「戦慄の記録 インパール」と「綾瀬はるか『戦争を聞く』」のことなど

昨日は72年目の終戦の日でした。

全国戦没者追悼式には天皇皇后両陛下が臨席していました。天皇陛下がお言葉の中で「深い反省」を述べられたのは3年連続だということでした。安倍首相がアジアへの加害の責任について触れないのは5年連続だそうです。日本テレビの報道では、式場を後にする際に天皇陛下の動きが止まり、美智子さまに声を掛けられて退出なされたと伝えていたのですが、天皇陛下はしばらく「全国戦没者之霊」を見つめていたように見えましたし、何かをお思いになっていたのかもしれません。

NHKの「NHKスペシャル」では「戦慄の記録 インパール」が放送されていました。今から73年前の1944年の3月に始められた、ミャンマー(ビルマ)の国境地帯の山を超えてインドのイギリス軍の拠点のインパールの陥落を目指したとされる「インパール作戦」は、大日本帝国陸軍の歴史的な敗北と無謀な作戦の代名詞的なものとなっていますが、昨夜の番組は、その戦地で何が起きていたのかということを、メイヒョーという地からインパール作戦やコヒマの戦いの命令を下していた司令官の牟田口廉也中将(支那事変とも呼ばれる日中戦争のきっかけとなった1937年の盧溝橋事件の指導者でもあったそうです)の孫の方が反戦の考えを持っていた父親の代から保管していた遺品や資料、1960年代に残された牟田口中将の音声テープの証言記録、73年前に牟田口中将の近くにいた第15軍の齋藤博圀少尉の当時の日記から探っていくという特集でした。

インパール作戦は、もともとは大本営が立案をしていたそうなのですが、そのことを知った牟田口中将は、「大本営の意向」を実現したいと思うようになり、盧溝橋事件の頃の仲間でもあったビルマ方面軍の河辺正三司令官が牟田口中将にその作戦を実行させてあげたいと思い、報告を受けたその上官の南方軍の寺内寿一総司令官がそれを推し進め、その上官の大本営の杉山元参謀長が作戦の実行を許可したということのようでした。でも、戦後には、大本営は自分たちは命令していないと否定したのだそうです。日本の組織の意思決定の曖昧さ、責任の所在の無さが、73年前のインパール作戦にもありました。

牟田口中将のインパール作戦には、当初は第15軍の小畑信良参謀長が、兵站が足りないという面から作戦の実行に反対したそうなのですが、その消極的な意見に牟田口中将が激怒し、就任してから1か月ほどで左遷されてしまった後、反対していたビルマ方面軍の稲田総参謀副長も更迭され、反対の声を上げる人たちは少しずついなくなっていったということでした。

具体的な作戦内容よりも、組織内の人間関係が優先される中、1944年の1月7日にインパール作戦は認可されたそうです。

齋藤さんの日記によると、牟田口中将たち上層部は「何千人殺せばどこが取れる」という言い方で攻略の作戦を話し合っていたそうなのですが、「殺せば」の相手は敵兵ではなく、各師団の各連隊の日本兵たちのことでした。

後方支援のないインパール作戦での日本兵の死因の多くは餓死や疫病による病死で、無謀な作戦は4か月経ってようやく中止となったそうなのですが、死者の6割はその帰りの道で亡くなったそうです。作戦は明らかに失敗で、牟田口中将も最後のほうではそれを自覚し、秦中将も中止を進言していたそうなのですが、当時の東条英機首相は天皇陛下(昭和天皇)にも、失敗していないという趣旨の嘘の報告をしたのだそうです。

牟田口中将は作戦の途中に師団長を更迭するということもしていたそうなのですが、齋藤さんの日記の、牟田口中将の毎朝の「インパールを落とさせ給え」という祝詞の話にも驚きました。意味不明です。全滅(玉砕)をしてもインパールを取れ、という考え方の論理は破綻しています。具体的な作戦がないまま毎朝祝詞を唱えるとか、皇軍(日本軍)の支えはやはり「宗教」だったのかもしれません。戦地から遠い場所で指示を出している牟田口中将の、戦地の現場にいる部下たちのことを分かろうとしていないような言動にぞっとしました。

インパール作戦中の日本軍は、ミャンマーの方の家から大切な牛や山羊などを連れて行ってしまったそうなのですが、ミャンマーの方たちは日本軍に対してそれほど悪い印象を持っていないのか、病に倒れた日本兵の世話をしていた方もいて、今も日本兵の遺骨や遺品を発掘すると、それを保管してくださっているようでした。イギリス軍に反撃された日本兵の血が流れた丘は「レッドヒル」と呼ばれ、雨季のミャンマーでは遺体の腐敗が早く進み、日本兵の通った道は「白骨街道」と呼ばれたそうです。

