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「隠れキリシタン」ではない「潜伏キリシタン」という言葉

先日の5月4日の報道で知ったのですが、国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の諮問機関の国際記念物遺跡会議(イコモス)は、長崎県と熊本県の文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」について、世界文化遺産への登録をユネスコに勧告したのだそうです。

日本のある重要な場所がユネスコの「世界遺産」に登録されるということが本当に良いことなのかどうか、私にはいまいちよく分からないように思えるのですが、最近の世界遺産は「町興し」の意味合いが強いようなので、その地元の方々のほとんどが「世界遺産」への登録を喜んでいるのであれば、それはそれで良いことなのかなとも思います。

そして、先日のこの報道を聞いて私が気になったのは、世界遺産がどうということよりも、「潜伏キリシタン」という言葉でした。

私は学校の日本史の授業で「隠れキリシタン」(「かくれキリシタン」や「カクレキリシタン」という表記もあります)と習い、本や漫画などでもそのように見聞きしていたので、今までずっと「隠れキリシタン」だと思っていました。

そのため、私には、今回の報道で初めて見たり聞いたりした「潜伏キリシタン」という言葉に、とても違和感がありました。「潜伏キリシタン」という言葉は、一体いつ頃から使われるようになったのでしょうか。もしかしたら今の小学生や中学生や高校生の使う歴史の教科書には「隠れキリシタン」ではなく「潜伏キリシタン」という言葉が使われているのでしょうか。「潜伏」という言葉にも「隠れる」という意味はありますが、犯罪者やテロリストやゲリラ部隊や病原菌やウイルスがどこかに隠れている場合に使う言葉であるという印象があります(辞書でも「潜伏」はそのように説明されています)。ファンであることを公言していないファンのことを指す「隠れファン」という言葉がありますが、「潜伏ファン」という言葉は聞いたことがありません。

報道の解説によると、1873年(明治6年)にキリスト教に対する禁教令が撤廃された後、「潜伏キリシタン」は、カトリックに復帰する信徒と、江戸時代の禁教令時代の信仰の在り方を維持する「隠れキリシタン」とに分裂し、現在集落に建つカトリックの教会堂は禁教の時代の終わりを示すものとして位置づけられていて、祈りの「オラショ」を歌う「隠れキリシタン」の団体は後継者不足から解散が相次いでいるのだということでした。

その解説の内容が事実だとすると、つまり、禁教令時代に密かに各地に存在していたキリスト教徒は全て「潜伏キリシタン」と呼ばれるのであり、当時は「潜伏キリシタン」の中に「隠れキリシタン」も含まれていたが、禁教令が終わった後にいわゆる一般的なカトリックの信徒に戻った人々は「(元)潜伏キリシタン」と呼ばれるようになり、禁教令時代の日本独自のキリスト教「隠れキリシタン」の信仰を貫こうとしている人々は今も「隠れキリシタン」と呼ばれる、ということになるのかなと、何となく思いました。

ただ、そうだとすると、このユネスコの報道を聞くまで私が聞いたことのなかった「潜伏キリシタン」は正統なキリスト教カトリックで、「隠れキリシタン」は異端ということになってしまうような気がします。キリスト教にも神道にも仏教にも宗派がありますが、各「新興宗教」がそれ以前(江戸時代以前?)からある宗派から分けられているくらいで、余程の犯罪行為などがない限りは、普通の宗教の一つになっているような気がします。「隠れキリシタン」は、その信徒ではない私には何か特殊な、秘密結社かのような響きもありますが、それなら「潜伏キリシタン」でも同じことです。幕府や新政府から隠れてキリスト教を信仰していたキリスト者の方たちが、特殊な「隠れキリシタン」と、特殊ではない「潜伏キリシタン」に分けられているというのは、何か少し奇妙な感じがします。あるいは、禁教令の間もその撤廃後もカトリックの信仰を守り続けてきたのは「隠れキリシタン」とは異なる「潜伏キリシタン」だとして広めたほうが、欧米のカトリック信徒の方々にも受け入れられやすいとか、そのようなことなのでしょうか。

例えば、もしも「隠れキリシタン」の方たちやその集落の地元の方たちがもともと「隠れキリシタン」と「潜伏キリシタン」とを分けて呼んでいたというのならそれで良いと思うのですが、それならそうだと報道で解説してほしいような気もしますし、歴史の教科書や本がそれまで「隠れキリシタン」という呼称のみを採用してきたことへの謎が残ります。それに、「隠れキリシタン」の信仰の痕跡が残されているのは、長崎県や熊本県だけではありません。

日本はアニミズムの考え方の残る自然信仰・自然崇拝が根付いている、「八百万の神」がいる多神教の国ということなので、欧米諸国などの一神教の国々から見ると少し珍しいのかもしれませんが、「宗教に寛容」であるように見えるとすれば、そのためかなと思います。誰かが信仰しさえすれば、何でも「神様」になることができる国です。「町興し」のために?たくさん作られている「ゆるきゃら」と呼ばれるキャラクターたちも、きっと多種多様な「神様」の一種なのだろうと思います。

でも、私は最近、「神様」のことがよく分からなくなりました。私が今とりあえず無事に暮らすことができているのは、私をどこかで助けてくれている「神様」のおかげだと思います。そのため、「神様」という存在自体はどこかに存在するようにも思うのですが、それは私の「神様(とも考えられる「何か」)」であって、ある神社仏閣の(既存の)何神様を拝みなさい、祭りなさいと他人に言われて見よう見まねで拝んだり祭ったりしたとしても、その何神様を心の底から「信じる」ことができるというのとは違うような気がします。歴史によると、現在の人間社会の中で信仰の対象となっている有名な「神様」の多くは、宇宙ができて、地球ができて、その中に人類が誕生した後の時代に、誰かが考案して広めたものです。自然に広まったものもあるかもしれませんが、積極的に(あるいは強制的に)広められたものもあります。古い時代の「神様」が人間の都合によって後の新しい時代の別の「神様」に取り込まれて(取って代わられて)、太古の時代からの「神様」であるかのように信仰されている「神様」もあります。各宗教の「教え」の中には良いものも多くありますが、「教え」の内容は宗派によっても差がありますし、ビジネス的・政治的な面が目立っている神社業界・お寺業界への違和感もあるのかもしれませんが、美しかったり恐ろしかったりする大自然とは異なる「神様」のどこかに、“作り物感”がしてしまっているのだと思います。

上手く伝えることができないのですが、キリスト教でも神道でも仏教でもユダヤ教でもイスラム教でも、その他の謎の新興宗教でも、その組織の会員(信者)になってその組織に所属する人々が信仰の対象とする「何か」をその人々と一緒に何の疑いもなく不思議なほどに信じ込むことができる人たちが意外と大勢いるということは(そのような人たちが実際にいるとすれば、ということでもあるのですが)、よく分からないけれど、何だか奇妙なことだなと思います。集団行動があまり得意ではないほうだからそう思うのでしょうか。個々人の信仰は自由だと思うのですが、宗教団体には、何か全体主義的なイメージもあります。迫害や大量殺戮の原因にもなる宗教行動や信仰心は、人間の不思議の一つでもあるような気がします。
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Author:カンナ
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