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「写真家 ユージン・スミスの戦争~タラワ・サイパン・沖縄 678日の記録~」

NHKの「BS1スペシャル」で放送された「写真家 ユージン・スミスの戦争~タラワ・サイパン・沖縄 678日の記録~」を見ました。

昨年(2018年)の12月29日に放送された、生誕100年となる写真家のウィリアム・ユージン・スミスさんの活動を伝えるドキュメンタリー番組です。その1か月前くらいにはNHKのEテレの「ETV特集」で「写真は小さな声である~ユージン・スミスの水俣~」というドキュメンタリー番組が放送されていて、それがとても良かったので、この「写真家 ユージン・スミスの戦争~タラワ・サイパン・沖縄 678日の記録~」を私も見たいと思っていました。そして、年末だったこともあって放送時間には見ることができずに録画をしておいたものを、先日、ようやく見ることができました。

18歳の頃からカメラマンの仕事を始めていたというスミスさんは、カルメン・マルティネスさんと結婚し、子供と過ごす時間を大切にしていたそうです。1941年の12月8日にハワイの真珠湾を旧日本軍が空爆した7年後の24歳の時に、スミスさんはアメリカ海軍の従軍カメラマンとなって、戦闘機に乗って空から戦闘の様子を撮影していたそうです。1943年のタラワ環礁の戦いを撮影する時には、上空200mの場所にも、約4200人の日本兵が全滅した「死の臭い」が漂っていることを感じたそうです。島に下りたスミスさんは、たくさんの日本兵の死体が溝に埋められている写真などを撮影していたようなのですが、その日本軍とアメリカ軍の地上戦の様子を見て衝撃を受け、「この気楽な海軍の生活では語ることは何も無い。私は膨大な時間を無駄にしている。タラワの前線にいる兵士に比べたら、空母での取材は戦争ではない。単なるクルーズだ」と思ったそうです。

そして、グラフ雑誌『LIFE』の従軍記者になり、地上戦の報道を始めたそうです。

マリアナ諸島のサイパン島に上陸した1944年6月27日のスミスさんの日記には「やっと本当の戦争を取材できた」とありました。ウジに覆われた多くの日本兵や家畜の死体、アメリカ兵の死体を見たそうです。

スミスさんの写真には、たくさんの兵士の遺体を埋めている写真が多くあったのですが、1944年の8月15日の日記には、「軍部のお偉いさんは神なのか?突然『これ以上勝手に現像すると太平洋から追放する』と言われた。自分の仕事に決定権がないなら戦争を記録する意味もなくなる。なぜ敵のスパイのように扱われるのか理解に苦しむ」と書かれているそうです。

元アメリカ海兵隊映像部のノーマン・ハッチさん(故人)の証言によると、カメラマンが撮影したスチール写真のフィルムを毎日太平洋軍司令部が現像し、公開すべきでないものが写っていないかを検閲していたそうです。

当時のアメリカ軍の検閲報告書に書き込まれた「制限映像」とは、国民が見た時に戦争に疑念を抱くようなもの、戦争に悪いイメージを抱くようなもののことで、例えば、米兵の遺体や負傷兵の姿を記録した写真や映像のことだそうです。そのような映像や写真を、アメリカ政府は「不都合な真実」として排除したそうです。

それでも、ワシントンにあるアメリカ国立公文書館には、当時検閲で没収した写真などが今も保管されていました。サイパン島やレイテ島などで死亡した日本兵やアメリカ兵、民間人の犠牲者の姿が写されていました。1944年のサイパンの写真の中に、アメリカ兵の遺体が布に包まれてきれいに並べられているものがあったのですが、スミスさんが同じ場所で写したと思われる写真をスミスさんは自身でも持ち続けていたそうです。

アメリカの検閲の歴史を研究しているというオハイオ大学のマイケル・S・スウィーニィ教授は、遺体や墓は重要な検閲ポイントだと話していました。米兵の遺体が雑に扱われている写真をアメリカにいる家族が見たら、その人たちがみんなで平和を訴えて戦争が終わるからだそうです。アメリカ政府は、国民の戦意の低下を恐れて、それらの写真や映像を隠していました。

