「1942年のプレイボール」と、「本土空襲 全記録」と「原爆と沈黙」のことなど

NHKの土曜ドラマスペシャル「1942年のプレイボール」を見ました。

父親の野口栄次郎(でんでんさん)と母親のかな(宮崎美子さん)が先代から受け継いでいた家業の染物屋を倒産させてしまい、大学野球で活躍していた4人兄弟4人姉妹の長男の野口明(勝地涼さん)は、家族のために大学を退学して職業野球の選手になる決意をしました。しかし、しばらくして東京セネタースの明さんは兵役で満州へ行かなければならなくなりました。そこで、今度は次男の野口二郎(太賀さん)が職業野球を始めることになり、大洋軍の寮に入りました。三男の昇(斎藤嘉樹さん)も阪神軍に入団しました。四男の渉(福山康平さん)も、甲子園を目指して野球を頑張ろうとしていました。4兄弟は、4人で野球を続けようという約束をそれぞれ守ろうとしていました。

太平洋戦争が始まる頃、兵役を終えて満州から帰国した明さんは、肩を負傷してボールを上手く投げることができなくなっていました。婚約者の喜美子(忽那汐里さん)とも別れようとしていました。明さんが肩を壊した理由は、戦地での手榴弾の投げ過ぎだったようでした。その頃、職業野球かどうかというだけではなく、野球そのものが敵国アメリカのスポーツとして白い目で見られるようになっていたため、野球界は軍部に睨まれないように努めていたようでした。後楽園の野球場ではある日、手榴弾投げの競技が行われることになったのですが、兄から戦地の話を聞いた弟の二郎さんは、大洋軍に復帰した兄を守るため、その競技への参加を兄に命じた軍人に兄の代わりの参加を申し出て、数字の書かれた的に手榴弾を投げました。

二郎さんは、お見合いをするという喜美子さんを大洋と阪神の試合に招待し、キャッチャーを任せた明さんにストレートの球を投げ続け、兄の活躍を喜美子さんに見せました。ボールを塁へ投げてアウトを取ることができた明さんは、少し自信を取り戻し、試合後、喜美子さんに改めて結婚を申し込みました。喜美子さんは、明さんが野球を続けていても辞めても一緒にいたいと答えていました。

そして、三男の昇さんの兵役が決まった1942年(昭和17年)の大洋と名古屋の試合では、ピッチャーの次郎さんは、日本記録だった延長25回を超えて、延長28回の試合を一人で投げ抜き、新記録を作りました。球場の客席からは大きな拍手が起こり、観客の喜ぶ姿を見た次郎さんは、兄の明さんと二人で、戦争なんかやめて野球をやればいいのになあ、と呟いていました。

それから、物語は戦後の昭和21年になっていました。

阪神で活躍していた三男の昇さんは、フィリピンで戦死したということでした。23歳だったそうです。兄たちのようには野球が得意ではないと悩んでいた四男の渉さんは、近畿日本(現在の福岡ソフトバンクホークス)に入団したそうです。次男の二郎さんは、阪急ブレーブス(現・オリックス・バッファローズ)で活躍し、明さんも、阪急ブレーブスや中日ドラゴンズで活躍したのだそうです。

語りは、三宅民夫アナウンサーでした。NHK名古屋放送局の制作のドラマで、脚本は八津弘幸さん、音楽は渡邊崇さん、演出は桑野智宏さんでした。

野球に詳しくない私は全く知らなかったのですが、愛知県名古屋市出身で、中京商業学校(現在の中京大学附属中京高等学校)に通っていた、「野口四兄弟」という野球界では有名な兄弟の実話を基にしたドラマだったようでした。野口二郎さんは、“元祖二刀流”と呼ばれているそうです。

戦争の時代に翻弄された野球四兄弟のドラマとしては良かったのだと思うのですが、「終戦記念ドラマ」というものとは少し違っていたようにも思いました。

戦争が描かれていたように思えた場面は、「ぜいたくは敵だ!」や「一億総火の玉」などと書かれているポスターが貼られていたり、出征する若者を家族や町の人たちが国旗を振って歌を歌いながら見送っていたり、軍人が威張った口調で明さんたちに命令したり、日本が勝っているということを伝える“大本営発表”の音がラジオから流れたり、戦地の明さんが手榴弾を敵のいる方角へ投げていたり、白黒の実際の映像がドラマの途中に少し使われたりしていた場面くらいだったように思います。それ以外は、戦前の野球少年の日常の物語という感じでした。