日本兵は上官から、肉薄攻撃という今の自爆テロ事件のようなことも命じられていたそうなのですが、自決をする際にも、天皇陛下万歳と叫ぶ人はほとんどいなくて、みんな母親や父親の名前を叫んで死んでいったのだそうです。

インパール作戦を決行した牟田口中将は、作戦の中止後、部下たちを残して、一早く帰国したということでした。齋藤さんは、病気になり、置き去りにされたのだそうです。ミャンマーの山には、兵士の遺体を食べるインドヒョウやハゲタカがいたそうです。兵士だった望月さんの絵には、日本人が日本人の死体から肉を切り取る様子が描かれていました。その肉で物々交換をしたのだそうです。話を聞いていて、大岡昇平の小説『野火』を思い出しました。望月さんは、日本軍はそのような軍隊だった、落ちぶれていた、それがインパール作戦だと話していました。

チンドウィン河の近くには、多数の日本兵の遺体があったそうです。傷病兵には銃や手榴弾が渡され、野戦病院では700人の兵士が自決を余儀なくされたそうです。インパール作戦での戦死者は約3万人、傷病者は約4万人ということでした。

戦後、上層部はインパール作戦の責任とどう向き合ったのかについては、牟田口中将は、作戦は上司の指示だと言い、イギリス軍に責任を問われた大本営は、作戦を立案していないと言い、結局、南方軍やビルマ方面軍や第15師団の作戦の拡大によると、部下の責任にしたようでした。牟田口中将は、敗戦後、世間の人々から批判されていたそうで、イギリス軍のバーカー中佐からの手紙の、日本軍に苦しめられた、との一文を読むと、褒められていると解釈し、神のお告げかという風に喜んでいたのだそうです。

牟田口中将は77歳で亡くなったそうなのですが、日記を書いた齋藤さんは、96歳でご存命でした。車椅子に座っていました。齋藤さんは、連合軍の捕虜となり、生きて帰国することができたそうなのですが、結婚後、家族には戦争のことをほとんど語らなかったそうです。よく見つけたな、あまり思い出したくないな、とスタッフの方に言っていた、当時23歳の齋藤さんの日記には、将校や下士官の死体はなかったということが書かれていました。

齋藤さんは、日本の軍隊の兵隊に対する考え方はそんなものです、だから内実を知っちゃったら辛いです、と話していたのですが、その話し方は本当にとても辛そうでした。元兵士の方たちは、思い出したくもないような酷いものを、たくさん記憶しているのだろうと思います。牟田口中将の勲章や資料などを保管していた孫の方とそのお父様の、牟田口中将の行為に対する冷静な姿勢も(実際には複雑な思いをしているのだろうとは思いますが)、すごいなと思いました。当時の日本軍の資料には捨てられたり燃やされたりしているものも多いそうなので、牟田口中将の資料や、凄惨な実情を記録した齋藤さんの日記はとても貴重なものなのだと思います。


BS日テレの「深層ニュース」(先週の自民党議員の石破茂さんと民進党議員の前原誠司さんの千葉のいすみ鉄道の旅も何だか面白く思えました)では、「戦争を知らない方へ」として、元官房長官の野中広務さんと元自民党幹事長の古賀誠さんが、ご自身の戦争体験や、フィリピンのレイテ島へ慰霊に行った時の神秘的な体験、戦争を知らない政治家による日本国憲法9条改正の問題や、東京裁判でA級戦犯とされた人々が突如合祀された靖国神社参拝の問題について話していました。対談が行われていたのは、陸軍第16師団司令部の庁舎だったという京都の聖母女学院の本館でした。

野中さんは、8月15日ではなく2日後の17日になって「終戦」を知り、仲間たち3人と高知の浜で切腹自殺しようとしたそうなのですが、そんなことをするくらいなら東京へ行って東條英機を斬ってこいと自殺を止められたそうです。野中さんも古賀さんも、(昭和天皇が靖国神社を参拝できなくなった理由ともされている)A級戦犯の合祀をやめて分祀することや国立の追悼施設の建設を提案していて、憲法の特に第9条の改正は戦後処理が終わってからでないといけないと話していました。靖国問題は国内の問題なのだから、まずは国民が考えなくてはいけないという風に話していて、確かにそうだなと思いました。少しでも戦争を知っている政治家が、戦争の怖さや、戦争がどれほどの不幸を残すかという伝えていかなければいけない、他国の人にも日本人にも大きな傷を残したということを政治家は忘れてはいけない、悔しい思いをすることがあったとしても戦争をしないということを政治家が自覚するしかないと訴えていました。