「検閲」については、国民の間に戦意高揚の、戦争肯定の感情を保つための策として、戦時下の日本政府も同じことをしていたのだろうと思います。

スミスさんは、写真がアメリカ軍に却下されると知っていて、集団墓地や怪我された遺体の写真を撮り続けていたそうです。彼は歴史のために撮った、とスウィーニィ教授は話していました。

2万人の日本人がサトウキビなどを作りながら暮らしていたサイパン島で、スミスさんは、民間人に眼差しを向けるようになったそうです。洞窟の日本人や、逃げ惑う母子の姿を映した写真について、1944年の8月28日号の『LIFE』には、「捕虜になると殺されるという軍部のプロパガンダを日本人の多くは信じていた」と書かれていました。3歳の時に家族でサイパンに移住したという90歳の横田千代子さんは、「アメリカには捕まるな」、「捕まったら国賊」、「男は股を裂かれ、女は辱めに遭う」というデマが飛んでいるし「絶対に捕虜になるな」という教えだったから、と話し、洞窟内には足の踏み場もないくらい遺体があって、怖いというよりも汚かった、膨れている死体を踏んだ時の臭いはなかなか消えない、怖いのは「後ろから戦車が来る」、「アメリカが来る」、「上から弾が落ちる」だけで、声を立てずに静かにしていた、と証言していました。

投降せずに逃げ続け、父と兄を亡くしたという横田さんは、出てきたら殺さないという米兵の発言は嘘だという日本兵の言うことばかりを聞いていたが、あの時に出ていたら父は助かっていたと思うと、涙を拭きながら話していました。

追い込まれた日本人は、崖から身を投げたりして、サイパンでは約1万人の民間の日本人が亡くなったそうです。

写真はどれも白黒でした。子供の遺体の足だけが写っている写真がありました。スミスさんは、家族や友人にたくさんの手紙を送っていたそうなのですが、その頃の手紙には、「日本人の苦しみゆがむ顔に私の妻や母や息子の顔が重なって見えた。彼らは私の家族だったかもしれない。偶然そこにいただけだ。くたばれ戦争屋ども」と書かれているそうです。

アメリカ兵の“敵”としての日本兵を憎むのではなく、戦争を始めた人、戦争を続けている人、そうして終わらないまま虚しく犠牲者を増やしている戦争そのものを憎んでいるという感じが、よく伝わってくるように思いました。

スミスさんと一緒に活動していた妻のアイリーン・美緒子・スミスさんは、彼は日本人の民間人に出会って変わった、彼の写真の質や訴える力が、第二次世界大戦中に発展していった、と考えていました。

転機となった写真は、サイパンの山中でアメリカ兵に発見された瀕死の赤ちゃんの写真だそうです。「血まみれとなって死にゆく子供を私が腕に抱いた瞬間、その子の生命は漏れ出し、私のシャツを通って私の心を焼き尽くした。あの子は私の子供であったのだ。」、「私はシャッターを切るたびに、これらの写真が時を超えて生き残ることを願う。写真が将来人々の心に響くことを願う。これは将来の人々に深く考えさせ、認識させ、実感させるための写真を通した私の願いです」というスミスさんの言葉が残されていました。

1944年11月6日号の『LIFE』の「サイパンの日本人」の特集には、収容所の運動場で元気に走り回る子供たちや久しぶりに水浴びをすることができて嬉しそうな女性の姿の写真は掲載されても、ガリガリにやせ細った幼い子供たちの姿(服を着ていませんでした)の写真は、編集長によって掲載を却下されたそうです。アイリーンさんによると、スミスさんは、あそこの尿の臭いは凄まじかった、と話していたそうです。

スウィーニィ教授は、収容所で遊ぶ子供の写真は幸せそうに見えるからアメリカ軍にとって良いプロパガンダになる、日本国民にもアメリカのおかげで幸せになり好きなことをして遊べるとアメリカ占領下で子供が大切にされている印象を与える、一方で、やせ細った子供たちの写真は子供たちがかわいそうに見えるのでネガティブな印象を与える、と解説していました。