日中戦争(支那事変)は起きていたので、戦争の気配は常にあったのだろうと思いますが、戦争の残酷さを描くような具体的な場面はほとんどありませんでした。爆撃もありませんでした。町の人たちの暮らしから少しずつ自由や食料や財産が奪われていくような描写もありませんでした。

そのような場面がどうしてもなければいけないということでもないのかもしれませんが、戦時中の暮らしを伝えるという点だけでも、少し足りないように思えてしまいました。

私はこのドラマを戦争のドラマとして見始めたので、そのように思えてしまったのかもしれませんが、でも、戦時中を生き抜いた野球を愛する兄弟のドラマとしては、良かったのだと思います。私は野球をほとんど知らないのですが、それでも、戦争なんかやめて野球をやればいいのになあ、という二郎さんの台詞を聞いて、本当にそうだなと思いました。

「終戦記念ドラマ」自体も減っているように思いますが(以前はNHKだけではなく民放でも放送されていました)、現代では、戦争のドラマを作るというのは難しいことなのでしょうか。まだテレビは大きなメディアで、多くの人が見ているものだと思いますし、戦後72年を過ぎても、私のような戦争を知らない世代の人たちに、戦争とはどのようなものだったのかということをドラマで伝えることは、大事なことであるように思います。


ところで、このドラマの後の夜9時からの「NHKスペシャル」では「本土空襲 全記録」という番組が放送されていました(NHKのBSプレミアムのスペシャルドラマ「返還交渉人 -いつか、沖縄を取り戻す-」は録画をしておくことにしました)。こちらのドキュメンタリー番組は、確実に戦争関連の番組でした。

アメリカ軍が日本全土を無差別爆撃した背景には、アメリカ軍による硫黄島の制圧や、日本軍によって繰り返される中国の重慶への爆撃を嫌悪するアメリカ国民の間に日本へも無差別爆撃をしてもいいのだという空気が生じていたことがあったということを、アメリカ軍の「ガンカメラ」のフィルムに残されていた、アメリカ軍が日本の家屋や工場や駅や線路や人や馬などを爆撃して破壊する様子の映像と共に伝える特集でした。

データを基にした地図では、日本全土のほとんどが爆撃(空襲)されていたのですが、それは最終的に、アメリカ軍のカーチス・ルメイの部下たちへの命令が、日本のどこでも自由に撃って良い、というような命令に変わっていたからだったようでした。

ガンカメラの映像が今となってはとても貴重なものなのだとしても、戦争体験者が語っていたように、日本を爆撃するだけでも腹が立つのにその様子を撮影していたなんてもっと腹が立つ、という気持ちは正しいように思いました。その一方で、国家総動員法や国民徴用令、“本土決戦”に備えて戦争末期の政府が作った「一億玉砕」を実現するような義勇兵役法(陸軍省が沖縄の少年たちを招集した「鉄血勤皇隊」や「護郷隊」を昭和20年6月22日に法律にしたもので、年齢制限はないそうなのですが、原則として15歳以上60歳以下の男子や17歳以上40歳以下の女子に兵役を課すという徴兵制度だそうです)があることから、「日本政府は女性も子供も含めた全国民を軍事動員した=今の日本に民間人はいない」という発想から、アメリカ軍による日本各地への爆撃は無差別爆撃ではないとしたカーチス・ルメイの?考え方は、一般市民にとってはとても酷いものではありますが、そのような説(日本が全国民を軍事動員したという説)が本当であるなら、論理的には外れてはいないようにも思えました。

戦争そのものが残酷だというよりも、戦争を行う人間が残酷なのだろうと思います。

EテレのETV特集の「原爆と沈黙~長崎浦上の受難~」は、原爆が投下された長崎市の浦上地区の人々が長く被爆体験を語らなかった背景には、浦上地区にはキリスト教のカトリック信者が多いということと、その地区の中の浦上町が被差別部落として差別やいじめの対象となっていたということがあったという事実を伝える特集でした。

