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「西郷どん」第15回と、廃仏毀釈や女人禁制の穢れのことなど

NHKの大河ドラマ「西郷どん」の第15回を見ました。

第7回以降感想を書くことができていなかったのですが、毎回を面白く見ているというのは少し異なるものの、物語の流れが分からなくならない程度には、一応見ています。

主人公は西郷吉之助(後の西郷隆盛、鈴木亮平さん)なのに篤姫(北川景子さん)の場面が多いな、という風にも少し思えていたのですが、仕方がないのかもしれません。

第15話は、病に伏せるようになった第13代将軍・徳川家定(又吉直樹さん)と、薩摩藩主の島津斉彬(渡辺謙さん)が相次いで亡くなる話でした。

島津斉彬や越前福井藩士の橋本佐内(風間俊介さん)や公家の近衛忠煕(国広富之さん)と共に、第14代将軍に一橋慶喜(松田翔太さん)を擁立しようと奔走していた吉之助さんは、紀州徳川家の慶福(後の徳川家茂)を推す彦根藩主の井伊直弼(佐野史郎さん)たちの作戦に敗れ、失意の中、薩摩に帰郷していました。そして、島津斉彬に、京で挙兵するよう進言しました。江戸城で家定が息を引き取った数日後、挙兵を決めた島津斉彬は、鶴丸城下で兵士たちの訓練を観覧していた最中に突然病に倒れ、その数日後に亡くなったということでした。

徳川家定と島津斉彬は、1858年(安政5年)の夏のほぼ同じ時期に亡くなったようです。

今回は、島津斉彬が井伊直弼に敗れる話でもあったのだろうと思います。歴史では、「桜田門外の変」で尊皇攘夷派の人々に暗殺されることになる大老・井伊直弼ですが、第15話を見ていて、井伊直弼は悪い人だったから尊王攘夷派に暗殺されたのだ、という風にはならないといいなと、何となく思いました。

ドラマの本編の後の「紀行」では、島津斉彬の埋葬された福昌寺という鹿児島県鹿児島市のお寺が紹介されていたのですが、解説によると、神道で国家を統合しようとした(神道を国教化しようとした)明治政府の出した神仏分離令から引き起こされた「廃仏毀釈」の運動によって、島津家の菩提寺である福昌寺も破壊されたのだそうです。本殿のなくなった「福昌寺跡」には、島津家の当主のお墓だけが残されているそうです。解説によると、島津斉彬は、死後5年ほどして、朝廷から照國大明神という神号を贈られ、鹿児島市内の照國神社という神社に神として祭られているということでした。

廃仏毀釈とは罪深いものだということを改めて思います。アメリカから来日したアーネスト・フェノロサやその助手となった岡倉天心(岡倉覚三)が日本の古刹と呼ばれる古いお寺に関心を持たなかったなら、仏教文化の要素を多く含む日本の美術や建築は今のようには救われていなかったのだと思います。

公益財団法人・日本大相撲協会が主催する大相撲の「女人禁制」と明治以降に「女相撲」が消された歴史が話題になっていた先日、TBSラジオの「荒川強啓 デイ・キャッチ!」という番組の中で、文化人類学者の関根康正さんという方が「穢れ」という概念について話しているのを、私も少しだけ聴くことができました。

大相撲の「女人禁制」は、明治維新後の日本で、文明開化と富国強兵、西洋化と家父長制強化の考えとが結びついて作られたものだということが初めに言われていたのですが、古来の女性を「穢れ」とする考えは、人生の断絶や混沌を社会の中で共有しようとする「結集の論理(生活の論理)」から出たもので、大相撲などに見られる女性を「不浄」とする考えは、本来の「穢れ」とは異なるもので、支配する者が排除する人を選ぶために制度化した「排除の論理」から出たものなのだそうです。

それまでの秩序が壊されるという人生の断絶のポイント(生や死に関わる血の穢れ)をマーキングしてその地域社会の人々の間で共有しようとするのがお祭りだというような話を聴いて、なるほどなと思いました。お葬式も、結婚式も、「穢れ」なのだそうです。混沌をみんなで共有しようとする「穢れ」と、混沌を恐れる支配者が一定の人々を排除しようとする「不浄」とは、同じ「穢れ」という言葉を使っていたとしても、全く別のものであるようでした。

その文化人類学者の方は、世界は聖と俗でできている、近代化とは世俗化することで、世俗とは計算可能な世界のことだと話していました。そうかもしれません。その方は、男性でも女性でも修行者は「禁欲」として異性を遠ざけていたので、神迎えや神送りの儀式を行う大相撲を普通の興行とは異なる祭礼として土俵を聖域とするなら、明治以降の大相撲の「女人禁制」も受け入れられるのではないかという趣旨のことも話していました。女人禁制となっている今のままのほうが大相撲は面白いのではないか、という意見のようでした。

沖縄の斎場御嶽での儀式など、琉球のほうの祭祀には女性のみが行うものもあるそうですし、一方の性別で集まるということが必ずしも性差別に当たるとは思いません。後世の人が選び取ったものの積み重ねである「伝統」は、浅くても、深くても、いつでも少しずつ新しく変えることができるものなのだろうと思います。ただ、その文化人類学者の方の「穢れ」の話をラジオで聴きながら(もしかしたら私の理解は正確ではないかもしれませんが)、人間は逃れることのできない生と死とそれにまつわる物事を混沌や秩序の乱れ、カオスとして、長い間、相変わらず恐れ続けているのだなという風にも思えてきて、少し面白く思いました。

文部科学省が小学校や中学校の教科とした「道徳」の授業では、「崇高なもの」や「畏敬の念」についても、教師が児童や生徒に教えることになるのだそうです(「主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること。」)。これからの人がどのように変わっていくのか、あるいは変わらないのか分かりませんが、欲するということは教えようがない、という哲学者のセネカの言葉を思い出します。
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