ジャーナリストの取材が、政府や出版社の意向で左右されていくことに、スミスさんは、このままでは自分はアメリカ軍のPRマンになりかねないと危機感を抱いたそうです。「真実が加工され、削除され、飾られて発表されることが疑問でした。書き換えられた記事や検閲で問題なしとされた写真だけが報じられました。真実が曲げられて伝えられたのです。」というスミスさんの言葉が紹介されていました。

1944年の10月から、スミスさんは、レイテ島の戦いに従軍し、臨時の病院となっていた教会を取材して、負傷兵と看護師たちの姿を写したそうです。聖母子の絵を表紙とした『LIFE』の1944年の12月25日号に掲載されたそうです。スミスさんの子供たちへの手紙には、「戦争は少女や少年を、さらにその母親や父親を傷つける。そして傷を負った父親が敵国の幼い子供たちを傷つける。戦争は無残だ。私は人を殺したり傷つけたりするためではなく、私の写真を通して“戦争への嫌悪”を伝えるために写真を撮りたい」、「私のすべての愛を込めて 父より」と書かれていました。

1945年の4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸し、沖縄戦が始まりました。3か月間に及ぶ地上戦で、沖縄の住民の4人に1人が亡くなったそうです。スミスさんが村へ行った時、そこに住民はいなかったらしく、4月10日の日記には、「安らぎを感じる穏やかな村の小道を歩いていた。この村は手つかずで平和的で、石垣も瓦もダメージを受けていない。歩いていると我々が外国から破壊のために侵入していることも忘れてしまう。静かで平和的な美しさは戦争を忘れさせた」と書かれていました。

スミスさんは、アメリカ軍の収容所に入っている沖縄の人々の姿を撮影していました。1945年の『LIFE』の5月28日号の「OKINAWA」特集には、「JAP DOCTOR」(日本人の医者)として64歳のクニヨシシンセイさんのことが紹介されていました。国吉さんは、金沢医科大学を卒業後、30年間下原村というところで医者をしていたそうです。地元の新聞社のカメラマンをしていたという次男の和夫さんによると、国吉さんは英語とドイツ語ができたので、スミスさんと会話をすることができたということでした。国吉さんがいた収容所の詳細は判明していないそうなのですが、和夫さんは、スミスさんの写真に映っていた海と郵便局から、泡瀬ではないかと推測していました。

日本軍が南下して首里に司令部を置いてアメリカ軍と戦っていた頃、アメリカ軍は泡瀬に収容所を設置したそうです。そして、近隣の村から住民たちは泡瀬へ戦火を逃れて来たということでした。

スミスさんの写真を見た、当時を知る今の泡瀬の方たちは、子供たちが登って遊んでいる壁はマウスグラ(塩蔵)だと言い、戦争は終わっているつもりだったけれど南部のほうから大砲の音が聞こえてきた。でもここ(泡瀬の収容所)は平和だったと話していました。

写真を見ていたある人は、「豊かではないけれど人間の生活がある。例えば、海で女性が髪を洗うことは余程安心感がないとできない。やっと人間らしい人たちに、逃げ惑うことなく恐怖に怯えることなく生活できている人たちに会えて(ユージン・スミスさんは)ある意味でとてもほっとしたのではないか」、とも話していました。

しかし、泡瀬の収容所での平和な日々は突然終わりました。アメリカ軍が飛行場を作るため、人々は強制的に移動させられたそうです。「これはもうアメリカがやることは絶対ですから、個人の気持ちなんて全く通用しない。喜んで故郷を捨てる人なんていませんから、強制移住ですよ」、「戦争で焼かれて残った家も、尚且つまた(飛行場建設で)無くなりました。二重三重に、非常に寂しかった、悲しかった」と話していました。

5月15日のスミスさんの日記には「アメリカ人は建設を進めていた。沖縄を、攻撃の拠点となる強大な基地に、ブルドーザーで変えていった。一方、南部では戦争を続け、征服者のやり方で日本人を打ち負かしている。女性たちの眼差しや口元は、我々を征服者と言っているように見えた。そんな風に見ないでくれ、僕がやったわけじゃないんだ」と書かれていました。