読売新聞の吉田清久編集委員は、戦争をイメージできない人が政治を引っ張っていることに何か嫌なものを感じると話していて、司会の近野宏明キャスターは、戦争は政治家だけの責任ではない、政治家を選ぶ国民にも責任の一端はあるという風に話していました。吉田さんは、戦争はまだ終わっていない、歴史家の手に委ねるのはまだ早いと思うと、番組をまとめていました。

確かに、戦争には国民の責任もあると思います。でも、戦争の初期の頃に国民が積極的に戦争を応援したり、戦争に協力したりしていたのは、そのような国民への教育が常に行われていたからで、戦争に反対する人たちを社会主義者だとか共産主義者だとか言って投獄するような明治時代以降の近代の歴史があったから、ということもあるのではないでしょうか。少なくとも、子供が“軍国少年”になったのは、当時の政治家やメディアや財界人や教育者たちが、国民をそのように誘導・扇動したからなのではないかと思います。盛り上がる方や威勢のいい方や活発な方へ流される人が多いのかもしれないとも思いますが、そうして誘導された人が増えていけば、戦争に反対する少数派は圧倒されてしまいます。戦争反対の意思を貫くことができた方もいたかもしれませんが、戦争賛成派の人々に非国民などと罵られて苦しんだ方や、それを恐れて黙ってしまった方もいたかもしれません。

国民自身が自分たちにも戦争の責任はあったと反省するのは良いことだと思いますが、政治家の側の人たちが、国民にも責任があったと言うのは、卑怯だと思います。最近には、戦時中に国内の国民の生活が国に強く抑えつけられていたのは1943年以降だという意見を述べる方もいるそうなのですが、太平洋戦争は1941年から始まっているので、仮に2年間だとしても十分長いですし、その抑圧は深いものだったのではないかなと思います。

旧約聖書の「モーセの十戒」の後半に書かれていることは、当時から現在まで一貫して人類への普遍的な禁止事項であるように思えますが、どうして守られないのだろうと思う一方で、人類が守ることができないからわざわざ神様による禁止事項として戒律を残そうとしているのかもしれないとも思います。


TBSの「NEWS23」では、恒例の、特別企画の「綾瀬はるか『戦争』を聞く」が放送されていました。イギリスのロンドンで開催されていた「世界陸上」の試合の生中継があったので、もしかしたら今年はこの企画は無いのだろうかとも思っていたのですが、大丈夫でした。ちゃんと有りました。

今回は、今は“うさぎ島”として知られているという、広島県竹原市の大久野島で行われていた日本軍による毒ガス製造の事実を伝える特集でした。

大久野島では1929年から毒ガスの製造が始まり、その頃にはまだ地図に記載されていたのですが、1938年の地図からは消されたのだそうです。地図から消された理由は、毒ガスの製造が国際法では禁止されていたために隠れて造ることになったからだそうです。その頃、海沿いを走る列車の窓は閉められていて、窓の隙間から島を見ようとすると、見張りの憲兵に逮捕されたそうです。

女優の綾瀬はるかさんは、大久野島へ行き、14歳の頃に工場で毒ガスを製造していたという91歳の藤本安馬さんから当時の話を聞いていました。島には資料館があり、当時の道具や資料が展示されていました。藤本さんは、当時は“軍国少年”で、お金をもらって勉強ができるという理由で島へ来たそうです。毒ガスの液体は、触ると火傷をしたように爛れるものだったようで、「死の露」と呼ばれていたそうです。

島で造られていた毒ガスは日中戦争で使用するためのもので、藤本さんは、自分が造っていた毒ガスのルイサイトの化学式を今でも憶えていたのですが、それは自分が中国人を殺した加害者だったという事実を忘れないようにするためだと、綾瀬はるかさんに話していました。毒ガスの方程式を忘れることは、犯罪の根拠を忘れること、無かったことにすることだから、絶対に忘れてはいけないのだと話していたのですが、自分のことを「犯罪者だ」とはっきりと言う藤本さんは、すごいと思いました。

1942年の5月には、中国の河北省の北たん村(たんの文字は田偏に童でした)というところで、その毒ガスが使われたそうです。村の人々が避難した地下道へ毒ガスが投げ込まれ、女性も子供も苦しみながら死んでいったそうです。そこで妹の手を離してしまったという李さんは、家族4人を失ったそうで、日本人を死ぬほど恨むと話していました。藤本さんは、2004年にその村を訪れ、李さんに直接会って、事実を打ち明けて謝罪をしたのだそうです。藤本さんについて、88歳の李さんは、本当のことを話してくれる人は少ない、正直に話してくれて良かった、彼も戦争の犠牲者だと話していました。

