市街地にも使われたということでした。「無差別爆撃」は、この番組によると、日本が世界で初めて実際に使ったということですが、現代の世界各地で起きている「自爆テロ」も、日本赤軍という1970年代の日本のテロ組織が初めて行ったと聞いたことがあります(「神風特攻隊」のような戦時中の日本の特攻も自爆的な攻撃ですが、このような自爆を伴う攻撃あるいは戦死を避けられない攻撃は、日本発祥ではないそうです)。

私は歴史に詳しくないので、日本史や世界史の授業で習ったことの少ししか分からないのですが(しかもうろ覚えです)、日中戦争(支那事変)の始まる前には第二次上海事変があり、第二次上海事変の始まる前には盧溝橋事件があり、盧溝橋事件の始まる前には第一次上海事変があり、第一次上海事変の前には柳条湖事件に端を発する満州事変がありました。その前には、第一次世界大戦があり、その前には日露戦争があり、その前には朝鮮半島を巡る日清戦争があり、その前にはイギリスが植民地のインドで育てた麻薬のアヘン(阿片)を清国に密輸していたことによる清国とイギリスとの阿片戦争がありました。

第二次上海事変の時には、中国の空軍が上海の「国際共同租界」を空爆したことがあるそうで、第一次世界大戦の時には、イギリスと日本がドイツ領だった中国の青島の市街を空爆したこと(青島の戦い)があるそうです。

歴史上の事件とは、それを起こした当事者でない者からすると、とても複雑なものであるように思えます。日本が先に攻撃をしたとか、相手国が先に攻撃をしたとか、陰謀とか、捏造とか、隠蔽とか、当時の政府や軍の関係者たちの行ったことは私には分かりませんが、それでも、ある国の軍や兵士や武装勢力が一般市民を無差別に殺すということは、酷いことであるように思います。今も各地で何者かによってテロ事件が起こされ、一般市民が死傷させられていて、そのような事件はいつも悲しい酷い出来事として報道されています。

19世紀から20世紀の戦争の歴史を、短時間のドキュメンタリー番組で全部伝えることはできないだろうと思いますし、それを見て知ったような気になってもいけないのだと思います。でも、日本の一人としては、約70年以上前の戦争時代について考える時、日本が死傷させられた被害の歴史と同じくらいに、日本が死傷させた加害の歴史を知ることは、大切なことであるように思います。少なくとも、それは日本にとって、決して悪いことでも不都合なことでもなく、無意味なことではないはずです。

日本史や世界史で習うような、歴史上の出来事となっている過去の出来事は、天皇陛下の退位(譲位)のことや宮家のこと、安倍政権の政治家たちが明治維新の頃や戦前の大日本帝国時代の頃を懐かしむこと、その政治家たちが国会を軽視したり、「教育勅語」を教育現場に復活させようとしたり、官僚や役人に命じて政権に都合の悪い事実を無かったことにしようとしたりすること、日本国憲法のこと、自衛隊と集団的自衛権のこと、在日米軍基地や日米地協定のこと、戦前の治安維持法のようになってしまうかもしれない共謀罪(テロ等準備罪)の創設のこと、軍需産業のこと、報道機関への政治介入のこと、統制経済のこと、保険料や税金という名目で為政者が社会的に弱い立場の人たちからもお金を搾取し続けていること、自然環境の破壊のこと、連日報道されているISILの関係者による無差別殺傷事件のことや、増えていく難民のこと、北朝鮮のミサイル開発のことなどの、今の出来事ともつながっているのだと思います。過去と現在とその先にあるかもしれない未来の出来事がつながっているということは、当然のことなのだろうとは思いますが、今回の「重慶爆撃」の特集を見てまた改めて思いました。
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