沖縄では1945年の4月から、泡瀬や普天間などの各地で米軍基地の建設が始められたそうです。戦後73年、沖縄は今も基地の島です、とナレーションでも伝えていました。5月になると、アメリカ軍は日本軍の司令部のある首里を総攻撃し始めました。

スミスさんは、『LIFE』からの電報で、最前線の取材を頼まれたそうです。6月18日号「歩兵テリー・ムーアの24時間」は、その時のものだそうです。5月21日、テリーさんの部隊は11㎞先の最前線へ向けて出発し、スミスさんも同行しました。歩いて行く頭上を、日本軍の砲弾が飛び交っていたそうです。「戦争は夜始まる」ということを示す写真には、花火のような星のような、無数の砲弾の光が写されていました。「夜は怖く、雨も怖い。雨が降ると惨めさが増していく。恐れの感情だけで猛進できるテリーたちが羨ましい。私には恐れと共に、なぜ自分はここにいるのかという疑問が常にあった」というスミスさんの言葉がありました。

5月22日の午後3時、出撃命令を待つテリーさんの部隊にいたスミスさんは、「こんな時に立ち上がっては撃たれるのは目に見えている」、「だがその瞬間を捉えるために私は立ち上がった」ということなのですが、その時、目の前で日本軍の砲弾が炸裂しました。砲弾の破片が背中や腕に突き刺さり、持っていたカメラが顔面を打ち砕いたそうです。口の中は血の感触だけになったそうです。被弾した時の一枚が紹介されていたのですが、それが太平洋戦争のアメリカ軍の従軍カメラマンとしてのスミスさんの最後の写真となったということでした。

1945年8月、日本の敗戦にニューヨークのタイムズスクエアが200万の人々の歓喜で埋め尽くされていた頃、ニューヨーク郊外の自宅で療養していたスミスさんは、それから約2年半写真を撮ることができなかったそうなのですが、家族の存在を支えにして暮らしていたそうです。

二人の子供たちと散歩に行った時の、カメラを持つと背中に激痛が走るという中でシャッターを切った写真は、「楽園への歩み」という、スミスさんの代表作となっていました。木のトンネルの向こうの明るい場所へ子供たちが歩き出していく写真です。「君たちが歩むその足元から新しい世界が始まる」と書き添えられているそうです。

「楽園への歩み」がスミスさんの写真家としての復活の第一歩となったそうです。番組では、戦後の『LIFE』の「カントリードクター」(1948年)や「スペインの村」(1950年)、「慈悲の人」(1954年)、遺作となった「水俣」(1971年から1974年)などが紹介されていました。写真集の冒頭には、「過去の誤りをもって、未来に絶望しない人々に捧げる」と書かれているそうです。

「写真は写っている世界を否定するためではなく、その世界を現実として受け止めるためにあります。私にとって『楽園への歩み』という写真は、世界は酷い状況だが、ただ悲観するのではなく、私たちにはまだ希望があり、その可能性を信じて歩んで行かなければならないことを意味しています。この写真は、私の人類を信じる心の表れです」と、声なき声を伝えてきたユージン・スミスさんの言葉が、最後に紹介されていました。

「写真は小さな声である~ユージン・スミスの水俣~」も良かったのですが、「写真家 ユージン・スミスの戦争~タラワ・サイパン・沖縄~」も、とても良い特集でした。

昔のことなのに、今のことのようでした。

ユージン・スミスさんの遺したメッセージの内容は、普遍的なものになっているのかもしれないと思います。でも、それはつまり、戦争や経済発展の犠牲になる弱い立場の人々を苦しめる権力者側の力は今も働いていて、その構造はほとんど変わっていないということでもあるのかもしれません。

弱い立場の人々に寄り添いながらその声なき声を伝えてきたユージン・スミスさんのような、優しくて真面目で勇敢なジャーナリストの方たちは、様々な場所で今も、権力と戦いながら活躍しているのだろうと思います。私のようなぼんやりの一市民が、様々なことを知ることができるのは、メディアの記者さんやフリーで行動しているジャーナリストの方たちのおかげなのだということが、近年は特によく分かるようになってきました。