女子学生も毒ガスの製造に関わっていたそうなのですが、証言をなさっていた黎子さんによると、毒ガスとも、危険なものだとも教えられず、ドラム缶に触れた後の手で頬に触ってはいけないとだけ言われていたそうです。マスクも普通の綿製のものでした。水泡ができたり、視力が衰えたりした方もいたそうで、多くの人は慢性気管支炎になったそうです。島の近くの病院には、約3000人分のカルテが残されていたのですが、毒ガスで約3700人が亡くなったのだそうです。藤本さんも、たくさんの薬を飲み続けていました。それでも、毒ガスの事実を証言するために生きるのだと話していました。今は、自分の戦争体験と日本の戦争の負の歴史を伝えるため、語り部をなさっているそうです。

島の奥の工場は、廃墟になっていました。庭にはうさぎたちがいました。長浦毒ガス貯蔵庫の黒い焦げは、アメリカ軍の火炎放射器で燃やされた跡でした。その時に多くの資料も燃えたそうです。綾瀬はるかさんは、藤本さんに案内されてその施設を見ていました。藤本さんは、毒ガスを造ったこと、中国人を殺したこと、当時は日本の“英雄”だったことは事実だと話していて、それを聞いた綾瀬はるかさんは、事実をそのまま受け止めているんですね、と藤本さんの絶対に戦争をしてはいけないという強い思いに理解を示していました。

綾瀬はるかさんのこの企画が長く続いているのは、良いことだと思います。星キャスターは、政治指導者が加害の歴史を認めて後世に残していくことが必要だと話していました。「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」ためには、被害の事実だけではなく、加害の事実も戦時下の事実として冷静に受け止めて反省し、当時の出来事を様々な角度から検証して後世に残していくことが大切なのだと思います。


NHKの「時論公論」では、「人道に対する罪」で裁かれたBC級戦犯を看取った教誨師だったという神奈川県の川崎のお寺の住職の関口亮共さんの遺した兵士やその家族との手紙を、国がプロジェクトとして調査し、資料をデジタル化して保存するべきだと提案していました。これも、日本が「加害」の歴史と向き合うということなのかもしれません。加害の歴史を遺すことは、「自虐史観」と呼ばれるようなものではないと思います。日本が先の大戦の中で良いことを行ったのならその良いことを、悪いことを行ったのならその悪いことを、事実として受け止めて冷静に後世に伝えることは、戦争を防ぐためにも、歴史の研究のためにも、重要なことだと思います。


昨日の報道によると、韓国では、慰安婦の少女像を大量に作り、さらに軍艦島の?徴用工の像も作ったということでした。日本では考えられないことのように思いますが、一方で、韓国に近い北朝鮮でも、このような(日本に負けたということを表すような)像は作りそうにないように思いました(あるいは、知られていないだけで、北朝鮮でも似たようなものを作っているのでしょうか)。

アメリカのトランプ大統領は、12日、バージニア州のシャーロッツビルという町で白人至上主義団体と反対派が衝突して、少なくとも1人が死亡したという事件の会見が遅れた上に、白人至上主義を明確に非難しなかったことを激しく批判され、14日に改めて声明を出して、人種差別は悪だと言い、ネオナチや白人至上主義者団体「クー・クラックス・クラン(KKK)」などを名指しで非難したそうです。昨日の報道では、トランプタワーの前でトランプ大統領に反対する人々のデモが行われている様子も伝えられていました。

でも、安倍首相も、昨年に神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で殺傷事件が起きた後、なぜか記者会見を行いませんでした。19人の方が殺されて26人の方が重軽傷を負うという「戦後最悪の大量殺人事件」と言われている社会問題になっている事件であるにも関わらず、事件から一年目となった先月にも、記者会見を行いませんでした。自民党の大島衆議院議長宛ての犯人の手紙が残されていたということは良かったと思いますが、障害者への差別思想を持った人物による「ヘイトクライム(憎悪犯罪)」と呼ばれる種類のものだということは明らかであるのに、政府は「差別」については触れませんでした。障害者差別のことに触れないまま、すぐに「措置入院制度」の話にすり替えました。政府も警察も、この事件を「テロ事件」として扱いませんでした。ニュースで白人至上主義団体の事件とトランプ大統領の話を聞いていて、直接には関係のないことではあるかもしれないのですが、何となく、この昨年の「津久井やまゆり園」での障害者殺傷事件と安倍首相のことを思い出しました。

72年以上前の第二次世界大戦の頃のナチス・ドイツの「優生思想」や「ホロコースト」の歴史以外にも、「差別」は昔からあるそうですし、これからの戦争は20世紀の戦争のようにはならないと言う方もいますが、科学技術は進んでも人間から赤い血が流れるということは変わっていませんし、負の歴史に関して、歴史は繰り返す、ということにならないといいなと思います。
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