広島の被爆者も原爆症を伝染病だと思う人たちによる差別に苦しんだそうですが、長崎の被爆者は、番組によると、そのような被爆者という差別に加えて、古くからキリシタンとして弾圧を受けて来たカトリック信者というところと、被差別部落の出身者だというところの差別も加わっていたのだそうです。私はそのことを少しも知らなかったので、驚きました。そのような中、被爆体験を語り始めたというカトリック信者の西村さんや浦上町の中村さんのような方たちはすごいなと思いました。

150年前の江戸時代末期の1867年から明治時代初期にかけて、長崎ではキリシタン(カトリック教徒)への大規模な弾圧があり、それは「浦上四番崩れ」と呼ばれているそうなのですが、その弾圧では、長崎奉行所に動員された被差別部落の人々が信徒を襲撃したり捕まえたりしたのだそうです。そのため、長らく、カトリック教徒と被差別部落の人との間には溝があったということでした。

番組のタイトルの「原爆と沈黙」の「沈黙」には、遠藤周作の小説『沈黙』の意味もあったのかなと思います。後にキリスト者となった医学博士で作家の永井隆さんは、長崎のカトリック信者の被爆について、人類の罪を贖うための犠牲だという風に話していたそうです。1981年に長崎を訪れた第264代ローマ教皇のヨハネ・パウロ2世は、戦争は人間の仕業です、戦争は生命の破壊です、戦争は死です、と述べたそうです。

浦上天主堂(カトリック浦上教会)の被曝マリア像の目に平和への深い祈りが浮かんでいるのを感じ取った西村さんは、ご自身で被曝マリア像を制作し、スペインのゲルニカのサンタマリア教会に寄贈(奉納)したそうです。浦上町の方たちは、戦後に大阪の西成区という町へ移り住んでからも、差別やいじめを受けていたそうです。しかし、中学校?で講演を行っていた中村さんは、いじめや差別は絶対になくすことができると思うと断言していました。中村さんの話を聞いていると、そうであるように思えてきました。

戦後、被差別部落の環境の改善と差別の解消とを目的とした同和対策事業というものが行われるようになったそうなのですが、その調査の時、長崎県は、被差別部落は存在しないと国に報告していたのだそうです(当時の表によると、被差別部落のある県は主に西日本の県のようでした)。何となくなのですが、いじめを苦にした生徒の自殺の事件があった時、その学校の校長先生や担任教師や教育委員会が、いじめの事実はなかったと行政に報告するのとも似ているような気がしました。悪いのは被差別部落と呼ばれる地域やそこに暮らす人たちではなく被差別部落という地域を作っていた社会システムなのではないかと思うので、社会が被差別部落の存在自体を認めないことも、差別になるのではないかなと思いました。

長崎の原爆と聞くと長崎市に原爆が投下されたという風に考えると思うのですが、実際の爆心地はその北西の浦上地区だということで、番組の中で言われていた、長崎の原爆は「浦上の原爆」なのだという言葉に少しはっとしました。

昨日のTBSの夕方の頃に放送されていて、何気なく録画をしておいた「終戦72年特別番組 秘密 ~いま明かされる4の真実~」では(まだ全部を見ていないのですが、「NEWS23」の関連番組のようでした)、アメリカのネバダ核実験場の東にあるユタ州のセントジョージという町に暮らす「風下の人々」と呼ばれる人々の間でも、現在地下で行われている北朝鮮の豊渓里(プンゲリ)核実験場の周辺で暮らす人々の間でも、核実験後に謎の頭痛が現れたり、癌で死亡する人の割合が増えたりしているのに、放射性物質との因果関係を政府が認めていないというようなことを伝えていました。アメリカの核実験は1992年まで地上や地下で行われていたそうですし(新型の核実験は現在にも行われているそうです)、放射性物質は実験場の近くだけではなく、実は地球をもう何周もしているのではないかと思います。北朝鮮を脱した後、韓国で内部被曝の症状が出たらしい女性の方は、豊渓里の地下水や川の水が汚染されているのではないかと考えていました。でも、現地の知人に教えても、信じてもらえないのだそうです。

地下で核実験をすれば、地下の自然が放射性物質に汚染されるのだろうと思いますが、メディアではそのことをほとんど伝えていません。メディアも政府も「核兵器の脅威が増した」などと言うばかりです。増しているのかもしれないとも思いますが、放射性物質の汚染やそれによる被曝や自然破壊のことも、今回のドキュメンタリー番組の中でのように普段のニュース番組の中でも、ちゃんと伝えてほしいように思いました。
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