先月の東京MXの「モーニングクロス」では、映画「記者たち」のロブ・ライナー監督に堀潤さんがインタビューをしていたのですが、その中でロブ・ライナー監督は、国民が真実を知ることは本当に重要なことだ、国民が真実を知らなければベトナム戦争やイラク戦争のような惨劇が起こってしまう、自由で独立した報道がなければ民主主義は生き残ることができない、と話していました(日本語訳です)。

インターネットが普及している現代のプロパガンダについて、「フェイクニュースという概念だったり、トランプ大統領がマスコミを“国民の敵”と呼んでいたり、こういった洗脳めいたものや情報操作で人々の頭にガセネタを植え込んでいる。これは権威主義の基本的な信念であり、戦略だ。基本的に大衆に大衆が喜ぶような聞きたいことを聞かせて現実を捻じ曲げながら『私が皆のために解決する』と言い、混乱させながら依存させる考えを植え付ける。今ではそれが恐ろしいことになっている。世界中で起こっているからだ。あちこちで起こっている。民主主義と独裁主義の間で本物の戦いが起こっているのだ」とロブ・ライナー監督は危惧していました。番組では、ニュース報道はビジネスとは切り離すべきだ、政府を追及する時ジャーナリストは正義の“代表”ではなく正義の“味方”であるべきだ、メディアと国家権力の在り方が問われているが、今はメディアが権力に依存している、メディアは権力を称賛することで自らが権力を持とうとしている、メディアの信用が失われているのはそのジャーナリズム精神を捨てたところから始まっている、“自発的隷従”からどう脱するかを考えなくてはいけない、というようなことが言われていました。短かったのですが、良い特集でした。

TBSで2016年に放送されていた「JNNルポルタージュ 報道の魂」の「言論のちから 民主主義のかたち~ヒトラーを生まないために~」では、言論を通して民主主義を強くしたいという思いで「言論NPO」を立ち上げたという、その代表の工藤泰志さんを取材していました。工藤さんは、新聞社や出版社に勤務し、『論争 東洋経済』の元編集長などを務めた、青森県出身の方だそうです。私は、2016年に録画しておいたままになっていたこの番組を、先月になってようやく見ることができました。2019年の今の「言論NPO」や工藤泰志さんが、当時と同じ志を持ち続けているかどうか、私には分からないのですが、政治家の公約を市民はチェックしなくてはいけない、市民が強くならないと民主主義は機能しない、ということは、今でも重要というか、今こそ重要なことであるように思えました。

工藤さんは、今の課題を解決することに知識層は本気で挑んでいない、自分の地位を維持するための手段を自己目的化している、自分の地位を守ることを目的としていると話していたのですが、政治家と市民をつなぐ知識エリート層やマスメディアが市民の不安(=ポピュリズム)に向き合わないでいることが、民主主義の存続の危機につながり、市民の不安を利用して既存の政治家や知的エリートを攻撃することで大衆を引き付けようとする政治家(=ポピュリスト)が出現する、ということのようでした。(安倍内閣の大臣たちが集団的自衛権の行使を違憲と判断する多くの憲法学者たちを学者という理由で否定しようとしていたことを思い出します。)

市民が強くならない限り民主主義は強くならないと考え、言論による民間レベルの外交(言論外交)を進めているという工藤さんは、安倍政権の「集団的自衛権の行使容認」や「積極的平和主義」を自分たちの国益しか考えていない、戦地で人が死ぬことを考えていないと批判し、市民やメディアは自分たちが選んだ現政権がどうなのかをチェックしてほしいということを話していました。今は世界の民主主義国の各地で、民主主義自体に疑問を持つ人々も出てきているのだそうです。でも、民主主義(民主制、民主政治)が完全にすばらしいものというわけではなかったとしても、今のところは(人類史上?)最良のものなのではないかと思います。民主主義よりも独裁主義や国家社会主義や共産主義や全体主義のほうが良いという風には、私にはまだ思えません。民主主義の存続には、人々の絶え間ない努力が必要なのだそうです。

もしも、ユージン・スミスさんが今も生きていたなら、この世界を、この日本を、どう見るのだろうかと思います。

沖縄県の県民投票の「反対」の結果を無視しながら、名護市辺野古の珊瑚礁の海にアメリカ軍基地の滑走路を新設する(本当は何を建設するのでしょうか)という埋め立て工事を強行している政府の、沖縄には沖縄の民主主義、国(日本)には国の民主主義がある、との謎の発言には、民主主義というか、そもそも国民や市民を重視するという考え方が足りないような気がします

NHKのBS1の「BS世界のドキュメンタリー」で放送されていた「NYタイムズの100日間」(前後編でした)は、ドナルド・トランプ大統領から“フェイクニュース”だと目の敵にされながらもしっかりと「権力の監視」を続けるアメリカの大手新聞「ニューヨークタイムズ」の記者たちが、トランプ政権の最初の100日間をどのように報道していったのかを伝える特集でした。民主主義を守ろうとする新聞記者たちの仕事を見せるドキュメンタリーとしても面白かったので、日本でもこのような(現政権に従属せず、そのの権威主義的な在り方に毅然と立ち向かっていく真面目な新聞記者たちの仕事を伝えるような)ドキュメンタリー番組を制作すればいいのにということも、少し思いました。

1918年生まれの写真家のユージン・スミスさんと、先月の2月24日に96歳で亡くなった、1922年生まれの日本文学研究者・日本文化研究者のドナルド・キーンさんは、4歳違いですが、同世代ともいえると思います。ドナルド・キーンさんが2015年の8月にBS-TBSの「週刊報道LIFE」に出演した時の映像を、先日のBS‐TBSの「報道1930」のキーンさんの追悼特集で一部放送していたのですが、反戦主義者・平和主義者であるということを断言していた、先の大戦を知るキーンさんは、「戦後の平和と民主主義のおかげで、日本全体は、現在を日本の歴史の上で最良の時代だと感じています。けれども、もし日本人がこの幸福を軽んじたらどうなるでしょう。経済的・政治的な目的を達するために、あるいは単に戦争の恐ろしさを知らぬゆえに、平和も民主主義も犠牲にして構わないという者たちによって、いかにたやすくその幸福は壊されてしまうか、もしも人々がそれに気付いていないとしたら、日本人の幸福を守るには、この国で最も古い呼び名の持つ意味を決して忘れないことです。そうです。 『大和』。古来この国の名は『大いなる平和』と書かれていたのです。」という言葉を、私たちに遺していました。

一昨日の報道によると、日本天文学会は、2017年3月に軍事目的の科学研究を否定する声明を出した日本学術会議に続き、「人類の安全や平和を脅かすことにつながる研究や活動は行わない」とする声明を発表したそうです。私はこの報道を、16日の夜のNHKのニュースで知りました。議論のきっかけとなった、防衛省が研究者に資金を出すという「安全保障技術研究推進制度」への応募の可否については、若手研究者を中心にその制度に賛同する意見(研究費が減らされているのだからその制度を使うべきだとか、世界情勢を考えると国防に協力すべきだなど)も出ているそうで、その選択は3300人の天文研究者の自主性に任せることにしたそうです。

積極的に軍事協力したい研究者もいるそうで(そのような科学者は昔も今も世界中にいるのかもしれませんが)、日本天文学会の柴田一成会長は、若い世代ほど防衛省の制度に賛成する意見が多くなっているということについて、(自分たちの世代とは)考え方がかなり違っていて驚いた、若い研究者には戦争への嫌悪感がなくなっている、科学者として軍事につながる研究かどうかを慎重に考えないといけないと話していました。

上手く伝えることができないのですが、「戦争への嫌悪感」という言葉を聞いて、この「戦争は嫌だ」というある種の素朴な「戦争への嫌悪感」こそが、戦争をなくすため(人間が戦争をしないようにするため)には必要な要素なのかもしれないと思いました。片渕須直監督の2016年のアニメ映画「この世界の片隅に」(とても良い映画でした)が公開された頃、映画の広告に書かれていた、戦争時代を描いている映画だけれど「反戦」を声高に叫んでいないところが良いというような感想を読んで、少し不思議に思ったことがあります。

今の若い世代(30歳代以下くらいのことでしょうか)の人々が、「戦争は嫌なものだ」とか「戦争は絶対にしてはいけない」とか、「反戦」とか「非戦」などの言葉に否定的な印象を持っているのだとすれば、それはつまり、今の日本国憲法を変えようと考えてまで、アメリカと自衛隊とを“一体化”させるために戦争のできる国を作ろうとしている現内閣の政治家たちの軍備・軍需産業の拡大(空母を造ったりミサイルを開発したりすると言われています)の思想と親和性が高いということにもなるのかもしれませんし、多くの人たちが日々の自分の生活に忙しく、立ち止まってよく考えることができないという現代の社会の在り方とも関連しているのかもしれません。

あるいは、人を殺したり傷つけたり人に殺されたり傷つけられたりする、一度始められてしまったらいつ終わるか分からないような、国家間による戦争という、巨大な暴力に対する嫌悪感や拒絶感のない方たちは、例えば日頃の自分の怪我などの身体的な痛みに対しても、あまり気にならないものなのでしょうか。

戦争への嫌悪感がないという研究者の方たちは、「軍事的研究」や「軍拡」から「戦争」を連想しないのかもしれませんが、私は、戦争のことを考える時、その被害や加害を自分のこととして考えてしまいます。例えば、映画「この世界の片隅に」の主人公のすずさんも、爆弾で手首を吹き飛ばされてしまいましたが、戦争が起きたなら(大きな自然災害に巻き込まれた場合もそうかもしれませんが)私や私の周囲の人たちも、死ぬかもしれないというだけではなく、手足や顔や胴体に信じられないような大怪我をすることになってしまうかもしれません。少しも望まない嫌な体験を、理不尽な命令によってたくさんさせられることになるかもしれません。日常が突然破壊されてしまう戦争や紛争のことを嫌だなと思うのは、痛いのや苦しいのは嫌だなとか、眠れないのや不潔なのは嫌だなとか、そのような単純な感覚で良いような気もします。私も約74年前の世界戦争を直接知らない一人なのですが(祖父に戦時中の話を聞いたことがあるくらいです)、戦争について直接知らなくても、戦争は嫌だという感覚を持つことはできるように思います。

公共放送の要素が失われつつあるNHKの夜7時のニュース番組は、国会中継放送のあった日でも、その中からなぜか「新元号」の話題を選んで流していました。今の元号の「平成」の時代が終わっても本当には時間はそこで区切られないものなのですが、何となく区切られたように感じている間に、平成時代よりも昔の昭和時代の世界大戦時を描くドラマや映画などの映像作品は、時代の移り変わりと共に、少しずつ制作されなくなっていくのかもしれません。以前には戦争のドラマや映画がたくさん作られていたためにそう思ってしまうのかもしれませんが、それもまた新たな「若い世代」の人々の戦争や暴力への嫌悪感を薄め、戦争や暴力への抵抗感を弱めることにつながってしまうような気がして、何となく不安に思えるのです。今日は「9.11」の同時多発テロ事件を受けたアメリカがイラク戦争を開始してから16年という日で、平成時代の日本に直接的な戦争や紛争はありませんでしたが、海外の各地では戦争や紛争が起きていますし、日本もその戦争や紛争に加担しています。

日本天文学会の反軍事研究の声明に関しては、確かに、天文学に使う技術や研究と軍事に使う技術や研究とは重なり合う部分も多いのだろうとも思うのですが、例えば「ドラえもん」の場合と同じように、その道具をどのような性質の人間がどのような目的で使うのかというところにかかっているように思えます。ユージン・スミスさんの写真「楽園への歩み」の言葉にあったように、それは、人類を信じることができるか、という問題なのかもしれません。
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Author:カンナ
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